AKB48の推しメンをセンターにできちゃうかもしれない!? >>

以前に優しい人でありたい、正しい人でありたいという投稿があったが、まず優しいとは一体何であろうか。ある子供に「優しいとは何だと思う?」と聞けば「私のおじいちゃんは優しいと思います。お小遣いも一杯くれるし、何でも買ってくれるし、いたずらしても余り怒らないし、いつも可愛がってくれるから優しいと思います」と答えた。しかしそれが本当の優しさだとは誰も思わないだろう。

では本当の優しさの本当とは何であろうか? 本当とは真実、間違いのない、つまり絶対的に正しいと言ってもいいだろう。「優しさとは何か」を知るにしても、子供のいう様ないい加減な意味の優しさでは困るのです。本当に正しい優しさでなければ困るのです。まず私たちは「~とは何か」と考える前に、正しいとは何かを知らなければ何にも始まらないのではないだろうか。

愛や幸せ、教養、平和などを語るにしても本当のものでなければ何にもならないのです。ですから私たちはまず初めに「正しいとは何か?」しかもいい加減な正しさではなく、本当の正しさ、絶対的な正しさとは何か?を知らなければならないと思うのです。何故、正しいとは何か?を探究する人がいないのだろうか。

勿論、正しいと言っても私たちが知りたいのは科学的な、数学的な正しさではなく、人に関する道徳的正しさです。道徳的正しさを一般的に善といいます。善は今では倫理学の学問になっていますが本来、哲学は真理を追究する物であり、ソクラテスやプラトン達が求めていたのは真善美の本質、その真理を探究することこそ哲学であったはずです。現在哲学といえば存在論とか、私とは何か?などに比重が置かれていますが、善とは何か?も分からずに哲学をやったと言えるのでしょうか。正しい人でありたいというなら、一体正しいとは、善とは何でしょうか。また善と正しいは同じものなのでしょうか? 皆さんのご意見を聞かせてください。

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    考えてみればソクラテスが嫌われたのも良く分かる。誰かが何か発言すれば正しい、善とは何か知らないで何故正しいと言えるのか?とソクラテスから追及される。表現の自由だろう、と反論すれば自由とは何だ、しかもいい加減な自由ではなく、本当に正しい自由の意味は何だ! とソクラテスに追及される。私もきっとソクラテスを殺したくなるだろう。

      補足日時:2019/04/05 06:38

A 回答 (13件中1~10件)

>本当に正しいとは何ですか?



宇宙の在り様、自然の流れ、です。
貴殿の好きな、絶対善という事場があるとしたら、僕にとっては、
上記の2つに沿う思想の事を思い浮かべます。
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大きな問題をいっぺんに出すと、頭が混乱しま~す



善とは
社会的な規範に是とされる存在、「行為」
正義とは
人間の行動・志操・道徳で、「ただしい」とされる「概念」
と言う事を踏まえてですが
正義の概念は非常に難しいもんだいです
国際的な問題 個人間の問題そしてまた家族間の問題
その他 様々な次元で 争いや対立や利害の衝突もあるが
こちらが正義であちらが悪と 明確に判別できない事が
あまりにも多い

卑近な喩えかも知れないが
夫婦喧嘩だって どちらが正義が悪か
よくわからないでしょう

日本には「勝てば官軍」と言い
勝った方が正義 負けたほうが悪
と言う考えがあるが それは矛盾が大きい
現実には 正義が負けて邪悪が勝ってしまう場合も多い

そもそも正義と悪・・善悪は 人類にとって
永遠にわたる 重大な問題といってよいと思います
古今東西 様々な哲学的議論はありますが
それらを踏まえて 結論すれば

「人を殺す事は絶対悪」と言う事です
「人を救う行動は 正義であり善」と言う事です
「生命を豊かにし輝かせるのが善」
「生命を委縮させ 生命を手段にするのは悪」



信は正義  結合 理性 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は不正義 分断 裏切り 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします




カントの価値、真善美は又ね
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>国際的な問題 個人間の問題そしてまた家族間の問題その他 様々な次元で 争いや対立や利害の衝突もあるがこちらが正義であちらが悪と 明確に判別できない事があまりにも多い<

そうですか?私はだいたい判別できると思いますよ。例えばどんな問題が判別できないのですか?
またあなたは正しいと善と正義はどんな関係だと思いますか?


>「人を殺す事は絶対悪」と言う事です。「人を救う行動は 正義であり善」と言う事です<

正当防衛や死刑、戦争などでは人を殺しても善です。トロッコ問題などでは5人を助ける為、人の判断で一人を殺すのは善といえますか?
また私はカントは信用してないのでカントはパスでお願いします。

お礼日時:2019/04/05 20:41

後悔したときには、(過去に為した)あれは本心ではなかったと悟る。

その時に、本当はこうしたかったと思い至る。何故本心のままに振る舞えなかったかにも思い当たるだろう。
本心に従う事が正しい、合っていることなのであり、後悔しないことは善いことである。
人には我執や愛執があって、そのままでは本心のままに振る舞うことが難しい。
これを為して、良い結果を生じるか、悪い結果を生じるか、分からないが、私はこれを自らの本心に照らして断固として為そうという決心を以て、後悔しない境地へとたどり着く。悪をとどめて善を超えるとはそういう意味である。事は後付けでしか理解されない。それはこの世が無常であるからである。人々は善かれと思って為した事でも悪い結果を生じるがあることを良く知っているだろう。それが後悔をもたらしたならそれは悪かったのである。最初から意地悪では話にならないが、悪をとどめて善をも超えて、本心に生きる事、これが正しい道なのである。そこに自由もあるだろう。
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この回答へのお礼

1コメントありがとうございます。

>良い結果を生じるか、悪い結果を生じるか、分からないが、私はこれを自らの本心に照らして断固として為そうという決心を以て、後悔しない境地へとたどり着く<

後悔しないことが正しい事、なるほど一つの見識ですね。では本心が正しいということですね。その本心はみんなに共通したものですか?個人個人違うものですか。ヤクザも本心は持っているのですか?老人殺しの植松も日本の為といって全く後悔はしていませんが後悔しなければそれで正しいのですか?


>悪をとどめて善をも超えて、本心に生きる事、これが正しい道なのである。そこに自由もあるだろう。<

本心による正しさは善を超えるのですか? 善を超える本心とは一体何ですか? 本心に超えられてしまう善とは何ですか?
また自由の意味とは何ですか、自由といっても勝手気ままに何でもやってもいいわけはないでしょう。自由の本当の意味とは何だと思いますか。

お礼日時:2019/04/05 20:40

善は概念ですから、ころころ変わりますね。


変わりようこそが、「正しい」です。
「正しい」は、それそのものですから相対する概念はない。

つまり、誤りや間違えでも「正しい」ということになります。
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この回答へのお礼

1コメントありがとうございます。

>善は概念ですから、ころころ変わりますね。<
善は概念というあなたが思う善とは何ですか? ころころ変わる善とは何ですか?

>つまり、誤りや間違えでも「正しい」ということになります。<

正しい、善は人それぞれっていうことですか? 善とは普遍的なものを言うのではないのですか。教育も本当に正しい教育でなければなりません。いい加減な教育ではダメだと思いませんか? 本当に正しいとは何ですか?

お礼日時:2019/04/05 20:39

#3です。

お礼ありがとうございます。

>なるほど、あきらめているということですね。西洋人の言うことを信じて。
いや逆でしょう。日本人だからそう考えるのです。それを「諦め」というかは人それぞれです。

西洋人はむしろ「絶対正義がある」と考えています。だから近代でも「正義論」のようなものがあるのです。

日本人は多神教ですから、神の違いによる正と善の違いに敏感です。ですから日本のモチーフに「絶対善または絶対悪」というものはほとんどありません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>ですから日本のモチーフに「絶対善または絶対悪」というものはほとんどありません。<

絶対善、絶対悪そのものがなんであるか知らないのに何故、日本人にはないと言えるのですか。あなたにとって善とは何を意味するのですか?

お礼日時:2019/04/05 20:39

やさしいとは、(自分を含めて)人を悲しませない事。


また、何かを為して、結果を見、後悔したならその為した事は間違っていたのである。
何かを為して、結果を見、そこに後悔が無いならその為した事は正しかったのである。
これらは後付けで分かる事であるために、人がもし、正しいことを為そうと思うならそこに決心が無ければならない。

正しさは探究によって分かる事では無く省察によって明らかになることである。省察によって、その時自分は何者であったかを知ること。その事で今為すべき事が明らかになるであろう。

善いことを為せば後悔しない。しかしながら、人は完全に善い事を為すことができない。完全に後悔しない結果を得る事はできないのである。故に、超えることが希求され、また勧められる。悪をとどめ、善をも超えたところに、自由という人間の道が生じる。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>善いことを為せば後悔しない。しかしながら、人は完全に善い事を為すことができない<

善い事とは何かが分からずに何故、後悔があるのですか? 善が分からずに何故善いことをなすことが出来ないと言えるのですか?


>悪をとどめ、善をも超えたところに、自由という人間の道が生じる。<

悪とは何か、善とは何か、自由とは何かが分からずに何の道が生じると言うのですか?

お礼日時:2019/04/05 06:35

「正しいこと」即ち「正義」とは、哲学的な「価値」の内容の一つである「善」と直結する


問題であると考えています。

「善」にも小さな限定的な善、即ち、一民族だけの一国家だけの善もあれば、大きな善、人
類全体あるいは地球規模の善もあれば、観念の世界になりますが宇宙全体の善も考えられま
す。

限定的な善は必ず衝突します。これを最高の善とするならば、正義とは対立するものであると
いう結論に達するでしょう。

あなたが主張する「善」は大きな人類的な善、ということですね?

この大きな善を時代は探求しようとしていない、と私も思います。そこには二つの理由があると
考えています。

1.正義という言葉に不信感を持っている。これは、歴史を学べば納得するでしょう。

2.他人の利益、皆の利益(公益)に興味がないこと。これは、公益に私益が吸い取られると思って
いるからでしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>限定的な善は必ず衝突します。これを最高の善とするならば、正義とは対立するものであるという結論に達するでしょう。あなたが主張する「善」は大きな人類的な善、ということですね?<

私の絶対善は小さいものから大きなものまですべてに通用する定義であり、対立することもありません。


>1.正義という言葉に不信感を持っている。これは、歴史を学べば納得するでしょう。
>2.他人の利益、皆の利益(公益)に興味がないこと。これは、公益に私益が吸い取られると思っているからでしょう。

それは本当の善、正しいとは何かを知らないからである。主客同一、私公同一にならねばならない。それが私欲を忘れるということである。

お礼日時:2019/04/04 20:14

1. 西欧には 《決議論( casuistry )》という分野があります。

蔑みを
もって見られる側面があるようですが 大きくは《人生相談》のことです。

2. ただし 日本人のあいだの人生相談には――よく言われることですが
――何か原理原則があるというわけでもありません。

3. そして細かくは 仏教などの《哲理》とやらを応用してその解決法を
見出す場合があるかとは思われます。

4. 決議論のほうは まさにそのような理論や規範を応用して解決法をさ
ぐるものです。キリスト教関係なんでしょう。



5. そこで言いたいことは:
★ 正義とは何か? 正しいとは? 善とは?
☆ といった問い求めは やはり現実の個別の情況や事態に即したかたちで
成さざるを得ないのではないか です。

5. つまり たとえ普遍的な内容をもった理論が 善なら善とはこうだと
答えを明らかにして定義しているとしても なおその一般解を個別の事態に
即して具体的な答えとして考える必要がある。のではないか。

6. たとえば《公(みんな)のためが 善だ》という定義に 間違いがな
かったとしても それは なお抽象的な一般解としてある。

7. その《公》は 民族ないし国家を超えては 当てはめないらしいです
し 国家の内においても 《みんな》が 心をひとつにして共生しているか
も あやふやです。

8. 《みんな》が 対立するグループに分かれているのは めづらしくあ
りません。そのとき 多数決の原理に従うといった《数学的な正しさ(?)》
は 採らないという立ち場なのでしょう?

9. ★ 何故、正しいとは何か? を探究する人がいないのだろうか。
☆ なぜか? あるいは 理論と現実との絡み具合いはどうか? どうなん
でしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>7.その《公》は 民族ないし国家を超えては 当てはめないらしいですし、国家の内においても 《みんな》が 心をひとつにして共生しているかも あやふやです。<

世界的問題なら仮に世界を仲間として考えればいいのです。しかし現実的に仲間ではないのでTPPも捕鯨問題も温暖化問題も各国は自国の利益ばかり主張している。これでは正しい答えなど出せない。やはり私欲を抑えて公の為と考えられるのは仲間だけです。勿論国内の問題でも心が一つということはないかもしれませんがみんなで決めたことには妥協しなければなりません。何とか妥協できるのが仲間です。しかし世界的問題で無理やり妥協させようとすれば戦争になります。世界各国はまだまだ仲間にはなり切れません。自国の利益を考えず世界の立場に立ち世界の為にと考えられる国などめったにないでしょう。ゆえに仲間、公とは基本的に各国国民となるのです。

お礼日時:2019/04/04 20:13

何故、正しいとは何か?を探究する人がいないのだろうか。


 ↑
いますよ。
正義論といいます。
ロールズが有名です。

欧米では盛んですが、日本では少ないですね。



善と正しいは同じものなのでしょうか?
  ↑
違います。
善とは、主観的なモノであるのに対し、
正とは客観的なものです。



何をもって正しいとするか。
アプローチには二つの道があります。

一つは、人間関係において定めようとするもの
です。
これによれば
正しさなど、時代や立ち位置によって変わる
ものだ、ということになります。


一つは、時代や立ち位置に関係なく、永久普遍の
正しさがあるはずだ、とする立場です。
絶対神を抱くキリスト教文化圏では、こうした
考え方が整合性を持ちます。
この立場に立った議論が正義論です。

で、正とは何か。
欧米の哲学者は
数百年議論していますが、未だに定説を見ません。

現代の価値観で評価すれば歴史の英雄は、独裁者、
殺人鬼、侵略者ばかりです。

ワシントンは米国では英雄ですが、英国では
反逆者です。

これらを統合した「正」の概念を定義
するのが、いかに困難か、判ろうというものです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>欧米では盛んですが、日本では少ないですね。<

あなた達は何故、正しいを探究しないのか、と聞いているのです。正しいが分からないなら正しいことは言えません。常識的に考えてまず正しいとは何かと考えるはずではないですか。正しいって何だろうと考えないのは何故なのですか?


>善とは、主観的なモノであるのに対し、正とは客観的なものです。<

何故、正しいも善も解らないのにそう言えるのですか? おかしくありませんか。


>現代の価値観で評価すれば歴史の英雄は、独裁者、殺人鬼、侵略者ばかりです。<

相対主義の時代はそういうやつらが出ましたから世界は絶対善的絶対主義の時代に変わらなければならないのです。


>ワシントンは米国では英雄ですが、英国では反逆者です。<

なるほど、それがあなたが言う「正しいは人それぞれ」ってやつですか?
ワシントンは公(アメリカ)の為だから、アメリカにとって善。ワシントンは公(英国)の為でないから悪です。私の言う「公の為なら善であり、公の為でないなら悪である」に合致する。仲間か仲間でないか条件が違えば善は変わると言うのは当たり前であり、何故それによって絶対善はないと言えるのか?
水道水が汚いところでは煮沸して飲むのが善、日本のように水道水が綺麗ならば煮沸するのは無駄であり悪。条件が違えば善悪は違うのは当たり前ではないか、何らおかしなことはない。何故それを善は相対的だというのだろうか?

また敵味方という条件をなくし米国、英国を一つの仲間、公として考えてみればワシントンのやったことは善なのか悪なのかと考えればいいのです。この時正しいことは米英両国(仲間)にとって一番良いことは何か?を考える。その時絶対的に正しい方法が「私欲を抑え公の為と考えることである」分かり易く言えば米国、英国は自国の私欲を少し抑えて公(英米、または世界)の為と考えることである。つまり各国が自国の立場から善悪を考えるのではなく自国を忘れ世界の立場に立ってワシントンのやったことは善なのかと考えることである。
また例を挙げれば広島に原爆投下したことはアメリカでは善、日本では悪という。この時本当にどちらが正しいのか米国、日本それぞれの立場を忘れ世界的立場に立って本当はどちらが正しいのかと考えることである。そうすれば答えは一つに収斂していくだろう。

お礼日時:2019/04/04 20:10

絶対的な正しさ、絶対的な善とは何かという疑問に対して回答させて頂きます。


正と誤(邪)、善と悪 などに絶対(完全)というものがないからです。それらは人間の思考より決定され人間の思考により判断されます、その人間が不完全な存在であることは誰もが理解できる事でしょう。不完全な人間がつくりだしたものが絶対(完全)であるはずがありません。
 この世界から人間という存在がなくなったとき善も悪もなくなり、善とはなにかという疑問もなくなることでしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

 >それらは人間の思考より決定され人間の思考により判断されます、その人間が不完全な存在であることは誰もが理解できる事でしょう。不完全な人間がつくりだしたものが絶対(完全)であるはずがありません。<

本当に善は人間の思考(理性)により決定されるものなのですか? 生後数か月の理性のない赤ちゃんも善悪は分かっていると科学的に実証されていますよ。

お礼日時:2019/04/04 20:03

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哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

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分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

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ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

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1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

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「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

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改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
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#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

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私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
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アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

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賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
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>私個人の現在の考えでは
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実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
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ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

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無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。

Q難癖をつけて論破しようとする人 ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑

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ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑性がないと言って否定します。

例えば、日本の人口が1億2000万人程度だとする根拠を、国勢調査や各種統計で示しても、その根拠が正しいとする理由を聞いてくるのです。

国の統計や学術的な統計であっても、
『なぜ国の統計なら正しいのか?』
『どうしてその学者の言うことは正しいのか?』
と言ってきて、最終的に答えられないと、非論理的で君は間違っていると言われてしまいます。


どうやら彼は、100%正しいとする根拠や証明ができないと、曖昧なものは全て否定するようです。

なので、統計も実数ではないからダメ。
学術論文も、一学者の主張だからダメ。

このように主張すると何も言えなくなるのですが、どうしたら論理的に説明ができるようになるのでしょうか?

Aベストアンサー

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証に対して「そんな論証は説得力がない」とは言わせない。だから、せいぜい「そんな結論Rは説得力がない」と文句をつけるしかできない。
「そりゃ、A, B, C, … が正しいと仮定すると、という議論ですから、説得力はこれらの仮定に依存しますよ」
「そんなことを言うのなら、A, B, C, … のどれかが正しくないと仮定すれば、別の結論が出るじゃないか!」
「そうですね」
「では、君は何も言っていないのと同じだ」
「へえ、そう思うのですか?」
てな調子で、口喧嘩はいくらでも続きますがね。

 形式論理は、仮定に最初から陰に(あるいは陽に)含意されている命題を取り出してみせる以外には何もできません。なので、論理的に完璧な論証とは、現実に関する断定を一切含まない論証だということです。(数学もそうですけど)形式論理は現実世界とは断絶しています。現実に関する命題については、あくまでも過去の経験(観測した情報)だけが根拠ですから、「絶対に間違わない」ということは不可能です。物理学や化学の「法則」も過去の経験だけに基づいていますから、覆る可能性が常にある。(逆に、(形而上学や信仰など)覆る可能性がない命題は科学の(つまり現実に関する)命題ではない。たとえば
  この世は10分前に神によって創造された。
というような信念は、(もちろん、記憶や痕跡全部を含めて創造された、という主張ですから)反証しようがない。)
 というわけで、「現実に関する命題を証明する」ということはもともと不可能で、できるのは「論証」だけです。その論証の「説得力」は、仮定A, B, C, …を何度も検証するという経験を積み重ね、あるいはうっかり持ち込んでしまった思い込み(リストにない仮定)がないかを何度も確認する、というプロセスによって磨かれていくものの、疑いが完全になくなることはない。

 なお、以上の話はただのナンセンスではない。「どんな仮定のもとでの議論か」ということを明示するのは論文においても重要で、ここを手抜きすると「見落とし」「無反省」「無自覚な思い込み」などと突っ込まれることになります。

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q世界の和解へ向けて 三点セットです。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。




B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わがこころの固有の
時》なる信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だという
ことだ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。梵我一如ないし霊霊一如。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性+α)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎなる理論によって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で もろもろのハ
ラスメントについてハラッサー本人に自省させるのがよいはずだ。

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るはずだ。


☆ コメントをどうぞ。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

>A 村際連合

人の交流は、偏見をなくすためにいいですね。

>B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

すばらしい。異なった宗教の共通性の認識も、非常に大切です。

>C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱

わかりませんでした。アース役とは何でしょうか、、、

Q真理を知ってる人は居ますか。居るとすれば誰でしょうか?

あなたは真理を知ってる人を見たり聞いたりしたことがありますか?

お釈迦様でしょうか? イエス様でしょうか? 神様でしょうか?文豪でしょうか?

詩人でしょうか?

それともあなたの知ってる人に真理を幾らかでも知ってる人が居ましたか?

Aベストアンサー

器の小さい人、足元しか見えない人、先入観を抱いている人、
色眼鏡を掛けている人、自分を知らない人に真理は分かりません、
無智無学無能偏見な人は、邪説を心理と勘違いします

暗い洞窟で、生まれてから今日まで過ごしてきた人に
青い空と緑の大地の話をする人を迫害します
(プラトンの喩えから)

ガンジーは
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました

その人は、最も、無関心 嘲笑 非難 抑圧された人かもしれません
高い山ほど、風当たりが強いからです


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