まづ 定義から入ります。
序
《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから
別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。
ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性とい
う言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこな
う能力を言うのだと見ます。
☆ ここからさらにひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問
います。
1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性
2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。
3. 感性: 身の五感が知覚すること。
4. 悟性: 知覚したものを認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ
悟性は 世界の事実認識である。
4-1. 悟性は要らないと思うのですが。次の理性にふくませればよいと。
5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つ
ひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来
へ向けての)意味を捉えようとする。
この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつなが
りに収斂していく。
6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 一定の基準によって
取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。お
おむね善悪である。
7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性
がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。
あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念を
すでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にま
かせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢を
ととのえ 判断過程へと送る。
――ここまでが 知解という作業である。
8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものを
えらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学
習過程を経つつ くせ・ならはしとして培うようになる)。
8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限ら
ない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。
9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性
の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在に関するすべての(つ
まり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織
化のハタラキである。
9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉
庫におさめる。
9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全
体にとっての》整序作用を持つというように思われる。
9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に
意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。
9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行
為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえ
を持つ。これは 知恵だと考えられる。
10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし
知恵をもふくめて言うこともあるか。
11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つ
まり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わた
し》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力ある
いは度胸などを含めたかたちである。
*
☆ さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。
12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まず形式的な論理を扱う
ことが多いから 倫理をふくめた最終判断としての意志行為とは別である。
13. 広義には 意志や知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性
は 善悪判断をおこなう倫理や世間の知恵にかかわっている。
14. ただし この善悪の判断というのは 固有には自然本性のあり方として
それぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その
主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・
言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。
15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さら
にイツハリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷
や汗が出る。
16. たぶんこのように感性は――それは 良心にもかかわるが その良心と
ともに―― 理 性 に 先 行 し てハタラキを成し 理性よりえらいと考
えられる。
17. なぜなら ウソをつくにもイツハリをしでかそうとするにも そこでポ
ーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって
そのように――むろん意志による判断とともにではあるが―― 理 性 がチョ
ンボをおこなっているのだと見られる。
18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく その
ような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそのチョンボ行為を欲
しそれが《成功》したなら やがては横暴をきわめるのだと考えられる。
すべて理性のしわざだと見られる。感性を従えるだけでははく 意志をも しの
いでしまうようである。
19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも有力になる
ということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志も
つい誘われ屈して容易に飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいて
いるのではないか。
20. エリート(アマテラス公民)のおかすチョンボと庶民(スサノヲ市民)
のやらかすヘマとは 質が違うように思われるが いかに?
A 回答 (7件)
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No.7
- 回答日時:
まとめて指摘します。
定義の2項に自然本性というのがありますが、「身」については生育環境の影響を受けるため、ある人の20歳の「身の性質と能力」が自然本性かどうかわからないと思います。
心について言えば、正しくは「すべての人に共通の本能的感情とその人特有の個性があり、個性は遺伝的な面と環境で育まれた面が複雑に関わっている。」になろうかと。
9項 記憶には精神世界の記憶以外は触れていないようですが、小脳が関わる「身の動き」に関する記憶があり、一般に「手続き記憶」と言われていますが、これは精神世界の記憶とは全く異なります。この手続き記憶が精神世界にどのような影響を及ぼしているのかはわかりません。
また、五感から得られた記憶のうち、音は瞬間を切り取ることができず常に時間とともに存在するため、聴覚から入ってくる情報の記憶は特殊です。
15項以降に「ウソをつくこと」に対して、極端な拒否反応が見られますが、ウソをつくことと正直に言うことは、恐怖と怒りの感情のように生存本能に根差した感情です。
お早うございます。台風一過のあと〔数日経っていますが〕 いい朝だと
思って。
ご回答をありがとうございます。
★ 定義の2項に自然本性というのがありますが、「身」については生育
環境の影響を受けるため、ある人の20歳の「身の性質と能力」が自然本
性かどうかわからないと思います。
☆ 定義としては 《生まれつき備わった〔その人の〕身》のことです。
人それぞれですが 生育につれて――自分の努力によるにしろ他人から
の影響によるにしろ――変わります。でも その人の身でしょう?
★ 心について言えば、正しくは「すべての人に共通の本能的感情とそ
の人特有の個性があり、個性は遺伝的な面と環境で育まれた面が複雑に
関わっている。」になろうかと。
☆ それは 個別の議論です。《感性が理性よりえらい》という問い求
めには 影響しません。
《本能》については むしろ身の感性の問題と捉えてください。
★ 9項 記憶には精神世界の記憶以外は触れていないようですが、小
脳が関わる「身の動き」に関する記憶があり、一般に「手続き記憶」と
言われていますが、これは精神世界の記憶とは全く異なります。
☆ おっしゃるとおりだと思います。そしてその場合は 身と心との一
体として 11項の境地に含めてくださいますか?
★ この手続き記憶が精神世界にどのような影響を及ぼしているのかは
わかりません。
☆ 《境地》の問題としても 探究がのぞまれます。
★ また、五感から得られた記憶のうち、音は瞬間を切り取ることがで
きず常に時間とともに存在するため、聴覚から入ってくる情報の記憶は
特殊です。
☆ くわしいことは分かりませんが それでも 言葉を発することにつ
いては 記憶をとおして 認識することが出来ますね。記憶は はたら
いていますね。
★ 15項以降に「ウソをつくこと」に対して、極端な拒否反応が見られ
ますが、ウソをつくことと正直に言うことは、恐怖と怒りの感情のよう
に生存本能に根差した感情です。
☆ ですが ウソをつくことについては そのことのヤマシサを感性が
理性に先行して 知らせている。正直に言うことは 恥ぢ意識が無いと
言ってよいと思います。
《生存本能》がかかわっているでしょうが 単にその感情だけではなく
《理性が判断する内容と同じようなこと》をすでに知らせています。
No.6
- 回答日時:
次の指摘は「善悪」についてです。
善とはなんぞや? 悪とはなんぞや?
善悪とは時代とともに変化しています。
昔、悪だったものが今は善になり、その逆の善だったものが今は悪ともなりえます。
絶えず変化し続ける「善悪」について、
究極の悪とはなんでしょうか?
究極の善とはなんでしょうか?
ヒントを差し上げます。
ウソをつくことは、悪であり、正直に言うことは善、皆さんは親や宗教から刷り込まれていますが、本当にそうでしょうか?
現実世界では、その逆のことも起こっています。
この平和な日本の中で、上記のような正しいと思っていたことの逆の経験が出来た人は極めて少ないのですが、現実に最愛の人のために、固い意志でウソをつき続けた人たちがいるような気がします。
ご回答をありがとうございます。
★ 「善悪」
☆ 前回に触れたくだりをも参照されたし。
★ 善とはなんぞや? 悪とはなんぞや?
☆ ① あくまで主観による判断として捉えます。
② おのが良心によるほのめかしが 物指しになります。
③ ☆☆ 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめるこ
とになる。さらにイツハリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしど
ろもどろになり 冷や汗が出る。
④ つまり 胸の動悸もはげしくなりますね。これらの心にかかわる感性の
動きを《やましさ反応 または 恥ぢ意識》と呼びます。
⑤ これが 良心のハタラキとして成ると見ます。ヤマシサ反応にしたがっ
て そのウソやイツハリをやめるなら その思いと行ないを善と呼びます。
⑥ つまり 恥ぢ意識にさからう思いと行ないは 負の善です。ひと言でい
えば 悪です。
★ 善悪とは時代とともに変化しています。
☆ それは 善悪観であり そういった思潮や風潮または常識のことです。
★ 昔、悪だったものが今は善になり、その逆の善だったものが今は悪とも
なりえます。
☆ そうそうは ないでしょうが。
★ 究極の悪とはなんでしょうか?
☆ ヤマシサ反応に逆らう(つまり わが心に逆らう)場合は そのぶん自
然本性がそこなわれます。《よいこととしての善》が欠けます。つまり 死
にます。
ですが この死は 癒やされます。われがわれに還ることで 自然本性が回
復されます。つまり 死が死にます。
ところが もしつねに恥ぢ意識にさからいつづけたなら どうなるか? 善
の欠けがつづきます。そして行き着く先では 死が死ななくなる。
このように《ヤマシサの繰り返しにおいて生きる》人生は 《死》そのもの
にひとしくなる。――これが 生きる屍と呼ばれる究極の悪です。
★ 究極の善とはなんでしょうか?
☆ 特に設定しません。
★ ウソをつくことは、悪であり、正直に言うことは善
☆ つまり もしウソをつくことについて 基本的に善の損傷だと――良心
において――知っていても ヤマシサ反応として 必ずしも《死》ではない
とその確信において捉えたなら その行為をおこなうでしょう。
★ 現実に最愛の人のために、固い意志でウソをつき続けた
☆ のちにウソを打ち明けることが 恥ぢ意識をきよく保つコツです。
No.5
- 回答日時:
次の指摘は「判断」についてです。
教えてgooの世界はしょせん現実世界とは違うので、どういう判断をしようがどうでも良いことなのですが、現実世界では、判断はその後の行動と繋がって、それが悲惨な結果を招きます。
判断の根拠は「善悪」という持論のようですが、本当にそうでしょうか?
私たちの行動の源は、自分にとってのより良い未来とは、どっちだ?、
どっちを選んだら楽できるかな?
どっちに行ったら、嫌な思いをしなくてすむのかな?
と考えるのではないでしょう?
日常生活において、善悪で判断する場面はあまりないです。
ご回答をありがとうございます。
★ 次の指摘は「判断」についてです。
☆ はい。
★ 教えてgooの世界はしょせん現実世界とは違うので、どういう判断を
しようがどうでも良いことなのですが、現実世界では、判断はその後の行
動と繋がって、それが悲惨な結果を招きます。
☆ 基本として言えば ネット上のやり取りも 何ら変わらぬふつうの現
実世界だと思っております。
それと 判断のあとの成り行きには 《悲惨な結果》もあれば 《よろこ
ばしい結果》もあります。
★ 判断の根拠は「善悪」という持論のようですが、本当にそうでしょう
か?
☆ 中立の――いわゆる無記の・つまり まだ良し悪しの価値判断をする
前に できるだけ互いに共通の事実認識を得ておこうとするときの――判
断もあるにはあります。
ただし たいていは そのあとにでも 互いにそれぞれがおのれの主観に
もとづき良し悪しを判断することになります。
そうではないですか?
★ ~~~~~~
私たちの行動の源は、自分にとってのより良い未来とは、どっちだ?、
どっちを選んだら楽できるかな?
どっちに行ったら、嫌な思いをしなくてすむのかな?
と考えるのではないでしょう?
~~~~~~~
☆ そうなんですか? だいたい よかれと思って決断を成し行動に移る
のではないのですか?
★ 日常生活において、善悪で判断する場面はあまりないです。
☆ 善悪と言うと――善悪とわたしが言ったのは―― 倫理規範に合致す
るかどうかの堅い判断および行動のことだと見られるかも知れないですが
そうではなく プラスかマイナスかのことです。好ましいかどうか。
昔からの議論としては 《善悪観》があって それに倣って表現するのが
よいかなと思ったまでです。
No.4
- 回答日時:
実は回答する前に質問者の人物像を描いたうえで、回答しました。
想定では、私と同じぐらいの歳だけど経験値は低いかもしれないと思っていました。
しかし、お礼のコメントを見て、結構若いかもしれないと思って、それを確かめるために挑発的な回答をしましたが、ご容赦ください。
コメントに回答する前に、気になったのが、質問本文の中に混同と認識誤りが散見されたために、ひとつだけ指摘させてください。
「悟性は世界の事実認識」だと述べておられますが、脳は事実ではない認識というのも簡単にやっちまいます。
次の写真が良い例です。
中央部が歪んでいるように見えますが、実際は縦横の線は直線です。
私たちが見聞きしていることは常に事実だと思っていますが、脳内ではそこにあるものが見えず、そこにある音が聞こえないということも起こります。
逆に、そこにないものが見え、そこにない音が聞こえるということもあります。
もっと凄いのは、事実とは全く違うものに見え、事実とは違う音にすり替わる、ということが普通の日常生活で起きることがあります。
ご回答をありがとうございます。
★ 実は回答する前に質問者の人物像を描いたうえで、回答しました。
☆ かまいません。中身で勝負だと思います。
★ 想定では、私と同じぐらいの歳だけど経験値は低いかもしれない
と思っていました。
しかし、お礼のコメントを見て、結構若いかもしれないと思って、そ
れを確かめるために挑発的な回答をしましたが、ご容赦ください。
☆ やはり 中身の問題だと思います。
★ 質問本文の中に混同と認識誤りが散見されたために、ひとつだけ
指摘させてください。
☆ どうぞ。
★ 「悟性は世界の事実認識」だと述べておられますが、脳は事実で
はない認識というのも簡単にやっちまいます。
☆☆(趣旨説明欄) 4. 悟性:・・・知覚は 世界事実に接して
起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。
☆ 《世界事実に接して起こるゆえ》が 大事だと思います。
★ 次の写真が良い例です。
中央部が歪んでいるように見えますが、実際は縦横の線は直線です。
☆ 世界事実の認識とは 《実際は直線だが ゆがんで見える》とい
う事実を 視覚なら《ゆがんで見えるような視覚像》として認識する
という意味です。
だまされたなら そのだまされたという内容をふくむ事実として認識
するという意味です。
★ 私たちが見聞きしていることは常に事実だと思っていますが、脳
内ではそこにあるものが見えず、そこにある音が聞こえないというこ
とも起こります。
☆ という種明かしは あとで理性によって成されます。
★ 逆に、そこにないものが見え、そこにない音が聞こえるというこ
ともあります。
☆ 悟性は――あるいは 理性の早合点としては―― そういう事実
として認識するということです。
★ もっと凄いのは、事実とは全く違うものに見え、事実とは違う音
にすり替わる、ということが普通の日常生活で起きることがあります。
☆ というしっかりとした問い求めは 理性がやります。
No.3
- 回答日時:
☆ ふむ。
えっ?理解できないの?
ふむ以外のコメント期待してます。
☆ この場合の《心》って何ですか? つまり《理性または精神》の
ことではないのですか?
理と性と精と紳という漢字には心はどこにもないけど。目は大丈夫ですか?
☆ たぶん そうでしょうね。つまり 《他人(ひと)の振り見てわ
が振り直せ》というとき 理解はできても 自分で経験してみないと
まだ学べていないかも。
いやいやいや、違うから。
経験もしていないのに、なんで理解できてるの?
回答です。
理性はシミュレーションできるのだけど、心はシミュレーションできないから。
☆ 感性の気持ちとしては分かっていても あたまが逆らう場合があ
るかと。
あ~っ、疲れた。
ようやく本題です。
感性とは五感から入力された情報に対して、気持ちいいとか、気持ち悪いとか感じることですが、五感にはそれぞれ特徴があります。答えられる?
ご回答をありがとうございます。
☆☆ ふむ。
☆ は 途中の相づちです。中立です。
☆☆ この場合の《心》って何ですか? つまり《理性または精神》の
ことではないのですか?
★ 理と性と精と紳という漢字には心はどこにもないけど。目は大丈夫
ですか?
★ 理性はシミュレーションできるのだけど、心はシミュレーションで
きないから。
☆ 《理性》は 《心》ではないのですか?
そして:
★★ 他には、「人の心は他人の経験から学べず、自分の経験からのみ
学ぶことができる。」ようになっています。
☆ というふうに《経験からのみ》と言っていますから 《シミュレー
ション》は 関係ないですね。
☆☆ 感性の気持ちとしては分かっていても あたまが逆らう場合があ
るかと。
★ あ~っ、疲れた。
ようやく本題です。
感性とは五感から入力された情報に対して、気持ちいいとか、気持ち悪
いとか感じることですが、五感にはそれぞれ特徴があります。答えられ
る?
☆ 答えられません。
No.2
- 回答日時:
人間はまずは本能的な悟性に従っていた。
そこに端を発して個人差に応じて発現したものである
わがままな感性の市民権が
その時代なりの自由とともに声高に叫ばれ
わがままのぶつかり合いという現実をもたらしていた。
そこに暮らしやすさの実現のための理性が求められ
相対的にそれらがバランスよく適切に機能できる社会が
発展してきた。
というのが現実なのではないかと思います。
つまり19の感性というのは人間共通の悟性と言えるのではないか
と言っておいた上で
リーダーシップの在り方と
それに応じた従う側のスタンスの取り方
というのは一度しっかりと詰めるべき問題だと思います。
ご回答をありがとうございます。
★ 人間はまずは本能的な悟性に従っていた。
☆ ははぁ なるほど。動物は 草に毒があるかを身の感覚で見分け
るとか。つまり 動物の認識は《身分け》である。
しかるに 人間は 言葉≒概念で見分けるので《言分け》なのだとか。
《本能的な悟性》とは 動物の《身分け》に近いということですね。
★ そこに端を発して個人差に応じて発現したものである
わがままな感性の市民権が
その時代なりの自由とともに声高に叫ばれ
わがままのぶつかり合いという現実をもたらしていた。
そこに暮らしやすさの実現のための理性が求められ
相対的にそれらがバランスよく適切に機能できる社会が
発展してきた。
というのが現実なのではないかと思います。
☆ 《言分け》とは 理性による認識・思考を言うのでしょう。
ただ (14)(15)の事例については どうですか?
つまり 原初の身分けに近いかたちの《感性によって良し悪しなるこ
とわりを知ること》ですとか。
これは けっきょく《天与の良心》なるハタラキだとも考えられるの
です。つまり 《恥ぢを知ること》もそうだと思います。
感性が 理性に先だってはたらいているのではないかと。そして も
しこの《良し悪しや恥ぢ》といった感性による判定をくつがえすとす
れば それは 理性――悪賢い理性――ではないかと考えられます。
★ つまり19の感性というのは人間共通の悟性と言えるのではないか
と言っておいた上で
☆ いえ。つまり 理性による《言分け》をもじゅうぶん知った上で
の《感性をとおしての良心のハタラキ》が なお有効である。と見て
いるわけです。
そのように総合的に判断するのは理性ですが その理性には 決して
褒められたわけではない裏の顔もあるのではないか? こういう問い
なんですが。
★ リーダーシップの在り方と
それに応じた従う側のスタンスの取り方
というのは一度しっかりと詰めるべき問題だと思います。
☆ みんなの上に立つ者の負っている《責任》というものを考慮した
上で 理性の使い方について オモテ・ウラいろいろあるにしても
総合的に・高度な政治的な判断をくだしなさい・・・とおっしゃって
ますか?
だったら 自治体の首長は 市民による当番制にすればよいでしょう。
No.1
- 回答日時:
感性がえらいとか理性がえらいとかではなく、
「理性は心に操られ、心は本能に縛られている。」ただそれだけだと思います。
もう少し深く言うと、多くの人の心は宗教にも縛られていますが、その縛られ度合いには人によって強弱があります。また、宗教の教えには本能的な感情と相反するものもあります。
ちなみに、宗教の中で怖いのはキリスト教とイスラム教です。仏教徒には到底理解できない世界だと思います。
他には、「人の心は他人の経験から学べず、自分の経験からのみ学ぶことができる。」ようになっています。
また、「人は生まれた時には心だけがあり、心には生きるために最低限必要な感情と体が十分成長してから芽生える恋愛感情とその結果生まれる我が子に対する愛情だけが組み込まれています。」時にこの法則と外れる人がいるようですが、天性的なものかどうかについて興味はありません。
最後に、人は生きていく中で経験を重ね、また知識を得る中で理性が生まれ、それが心に影響を与えて新たな感情が生まれますが、それが知性になるかと。
また、同時に本能とは全く関係のない欲や執着も生まれます。
以上から言えることは、我々が生きている現実社会は常に変化し続けていますが、人の心は大昔も今も変わらない・・・ということになろうかと。
ご回答をありがとうございます。
★ 感性がえらいとか理性がえらいとかではなく、
☆ ふむ。
★ 「理性は心に操られ、心は本能に縛られている。」ただそれだけ
だと思います。
☆ この場合の《心》って何ですか? つまり《理性または精神》の
ことではないのですか?
《本能》の場合は もし人にも本能がはたらくとするのならば それ
は動物の場合と同じように《縛られている》というよりは どうしよ
うもなくその(本能の)要請を受けざるを得ないということではない
かとも思うんですが。
★ もう少し深く言うと、
☆ はい。
★ 多くの人の心は宗教にも縛られていますが、その縛られ度合いに
は人によって強弱があります。また、宗教の教えには本能的な感情と
相反するものもあります。
☆ そうですね。この場合は 縛られない生き方・つまり《宗教〔の
オシヘ〕から自由であること》が 可能だと言えるのではないでしょ
うか? 哲学として見て 理論の上では。
そして もしそのオシヘの内容で自分が心から納得していてそのまま
実践しているのなら 別に《縛られている》のでもないと思われます。
わたしは 宗教は屁の河童だという意見の持ち主です。
★ ちなみに、宗教の中で怖いのはキリスト教とイスラム教です。仏
教徒には到底理解できない世界だと思います。
☆ 《律法〔なるオシヘ〕》は もともと人間の能力と努力によって
は 守ることが出来ないと分かっているようですよ。
★ 他には、「人の心は他人の経験から学べず、自分の経験からのみ
学ぶことができる。」ようになっています。
☆ たぶん そうでしょうね。つまり 《他人(ひと)の振り見てわ
が振り直せ》というとき 理解はできても 自分で経験してみないと
まだ学べていないかも。
★ また、「人は生まれた時には心だけがあり、心には生きるために
最低限必要な感情と体が十分成長してから芽生える恋愛感情とその結
果生まれる我が子に対する愛情だけが組み込まれています。」時にこ
の法則・・・
☆ 感性の気持ちとしては分かっていても あたまが逆らう場合があ
るかと。
★ ・・・我々が生きている現実社会は常に変化し続けていますが、
人の心は大昔も今も変わらない・・・
☆ かも知れませんね。
率直にお応えしました。
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