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テレビでアメリカの50年代を放映していたのですが、
なぜ、当時のアメリカ人の多くは黒人を嫌っていたのでしょうか?

オバマ政権時代に車でアメリカを旅行しましたが、
一応、普通に黒人も白人も暮らしていますし、
人権を口実に他国に軍事介入しても問題にならないほど
平等や差別に対する悪感情は人々の中では当たり前の正義であるように思います。
アッパー階級ではPCについても厳しく考えられワトソンなど
ノーベル受賞者ですら没落するレベルです。

しかし、50年代(特に南部)には現代とは想像できないくらいの酷い差別が
極々一般的にあったのには驚きました。
また、そのドキュメンタリーでは、当時の女性学生が出ており
同じ教室で授業を受けるくらいなら廃校になったら方が良いと言って
実際に廃校を受け入れていたり、州知事が知事が分離すれども平等とか普通に語っていたり
なぜ、そこまで黒人を嫌っていたのか理解に苦しみます。


なぜ、当時の彼らは黒人がそこまで嫌いだったのでしょうか?

また、その強い差別意識がありながら、
なぜ現代のレベルまで減退というか殆ど真反対になったのでしょうか?

A 回答 (26件中1~10件)

その時代に白人としてアメリカ南部で暮らしていない部外者には、理解などできません。

戦前の日本の民差別も同じです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
理解が出来ないと言うことは、今の日本や米国には、そういった感情が現代では全て消失してしまったということでしょうか?

お礼日時:2018/05/05 09:41

嫌いになるような制度でした


バスも学校も会社もあらゆるところで
黒人は白人と同じ場所にはいられない
制度になってました
映画もKKKが、白人を痛めつける黒人を
成敗する映画がアメリカでは沢山
作られていたようです
私も衛星放送で20年以上前に
何十本もKKKが活躍する
昔の映画見ました
今も水泳は差別されてると聞いたことがあります
欧米の黒人のスイマー見たことありません
黒人と同じプールの水に白人は浸かりたくないのでしょうか
初めから黒人は遠慮して一緒にプールには入らないのか
詳しいことはわかりませんが
水泳はスポーツの中で極端に黒人が少ないのは確かですね
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
つまり、今の中国で日本兵をやっつけるような動画が流行ったり、一種の印象操作が原因なのですかね。確かにそういった映画を見ていると変換が生まれそうですね。
水泳については私も言われてみて気になりました。少し調べると親がしないから子どももやらない。また、お金が掛かるのでなかなか難しい。お金の掛かるスポーツには黒人が少ない気もします。

お礼日時:2018/05/05 09:46

そりゃあ見た目が黒いのは醜いですからね


あと黒人は体力が優れた分、野蛮なイメージが
有ったのでしょうが。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
黒いのが醜いかどうかはなぜなのでしょうか?白人が圧倒的多数でそのような感情が生まれるのでしょうかね?
そういえば、ハワイなどでは以前白人がマイノリティーで迫害されているという話を聞いたことがあります。
ただ、現代では一緒に生活していますし、実際黒人が大統領になっていしたし、必ずしもこれが原因ではないような気もするのですよね・・・

お礼日時:2018/05/05 09:48

アフリカ大陸の人々は白人によって奴隷にされていた過去があるため、白人からすると黒人は劣っているという昔の考えが消えていなかったのでしょう。

現代でも少なからず黒人差別は残っています。人種など関係なくこの世界の人々は皆平等に生きれるはずなのです。私はそんな日が1日でも早く来ることを願ってやまないです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
寧ろ、迷惑を掛けたのだから優遇すべきと言う感情は生まれないのでしょうかね?
また、人種に関係なく、更に一歩進んで種に関係なくと考えて居ると、同じほ乳類である動物を食べ、同じ霊長類である猿を駆除しながら人間は生きていますし、こんなところにも不平等の根っこがあるのではないかと思う時もあります。

お礼日時:2018/05/05 11:00

特にアフリカ系黒人はヨーロッパのスペイン・イギリス等が植民地から奴隷として連れてこられたので差別されてるようです。

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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。
寧ろ、迷惑を掛けたのだから優遇すべきと言う感情は生まれないのでしょうか?

お礼日時:2018/05/05 10:57

奴隷制により、アフリカ系アメリカ人は長い間差別され続けてきたのです。



1863年にリンカーン大統領により奴隷解放宣言が出され、黒人は奴隷制から解放されたはずだったんですが、実際は人種差別は続きました。

時は流れ1955年、ローザ・パークスと言う黒人女性がバスで白人に席を譲らなかった事を理由に逮捕され、それをきっかけにバスボイコット運動が始まります。指導者はかのマーチン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)です。

この運動により公共交通機関における人種分離が禁止されました。これにより公民権運動が活発化します。

キング牧師の長期間に渡る活動が実を結び、1964年7月に公民権法が制定され、ようやく法的にも人種差別が禁止されることとなりました。

このように長い変遷を経て、アフリカ系アメリカ人は人権を勝ち取り、今に至るのです。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

長い間、差別があると、法律で禁止しても、差別は無くならないのでしょうか?
差別感情はそもそも無くならない物なのでしょうか?
また、無くなるとすればどのようにすれば無くなるのでしょうか?


この議論を見ていてたまに思うのですが、強力な指導者がいれば問答無用で1世代ほど隔離、その後、一切歴史で過去を教えず統合。これであれば、差別意識は消失するのではないかと誰か言っていましたが良い処方なのでしょうかね?
日本ではアメリカとの戦争はあまり教えず、中国や韓国では強く教え、結果、相手国に対する感情に大きな差が生まれていますし・・・
公民権を勝ち取るまでの苦難の歴史を考えると、強いリーダーがいればもっと血が流れない方法で出来なかったのかと思うところがあります。

お礼日時:2018/05/05 10:56

黒人は実際に他の人間とは性質が極めて違うからでしょう。


荒っぽくて恥知らずで乱暴の者が多いし、平均的な知能指数は白人と比べれば一偏差値以下です。
更に犯罪率他の人間の二十倍。だから自然と嫌いに成る傾向が有ります。
クラッシク映画"Menace II Society"を見れば、分かると思うけど、実際の黒人はそれ以上に悪く振舞う人間が多いです。黒人の近所は所によって、中東亜の戦場よりも危ない事も有ります。犯罪率がめっちゃ高いっすよ。肌の色だけで差別を受けてるからそうなったという訳でもありません。「黒人」以上に黒いインド人もアメリカに居るし、而も、インドの黒人は何千年もインドのカースト制度の所為で虐げられてきた事も有るのに、アフリカ系黒人とは正反対です。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございます。

偏差値については環境に寄るところが大きいのではないでしょうか?
オバマ大統領時代にD.C.、NYC、LA辺りに行ったのですが色々な人種がおりどの肌の人も大差がないように感じました。ただ、夜になると明らかに有色人種の数が増えてきましたが・・・平均して労働環境が恵まれて居らず、日本語ですと衣食足りて礼節知るではありませんが、環境的要因が大きいのではないかという気もしています。
なお、地域によっては犯罪率が高いとのことですが、黒人の警官に、白人と黒人がどちらが犯人に見えるかというテストをすると、黒人が危険だという結果が出ていましたし、現状、犯罪率が偏っているのはあり得そうですね。ただ、これが人種による物なのか環境による物なのか・・・現代の差別については何となく分かりました。

ただ、過去、現代どころではないほど酷かったようです。この理由がいまいち分かりません。
とくに、当時は差別されており黒人に脅威を感じていなかったように思うのです。

お礼日時:2018/05/05 10:51

1863年1月1日にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。


しかし奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、特にレコンストラクション(南部再建)期が1870年代に終了するとともに南部諸州は次々と人種差別主義立法を通過させ、その後も人種によっての差別的な取り扱いは容認されたままであった。
南部の多くの州ではジム・クロウ法と呼ばれる黒人が一般公共施設の利用を禁止制限した法律が制定されており、これに基づいて、特に学校やトイレ、プールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人と非白人等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。
この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義の橋頭堡」であると自称として参戦した第二次世界大戦後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる差別を義務付けていたことすらあった。

キングは1954年9月にアラバマ州モンゴメリーのデクスター・アベニュー・バプテスト教会の牧師に就任した。
キングは1年ほど平穏に牧師を務めていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件が彼の運命に大きな変動をもたらした。
この事件は、黒人であるローザ・パークスがバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件に激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を計画し、運動の先頭に立った。
この運動は382日間に及んで続けられ、黒人たちは自家用車などでネットワークを組んで抵抗を続けた。この運動の結果、1956年11月に連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取り、抗議運動は成功を収めた。
モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動に一般の民衆が参加した初めての運動だった。
この運動の成功によって公民権運動はアメリカ全土に広範な広がりを見せるようになり、バス・ボイコットは南部の各都市に広がっていった。
また、ボイコットの成功によってキングは公民権運動の最も有力なリーダーの一人となり、これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。
1957年には南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し、その会長となった。
1958年9月20日にはハーレムで黒人女性によってナイフを胸に突き立てられたが、この暗殺計画は未遂に終わり、キングは一命を取り留めた。
1959年2月にはインド首相のジャワハルラール・ネルーに招かれインドを訪問している。
1960年1月にはモンゴメリーからジョージア州のアトランタに移った。
1960年2月1日には、ノースカロライナ州グリーンズボロにおいてキングの影響を受けた学生たちが、差別的な扱いに抗議して座り込みを開始した。
このグリーンズボロ座り込みはキングの統括の下南部全域に拡大し、2月13日から5月10日までテネシー州ナッシュビルで行われたナッシュビル座り込みをはじめとして各都市で大きな成果を上げた。
1961年の秋には、ジョージア州のオールバニで起きた解放運動を指導したが、1962年の夏まで続くこのオールバニ運動はオールバニ市側の巧妙な対策によって失敗に終わった。運動が失敗に終わったことで、キングは運動の戦略を練り直し、別の都市で運動を再び行うことにした。
キングが新たな運動を起こす場所として選んだのは、アラバマ州のバーミングハム市である。当時バーミングハム市の人口の7割は黒人で占められるといわれていたが、同時に南部でも最も人種差別の激しい場所として知られていた。
こうして、1963年はじめにバーミングハムでの解放運動が開始された。
このバーミングハム運動は大きな成功をおさめた。
理由の一つとして、当時のバーミングハム市側が暴力的な弾圧も辞さなかったことがあげられる。
当時の警察署長であるブル・コナー(ユージーン・コナー)はデモ隊に対し非常に高圧的な態度で臨み、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの暴挙を行った。
こうした警官による事件映像はテレビや新聞によって映し出され、アメリカの世論は次第にそれらの白人の人種差別主義者による暴力に拒絶反応を示していった。
なおキングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。
このときは、同じく公民権運動家でもある歌手のハリー・ベラフォンテが保釈金を支払い、キングは釈放された。
釈放されるとすぐにキングは活動を再開し、同年5月にはバーミングハムでの運動はかなりの成功をおさめた。

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キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。

インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。
一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。
公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。
通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。
合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、1957年9月の「リトルロック高校事件」など複数のケースにおいて、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。

アメリカ各地で公民権運動が盛り上がりを見せる中で、キングたちは首都ワシントンにおいて、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大集会を企画した。
1963年8月28日に行われたワシントン大行進は参加者が20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動家や芸能人など多くの著名人も参加した。
この集会においてキングは、リンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。
当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるが、アメリカ国内のみならず世界的にその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定された。
これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。
ジョンソンは人種差別感情が根強いテキサス州選出であったものの、人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。
なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、議会内において強い政治的影響力を持たなかったケネディを副大統領として後押しし続けたジョンソンが、自らが大統領となったことをきっかけにキングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。
公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。
これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、当時史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持しキングの非暴力的で融和的な方針に反発した。

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キングとマルコムXは黒人解放運動でも穏健派と過激派の中核とみなされており、しばしば対立した。


暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにも関わらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。
しかしその数年後、キング自身も暗殺される。暗殺されたのも彼と同じく39歳の時であった。
両者は直接長期間対談したことはなく、直接対面したのも1964年3月26日にアメリカ合衆国議会議事堂で偶然顔を合わせた時のみだった。
一時期は公然とキングの姿勢を批判し、自らの演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・ムスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。
同時にマルコムXは、新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためにマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。

ワシントンD.C.への20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。
1965年3月7日には、アラバマ州のセルマから州都モンゴメリーに向かっていたデモ隊に対し、州軍と地元保安官が、催涙ガスや警棒を使って攻撃を始め、かれらをセルマに追い返した。
「血の日曜日事件」である。これを受けたキングは再びデモ隊を率いてモンゴメリーに向かうことを計画し、3月21日に行進をスタートさせ、4日後の3月25日にモンゴメリーにデモ隊は無事到着した。
黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」運動を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れ、ブラックパンサー党が結成されたり、1967年夏にニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。
呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。
キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。

1. 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。
2. 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
3. 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
4. ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
5. 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

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