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正義:社会全体の幸福を保証する秩序を実現し維持すること。
プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、
アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。
近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。
これを単に形式的なものとみるマルクス主義は真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張する。
現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正を軸とした「公正としての正義」を提唱。(広辞苑)

「正義」というものは言葉で定義することはそれほど難解ではないかもしれませんが、現実と照らし合わせてみるととても難しいと言えます。

1.「正義などない」という言論がありますが、これはどういう主張だと思いますか?

2.「各人の欲望の追求が、よい社会を作る、つまり、正義である、という言論がありますが、これはどういう主張だと思いますか?

3.正義とは何ですか?それは、どうすれば実現すると思いますか?

A 回答 (12件中1~10件)

オマケです


国家は国家運営に対して最も重要なのキーワードである「公共の福祉」を定義していません
その理由については不明ですがそれによって様々な解釈がなされています
その中には質問内容にある正義についての解釈が含まれていることから
大きなくくりとしての「公共の福祉」の中にそれぞれ正義が含まれているということかもしれません
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この回答へのお礼

なるほど。

お礼日時:2023/04/28 09:22

1、その通りだと思いますよ


2、詭弁だと思いますよ
3、到達不可能な理想を求める姿勢や行動かなぁ~
あくまでも、姿勢や行動であって
その理想は正義ても何でもないと定義しますけどね
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この回答へのお礼

理想は、正義であるところに意義があると思います。

お礼日時:2023/04/26 12:46

直接の回答ではないのですが、ニャンポコさんに見て欲しいと思う動画があります。



これです。
数学者の書いた本についての概説動画なのですが、

善行を為すことが情緒を育む。基礎は人の悲しみが分かる事、という感じのことを言っています。
教育の問題についても言及していて、これは正義の話にも間接的に関わってくると思えました。
声を大にして言う事ではないのかもしれませんが、聴いて欲しい事柄であります。
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この回答へのお礼

岡潔については、興味があり実はこの「春宵十話」は購入しています(まだ読んでいません)。動画も後で見てみます。

お礼日時:2023/04/26 12:44

質問者さんのご指摘についてはわかりかねます


それはそれとして正義は個人もしくは所属している組織の基本的な考え方等につ基づく事からそれぞれが抱く正義が相反する場合がありそうなるとそれがトリガーとなって当事者間で争いが生じる事があります
それは国民を統合する国家にとっては望ましいことでありません
それを避けるには個人もしくは組織には対して個人的な視点だけでなく全体的な視点をもたせるようにする事で全体的な考え方等をもたせるようにする事です
それが国家が「公共の福祉」という言葉を重視している理由でしょうね
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この回答へのお礼

なるほど。

お礼日時:2023/04/26 12:42

悪い心を止められた場合は良いですが、それが発露して悪が起こり害が出た時に、正義はどうあるべきでしょう。

そこら辺の振る舞いが、非常に微妙でいつも迷います。古い仏典には、怨みは堪え忍ぶことによって息む とあります。しかしそれは、忍耐の究極とも言え、それが出来る人はもう聖者だと思います。

普通人は、起こった悪は、正義の力で征圧することを考えるでしょう。そうして戦争はずっと終わらない。
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この回答へのお礼

うむっ。

勿論、罪を科し、その後反省を期待する社会的制裁は必要ですが、再犯率が高いという現実があり、故に社会的に抹殺してしまえという感情は日増しに増えていると思います。

その激しい感情から悪を成した人間を正義は守るべきだと思う。

生命には至高の尊厳があると考えるのが仏教の結論の一つであると思う。

人間を軽んずる、憎む、嫉妬する、恨むということは、悪いことであるとも仏教では教える。

それは、そういった心が必ず相手に通ずるからであり、通じてしまえばこの心同士が対立してしまうから悪いのであるという面もあると思う。

そういう心の対立は世界各地にあり、日本でも甲斐と越後の精神的対立はかなり後世まで残っていたと言います。これが戦争がなくならない原因でしょう。

「罪を憎んで人を憎まず」という名言がある通りだと思いますが、現代の感覚では不可能に思えます。
現代では、容易に人を憎みます。何もしていなくても憎みます。これは極めてヤバい状態でしょう。

文化化、常識化すれば、いいわけです。

お礼日時:2023/04/22 08:26

引用:覚悟ができたときが、人生のいよいよの本番のスタートではないだろうかと思います。



なるほど遅きに失した感は我ながらありますが。

おそらく、他人や自己の過ちから、他人や自己を守れるのかと言うところが焦点だと思います。
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この回答へのお礼

人間の過ちは、哲学的誤りと「執着」などの「悪い心」から生まれると思っています。

お礼日時:2023/04/21 07:36

質問の趣旨に反する回答ゴメンナサイ


それはそれとして
国家が国家自身や国民に対して課した正義を記したのが日本国憲法でしょう
ですが日本国憲法に「正義」と言う言葉は全く使われてはいません
前文の内容を鑑みるれば少なくとも前文には「正義」と言う言葉が使われても不思議ではない
にもかかわらず「正義」と言う言葉を用いていないのは「正義」が個人もしくは組織の思想等に基づく事から「正義」と言う言葉の受け止め方個人・組織毎に異なるので国民を統合するに好ましいとは言えないからでしょう
因みに日本国憲法で正義の代わりにとして使われている言葉それは「公共の福祉」と言う言葉でしょうね
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この回答へのお礼

敗戦直後の日本においては、あらゆる権威が失墜したと言います。
終戦直後の混乱は凄まじいものであったと言います。

その状態の日本において「正義」という言葉は国民に受け入れられないだろうという配慮だったのではなかろうか?

お礼日時:2023/04/19 21:03

人間性の成熟についてなのですが、何処まで行けば成熟なのでしょうか。


「生きる」という映画を見ました。
つまり、覚悟した時、人が出来たといえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>人間性の成熟

仏教の十界論はご存じだと思うのですが、菩薩・仏を基礎とする状態になることが、それであると考えます。
基礎とする状態と言うのは、十界の中を揺れながらも、結局戻るところ、と言う意味です。

菩薩・仏というのはどういう状態なのかと言えば、知性高く、心広く、信念強く、情熱があり、希望を持ち、慈愛に満ちて、人の為、社会の為に行動してゆく状態、ということだと思います。

別にお金を稼いだっていいでしょう。そのお金で豊かさを楽しんだっていいでしょう。それも、人生の幸せの内ですから。

しかし、それを得るためには「修行」が必要なのは道理でしょう。ま、この言葉ほど現代になじまない言葉はないのかも知れませんが。

「先ず、臨終のことを習うて後に他事を習うべし」(日蓮)、とあるように、人生が有限であり、必ず死というものが人には訪れるのだ、ということを「分かる」ことが、「生きる」覚悟を促す最大のものであると思います。

覚悟ができたときが、人生のいよいよの本番のスタートではないだろうかと思います。

お礼日時:2023/04/19 09:36

「正義」という言葉は、キリスト教的価値観に


毒された言葉だ。

馬鹿の一つ覚えの「勧善懲悪」。

唯一神教的価値観に毒され、「真理は一つ」と
錯覚する。

NO3様の指摘のように、「正義」は、無数にある。

その意味では、キリスト教的価値観の正義は、
まさしく、存在しない。
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この回答へのお礼

「勧善懲悪」は寧ろ日本の文化の中に強くあるのではないかと思う。

時代劇やアニメの中で描かれた単調な善悪観が、今の時代に強烈に反映されているように思う。

悪を押し付ける正義。しかも弱者に。強者には尻尾を振る。最悪だ。

お礼日時:2023/04/18 22:22

1.正義はヒトの数だけあるということ。


2.中身のない抽象的正義論のひとつ。
3.妥協なき正義の追及は戦争を覚悟し、実際に戦う必要が生じやすい。正義の実現とは敵対する正義を破壊し尽くすことにある。そして実現した正義の社会の中で、正義が分裂し、再び殺し合いが始まる。
正義を追求する世界とは、憎悪と破壊の連鎖を永遠に続ける世界のことだ。
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この回答へのお礼

正義が人の数だけあるということは、自分の欲望が唯一の正義であるということになりますね。

これが基準になって、自分の欲望の充足が一人ではできないということから、様々な枠組みの中でそれを充足しようとする。それが、枠組みの正義(国家など)になり、それを唯一の正義とすると、まず争いが起きることになる。

そういう争いに「正義」のラベルを貼り、正義の旗を掲げてきたから、人々の正義観はいまだにそういうイメージがあるが、そんなのは正義でも何でもないのです。

枠を広げられないで執着していることに他ならない。その原因は、先に申し上げた「人間性」の問題であると思う。

お礼日時:2023/04/18 22:17

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