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1. ひとがしゃべる言葉には ふつうに市民として社会の中に生活
しているときの《人間語》があります。

2. そのひとつの特徴としては――互いに主観をぶつけ合うように
して 自由に交通するゆえ―― 《あやまちうる》という性格を持ち
ます。

3. この・スサノヲ市民のあやまちうる人間語のほかには そうだ
とすると あやまち得ない科学的な普遍語があり得ます。

4. つまり スサノヲ人間語としての主観をなるべく控えるかたち
でアマテラス公民の用いる普遍科学語。

5. そして 科学語のように中立――価値自由-――ではなく そ
こに主観的な価値判断をまじえたときにも なお普遍性を問い求める
倫理のことばがあります。

6. これは アマテラス公民の普遍人格語とよべます。

7. 整理すれば:

  あやまちうるスサノヲ( S )人間語
  あやまち得ないアマテラス( A )普遍語(科学語および人格語)






8. ところが ひとは誰も 公民としてのみ生活しているわけでは
なく 市民であっても 選挙をつうじてなりとも公民としても生きて
いる。
 

9. したがって おそらくわれわれのふつうにしゃべる言葉の範囲
は広く けっきょく S 語と A 語とのすべてだと言えます。

 《 S 人間語 - A 普遍語(人格語&科学語)》の構造的な複合語

10. このようにひとがしゃべる言葉として捉えた内容は 人間観
にもつうじており 哲学・思想の現実的なあり方にもかかわって行く
ものと思われます。





11. 端的に言って 西欧の人びとは・そしてその哲学は しばし
ば《 S - A 連関》の全体を必ずしも扱わないクセがある。

12. 普遍 A 語の世界のみを――倫理にしても自然や社会について
にしても――理論的に体系的に描こうとするクセ。
 
13. あるいは 《 S 人間語の世界――スサノヲ市民社会――》に
ついて探究するにしても すべからく《 A 普遍人格語かつ科学語》を
そのドロドロとしてもいる生きた人間社会に あたかもメスを入れる
かのごとく 当てはめてしまい ときにはそれだけに終わろうとする
クセ。

14. ちなみに その思潮に対する反動が起きて 《あやまち》で
もよい・または あやまち得る S 語のほうがよいという風が吹くとき
があるようだ。




15. と かんたんに捉えたとき 構造的な連関のあり方がまこと
に按配がよいといった《 S - A 連関》語は われわれは しゃべられ
ないものだろうか? 

16. つまり S か A かのどちらか一方に片寄ることなく その
全体にわたる言葉をしかるべき配合にして しゃべるようになれない
か?

☆ これが問いです。忌憚なきご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    補足質問です。

    社会(国家)は スサノヲ市民とアマテラス公民とによって成り立っています
    が A 公民の中には さらに《アマテラシテ職》があるかと思います。

     アマテラシテ ( l'amatérasité; the amaterasity; das Amaterasität )
    =象徴・元首・国王・大統領

    このアマテラシテ位にある人またはそれに近しいたちは どんな言葉をしゃべ
    っていると思いますか?

    ・ アマテラシテ象徴語なる特殊な言葉があるのだ。
    ・ いや そんなはずはない。A 語をしかるべきかたち(=内容)に作り直し
    た言葉だ。
    ・ いやいや 人間なのだから S 人間語をもしゃべっているはずだ。あまり
    聞く機会がないだけだ。
    ・ うんぬんかんぬん。

      補足日時:2018/08/09 22:06

A 回答 (9件)

こんばんは。



変わらずに、分類癖があるようです。

主もない述もない、主客のない、感性の世界。
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>真理は 《人間に分かるか分からないかが分からないナゾ》


です。《存在するかしないかが 分かるか分からないか分からない》。

こーゆーバカな言い回しは止めましょー。
無知であることをさらけ出しているだけなので。
「あらゆる意味において分からない」といえばよい。

>その上で――しかしながら―― その絶対性の側からハタラキカケがあったと人
間が感じたり考えたりすることも起こり得ます。

あらゆる意味において分からないのであれば、その分からないものからハタラキカケがあるとなぜ分かる。
完全に無意味なことである。
無意味の帝王の考える発想である。
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この回答へのお礼

さじを投げていることを忘れていた・・・。

お礼日時:2018/08/10 21:06

>わたしは真理が


分からないという表現を言いかえているだけのことです。

それは完全に無意味なことである。
無意味の帝王の考える発想である。
何故なら単に分からないものは探求のしようもないからである。
分からないのではなく、真理が存在することは分かっているのである。
真理が存在することは分かっているから真理の探求は成立するのである。
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この回答へのお礼

☆☆(№6お礼欄) ~~~
真理なる絶対性とは 絶対的に隔たりを持つ人間なのですから その隔たりにつ
いて述べるのは 《重要かどうか》の問題ではなく どだい無理なのです。

その上で――しかしながら―― その絶対性の側からハタラキカケがあったと人
間が感じたり考えたりすることも起こり得ます。

その感覚や思考を表現したとき それは合理性に適うと思われたとき 真理を分
有しているといった捉え方が成され得ます。(淡いかたちで)。

・・・

真理とわれわれとのカカハリがあるとすれば それは 或るひとりの主観に ふ
と――その一瞬――やって来るヒラメキとしてです。(それが つねに真理の分
有になるとは これも 限らない)。
~~~

★ 何故なら単に分からないものは探求のしようもないからである。
☆ 人間に探究のしようのないナゾであっても そのナゾなる絶対性のほうから
人間にハタラキカケがないとも限らない。ということです。

★ 分からないのではなく、真理が存在することは分かっているのである。
☆ 分かっているのなら その真理の内容を明らかにしなさい。

言葉では表現し得ないというのなら 《存在すること》について証明しなさい。

――そうではなく 真理は 《人間に分かるか分からないかが分からないナゾ》
です。《存在するかしないかが 分かるか分からないか分からない》。

これが 真理です。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/10 13:16

>☆ 《真理》も 曲者です。

絶対性としての――神の属性としての――真理
があれば 自然科学のひとつひとつの共同主観が真理と呼ばれることもある。

あなたは真理というものの認識において大きな勘違いをしていますね。
真理に関して言えば、完全なる真理、絶対的真理に立脚しているか否かは重要ではありません。
何故なら人間には絶対的真理に到達する見込みは無いからである。
真理に関して言えば、大事なことは今現時点における真理の状態ではなく、常に真理に向かって進んでいるのか否か、真理からかけ離れて進んでいるのか否かということであります。
その意味で真理の探求とは永遠に続く一つの継続的探求プロセスなのであって絶対的真理に至っているか否かの問題ではありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

>☆☆ 《真理》も 曲者です。絶対性としての――神の属性としての――真理
があれば 自然科学のひとつひとつの共同主観が真理と呼ばれることもある。

★ あなたは真理というものの認識において大きな勘違いをしていますね。
☆ していません。

★ 真理に関して言えば、完全なる真理、絶対的真理に立脚しているか否かは重
要ではありません。
☆ 《絶対性》は 真理と呼ばれ得ますが それは 絶対性の属性としてです。

真理に《立脚する・しない》なんて表現するのは 人間の高ぶりによる一人合点
です。

真理なる絶対性とは 絶対的に隔たりを持つ人間なのですから その隔たりにつ
いて述べるのは 《重要かどうか》の問題ではなく どだい無理なのです。

その上で――しかしながら―― その絶対性の側からハタラキカケがあったと人
間が感じたり考えたりすることも起こり得ます。

その感覚や思考を表現したとき それは合理性に適うと思われたとき 真理を分
有しているといった捉え方が成され得ます。(淡いかたちで)。

★ 何故なら人間には絶対的真理に到達する見込みは無いからである。
☆ と同時に いま言った《真理の分有》という事態が うっすらとみんなに共
有されないとも限りません。


★ 真理に関して言えば、大事なことは今現時点における真理の状態ではなく、
常に真理に向かって進んでいるのか否か、真理からかけ離れて進んでいるのか否
かということであります。
☆ そんなことは ただの飾り言葉です。人ひとは それで何となく納得してい
ただけの話です。

真理とわれわれとのカカハリがあるとすれば それは 或るひとりの主観に ふ
と――その一瞬――やって来るヒラメキとしてです。(それが つねに真理の分
有になるとは これも 限らない)。


★ その意味で真理の探求とは永遠に続く一つの継続的探求プロセスなのであっ
て絶対的真理に至っているか否かの問題ではありません。
☆ そう言えば カッコウがつくと昔の人は思ったのでしょう。わたしは真理が
分からないという表現を言いかえているだけのことです。

お礼日時:2018/08/09 22:24

一つの傾向を申し上げましょう。


S語の世界は騒々しく、うるさくなりがちです。
主観、主観、主観、・・・・なので。主観で語ることはカンタンなので。
これは自然現象です。
一方、A語の世界は物静かです。
客観重視であれば真理を語らねばならず、その真理はそー簡単に語れるものではないので自然と物静かになるのです。
これはS語とA語を見分ける一つの物差しと言っていいでしょー。
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この回答へのお礼

これは めづらしいお人ですね。ご回答をありがとうございます。

★ 一つの傾向を申し上げましょう。
S語の世界は騒々しく、うるさくなりがちです。
☆ そのとおりです。すでに やかましい世界になっています。


★ 主観、主観、主観、・・・・なので。主観で語ることはカンタンなので。
これは自然現象です。
☆ まぁ そうでしょう。井戸端会議です。


★ 一方、A語の世界は物静かです。
☆ あぁ。でも・ただし ひとつに A 語も 何野誰兵衛という特定の人間
が その主観の中におさめてその主観の自己表現として語っています。


★ 客観重視であれば真理を語らねばならず、
☆ ですから 哲学の厳密な話にあっては あまり《客観》という言葉は安
易に使えないのです。

まぁ だいたい過半数あるいは大多数の人びとが 共通して妥当であるとみ
とめるものが 実際には 客観というものです。

それは 基礎を成す概念としては 《主観の共同化 または 共同主観》と
よぶのがよい或る種の一般性ないし普遍性のことです。



★ その真理はそー簡単に語れるものではないので自然と物静かになるので
す。
☆ 《真理》も 曲者です。絶対性としての――神の属性としての――真理
があれば 自然科学のひとつひとつの共同主観が真理と呼ばれることもある。

人格語は たしかにむつかしい。倫理規範〔たる A 語〕は それとして案外
規定することが出来ます。抽象的に《愛》と言えば済むことさえあるかも知
れない。しかも 人びとはそれぞれその愛の中身を別々に捉えているという
ことが起き得ます。


その点 自然科学の共同主観は 分かりやすいし語りやすいかも知れません。

という場合には 特に《物静かになる》必要もないかも知れない。


★ これはS語とA語を見分ける一つの物差しと言っていいでしょー。
☆ 経験合理性という物指しで測って妥当性を持つとすれば それは A 普
遍語になります。さもなければ S 人間語です。

物指しの中身が 違っていません?

お礼日時:2018/08/09 13:35

私はドイツ語です。


イッヒ フンバルント デル ウンチ
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この回答へのお礼

★ デル
☆ ですかねぇ。

ご回答をありがとうございます。


ドイツ語にも・どの言葉にも けっきょく S 語と A 語とがあると
思うんです。

どうでしょうかね。

お礼日時:2018/08/08 23:35

あなたが用いている用語は初めて聞くものが多いですが、主観のみに陥らず、客観性を担保しながら話そうとするのがS-A連関語なら、常日頃そのように心がけています。


ただ言葉-言語というのはあくまで限定的、一定の枠内でしか表象できないものであるし、普遍であることはできない。
一方で詩的表現のように主観を突き詰めた先に、普遍に肉薄する場合もある。
都合よくバランスを取るより、極端に偏っている方が真実に近いこともある、とは思いませんか。
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この回答へのお礼

★ 都合よくバランスを取るより、極端に偏っている方が真実に近い
こともある、とは思いませんか。
☆ その情況と問題そして話相手によって バランスを取るという意
味になるのではないでしょうか?

その心は 時に 一方に片寄ることもあるだろうし 満遍なく見計ら
った用い方が必要なときもある。こう思います。


ご回答をありがとうございます。



★ 真実
☆ というのは つねに主観真実なのではないか? その意味は ス
サノヲ人間語のように あやまちを含んでいても それは話し手たる
人の主観真実なのだと。


★ ただ言葉-言語というのはあくまで限定的、一定の枠内でしか表象
できないものであるし、普遍であることはできない。
☆ 別の見方を持ちます。つまり 普遍性というのは 言葉(言語表
現)そのものが担うというよりも 言葉は シルシとしてのごとく 
何らかの普遍的な内容を指し示すというふうに捉えられるのではない
か?

《なんぢ ころすなかれ》は いのちの尊厳・存在のとうとさをおそ
らく普遍的にあらわすものと思われます。

ただし 緊急避難のような例外の場合もあるかも知れない。

ということは いまの言葉――命題となったもの――も:
★ 限定的 一定の枠内でしか表象できない
☆ と捉えるよりも 《指し示すもの(内容)》は いちおう普遍性
を表わしていると捉えてもよいのではないかという意味です。


★ 一方で詩的表現のように主観を突き詰めた先に、普遍に肉薄する
場合もある。
☆ についても《イチャモン》をつけるなら 言葉が《普遍に肉迫す
る》と言うよりは――そういう感覚をおぼえることはあったとしても 
問題は―― つねにシルシとしての言語表現が 何を指し示すか。こ
こにキモがあると。

シルシを用いる主観は つねに主観であって やはりそのシルシを按
配よく組み立てたり配置したりする〔だけな〕のだと考えるのですが。

お礼日時:2018/08/08 23:33

質問を質問で返して恐縮ですが、あなたは何語をしゃべっていますか?

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この回答へのお礼

(15)の《 S - A 連関》語がしゃべりたい。と つとめています。

それについて みなさんの考えるところをお聞きしたい。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/08 22:30

うなもんしりません


僕は日本語を日々喋ってます
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この回答へのお礼

という事象は――それだけだとしたら―― スサノヲ人間語ということ
だと思います。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/08 22:29

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