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17世紀バロックの音楽家リュリについての質問です。
リュリが死の間際に残した「いざ死すべし、汝罪人よ」という言葉は、自らに対してですか?それとも自分を最後まで信じてくれなかったルイ14世や、自分に批判的な宮廷の人々に向けた言葉ですか?

A 回答 (1件)

フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれたもともとはジョヴァンニ・バティスタ・ルッリという名前のイタリア人だったリュリ、ほとんど正規の教育は受けていなかったが、ヴァイオリンなどの演奏を習い覚えた。

1646年にギーズ公の公子ロジェに見出されてフランスへと連れられ、ロジェの異父姉の娘アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン(グラン・マドモワゼル)のもとで下男として奉公する。のちにグラン・マドモワゼルから、その才能を認められて正式な音楽教育を受けたが、グラン・マドモワゼルについて卑猥な詩を書いたことから解雇された。

 その後1652年末から1653年初頭にかけて、『王の夜のバレ』 (Ballet royal de la Nuit) に出演すると、ルイ14世が彼のことを大層気に入り、やがて国王付き器楽曲作曲家に任命され、更に作曲家・踊り手として王に仕えるようになる。宮廷の弦楽合奏団「フランス王の24のヴィオロン (Les Vingt-quatre Violons du Roi)」に参加し、また踊り手としても頭角を現して王と同じ場面で踊るようになるなど、この関係を通して王との親密な関係を築き上げていく。

 当時は、ひとつの大きな作品を複数の作曲家で兼担することが通常で、作曲家たちは演奏家としても「24のヴィオロン」に参加していたが、ルッリはこの制御しがたい楽団を嫌い、1656年の仮面舞踏会 "la galanterie du temps" では、全ての楽曲を彼が手掛けた。

 1650年代から1660年代にかけて、王の勅許により自前の楽団「プティ・ヴィオロン (Petits Violons) 」を結成する。ルッリは王のために多くのバレ音楽を作曲し、王と共に踊り手としても舞台に出演して、深い寵愛を受けた。1661年にルイ14世が親政を開始すると、彼は王の宮廷音楽監督 に任命され、これを受けて、同年12月ルッリはジャン=バティスト・リュリとしてフランスに帰化する。

 1660年および62年、ルイ14世の結婚の祝祭にイタリアからピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリが訪れオペラを作曲・上演すると、フランスの音楽界は大きく影響を受ける。リュリはカヴァッリの『セルセ』(Xerse、1660年)、『恋するヘラクレス』(Ercole amante、1662年)の上演には付随のバレエ音楽を何曲か作曲しているが、この頃から様々な新しいジャンルの音楽にも手を広げていく。

 1664年からはモリエールの台本による「コメディ=バレ」(舞踊喜劇)のための楽曲で大きな成功を収める。「二人のバティスト」と呼ばれた彼らの代表作には、『無理強いの結婚』(1664年)、『町人貴族』(1670年)などがあり、モリエールとリュリ本人の出演により王室の劇場にて上演された。更に聖堂付作曲家の地位は得られなかったものの、宗教曲も多数作曲し広く人気を博した。

 しかし、1670年ごろからパレ・ロワイヤルにおける興行収入のリュリへの未払い問題などを巡って、リュリとモリエールとの仲は険悪になっていく。また、リュリが成功しないと考えていたフランス語のオペラが、ピエール・ペラン(台本)とロベール・カンベール(作曲)によって成功すると、リュリは歌劇という新しいジャンルの可能性に目を向けなおした。

 折しもルイ14世は1670年を最後に一切踊らなくなり、バレエへの関心は年を重ねると共に次第に薄れていった。1672年、リュリはペランから王立音楽アカデミー(オペラ座)の上演権を買い取った。リュリのこうした行為には反発も多く、また費用が莫大であるにも関わらず、王室の支援の対象ではなかった歌劇の上演には障害が多かったが、建築家カルロ・ヴィガラニ(Carlo Vigarani)と提携して自前の劇場を設立し、歌劇の上演にも熱心に取り組んだ。1673年初演の音楽悲劇『カドミュスとエルミオーヌ』は大成功を収め、王自ら観劇に訪れるほどであった。

 1673年にモリエールが没すると、リュリはパレ・ロワイヤルの使用権を獲得し、他の劇団に対して踊り手の出演を禁じ、人声2声とヴァイオリン6本に制限するなどして、大規模作品の上演を独占していく。こういった強引な手法に対しては批判や暴漢による襲撃なども加えられたが、リュリの作品に満足した王により、以後の作品の初演は宮廷で行うこととなり、また王室からの財政支援も受けて、リュリは順調にトラジェディ・リリック(叙情悲劇)などと題された歌劇の作曲を進め、サンジェルマン=アン・レやフォンテーヌブローの王城で初演を重ねる。

 ルイ14世のリュリへの寵愛は一向に衰えることがなく、そればかりか王太子の寵をも得るようになる。王はリュリを数少ない親友の一人と感じていたし、また宮廷生活の娯楽にリュリの存在が欠かせないと感じていた。1677年のリュリの長男の洗礼式では王自らが代父となり、王の名をその子に授けた。1681年には『町人貴族』再演でのリュリの演技が爆笑を誘い、これを期に彼はルイ14世の秘書官 に任命される。これに伴い授爵も受け、これ以降はド・リュリ閣下("Monsieur de Lully")と名乗るようになった。

 さらにリュリは興行主としての才能も発揮し、パレ・ロワイヤルでは立ち見を格安にする一方で高価な指定席も備え、また王から得た特権を元に台本や印刷譜の販売事業などからも莫大な印税を得た。パリだけでなく王土各地での公演を認可する権利を得て名声を高める一方で、それまで不仲であったジャン・ド・ラ・フォンテーヌやラシーヌからは台本を入手して作曲も行った。

 一方でリュリはその放蕩でも悪名高かった。リュリの生涯は華々しい成功の連続であったが、強引な手法で敵を多く作っていたリュリには、かねてから両性愛の噂が絶えず、男女選ばぬ漁色行為を種に幾度かスキャンダルに見舞われていた。絶頂期にあった1685年、ついに王の小姓のブリュネとの男色関係が王の耳に入ることになる。このころルイ14世はマントノン侯爵夫人の影響や外交上の理由などから宗教道徳を重視するようになっており、リュリはこの男色関係により王の不興を買ってしまう。

 1686年の『アルミード(英語版)』は宮廷での上演は行われず、パレ・ロワイヤルからの立ち退きも求められることになった。それでも王太子の寵は変わらず、リュリは王太子のための作品をいくつか作曲したが、結局、往年のルイ14世からの寵愛がもどることはなかった。

 1687年1月8日、リュリはルイ14世の病気快癒を祝して『テ・デウム』を指揮した。当時の習慣に従って、長くて重い杖を指揮棒として使い、それで床を打ってリズムをとっていたのだが、誤って足を勢いよく強打し、傷口には大きな膿瘍が出来た。やがてそこから酷い壊疽を起こして、3月22日に急死した。最後のオペラ『アシールとポリュクセーヌ』は未完成のまま残された。臨終の床で「いざ死すべし、なんじ罪びとよ (Bisogna morire, peccatore )」と書き残したと言い伝えられている。

 これはwikipediaの「ジャン=バティスト・リュリ」から引用し小分けにしながら要約したリュリの経歴です。人間はすべからく原罪を背負っているというのがキリスト教の教義の原点ですが、これを読む限り、王宮に取り入って、権力をわが物にし、王の威を借りて存分に好き勝手の極みを尽くしたリュリ。次第に周囲から反感を買いながらも、それでもなお横暴なまでの態度を崩さなかった。でも、おそらく、リュリ自身、己の罪深さには気がついていたのではないでしょうか。そう考えると、「いざ死すべし、なんじ罪びとよ」という言葉は、自分を最後まで信じてくれなかったルイ14世へ向けたもの、あるいは、自分に批判的な宮廷の人々に向けたもの…とまではどうしても考えにくいのです。

 宮廷がどうであろうが、世間がどうであろうが、自らの思うままに、もう、やりたいだけやった…。人には出来得ないことをやってのけた…。敵も多かったが、彼らとてこの自分を凌ぐこともなかった…。神をも凌ぐこれまでの生き様…、アハハ、なんという罪深いこの自分…とばかりに、そんな自分に対する精一杯の賛美と、あらためての誇示と、そして最大限の皮肉を込めて、 リュリは、死の前々から、おそらく、この辞世の句を考えつき、心の中に準備していたのではないかと思うのです。違っているかしら。
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この回答へのお礼

非常に納得できるものでした。ありがとうございます。

お礼日時:2019/08/14 17:46

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