dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

なんだか訳のわからない題ですが、これは何かといえば、私が「善は公(みんな)の為にある」と言えば、公とは一体誰のことを指しているのだとよく質問があります。そこで私は「公は問題により決まります」と説明しますが、皆さんには、なかなか理解してもらえませんので、それを今回は詳しく説明してみましょう。

「善とは公の為である」とは何を言っているのか。善、つまり正しいとは問題があるから必要になります。何も問題がないなら正しい、正しくないなんて全く必要はありません。ゆえに善悪(正しい、正しくない)は問題に対してのものだと分かります。ですから「善とは公の為である」は「ある問題に対しての善、正しい答えとは公の為になる答えである」と言っているのです。簡単に言えば「(問題に対して)正しいとは公(みんな)の為になる答えだよ」と言っているわけです。

そもそも問題とは何か、それは解決しなければならない課題です。一般的に言って問題とは困った問題が多い。そして、もしその問題をうまく解かなければ大きな不利益を蒙ることがあります。公とはその問題を共有している人たちを言います。もし問題をうまく解決できなかったならば不利益を蒙る人たちが公(みんな、仲間)なのです。

問題は世界の問題、日本の問題、家族の問題などいろんな問題がありますが、その問題は誰の為にあるかと言えば、世界の問題は世界の人たち(公)の為にあります。日本の問題は日本国民(公)の為にあります。そして家族の問題なら家族(公)の為にあります。このように公は問題により変化し、公は問題により自然と決まってしまいます。誰かが公はこれだ!と決めることはできません。
もっと詳しく言えば、地球温暖化問題を失敗すれば大きな不利益を蒙るのは誰でしょうか、もちろん世界の人々です。そうであれば地球温暖化問題の公は世界の人々になります。また日本の消費増税問題を失敗すれば大きな不利益を蒙るのは誰でしょうか、もちろん日本国民みんなです。ゆえに消費増税問題の公は日本国民になります。またお父さんが失業したという家族の問題はどうでしょうか、この問題をうまく解決しなければ大きな不利益を蒙るのは家族みんなです。ゆえにこの問題では家族みんなが公になります。このようにある問題をうまく解決できなければ不利益を負い、責任を取らねばならない人達が公となるのです。責任を取らない人たちは公には含まれません。もし問題をうまく解決できなければみんなで責任を取るのです、それが公であり仲間です。

このように公は問題により決まります。公を固定されたものと考える人もいますが、それは間違いなのです。公は問題により変化するからこそ小さな問題から大きな問題にまでいろんな問題に対応できるのです。それで基本的に「善は公(みんな)の為にある」などと表現しているわけです。公とは小さい集団から大きな集団まで広く表せる便利な言葉なのです。この言葉を使わずに多くの問題を一つで表現することはなかなか難しいのです。しかし「公」を使えば世界の問題から家族の問題まですべての問題を一つのフレーズで表せるのです「善とは公の為である」と。

そしてまた、公とは仲間を言います。ある問題が発生したときには問題をうまく解かなければ皆さんに大きな不利益が生ずるのですから、どうしても正しい答えを出さねばなりません。ですからみんなが協力して仲間となり一致団結して問題に当たらなければなりません。その時、最も優れた方法(絶対善)が「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。これこそが絶対的なのです、これ以上に正しい方法は在りません。
皆さんが誤解していることは、ある一つの問題に対して「いくつもの公」が生じると考えていることです。ある問題に対しては公は一つです。例えば沖縄からグアムに米軍が撤退する問題を考えてみます。この時米軍が日本から撤退する問題は沖縄だけの問題ではなく日本全体の問題ですから公は日本国民になります、沖縄が公になることはありません。どうしても沖縄を公とするなら日本国民は仲間ではないということになります。沖縄だけ良ければ日本国民などどうでもいいと考えるのであれば、もう沖縄は日本の仲間ではありません。仲間とはみんなで安心して暮らせるように協力している人たちを言うのです。

また世界各国の国民の生命財産を守る事は各国にとって絶対善です。その各国の絶対善がぶつかり合ったときにはどうなるか?と言えば、各国の紛争の問題は世界の問題となりますから世界が公になります。例えばドイツが他民族であるユダヤ人を虐殺する問題はドイツが公ではなく世界が公になります。本来、常識的に考えてドイツ人とユダヤ人を同じ仲間、公としてユダヤ人を虐殺してもいいとドイツ人が勝手に結論を出すことなど許されるはずはないでしょう。絶対善は「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」ですから世界のみんなで考えれば本来「ユダヤ人を虐殺することは世界の為なのだ!」なんて答えがでるはずはありません。
しかし善は人それぞれであるという相対主義であればドイツ人の考えたことが絶対善なのだと考えてユダヤ人虐殺に走ることが出来るのです。相対主義は自分の考えこそが絶対善であり自分こそが神なのです。このように相対主義は独裁的です。

しかし善的絶対主義は自分が考えたことが絶対善ではなく、みんなで考えたことが絶対的に正しい(絶対善)となります。ですから善的絶対主義は民主主義的だと言うのです。相対主義者は「絶対善はある」と考えていたソクラテスに完全に論破されたのです。何故その歴史的事実を認めないのですか。相対主義では正しい答えは絶対に出せません。

このように公は問題により自然と一つに決まってしまうのです。「善とは公の為である」の公は色んな問題に対しても一つのフレーズで表せる便利な言葉なのです。公という言葉が気に食わないというのであれば、公という言葉を使わずにいろんな問題に対応できる言葉があれば教えてください、それを使って善を表現しますから。

このように考えましたが公の意味について理解できないところはありますか?

質問者からの補足コメント

  • 絶対善は公の為である、を例えればお父さんが家庭においてタバコを吸うのは正しいのかという問題が出た時、絶対善はお父さんも「絶対たばこは止めない」と言う私欲を抑えて家族の為と考えなければなりません。その結果、家の中ではタバコはダメとなれば、お父さんはいやであろうが家族の為にと我慢して家ではタバコを吸わないようにするでしょう。
    仲間であれば自分にとって悪い結果が出てもそれが最も正しい答えなのだから妥協できるのです。この時「家族のことなどどうでもいい、俺は家でもタバコを吸う」なんていえば、それはもう仲間ではありません。仲間であればみんなで話し合った結果が嫌であってもみんなの為だからと妥協できるのです。

      補足日時:2019/04/25 19:21

A 回答 (26件中1~10件)

これを矛盾といわないで何という物か、ソクラテスは欧州人ではないのか? ギリシャ哲学を肯定しながら、モンテスキューは否定する、大体その絶対性を否定するのが近代民主主義の根幹思想なので、人間に絶対性などないというものがその出発点なので、その理解できたとする他人とやらはは、明らかに賢者ではないし貴方のような面倒くさいのを相手にしたくないから受け流しているだけ、私は大悪で結構、だが貴方は本物の巨悪と必ずなる、それこそが歴史の絶対性だから、人間善行をなそうとせず、善そのものを成そうとする、また自分がそうだというとち狂った人間だけがうん百万、うん千万という人数の人間を殺せるのは歴史の苦い教訓なので、はあ孔子ですか忠考節と口うるさすぎて嫁にすら逃げられた爺の言説、その教えにそのものが今となっては何の価値があると、大体あれ国の根幹に据えた国で、その後雄飛した国一つもないし、貴方いいところ東学党の乱か麻原だね末は、社会に不満を募らせたこの手の輩は必ず治世に乱を起こしますから、貴方が過激思想を持ってニュースの連日を飾る日を楽しみにしています、最後に孔子には劣るであろうが貴方よりは知恵があるだろう私がお教えしましょう、その場合で最も正しい用法としては「当事者」ですね、貴方の文章全体からにじみ出ているのは、その「絶対性」を己で作り出したいという執念だけで、どこまで行っても人は人、その内在する矛盾は解決できない物だという、ある意味でのルネッサンス期の、人間性賛美からかけ離れている、その点でギリシア哲学の引用はやめた方がいいですよ、貴方の自分が賢人だといわんばかりの貴方自身が否定している、独善という物を近年貴方ほど感じた例も珍しい、がんばって治世に乱を起こせるように活動することですね、もちろん私が生きている限りは貴方のようなのが体制側になるような事態には例え老骨にむち打って、ゲリラになろうがバルチザンになろうがそれこそ絶対の抵抗をして見せます。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ギリシャ哲学を肯定しながら、モンテスキューは否定する、大体その絶対性を否定するのが近代民主主義の根幹思想なので、<

別にギリシャ哲学を全面否定はしておりませんが、一神教を基にした非科学的思想から早く脱しなければなりません。神は何も与えていません、権利も自由も自分たちの力で作っていくものです。

>はあ?孔子ですか忠考節と口うるさすぎて嫁にすら逃げられた爺の言説<

あなたが孔子を否定しようが世界の三大聖人には変わりありません。孔子の言うことは人間の本質ですので普遍性があります。

>貴方の自分が賢人だといわんばかりの貴方自身が否定している、独善という物を近年貴方ほど感じた例も珍しい、がんばって治世に乱を起こせるように活動することですね<

私は志賀島で金印(絶対善)をたまたま見つけたただの農夫です、農夫なのです。私の言う絶対善は「私欲を抑えてみんなの為にみんなで考えよう」ということであり、理想の民主主義であり世界を平和にするものです。現代の相対主義こそが「俺には俺の正義がある」という考えこそがヒトラーを生み、悪いやつらが跋扈した野蛮な時代だったのです。相対主義者たち(ソフィスト)たちは絶対的なものはあるとしたソクラテスにコテンパンにやられました。相対主義は間違いなのです。

>私が生きている限りは貴方のようなのが体制側になるような事態には例え老骨にむち打って、ゲリラになろうがバルチザンになろうがそれこそ絶対の抵抗をして見せます。<

老骨にむちを打たなくていいですから、無知であることを知ってください。ゲリラになる前に私の絶対善を論破してください。

お礼日時:2019/05/01 06:28

#24です。



>またある人は俺はTPPをやれば儲かるが、TPPは日本の主権を奪われることだから日本の為にはならないと思うから反対だと言った。このように自分の私欲ばかりを考えず日本の為になるのはどっちか?と皆さんが考えなければなかなか正しい答えには辿り着けないのです。

俺はTPPをやれば損するがTPPは世界のグローバル化にとって必要だから、賛成だと言う人もいると思います。
「私欲」と言ってもすべて金絡みというわけじゃないのです。
最も強力なのは、信念じゃないですかね。
そして、信念も私欲なのですよ。
また、TPPの場合の公は世界なのでは?
つまり、あなたの説によるなら、日本はTPPをやれば損するがTPPは世界のグローバル化にとって必要だから賛成だと言う理屈も、検討されるべきなのですよね?

このように自分の私欲ばかりを考えず日本の為になるのはどっちか?
あるいは、
自国の私欲ばかりを考えず世界の為になるのはどっちか?

と考えれば良いと言っても、結局は信念同士のぶつかり合いになるわけです。
日本のためであっても世界のためであっても、『私欲ばかりを考えず』だけでは何の解決にもならないでしょう。
私欲と公とのバランスが必要なのではないでしょうか。
この場合、
「(問題に対して)正しいとは公(みんな)の為になる答えだよ」、
あるいは、
『私欲ばかりを考えず』
とだけ言ってもあまり意味はないのではありませんか、ということを申し上げています。
いずれにせよ、言いたいことはお互いに言ったようですので、今回はこの辺で引き下がっておいたほうが良いかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>つまり、あなたの説によるなら、日本はTPPをやれば損するがTPPは世界のグローバル化にとって必要だから賛成だと言う理屈も、検討されるべきなのですよね?<

善は基本的に仲間でなければなりません。敵に思いやりをやれば自分たちは滅びます。残念ながら世界は仲間ではなくどちらかと言えば敵です。絶対に仲間、家族にはなれません。ですからこの場合世界を仲間としたら日本は衰退します。他国もすべて自国の利益を最大にするため協議をします。そこに日本だけ私欲を抑えて公の為なんてやったら一人負けです。TPPは世界が公にはなりません。グローバル化したEUはドイツの一人勝ちです。本当にグローバル化は公の為、世界の為ですか? アメリカやドイツなどの強い奴らの制度を世界に広げようと言う政策ではないのですか。


>『私欲ばかりを考えず』だけでは何の解決にもならないでしょう。私欲と公とのバランスが必要なのではないでしょうか。<

何度も言いますが最も良い答えを導くためには一人一人が私欲を抑えて公の為を優先しなければ正しい答えにはなりません。私欲半分公の為半分なんてみんなが考えていたらいい加減な答えしか出てきません。電車で妊婦さんに席を譲るにしても私欲半分相手半分では席は譲らないでしょう。私より公を優先する思いがなければ席は譲れないのです。疲れている、自分も座っていたいと言う私欲を抑えて妊婦さんの為にと考え席を譲るのです。

お礼日時:2019/04/30 19:56

#22です。



>皆さん皆に完全に私欲を捨てて・・なんて考えるのはよほどの馬鹿ですよ。私たちは聖人じゃないんだからそんなこと考える方がおかしいでしょう。

まったくそのとおりと思います。
しかし、これは、

最も優れた方法(絶対善)が「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。これこそが絶対的なのです、これ以上に正しい方法は在りません。

というご主張とは矛盾していますよね。
『完全に私欲を捨てて・・なんて考えるのはよほどの馬鹿』なのですから、「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」も馬鹿なことになってしまう。
言葉尻を捉えているわけでも屁理屈でもありませんよ。
極めて重要な核心について述べています。
つまり、「完全に」じゃなくて良いなら、どの程度捨てれば良いのか、ということについての言及がなければ、『最も優れた方法(絶対善)』とは言えないのではありませんか、ということを申し上げている次第です。
「みんなで考えること」といっても、その「みんな」は「同じ公」に所属しているわけですから、「公の為」に対する認識が、それぞれで異なるのは普通にあることでしょう。
基本的に、あなたの考え方は好きですよ。
ただ、こういった点について、もう一掘りをぜひしていただきたいところ。


h:本能の一部が超自我に替わることで人間として宿命づけられた
s:これを皆に分かるように例など示してくださいよ。私はいつも「例えば・・」とたとえ話をして少しでも分かってもらおうと書いている。あなたももう少しみなさんに分かるように書いたらどうだろうか?

分かりづらいとは、よく言われますね。
それなりに気をつけているつもりですが、まあ、文才が無いのでしょう。

人間の祖先は魚であったという説がありますよね。
真偽はさておき、私は進化論を一応信じているので、人間は少なくとも動物から進化した生き物だろうと考える立場です。
ここで、動物と人間の違いは何かと考えた場合、動物は本能のみに従って生きているという点ではないかと思います。
しかし、進化の過程で、ある動物に超自我というものが芽生えて(具体的には前頭葉が変化したのだと思いますが)、本能のみに従って生きているのではない動物が出来た。
本能100%だった動物の中から、本能〇%・超自我〇%の生き物ができた。
それが人間、ということを申し上げた箇所です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>『完全に私欲を捨てて・・なんて考えるのはよほどの馬鹿』なのですから、「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」も馬鹿なことになってしまう。<

どのように説明すればいいのでしょうね。例えばTPPなどで貿易の自由化は儲かるので俺は賛成だという人がいる。いや俺は損するからTPPには反対だという人がいる。こういう私欲ばかり主張していれば国民みんなにとっての正しい答えには辿り着けません。またある人は俺はTPPをやれば儲かるが、TPPは日本の主権を奪われることだから日本の為にはならないと思うから反対だと言った。このように自分の私欲ばかりを考えず日本の為になるのはどっちか?と皆さんが考えなければなかなか正しい答えには辿り着けないのです。

お礼日時:2019/04/29 21:41

一般的に親族内の問題は「公」と定義しません。


それにうんなギリシャ哲学者が今更どうのこうのいわれたとしても、哲学自体もその後大分進化したので、それそのものが「絶対性」を持ちません。
貴方こそ近代民主主義の根幹たる自然権としての自由権の概念を無視しています。
それこそ歴史という物をねつ造無視しないでください。
多数決での採決の結果が絶対の善とも誰も言い切れません、より間違いを犯しにくい手法だというだけです。
大体貴方の理屈はひどく矛盾しています、多数決「公」を絶対の善とするのなら、ナチスドイツはユダヤ人をホロコーストしてもいいことになります。
では国連総会安保理決議で多数を取れば、何かしらの理由でホロコーストしてもよいとでも?
貴方の公の定義は全く私には理解できませんし、多分ですが圧倒的に理解できない人間の方が多いでしょう。
私は例え家族にたばこをやめろといわれたとしても、分煙等に努力するだけで健康を害す等のそれこそ絶対の理由を持ってこられない限りやめません。
一般的な人間は法律で認められている、仲間、友人の喫煙に対し何の根拠も無しに強制力を持って停止させられません。
そんな人間から私は仲間扱いされなくても、村八分にされようと私は本望です。
上記の理由を持って貴方とは私は対極の立場を取るので、貴方に賛意など求めるつもりなど毛頭ありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>一般的に親族内の問題は「公」と定義しません。<

勿論、いろんな問題を一つの文章で表すことは難しいから当てはまらないものもあるかもしれません。ですから公(みんな)と書いています。家族みんなです。

>貴方こそ近代民主主義の根幹たる自然権としての自由権の概念を無視しています。<

私は絶対善を知らない西洋人が考えたものは信用しません。また非科学的なキリスト教を基にした自然権、自由権も信用しません。

>多数決での採決の結果が絶対の善とも誰も言い切れません、より間違いを犯しにくい手法だというだけです。<

私もそのように言っています。絶対善とは絶対的に正しい結果を出すものではなく最も素晴らしい結果を出せる確率が最も高い方法を示しています。


>大体貴方の理屈はひどく矛盾しています、多数決「公」を絶対の善とするのなら、ナチスドイツはユダヤ人をホロコーストしてもいいことになります。<

だからこれは世界の問題でしょ? ですから世界の人に関係する問題は世界を公として世界のみんなで考えなければならない問題なのです。世界の人で話し合えばユダヤ人虐殺は正しいとなりますか?ならないでしょう?


>では国連総会安保理決議で多数を取れば、何かしらの理由でホロコーストしてもよいとでも?<

勿論そうなりますよ。それが本当に論理的であり世界の為ならね。例えば国際連盟は


>貴方の公の定義は全く私には理解できませんし、多分ですが圧倒的に理解できない人間の方が多いでしょう。<

今まで絶対善などないと言われてきたのですから仕方ありません。コペルニクス的転回ですからね。私は天動説の世の中で地動説を主張しているのです。なかなか理解されないのは分かります。しかし賢人の人は直ぐに分かってくれました。


>私は例え家族にたばこをやめろといわれたとしても、分煙等に努力するだけで健康を害す等のそれこそ絶対の理由を持ってこられない限りやめません。<

あなたも読解力のない人ですね。誰もやめろとは言っていません。

>上記の理由を持って貴方とは私は対極の立場を取るので、貴方に賛意など求めるつもりなど毛頭ありません。<

小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり。あなたはまだ孔子の言う言葉を理解する能力がないのです。私はあなたより孔子が賢いとみます。

お礼日時:2019/04/29 21:30

#19です。


私の表現力の問題もあるのでしょうが、文面でのやりとりは難しいですね、今更ですが。

>あんたも矛盾したことを言うね。私欲を抑えるなんて絵に描いた餅と言っておきながら、彼も我であるなんてできないことを要求している。それはみんなに悟れと言うことですか?

他人に強要するつもりはありませんが、それが真理を構成している要件のひとつだと思うということを、聞かれたので答えたまで。
また、『矛盾こそが人間を人間たらしめているのではないか』ともすでに申し上げているところです。
『私欲を完全に抑えるなんて絵に描いた餅』とは言ったかもしれませんが、『私欲を抑えるなんて絵に描いた餅』と言った覚えはありません。
大事な点ですので押さえていただきたい。
「強くなければ生きていけない、強いだけでは生きている価値がない」
みたいなセリフが昔あったと思いますが、
「私欲がなければ生きていけない、私欲だけでは生きている価値がない」
ということです。
あなたの絶対善のように『私欲を完全に否定する』という無理を前提にしてしまうと、善のつもりが善でなくなってしまう、ということでもあります。


h:一般の動物と異なるのは、本能の一部と引き換えにする形で超自我性をアプリオリに備えてしまっている、という点でしょう。
s:何を言っているのか全く分からない。本能を引き換えにして超自我?なんのこっちゃ。あんたも実は分かってないで書いているのでしょう?

動物は本能のみ。
人間も動物ですが、本能の一部が超自我に替わることで人間として宿命づけられた、という切り口です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>あなたの絶対善のように『私欲を完全に否定する』という無理を前提にしてしまうと、善のつもりが善でなくなってしまう、ということでもあります。<

皆さん皆に完全に私欲を捨てて・・なんて考えるのはよほどの馬鹿ですよ。私たちは聖人じゃないんだからそんなこと考える方がおかしいでしょう。国民に対して「人を殺してはなりませんよ」教えるにしても殺人はなくならないだろうと知っているがそのように表現するしかないだろう。屁理屈を言うなら話にならない。


>本能の一部が超自我に替わることで人間として宿命づけられた<

これを皆に分かるように例など示してくださいよ。私はいつも「例えば・・」とたとえ話をして少しでも分かってもらおうと書いている。あなたももう少しみなさんに分かるように書いたらどうだろうか?

お礼日時:2019/04/29 06:49

長すぎて読めませんが 問題は多いです。

生まれ出悩みです。個人的な問題、集団の、国の、世界の問題等。

問題を説けば光が見える 存在が実現する時には問題を解いて存在するのが良いのです。
    • good
    • 1

▲ (五箇条の御誓文) 広く会議を興し、万機公論に決すべし。

    • good
    • 1

#17、#18です。



>ですから、できれば少しでも私欲を抑えて公の為と考えなさいと言っているわけです。

やっとここまで辿り着いたという感じがします。
それなら同意できますよ。
『できれば少しでも(私欲を)抑えて』なのですから、今までの、
『私欲は忘れて日本国民みんなの為と考えなければ正しい答えにはなりません。』
「善は公(みんな)の為にある」
といった「絶対善」の概念とは異なるでしょう。
今までの「絶対善」は「私欲」を完全否定する形になっているため、無理筋になってしまい、絵に描いた餅と化す可能性が高すぎるのではないか、ということでもあります。

>ですからそのような考えではうまくいかないから絶対善を考えたのでしょう。絶対善が出来ないと言われればそれまでです。正しいものがあるのにできないと言うなら諦めるしかありません。何の進歩もない国民です。

なぜ『うまくいかない』のでしょう?
その点を考察しないと、何をしてもまたうまくいかない結果に終わるでしょう。
そもそもですが、考え出された善は善ではないはず。
善は元々存在するものであり、どのようにすればそれを認識できるか、ということかと。

>私たちの場合、道で困っている人がいる、しかし自分も急いでいる、自分のことを優先させたいと言う思いもあるが、やはり相手のことを考えれば助けずにはいられないと言うのが我々凡人の善です。

『助けずにはいられない』と嫌々思うのですか?
違いますよね。
おっしゃったところの、『その自分の気持ちよりも相手の気持ちをより優先する心=善なる心』は嫌々生まれるものではないでしょう、と申し上げているところです。

>私の言う正しさはみんなで妥協して決めたことが正しいと言っているのに何故それが独善なのですか?

「困った問題」だという認識が無ければ、妥協の必要すら感じないわけですから、その時点ですでに独善になってしまう、と申し上げている。
「善は公(みんな)の為にある」だけでは、この点を解決できないのではないか、ということです。

>しかしそんなことは我々人間の知恵では分かりませんよ。そんなものを考えて一生を終えるのはバカげたことです。正しいとは何かも分からないくせに空虚なことばかり考えているから「哲学など何の役に立つのか?」と言われるのです。

まあ、それは一理あるかもですね。
特に否定はしません。
一応、それなりに役に立つと思っている部分を下記に再掲しておきますので、気が向かれましたら目を通してやってください。

「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」という真理を思い浮かべることで、正しい選択への指標が感得されるように思うのです。
そこから「適度の善」が生まれるだろうとも思います。
本能と超自我性のバランスを持った善、と言っても良いかもしれません。
そこに無理は生じません。
その意味で「絶対」と言えるような気もします。

>善は本能的正しさであり、正しい、正義が理性的正しさである。

『一般の動物と異なるのは、本能の一部と引き換えにする形で超自我性をアプリオリに備えてしまっている、という点でしょう。』と申し上げましたが、善は考えて行われるものではない、ということですよね。
「公(みんな)の為」という絶対善は生まれながらにして人間に備わっているものだ、ということですね。
概ね同意できます。
shinwoodさんも、人間に「私欲」が必然として備わっていることはお認めになっておられると思います。
この場合、「公(みんな)の為」と「私欲」のせめぎ合いが生じるのも必然でしょう。
同じ一人の人間の中にある対立軸なので、何の理由も示さず、一方の「公(みんな)の為」だけの手を取って、こちらが善だ! と言っても、その人が納得することは難しいような気はします。

因みに、蛇足ですが、超自我は本能とは対極の概念で、善悪の判断に関与するとされる心理領域のことを指します。
本能を抑圧するというのが主たる作用です。
この本能と超自我のバランスをとって「自分」というものを社会に対して表明するのが自我という構図。
ややこしくなるので大雑把に注釈だけさせていただきました。
聞き流していただいて構いません。

またしても長くしゃべり過ぎたような気がします。
今回は、一応、この辺で引き下がったほうが良いかもしれません。
特にお答えすべき点がございましたらご指摘くだされば有難いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>やっとここまで辿り着いたという感じがします。それなら同意できますよ。今までの「絶対善」は「私欲」を完全否定する形になっているため、無理筋になってしまい、絵に描いた餅と化す可能性が高すぎるのではないか、ということでもあります。<

馬鹿ではないのか。私は最高、絶対的な善を語ってきたのであるから理想を表現しなくてどうするのだ。またみんなが私欲を持っていたら正しい答えには辿り着けないと言っているではないか。何を言っているのか、正しい答えを出すためには私欲を抑えて公の為と考えなければ、いい加減な答えしか出てこない。そんな答えは平凡な答えであり大悪を招く、何を甘えたことを言っているのか。


>「みんなの為」と言う人によって都合よく変更できてしまうのが難点でしょう。<

何度言っても分からない人だ。公は問題により決まり人がどうこうしようとできないと言っているではないか。問題に関係している人たちが公だと言ってるだろう。


>一般の動物と異なるのは、本能の一部と引き換えにする形で超自我性をアプリオリに備えてしまっている、という点でしょう。<

何を言っているのか全く分からない。本能を引き換えにして超自我?なんのこっちゃ。あんたも実は分かってないで書いているのでしょう?


>『その自分の気持ちよりも相手の気持ちをより優先する心=善なる心』は嫌々生まれるものではないでしょう、と申し上げているところです。<

仕方ないでしょう、人間には理性が在るのですからいやだな~という思いも出てくるのです。あなたにも理性はあるでしょう?


>「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」という真理を思い浮かべることで、正しい選択への指標が感得されるように思うのです。そこから「適度の善」が生まれるだろうとも思います。<

あんたも矛盾したことを言うね。私欲を抑えるなんて絵に描いた餅と言っておきながら、彼も我であるなんてできないことを要求している。それはみんなに悟れと言うことですか?


>超自我は本能とは対極の概念で、善悪の判断に関与するとされる心理領域のことを指します。本能を抑圧するというのが主たる作用です。<

何言ってんの、善、良心とはみんなが持っている本能である。本能を抑制するのは理性です。理性には悪い理性と善い理性が在るのです。以上、もうこの辺で終わりにします。

お礼日時:2019/04/28 19:58

#15です。



>ですから地震もなく一番地盤の安定しているところに処理場を建設しますと約束して地質調査をすればいいのです。その結果一番いいところに決めればいいのです。もし東京が地震もなく一番地盤がしっかりしていれば東京になるかもしれませんよ。

本気でおっしゃっておられるなら、極めて認識が甘いと思います。
危険なものを他に押し付けることはあっても、自らそれを引き受けようなどと考える為政者が今の世にいるとは思われません。
家族を福島に住まわせ毎日福島産の野菜や魚介類を食べさせるだけの度量が、今の政治家連中にあると思われますか。
いずれにせよ、誰にとって一番いいところなのか? ということ自体は、善に直結してくる課題なのですから、それで決めればいい、と言うだけでは論になりません。

>席を譲るにしても「自分も疲れている、座っていたい」と言う気持ちはあるでしょう。しかしその自分の気持ちよりも相手の気持ちをより優先する心それが善なる心です。皆さんが聖人君子ではないのですから。それでも相手を思いやり席を譲る心があることが大切なのです。

席を譲る人は嫌々譲ってるわけではないですよ?


h→自分の善が絶対というのではなく、相互に切磋琢磨することでより良い善を探っていく姿勢が必要になりそうな気がします。
s→これは私の言う善と同じでしょう。みんなが関係する問題で自分が絶対だと考えるのが相対主義者です。そうではなくみんなの為になる答えこそが絶対的に正しいと考えみんなで話し合って決めると言うことです。
:
あなたがおっしゃる『みんなの為』は、場合によって異なるのですよね。
なので、「みんなの為」と言う人によって都合よく変更できてしまうのが難点でしょう。
絶対善は、『みんなの為』ではなく、『みんなの為、と私は絶対そう思う』という独善である点に問題があるように思います。

>あなたの言う真理とは何ですか。私は何を皆さん真理と考えているのかさっぱり分かりません。あなたも真理とは何か分かっていないでしょう?分からないものをさも自分は知っているように言うのはおかしいでしょう。真理とは何を言うのですか?答えてください。真理とは何ですか、まず理とは何ですか?

ご質問文の『公の意味について理解できないところはありますか?』を真に受けて批判的なことばかり言ってきたのは、たしかに無責任というか、好ましからざる態度であったかも。
中途半端でいい加減なものとして絶対善を確立してはいただきたくない、という気持ちでしたが、あれこれ批判するだけなら誰でもできますからね。
まあ、不徳の至すところなのでしょう。

わたしが真理と考えるのは、なぜ人間は存在しているのかという原点です。
それが何かを知っているわけでは、むろんありません。
ただ、人間は「本能にもとづく動物という存在」であることはたしかです。
一般の動物と異なるのは、本能の一部と引き換えにする形で超自我性をアプリオリに備えてしまっている、という点でしょう。
わたしたちが、こうして善について論議を交わしているのも、そのひとつの現われと言えます。
つまり、人間とは「超自我性を備えた、本能にもとづく動物という存在」なのだと思います。
超自我性は、字のごとく我を超えるという概念であり、まさに善に通じるものです。
わたしたちは、生来的に、おっしゃるところの「公」を意識できる存在なのです。
年端も行かない幼子であっても、他人の悲しみには敏感であり慰めようとする意識が働きます。
しかし、わたしたちは、前述のとおり「本能にもとづく動物という存在」であることも間違いありません。
ここに大いなる矛盾が存在しており、この矛盾こそが人間を人間たらしめているのではないかと思います。

わたしたちが、この宇宙に存在し得ているのは、あくまで「本能にもとづく動物という存在」としてのはずです。
(詳しくはプロフィールを参照いただくとして)この意味で、わたしたちを存在せしめている宇宙にとっては、「我」と「彼」の区別は必要なかった。
つまり、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」ということです。
なぜ人間は存在しているのかという原点はわかりませんが、これが原点を構成する真理であるのは間違いないと思っています。

「本能にもとづく動物という存在」のように自分自身を認識できる生き物は人間だけです。
つまり、本能を持ちながら本能を制御していくように運命づけられているわけです。
そんな私たちが事に及ぶに当たっては、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない」という真理を思い浮かべることで、正しい選択への指標が感得されるように思うのです。
そこから「適度の善」が生まれるだろうとも思います。
本能と超自我性のバランスを持った善、と言っても良いかもしれません。
そこに無理は生じません。
その意味で「絶対」と言えるような気もします。
抽象的すぎるかもしれませんが、また、曖昧性も残したままかと思いますが、とりあえず現時点で申し上げるとすれば、こういった程度のことになりそうです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>本気でおっしゃっておられるなら、極めて認識が甘いと思います。危険なものを他に押し付けることはあっても、自らそれを引き受けようなどと考える為政者が今の世にいるとは思われません。<

ですからそのような考えではうまくいかないから絶対善を考えたのでしょう。絶対善が出来ないと言われればそれまでです。正しいものがあるのにできないと言うなら諦めるしかありません。何の進歩もない国民です。


>席を譲る人は嫌々譲っているわけではないですよ?<

そうですか、あなたは聖人なのでしょう。私たちの場合、道で困っている人がいる、しかし自分も急いでいる、自分のことを優先させたいと言う思いもあるが、やはり相手のことを考えれば助けずにはいられないと言うのが我々凡人の善です。


>絶対善は、『みんなの為』ではなく、『みんなの為、と私は絶対そう思う』という独善である点に問題があるように思います。<

私の言う正しさはみんなで妥協して決めたことが正しいと言っているのに何故それが独善なのですか?地震も少なく地盤が一番しっかりしているところに核処理場は決めようと言うのは国民みんなが納得するものでしょう。違いますか? そのように国民みんなで納得して決めたなら、その結果が自分の県に決まっても反対することなどできないでしょう。


>わたしが真理と考えるのは、なぜ人間は存在しているのかという原点です。<

そうでしょうね、あなたたち哲学を学んでいる人たちが「真理」と呼んでいるものは「存在についての真理」なのでしょう。「何故、存在しているのか、私たちとは何なのか、その目的は、意味は」それを知ることが真理と言っているのでしょう。しかしそんなことは我々人間の知恵では分かりませんよ。そんなものを考えて一生を終えるのはバカげたことです。正しいとは何かも分からないくせに空虚なことばかり考えているから「哲学など何の役に立つのか?」と言われるのです。
また本能の中にあなたの言う超自我があると考えられませんか? 私は善とは生物たちが試行錯誤して創ったものであり、善に人間の理性など出る幕はないと言っているのですよ。善は理性で考えるものではなく、正しい、正義こそ理性で考えるものでしょう。善は本能的正しさであり、正しい、正義が理性的正しさである。

お礼日時:2019/04/27 20:12

#14です。



>ドイツ人が他民族を虐殺する問題は世界のみんなが関係する問題ですから世界が公に決まっています。なんで世界の問題をドイツ人だけで決めていいのですか?

要旨を読んでいただいてないようですね。
要約しますので再確認してください。

ご自身でおっしゃっておられたように、「問題」というのは、そもそもが『困った問題』です。
~~~。
(しかし、)ヒトラーにとって、ユダヤ人殲滅は、世界で考えるべき『(困った)問題』とは思えなかった、という点が重要。
「世界の問題」と捉える必要性など、彼の頭には全く浮かばなかったのです。
このようなヒトラーに向かって、「善とは公の為である」という絶対善を振りかざすだけでは不毛ですよね、と申し上げた次第。
つまり、「これは世界の問題なのだ」と納得させる方向での切り口を備えていなければ、絶対善の意味はないでしょう、ということ。

>「総理も沖縄県の立場を十分にくみ取って、と言うのが筋ではないかと思います。」これは総理が沖縄の為という私欲をもって考えると言うことですからやってはなりません。まず各県の私欲は忘れて日本国民みんなの為と考えなければ正しい答えにはなりません。

いやはや、これは驚きました。
『沖縄も日本国民なんですから仲間なんですよ。』というのは嘘ですか?
『沖縄県の立場 だけ を十分にくみ取って』と言ってるわけじゃないんですよ?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>ヒトラーにとって、ユダヤ人殲滅は、世界で考えるべき『(困った)問題』とは思えなかった、という点が重要。「世界の問題」と捉える必要性など、彼の頭には全く浮かばなかったのです。<

ですからヒトラーたちは絶対善という考えは知らず、その当時は相対主義の世界だったからです。世界の人々が「みんなの問題はみんなで決めることが正しいのだ」と言う認識があればヒトラーも「自分が正しいと考えずに、みんなで考えたことが正しいのだ」と認識して独裁的でなく考えることが出来たのです。相対主義ではダメなのです。


>いやはや、これは驚きました。『沖縄も日本国民なんですから仲間なんですよ。』というのは嘘ですか?『沖縄県の立場 だけ を十分にくみ取って』と言ってるわけじゃないんですよ?<

なかなか理解できないようですね。みんなの為にと考えなければならないのに総理が沖縄の為にと沖縄を考えに入れれば、それはもう沖縄に肩入れしていると言うことです。総理であれば特にどこの県というのではなく日本国民みんなの為とのみ考えなければなりません。国民一人一人も自分の県という立場を離れて国民の為という国のトップの立場に立たなければ正しい答えにはならないのです。勿論これは最高善のことを言っているのですから一般的に言って難しいことでしょう、ですから、できれば少しでも私欲を抑えて公の為と考えなさいと言っているわけです。

お礼日時:2019/04/27 20:11

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す