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東洋思想と西洋思想の違いはなんだと思いますか。東洋思想はヨーガ、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教など
が根本だと思います。一方西洋思想はキリスト教、ユダヤ教が根本だと思っています。
東洋思想は仏教の空の思想に代表されるように
「一元論的」、「相対的」だと思います。
一方西洋哲学は一神教の思想に代表されるように
「二元論的」、「絶対的」といえるのではないかと
思います。
世界に二つ対照的な文化の流れがあるのはなぜでしょうか。それでは

A 回答 (12件中1~10件)

 西洋が一神教になったので、相対しているのだと思います。

北欧神話など…白人なんかが持っていたのはもともと多神教でしたが…キリスト教がローマ帝国の宗教となり、広がってしまい、相対する関係になったのだと思います。
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自然環境の影響もあるのではないでしょうか?



キリスト教は、中東の砂漠という過酷な環境で生まれた宗教です。過酷な環境故に、自分たちが生き残るためには異端者は敵として排除していかなければいけません。その結果、唯一神が信仰され、他は悪と見なされるようになったのではないでしょうか。

それに対して東洋は、暖かくて雨も多く、植物も生い茂っていて豊かな環境です。だから、異なる考え方の人々も「みんな一緒」的な考え方が生まれたように思います。
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No1です。

一晩寝ると考えが変わるんですけど…。

 儒教だと、勧善懲悪とか言って、善と悪とを切り分ける二元論のところもありますよね。(儒教は支配者の思想だからか…?)
 私は日本の文明を今、個人的に考えていますが、日本人の文化は儒教とか仏教とかの影響を受けながらも、全体主義的な考えが占めているような気がします。でも、中国と日本の思想を手にとっても、"東洋"というふうにひとくくりするのって、なかなか無理があります。
 No2さんのいうように、たしかに思想とか宗教とかいったものは、風土の気候に合わせてつくられますが。

 もしかしたら、人がただ西と東と切り分けたいだけで、曖昧な観点かもしれません。それはつきとめて、つきとめていくほど、わけが分からなくなります。
 それぞれの文化圏で、いろいろあった宗教・思想だったけど、たまたま、一神教が"高次元"かどうかはわかりませんが、そのように定義されることがあるように、人の生に即したから、これだけの信者が世界にいるのだと思います…そこの分け目ってことだと思います。
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手っ取り早くは


河合隼雄の「神話と日本人の心」をおススメします。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000233 …

仏教やヒンドゥー教の母体は、古代インドの神話です。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教の母体は、ヘブライの神話です。
儒教の母体は、アジア一帯に流布していたシャーマニズムだと
考えられているそうです。

古代インドの神話における世界観のポイントは
宇宙を支配する原理(梵)と個体を支配する原理(我)は
本来同一(一如)である、と考えていたことです。

ヘブライの神話における世界観のポイントは
神が私たちの世界をつくった、つまり
神の世界と私たちの世界とでは次元が違い
神は私たちよりも上位の次元にいた、と考えていたことです。

儒教は、シャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して
(孔子によって)礼教化されたものだと聞きます。

日本の神話における神は、人間と同じ世界に住み
自然を司る能力を備えた特殊な種族であるかのような
描かれ方をしています。
これは日本の神話に特有なものではなく
アフリカやアイルランドなどにも似たような神話の体系が
あるそうです。

これらを単純に東洋思想/西洋思想の二項対立にしてしまうのは
若干乱暴な気もします。
中世⇒近代⇒現代と勢力を拡大したのが西洋におけるキリスト教であり
地球規模で見ればキリスト教とその他の二項対立なんじゃないか?
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/h_sakamoto/thought/wo …
そして、西洋思想が行き詰ってきたと言われる現代だから
オリエンタリズムがフォーカスされているのかな?
と、思います。

この回答への補足

そうですね
一神教と一神教以外の二項対立で考えたほうが分かりやすいです。

補足日時:2004/11/11 21:08
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/30 19:30

意外かも知れませんが、まず「腸の長さ」があると思います。




中東~欧米人の狩猟民族と、アジア系の農耕民族では腸の長さが違うんです。
さらに消化酵素にも差があります。

ちなみに肉食が主だと攻撃的、能動的、体臭がきつい、瞬発力にすぐれ持久力が無い・・・等の特徴があるんです。

もちろんアジア系も残忍なことをする人が沢山いますし、逆に、欧米人にも温厚な人がたくさんいると思いますが、やはり欧米人のほうが食文化的に感情的に走り、暴力に訴えることが多かったのだと思います。

そうすると、必然的に、それを抑圧しようとする動きも出て来ますので、「悪いことをすると警察に掴まるよ!」的な脅し、警告の意味もかねて、宗教的に「地獄に落ちるぞ」とか絶対的な神を置いたのではないかと思います。


つまり、絶対的な存在という【脅し効果】によって、人々の行動を抑制、統制しようという歴史、民族的な背景があったのではないかと推測します。




これに対して農耕民族は、穀物が生育するに適した、比較的温暖な気候の中で育っているということですから、肉食文化とは違う性質を持っているんだと思います。

欧米人とアジア人の、体格をみても一目瞭然ですよね。
あれはつまり食文化の違いです。


そんな風土、環境の中ですから、インドのヨガ(歴史5000年以上とも言われています)、中国の気功(3000年以上?)のような内省的なものが生まれたんだと思います。
だから、これらは欧米人から見たら「東洋の神秘」と言われるのではないでしょうか?
彼らには理解不可能な価値観だったのかも知れません。


そんな中で誕生したのが仏教なんだと思います。

「アレが在って、コレが在る」(縁起説)
例えば、「光」が在るから、「眼」が在るんです。
だって、光の届かない深海の生物には、眼が無いんです。

と、いうことは、この世のもの全てが相互依存的な条件で成り立っているということですから、おのおのに「本質」というものが無いということになります。
これが「空の思想」です。(「空」とは「欠けている」という意味です)

また、相互依存的な条件で生じているんですから、
逆説的に相互依存的な条件で滅しもするんです。
生まれるという性質を持つものは、同時に死ぬという性質も持っているんです。(諸行無常)


本当の仏教は宗教では無いんです。
論理的、合理的な真理・真実を述べているだけです。

アジア人がこういう論理的、合理的な知識を受容できるだけの気候風土に恵まれていたのかも知れません。


まるで憶測と偏見に満ちた回答ですが、遠からずだと思います^^

この回答への補足

こばは
結構的を射た意見だと思いますよ。
僕は一神教が大嫌いなんです。彼らの論理は論理的にみて
正しくないんです。善でなければ悪だときめつけますが、
善でなければせいぜい「善でない」ということが
いえるだけなんです。それを悪だと決め付けるのは
論理の飛躍です。一神教をはじめた神というのは
相当差別的な心があるようです。

補足日時:2004/11/11 21:00
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再度の5です。


そうですね、私も好きではありません。
束縛は嫌いなタイプですので。。。^^

ただ【そうせざるを得なかった】という背景もあるのではないかと思います。

テーラワーダの掲示板上でも、キリスト教批判のようなこと言っているのを見かけましたが、それには、それだけの背景があったんだと思うんです。

大乗仏教だってそうです。
私に言わせれば、本来の仏教とは合理的真実であり、実践するものであって、宗教では無いです。

ですから、末法思想があるのもおかしいし、阿弥陀様の本願でみんなが救われるワケもありませんし、お経のタイトルを唱えても意味が無いと思うんです。


でも、例えば、無学な人もいるし、文字の読めない人たくさんいただろうし、今日を生きるだけで精一杯で瞑想どころでは無いという人も沢山いたでしょうから、そういう人の為にも大乗仏教が生まれたんだと思うんです。

ですから、やっぱり、何かの「縁」で、一神教が生まれたんだと思います。

その背景にはきっと慈悲の気持ちがあったと思います。
地獄に落ちるぞ的な絶対的な神の脅し効果のおかげで、命を救われた人達も大勢いると思います。
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参考程度に


特に、西洋、ヨーロッパでは、キリスト教を導入にするにあたって王の権威と宗教的な権威を分離してしまった点が、思想的に東洋との間に違いが生まれてしまった1つの理由ということかと思います。これは、功罪はありますが、それ故に科学的論証的文化が進歩したことは確かですね。科学技術の進歩で一時期は、世界の大半が西洋の植民地になってしまいましたね。王の権威で植民地を増やし、その尻馬にのってキリスト教を広めたわけです。
また、他の大きな理由は、エジプト、ギリシャからローマへという文化は本来的に、多神教でしたが後代ローマがキリスト教を導入する際に、ユダヤ教のたたり神的な一神教が入ってしまったという点ですね。現在のイスラエルを見ればその異常さがわかりますね。
たたり神的な一神教の部分が入っていますので、東洋よりある意味、残酷な行動をしますね。大量破壊兵器での殺戮などは東洋にはありませんでしたね。
この二つの点が、東洋にはありませんので違う流れのようになっているのでしょう。西洋は、だから複雑ですね。科学技術の進歩ほど精神的には進歩しているようには思えませんので、そのうち精神的な部分を東洋の部分を再度導入して是正すると考えられますね。
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#4です。

面白くなってきたので再度参加させて下さい。

>僕は一神教が大嫌いなんです。
私も一神教が好きではありません。
正確には「絶対性」が嫌いです。
だから、仏陀の「諸行無常」「諸法無我」という認識や
あるいは「空」思想や「縁起」説に共感します。

でも、今日の(大乗)仏教って
#6さんが仰るようように、仏陀の教えとは違いますよね。
>末法思想があり、阿弥陀様の本願でみんなが救われる
これじゃあ、キリスト教と同じですよね。

じゃあ、キリスト教は?というと
キリスト教だって初期はとてもリベラルなものだったらしい。
そもそもイエスは「神を信じなさい」などということを
ほとんど言わなかったらしい。
イエスという人は、ユダヤ民族絶対主義に凝り固まっていたユダヤ教から
庶民を解放した一種の革命家だ。
彼を神格化したのはイエス死後のキリスト教だ。
何故か?
新しく誕生したキリスト教がそれまでの諸宗教、諸思想に対抗して
またローマ帝国支配者からの弾圧に対抗して
当時の地中海世界に広く進出していくためには
自らを弁護(正当化)し弁証(絶対化)する必要があったからである。
以上は新約聖書学者:田川建三の受け売りです。

腸が短かったらからか?
地中海世界って民族戦争ばかりやっていたから
戦うモチベーションUPのために民族の求心力が求められるわけでしょう?
求心力の中心には「絶対性」が必要ですよね。

大体、ユダヤ人だって弾圧ばかりされていたから
ヘブライの素朴の神話をユダヤ民族絶対主義の経典に
してしまったんでしょう?

宗教というのは「規律」か「救済」として機能します。
規律として機能するには「絶対性」が必要です。
救済は本来、絶対性の束縛を解いてきた筈なのに
救いを求める人の多くは他力本願で
結局「絶対性」が求められるようになる。

でも、仏陀という人は
例えば、神のような超越的実体を自己存在の根拠として示したり
あの世や霊魂の存在を説いて死の不安を除去したりといった
端的な回答や安直な真理を、決してあてがったりはしなかった。
そういう気休めにしかならない観念を、ことごとく否定した。
そして、生きていてこその意味なのに、生そのものは無意味であるとした。
これは明らかに矛盾だ。
この矛盾こそが仏陀の見据えた「苦」だ。
生存とは、耐え難い矛盾を生きることに他ならない。
この自覚より仏道ははじまる。
というのは僧侶:南直哉の受け売りですが。

要するに「相対主義」「空思想」は難しいよね。
だから、世界は西洋化/キリスト教化したんだろうと思います。

最後に。
>彼らの論理は論理的にみて正しくないんです
それは、自己の主張を「二元論的」に「絶対化」してや
いませんか?
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元々はどうであったのか知りませんが,西洋における一神教の絶対神の存在は,神を形而上として上位とみ,形而下を下位と見なして形而上の支配下に存在させるという解釈がなされている.



東洋においても理気二元論,一元気論は存在するが,どちらが上位,どちらが下位というようなとらえ方をするより,理気二元を流れる統一力の存在を,声なき声を聞く,形無き形を観るといった表現により神の存在を,存在の全体性としてとらえようとする.

自然界の中で全体が存在し,それぞれが生き生かされてる.
巨視的には日月星辰の運行の規則性.太陽の周りを地球が自転公転し,そのエネルギーを受けて地球に生物が存在するようになった.微視的に観ても自然界で生きようとする種の生存方法,その種の存続の方法を見るにつけ,それぞれが関連しあい存在するその巧妙さ,至理至妙さに気付かされるわけです.人類もまた地球上の自然の中で生かされているわけで,東洋人は農耕民族の故に自然と共に生き,己も自然界の一部分であって,
自然に生かされているのだという認識が脳に刻まれていったのではないだろうか.
そうした至理至妙さの中に東洋人はある統一力を見出しそれを神,最高善ととらえた.

西洋における神の概念である絶対神も,東洋における神の概念,存在の全体性とそこに存在する統一力ととらえられれば相矛盾するものではないものであろう.
もともとユダヤ教においても神としての形はなく「偶像を作るなかれ」と言って形を作ることを諌めているわけです.

現在における絶滅危惧種が増えてきているという事実は,その自然界の全体のバランスが崩れてきているということであって,それはひいては自然界の一部分である人類の存続の危機になっていくかもしれないという意味において東洋思想においても末法思想はありえるだろう.
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