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正義とは何でしょうか?

A 回答 (23件中1~10件)

人を支配する法則には「生き物ルール(ジャングルルール)」と「社会ルール」とがあります。

ジャングルルールには正義・悪はありません。生き延びるか否かだけがあるのです。もう一つは「社会ルール」です。私たちの祖先が「群れて暮らす」を選んだとき以来の「うすうすの申し合わせ」です。明瞭なものではありません。群れて暮らすことの利得を期待するからです。社会ルール(マナー・道徳・社会貢献・正邪善悪などの価値なるもの)がそれなりに共有されます。法律だけは明文化されます。これら社会ルールはその社会の歴史・文化・地勢などに強く依存します。うすうすのルールですから、不統一でいろんな考えが入っています。これに従わない人にはそれなりの排除がなされます。社会ルールに従うことを拒否して山の中で生きることは自由です。
さて、ご質問の「正義とは何か」です。社会ルールの一つ、人や時代で内容は不統一、うすうすの定義や提案、正義と不正との境界が不明瞭などです。明瞭に定義しようとすれば他の正義との間に矛盾が生じてくることもあるようです。利害と類似のこともありましょう。正義と似て非なるものが「善」でしょうか。
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正義とは、万物の創造主である至高の神(エル・エルヨン)の絶対義、絶対善です。


神は、善も悪も創造されましたが、万物の平和に寄与しない(悪)は絶対に用いない方で聖なる方です。
天的被造物(イエスを含む天使たち)と、地的被造物(人間)を、聖なる神の聖なる子供として認知する為に、神の正しい義を行うように訓練しています。
模範者(手本)となった方が御子であったイエス・キリストです。
イエスは、自らの命を掛けても悪を絶対に用いない方でした。
神の正しい義(正義)を証明したのです。

聖書の言葉には「神の王国と神の義を第1に求めよ」と勧められています。(マタイ6:33.)。
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時代により受け取り方が変わり


立場によって変わるもの

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3% …


参考書籍
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%93%E3%81 …
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勝者の論理です。

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こんばんは。



少し違う。敗者が悪で勝者が正義になっていると思います。頭を使って勝てば正義です。(死人に口無し)だから、弱くても頭を使って多数にいれば常に正義なんだな。特に、現実の世界では、関係ないことにはできるだけ白黒の決着をつけない(量子的状態)を保ちつつ。勝負が決する寸前に、私は最初から多数でした(シュレディンガーの猫的)と言うと、常に正義ですよ。(笑)
それに、記憶にございません、存じておりません、黙秘を併用すれば最強。ゆえに、第二次世界大戦での勝組みに乗る中国、ロシアのような立場をとる者が正義です。弱くても頭を使えば、常に、勝者=正義ですよ。まぁ~善人は早く天国に行くから。悪人が長生きして、喜怒哀楽にもがき苦しんでいるんだよ。

一つだけ忘れないで欲しいのは、勝者は敗者に「おまえはよくやった俺が勝ったのはたまたま運が良かったからだ次はお前が勝てよ」位の「思いやり」は必要だと思います。なぜなら、永遠に勝ち続ける(無敵アイテムを使う)虚しさは酷過ぎる。相撲でいえば、若い横綱が必要なの。

真の正義とは「人間は、この世界(波であり粒である)と同調しながら、競争し苦しんで行くことが正しい生き方です。敗者は天国に行けるのです。」
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西欧のjusticeと東洋の義を振り分けて考えますが、


神学上は、神との正しい関係を正義と呼ぶことになっています。
しかし歴史上は、人類の文明とともに始まる概念のひとつです。
古代に社会が生まれるころ、つまり街、都市、国家の形成期にあたるころ、
擬人化した神々の物語である神話が、人々の世界観に秩序をあたえるシンボルとして機能しました。
古代神話の神々というのは、集団社会における人間の倫理と法と支配を代理的に表象し、
また、人間の寿命や生殖、日夜の交互性や農耕や狩猟、天文、天候、自然を支配している存在として敬われました。
正義は、街や都市や国家の統治にかかわる、法と権力をつかさどって支配する神の属性であり、しばしば都市の神や軍神に付帯しています。
こうしたことをふまえて、現代社会の現代生活にどのようにこの概念が息づくかということを考えると、問題のいろんな切り口が見えてくることでしょう。
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信念です。

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>正義とは何でしょうか?



プロテスタントのクリスチャンで、モルモン教、エホバの証人、統一教会とは関係がございません。かって「聖書に帰ろう」という運動を始めたマルチンルターの考えを受け継いでおります。

ご質問者さんはこのような者が回答をしてくると期待はしていなかったと思いますが、クリスチャンとしてのお答えは以下の通りです。

もしいまご質問者さんが周りの雑音から遠ざかって、つまりご自分の心を探ってみたときに、ご自身でかく在りたいと願っている姿が、正義を行っているご自分だと思います。なぜなら、人は本来善なる存在で、放っておけば自然と善を行い、その結果は正義を体現しているはずだからです。人はしなければならないことが出来るとき自由があります。なにか自分の欲望に振り回されている時は発音は似ていますが、放縦に流されているだけです。人は自由を自分に打ち勝つときに体現出来ますし、同時に正義を体現できます。なぜかしかし現実を見たときに私どもは正義を体現できないでおります。おそらく私どもが真理を知ることがなかなかできないからではないでしょうか。

真理、正義、自由、善、などという言葉は相互に関連しておりまして、それは私どもが意識せずに、心から望んでいる事柄です。聖書に以下のような言葉があります。

(ヨハネ14:6)イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

もし私どもが真理を知ることが出来るならば、つまりイエスを知ることが出来るならば、私ども正義や自由や善を体現できると思います。するともはや私どもは「正義とはなんぞや」と尋ねることもなくなります。その時には正義を実践しているからです。
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尺度です。

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人の生きる目的は、精神的充足量の人生を通算した最大化であり、その意味でプラスかマイナスかだけが、価値観であるべきところ、その認識能力の低さによって、意識が短絡的になったり自己中心的になったりする。


それを社会生命としての淘汰圧により、社会的な補正が加わる、それが正義や善悪といった他律的“価値”である。
過去、私が「善悪」について記した文章があるので、長文だが引用したい;

悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。

その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。

そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。

それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。
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