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授業で近藤芳美さんの「たちまちに君の姿を霧とざし ある楽章をわれは思ひき」という和歌を習いました。
この和歌の情景は
「みるみるうちに深い霧が押し寄せてきて君の姿を覆い隠してしまい、その○○○な光景に接して私はある音楽の1つの楽章を思い出した」
という風に私は考えました。
でも○○○の部分が「寂しげ」、「悲しげ」以外に想像つきません。
近藤芳美さんは一体どんな光景を見て、ある楽章を思い出されたのでしょうか?
○○○は一体どんな言葉が入ると思いますか?

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A 回答 (3件)

近藤芳美さんの有名な歌ですね。

これは近藤さんの処女歌集「早春歌」にあるものです。歌集の発刊は昭和23年ですが、この歌は昭和12年の作と言われます。
 一首として読む場合どう解釈しても自由ですが、この歌の背景は近藤さんが奥様と知り合われたころのつまり恋の気持ちを詠ったものです。霧の中に消えてゆく恋人を眼を凝らし見ているのです。「吹き流るる霧も見えなくなり行きて吾らのうしろにランプ消されぬ」等々の作もあり、青年の恋の芽生えを詠っていると鑑賞するのが自然です。
 従って「寂しげ」「悲しげ」は当たっていないでしょう。どういう言葉が当たるかわかりませんが、生命の充実感、つまり明るく昂揚感のある楽章が心に湧いて来ていると思います。ただ時代は戦争に向かっているわけですから、単なる明るさでなく緊張感のようなものもあるかと思います。
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君の姿を霧がとざしたということで、彼女との関係がまだ確固たるものになっていないことを暗示していると思います。


恋を容易に成就させることができない切なさ、あるいはセンチメンタルな気分。

だから○○○に入る言葉は、「センチメンタル」ではどうでしょうか。

思い出した楽章も、けっして楽しいものではなく、静かな感傷的な旋律ではなかったでしょうか。
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『幻想的』という言葉は如何ですか? 


         
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Q斉藤史さんの短歌の意味を教えて下さい。

岡に来て両腕に白い帆を張れば風はさかんな海賊のうた

という、短歌の意味を教えていただけますでしょうか?
特に、白い帆というもの事体が指し示しているものや、岡と海賊がどういう意図で登場したか?といった基本的な部分を知りたいです。

お分かりになる範囲で結構ですので、どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

この歌は、昭和15年発表の『魚歌』に収録されているものです。戦時中の子どもの遊びを見て、それを詠んだものかなと思います。小高い丘の上で、白い布をマントのようにひらひらはためかせている状況が目に浮かびました。布がはためいて、ばたばたいっている音が海賊の歌のように聞こえるさまを表現したのかと思います。

斉藤史さんの幼馴染の青年将校が二・二六事件の首謀者の一人として処刑され、軍人であった父親は5年の禁固刑を受けている状況を考えると、白い布は死装束を連想させる気もしますが、暗い時代だからこそ天真爛漫な遊びが、逆に象徴的に感じます。

Q短歌の意味を教えてください

教科書に資料として載っていた短歌です。

「はとばまで あんずの花が 散つてきて 船といふ船は 白く塗られぬ」

興味があったので調べてみたのですが
全く意味・解釈のようなものは見つけることができませんでした。

どなたかご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

あんずの花びらが散り、港まで舞ってきて、港に停泊している船と言う船が、全て花びらで真っ白に塗られた様になりました。

こんな感じですかね?

波止場(港)に船と言っても、貿易港で巨大タンカーってコトは無いでしょう。
山すそが迫った漁村などで、それほど大きく無い船では?と思います。

イメージしにくければ、桜の季節の後半に、家族で自動車に乗って、川辺や海辺に花見に行ったとでも考えてみて下さい。
帰ろうとしたら、桜吹雪の中、花びらに覆われた自動車を発見!って感じです。

解釈なんて、そんな感じの情景を思い浮かべた時、それぞれの人が感じるままで良いんですヨ。

木々の生命力や雄大さに感動しても良いし。
人工と自然の調和を感じても良いし。
あんずの花が散る季節の変わり目に、無常感を感じても良いし。
さんさんと輝く太陽の下で、天然の白に輝く船に、自然や絵画的情景の美しさを感じ取っても良いし。

Q石川啄木のこの3首を教えてください

(1)この歌において、作者はなぜ泣いてるんでしょうか? 何があったのでしょうか?
東海の 小島の磯の 白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

(2)この歌でもなぜ泣いてるんでしょうか? そして、「一握の砂を示しし人」というのは誰で、何のために砂を指差しているのですか?
頬につたふ
なみだのごはず
一握の 砂を示しし 人を忘れず

(3)この歌で、作者がさらさらと砂の感触を確かめているのはなぜでしょうか?
いのちなき 砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指の あひだより落つ

3首とも同じ背景の下に書かれたものだと思うので、答えは同じかもしれません。つまり(1)(2)(3)それぞれ別々に答えを頂く必要はないかもしれません。

回答者さんの中には、「受け取り方は読者の自由だから、こんな質問は愚問である」という方もいらっしゃることと思います。
しかし私はその意見に対し、次のような考えを持っています。

私は、文学にせよ美術にせよ、鑑賞の仕方は2通りあると思います。

A:その作品の中だけで完結した世界だと思って、その世界を楽しむ方法。
B:作者の生涯や、作品が生まれた背景などを理解し、その上で鑑賞する方法

Bの鑑賞法のほうが優れている、と考えているわけではありません。むしろAの面白さが好きです。
でもこれら3首については、既にいろいろ想像をめぐらしてAの鑑賞法を楽しみましたので、今度は是非Bの鑑賞法で鑑賞したいのです。だから作品の背景を知りたいのです。
しかしいろいろ検索をかけてみたのですが、この3首の解説が見当たりません。
どうかお願いいたします。

(1)この歌において、作者はなぜ泣いてるんでしょうか? 何があったのでしょうか?
東海の 小島の磯の 白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

(2)この歌でもなぜ泣いてるんでしょうか? そして、「一握の砂を示しし人」というのは誰で、何のために砂を指差しているのですか?
頬につたふ
なみだのごはず
一握の 砂を示しし 人を忘れず

(3)この歌で、作者がさらさらと砂の感触を確かめているのはなぜでしょうか?
いのちなき 砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指の あひだより落つ

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Aベストアンサー

質問者様は出来れば文献をお求めなのはわかっているのですが、
No.1様と同様、私も特にその必要はないのではないかと思っています。
いろいろな鑑賞法があっていいし、またいろいろに読めるからこそ作品に広がりが出てくる、
ということもわきまえた上で申しますが、Bのような鑑賞法に必ずしもこだわらなくてもいいのかなと。

以下、徒手空拳で私見を述べます。参考に資するところがあればお慰みです。

「東海の」は、やはり世界地図を広げての小島=日本。
その名もない磯のわずかばかりの白砂(少なくとも、広い砂浜の砂ではない)。
あるいは浅薄、未熟という意味での磯。
白砂は純白、高邁な志のアナロジーかもしれません。

啄木の時代は立身出世の時代、高い理想を抱いた時代だと思うのですが、
それだけに挫折感もはなはだしい。
ちっぽけな日本の名もない一角で、文学者として名を上げるどころか、いまだ日々の生活に苦しんでいる。
そういう心の背景のうちに歌われたのではないでしょうか。

ところで先日、「蟹」は横文字、英語のことであるという意見を聞いて面白いと思いました。
正岡子規にも、若き夏目君(のちの漱石)を戯れに、
「鴃舌を学び蟹文を草す」げきぜつをまなびかいぶんをそうす
と評したと高島俊男氏の「漱石の夏やすみ(房総紀行 木屑録)」に出てきます。

啄木の「飛行機」という詩は、
肺病やみの母親と二人で暮す給仕づとめの少年が、たまさかの休日に、
「ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……」とうたわれ、
それが青空を高く飛ぶ飛行機と対照されています。
(飛行機は当時の最新テクノロジーでしょう。また、よく落ちたと聞きます)

さて、なぜ泣くか、なんですが、
少しきびしい言い方かもしれませんが、これが啄木の弱さだと思うんです。文学としての弱さ。
だってこれはセンチメンタルに過ぎません。自分を額縁に入れて憐れみ、ひとの同情を引く涙なんです。
本当のかなしみ、存在をかけたようなかなしみではないと思うんです。
当時は今よりはよほど感情の起伏が激しく、人はやたらに泣いた、ということはあるかもしれませんが。
そして涙することへの共感、「大衆性」によって読み次がれてきたということもあるでしょうが。

長くなりました。先を急ぎます。
砂、さらさらとした砂はそれだけで「かなしい」ですね。
指のあいだからさらさら流れ落ちる砂は、皮膚感覚としての快さと、心のないむなしさを感じさせます。
そしてそれは何かの暗示、連想へ結びつくかもしれないし、そうしないでもいいのかもしれません。
ただ、これは「一握の砂」巻頭の連作(たぶん)10首の一つですから、その読みあわせによって、
編者は読者に想起することを希望しているのかもしれません。

以上、管見を書き散らしてしまいました。ご寛恕願えればと思います。

質問者様は出来れば文献をお求めなのはわかっているのですが、
No.1様と同様、私も特にその必要はないのではないかと思っています。
いろいろな鑑賞法があっていいし、またいろいろに読めるからこそ作品に広がりが出てくる、
ということもわきまえた上で申しますが、Bのような鑑賞法に必ずしもこだわらなくてもいいのかなと。

以下、徒手空拳で私見を述べます。参考に資するところがあればお慰みです。

「東海の」は、やはり世界地図を広げての小島=日本。
その名もない磯のわずかばかりの白砂(少な...続きを読む

Q「サラダ記念日」の女心は?

俵万智さんの有名な短歌、
この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日

これはどういう女性心を表現しているのでしょうか?
最初に思ったのは、これは実際のことではないのでは?という疑問です。
恋人に褒められたという理由で、料理に記念日をつける人がいるとは思えません。
もしいるとすればこれは「純情」「純愛」ということになります。

これが短歌上の虚構とすれば、「純愛を演じてみせる女心」のように思われます。
それが「したたか」なのか、「かわいい」のはわかりませんが。
また、この短歌が恋人に見せるために詠んだのなら、一種の恋文でしょう。
しかし全くの虚構で、発表するために作ったとしたら、どういう心理が作用しているのでしょうか?
教科書にも載っている有名な短歌ですが、とても含蓄のあるように思えます。

どなたかこの短歌の女心を読み解いてください。
それとも質問者の深読みでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まあ別に、解釈は自由でいいと思いますけどね。
唯一の解答のような、そんな解釈はないですよ。

で、それを前提に私なりに考えますけれど、
「恋人に褒められただけで記念日なんてつけるヤツはいねーよ」
というツッコミもひとつの解釈ですし、
「恋人に褒められただけで記念日なんて普通つけないけど、それでもつけちゃいたいくらいにうれしかったのね」
という解釈もできるでしょう。

まあどっちもどっち、両方アリの解釈です。

でも逆に言えば、「そんなのありえないからこそ歌になる」んですよね。

「この味がいいねと君が言ったから うれしかったよ 嗚呼ありがとう」
では、あまりに普通で、いい短歌になりませんよね(笑)。

「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
そんなことあるかい!と思いつつ、同時に、
そんなにうれしかったんだぁ……、と詠み手の気持ちを想像したりもするわけです。

きっと若いカップルで、彼女が初めての手料理を披露したのかな、とか、
(まさか熟年夫婦でこれはないだろう、と)
この初々しさから、まだ肉体関係はないんだろうな、とか、
肉じゃがでもなくてビーフストロガノフでもなくて、
サラダってのがまた料理の初心者くさくて、
それしきのことで喜ぶ彼氏も褒めすぎだろう、オマエ彼女に惚れてるだろう、とか、
そんなことを思ったりしますし、
一首の歌から、こんな風にいろいろなことを想像できるということがとてもすばらしいと思います。
料理にサラダという、語感もキレイで、作り方が簡単で、
料理として偏った印象がなくて、さわやかな感じのする料理が選ばれていたり、
そんな簡単な「サラダ」と、言葉としては重たい「記念日」が組み合わされているところなど、
歌の構成が、いろいろなことを想像できる仕組みになっています。

それに、男性の眼から見たら、かわいい女性に映りますよね。
俵万智さんは、「ほら、こんな女の子がいたらかわいいでしょ」
って男性に気持ちよくなってもらうために、
フィクションとしての男女関係を作ったのかもしれません。
(私は男性ですが、個人的には、あまり女性ウケする歌だとは感じられません)

テレビドラマの純愛を楽しむように、
フィクションとしての理想的な恋愛関係を想像して楽しめばいいだけです。

俵万智さんが女性で、その当時妙齢であったがゆえに、
詠み手と歌の中の女性を重ねてしまいますが、
重ねる必要など全然ないわけです。
このカワイイ短歌を、むさいオッサンが詠んだ可能性もあるわけで、
それくらいに思えば、この歌のよさもよりわかるような気もします。

ちなみに俵万智さんご本人も、「サラダ記念日」の歌は、
そのほとんどがフィクションだと、どこかでコメントしていました。

まあ別に、解釈は自由でいいと思いますけどね。
唯一の解答のような、そんな解釈はないですよ。

で、それを前提に私なりに考えますけれど、
「恋人に褒められただけで記念日なんてつけるヤツはいねーよ」
というツッコミもひとつの解釈ですし、
「恋人に褒められただけで記念日なんて普通つけないけど、それでもつけちゃいたいくらいにうれしかったのね」
という解釈もできるでしょう。

まあどっちもどっち、両方アリの解釈です。

でも逆に言えば、「そんなのありえないからこそ歌になる」んですよ...続きを読む

Q鑑賞文教えて下さい

万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男    情景 心情 表現技法について詳しくお願いします   

Aベストアンサー

表現技法はわかりません。

文学作品の解釈と言うのは、
作者と読者(そして採点者)のバランスという要素が入ってしまいます。
読書は好きですが、国語は嫌いでした。
 
よく、テストなどで「作者の気持ち」「主人公の気持ち」「どのような意味でしょう」などの設問がありますが、
作者でもない人や作者と交流がない人が正しい解釈や採点をどうしてできるのか疑問です。
作者の生活環境や時代背景を研究したとしても、想像の域を越えられません。
作者本人でさえ、正しく自分自身や作品を理解できていない場合さえあります…。
直感的に作品を書く作者もいます。適当に書かれた作品を作者の意図を超えて名解釈をしてしまう優れた読者や選者というのもあり得ます。(子供の文学コンクールなどこのような解釈をされ受賞する場合がよくあります。)

小説の場合、文章の前後の関係から答えを想像することもできますが、
文字数の制限のある、俳句、短歌、川柳などは、作者の情報もなしに解釈させること自体が不適切です。
読者が感じたままを書けばそれが全て正解とすべきです。
とすれば、より多くのことを読み取った場合に良い点が付けられることになります。(実際は採点者の好みの解釈を書くことが高得点のコツと言えますね。)
一度、採点基準を聞いてみるとよいかもしれませんね。
標準的に用意されている回答例を用いて採点されていても嫌ですね。

この作品、おおよそは共通する解釈ができると思います。
しかし、なぜ「万緑」なのでしょうか?
季節感や生命力を表現する言葉はたくさんあります。
太陽の光や、美しい川のせせらぎや水面を跳ねる鯉では、なぜいけないでしょうか?
「万緑」である必然性はどこにあるのでしょう。

こんなことも想像できます。
ヒトの乳歯は下側前歯からまず生えてきます。
(7~8ヶ月から遅くとも1歳過ぎが標準と言われています。この作品ではその可能性はないと思いますが、ごく稀に先天性歯といって誕生時に既に生えている場合もあります。)
この事実を目の当たりにして、共通性を感じるもの…。
大地から元気良く生えている草木を対比(見立て)をしたように思われます。
満一歳を迎えられずに亡くなる子供の多い時代でしたから、
乳歯を見つけた感動とともに、我が子の成長を喜び、更に元気な草木に負けずに育って欲しいという願いも強く込められているのではないでしょうか。

表現技法はわかりません。

文学作品の解釈と言うのは、
作者と読者(そして採点者)のバランスという要素が入ってしまいます。
読書は好きですが、国語は嫌いでした。
 
よく、テストなどで「作者の気持ち」「主人公の気持ち」「どのような意味でしょう」などの設問がありますが、
作者でもない人や作者と交流がない人が正しい解釈や採点をどうしてできるのか疑問です。
作者の生活環境や時代背景を研究したとしても、想像の域を越えられません。
作者本人でさえ、正しく自分自身や作品を理解できてい...続きを読む

Q斎藤茂吉さんの歌で

20年以上前、中学時代に俳句や短歌、詩などがのった国語の副読本がありました。この中に斎藤茂吉さんの歌(俳句?よくわかりません)で、お母さんが危篤になり夜汽車だったと思うのですが駆けつけるまでの苦しい乱れる心のうちを順順にうたったものがあり、その当時とても感動しました。大人になって探しているのですが見つけられません。内容もうろ覚えでぜひもう一度あの感動を味わいたいのです。ご存知の方、教えてください。
断片的ですがこんな感じでした。
何とかかんとか、とおだのかわず天にきこゆる
たらちねの母は死にたもうなり、何とかかんとか
ぜひお願いします。

Aベストアンサー

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥 ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
現身のわが血脈 のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
墓はらを白足袋はきて行けるひと遠く小さくなりにけるかも

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~PB5H-OOTK/pages/S/saitoumokiti.html

Q井伏鱒二の「山椒魚」で質問です。

小5の子供から質問されました。
「どうして山椒魚と蛙はお互い罵り合い、悪口を言っていたのに、次の年は両者とも黙っていたのか?」
駄目な母です・・・。山椒魚の気持ちも、蛙の気持ちも、全然分かりません(T.T)
心の中で「死んだフリじゃね?」なんて思いましたが、絶対ちがうな~っと思ったので答えませんでした。
どなたか教えて下さい。宜敷くお願いします。

Aベストアンサー

 誠に失礼かとは存じますが、国語の設問には「正解」という存在はありません。正解のある問題が国語にあるとすれば、それは漢字書き取りであり、「文脈」をどう読み取るかとの点で「傍線部に関して著者が違う表現をしている部分がある。その言葉を書け」という出題はなされます。
 井伏鱒二の『山椒魚』に関して言えば、終わりが2種類あって恐らくは改訂版のテクストだろうと思われます。これは私の理解ですが、前日まで罵りあっていた両者が翌日には沈黙を続けていた、という意味は互いに存在を認め合っていたことが次の段階で言葉を交わすことでの認め合いから「言葉はなくとも認め合っている」ことへの深化、じゃないのかということです。
 文学作品は読者によっても理解の仕方は異なります。夏目漱石が好きな人でも『夢十夜』が好きな人もいれば『心』が好きな人もいます。或いは漱石よりも太宰が好きだという人もいます。どれが「一番イイか」などと決めることは不可能で無意味な問い掛けということはこれだけでもお分かりいただけるでしょう。この意味でこんな設問をする公文はロクな教室ではないことだけは確かです。


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