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1868年の神戸事件はフランス人水兵が備前藩の隊列を横切ったことが原因で起きたみたいなのですが、
そのフランス人たちがそこを歩いていたのはどうしてですか?
1868年にはもう、外国人が街を歩くのは自由だったんですか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸事件)

A 回答 (3件)

既にそれ以前に、西洋列強と幕府との間で通商条約が結ばれています。


ですから神戸や横浜など開港を認めているところは、かなり自由に外国兵が歩いていました。
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ペリー2度目の来航の時、すでに水兵たちと吉田松蔭の接触がありました。


密航の前、散歩中の水兵たちとすれ違い。二度目は、捕縛後の松蔭を水兵たちが目撃と。。
航海中の水や食料の補給の必要もありますし、けっこう上陸してたようです。
上陸した以上、自由行動ありで。散歩と、お買い物。金貨と銀貨の交換で、一財産作った水兵さん、いっぱいいたそうです。
 生麦事件が有名ですが、その一歩手前で済んだケースも記録されてます。
マナー、風習の違いから、いろいろとトラブルがおきてました。
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簡単に言うと、フランス人は単なる通りすがり。


ただし、生麦事件と同じように、日本では非常に無礼な
共割(隊列を横切る)をしました。

兵庫は1858年の安政五ヶ国条約で開港が決まっていましたが、
京都に近いという理由で朝廷の許可がおりませんでした。
本格的に決まったのが1867年。
そこから居留地を整備して、開港したのが1868年1月1日。
つまり、事件は1月11日の開港直後に起こったものです。
当時は日本も諸外国も本格的な交流が始まったばかりで、
日本側は攘夷思想がまだまだ幅を利かせていました。
一方、外国人側は指定された居留地とその周辺十里
(約40km)までの旅行は自由でしたが、
居留地には日本人の立ち入りが制限されていました。

神戸に土地勘があれば判りやすいのですが、
三宮神社はJR元町駅南側にある神戸大丸の北東すぐで、
旧居留地のはしっこです。
https://kobe-kyoryuchi.com/
しかし、開港時はまだ建物の整備が十分ではなく、
その外側に日本人と外国人が住む雑居地が設定されました。
三ノ宮駅北側の北野にある異人館街はこの雑居地です。
なので、この付近は外国人でも普通に歩いていました。
(居留地と雑居地は以前にブラタモリで紹介されていました
 興味があれば見てみてください)
https://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list65/inde …

つまり、この周辺は日本人と外国人が行きかうところで、
開港直後の混乱期に事件が起こりました。
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