こちらからの続きになります↓
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11370623.html
曽祖父が書いた手紙です。
書いている文字と、訳も教えていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
No.13ベストアンサー
- 回答日時:
ありがとうございました。
立ち入ったお話をしてしまったようで、申し訳ないです。
昔は、そもそも姓を持たない人が多かったですからね。
ただ、お家柄、侍という身分にあったのであれば姓はお持ちだったのでしょう。
姓は昔は一定の身分がなければ持てませんでた。
戸籍制度ができたとき、地元の名士として尊敬やその徳にあやかりたいという願い柄、姓をお願いして貰った可能性もありますし。
また、分家として存続していた場合もあります(その場合は遠い親戚になるのでしょうが)。
戸籍を辿ると、予想外のことが色々とわかるかもしれませんね。
恐らく、曾祖父様はAさんのお父様のことを数回(1回かもしれませんが)しか診ていないと思うのです。
質問者様がお忙しいと仰っていたことを含めて、相談程度だったのでしょうね。
それでも、曾祖父様は根が真面目でお優しい方だったのでしょう。責任感を感じて思い詰めていらっしゃった節もあったのかもしれませんが。
「生者必滅」とかいていらっしゃるところ、Aさんを励ましながらご自分も奮起なさっていたのではないかとご推察します。
現代でも難病がございますし、もしかしたら、Aさんのお父様も完治の難しいご病気を患い。自ら研究することで、100年200年先の医療の進歩の助けになればいいと思われていたのではないでしょうかね。
すべて推察にすぎませんが、このお手紙の時代は思い詰めたと言っても、医師として努力していこうという意志もあったのだと思われます。
訳は少しずつ時間をかけて、一週間後ぐらいに新しい質問にて載せたいと思います。
他のお二人方とは既に違う解釈ですので、多数ある一つとしてご考慮いただければ幸いです。
それでは、また後日ということで。
いえ、とんでもないです。あまり買いかぶっていただくと、だましているような、何か罪悪感が湧いてくるのこんなことを書いてしまいました。勝手に自分から言ったことなのでseeandarrows様はなにも立ち入っていませんのでご心配なさらないよう・・
戸籍をたどると、明治や江戸までもしかしたらわかるのでしょうか。知らなかったのでぜひやってみたいです。
平安時代のご先祖がわかっているので、少なくともうちの姓はその頃からありました。
おっしゃる通り、手紙が大正元年だとしたらまだ院長就任前後なので、まだおそらく本当の地獄をみる前で意気揚々とはした気持ちはあったと思います。
はい、またよろしくおねがいいたしますm(_ _)m
どうもありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
こちらこそ、ありがとうございます。
偶然が幾つも重なると、何かあるのではないかと思ってしまいますよね。
ただ、思うに、ご家族を大事にされていらっしゃるというということは非常に愛情深い方ということでしょうから、良い面を代々脈々と受け継がれてこられてきたのではないでしょうか。
最初にお手紙を拝見させていただいてから大分経ちますが、もしかしたら質問者様と曾祖父様方は考え方が似ていらっしゃるのではないかと思うのです。お手紙の方も最初のほうは落ち込まれていたのでは……?と思ったのですが、途中から、それでも頑張ろうというような励ましの言葉に切り替わっているように思えるのです。
(後日、最初から通して解読し直したいと思っています)
昔は地域一帯で同じ姓を用いられてきたということもあったそうで。
確かに、正確なものは高祖母様の戸籍を辿るしかないかもしれませんね。
ちらっとだけ昔はお寺が家系図を管理してたという話もあったのですが、今はどうなっているのかわかりかねるのですが。
調べてみると「戸籍・除籍謄本の取り寄せ」でも可能のようですから、お調べになるならそちらの方が早いかもしれません。
Aさんについて何も残されていらっしゃらないとのことですが。一つお聞きしたいのですが、従弟様が亡くなられたことについて、恐らくAさんのご兄弟だろうご令息権左(太)郎様ではないということは確かなのでしょうかね?
様々な経緯をお聞きして、こういうことではないかという改めて考えをまとめたのですが。
まだ辻褄合わせをしているだけですので、また後日修正するかと思いますが、こういう説もあるのではないと思っていただければ幸いです。
Aさんのお父様は漢方医で、若い頃は都会で仕事をしそれなりに名を上げてから故郷に戻り、仕事を再開されたのではないかと。
薬になる材料は山にありますから、理にかなっているとは思うのです。
ところが、Aさんのお父様は晩年ご病気を患ってしまわれたのです。それも、外科などの西洋医学の知識が必要なご病気だったのではないかと。
Aさんのお父様は療養しながらご自身で治療されていたのかもしれませんが、娘のAさんが心配に思い、京大で最先端の西洋医学を学びご卒業された曾祖父様に相談されたのではないかと……。もし、そうであれば、Aさんのお父様は一応は患者の枠に当たりますから。守秘義務のため、ご病状についての詳しい資料は残されていなかったのではないでしょうかね。
Aさんのお父様が漢方医であれば、同じ医者でも畑違いですし。家族ぐるみの付き合いといっても、実家に帰った際に会う程度だったのではないでしょうか。(高祖父様とAさんのお父様が仲が良かったのではないでしょうかね。親同士ということで)
そのため、大正元年に曾祖父様はAさんのお父様の様子を見にいきがてら会われたのだと思うのです。
ただ、曾祖父様が帰郷中に悪化されて、そのまま亡くなってしまわれたのです。
ですから、お手紙の中、曾祖父様はご自身の医術について触れて気落ちされたのでしょう。
曾祖父様が忙しい合間に助言程度でも関わっていなければ、そういった事を書くと思えないのですね。
また、曾祖父様はご家族とともに、お通夜あるいは葬式に出たのでしょう。
その際、Aさんの兄弟である権左郎様が京より辛い勤めを早く終わられて帰ってこられたのではないかと。
(ご子息権左郎様が親の死に目に会えなかった、あるいは、ご子息が亡くなったと皆が思っていたから)ということから、曾祖父様ご家族は皆涙したということではないのでしょうか……。
ただ、お通夜・葬式の間はAさんとそういった話ができなかったので、49日を終えた後、Aさんに対する気遣と励ましたいお気持ちから大正元年11月にお手紙を送られたのです。
それから、院長時代のお話を聞くと、亡くなられる直前(1年から半年前)にこのお手紙の時よりも、悲劇か何かがあったのかもしれませんね。
どちらにせよ、やはりお心のお優しい方だと思います。
いえいえ、家庭はもう崩壊してしまっているようなものなのですが・・お気遣いありがとうございます。最終的にいい形になればいいですけど。
悲観的で弱い部分があるのは代々だと思いますね。だから、健康なのにも関わらずみな比較的短命です。
落ち武者で地主だったのですが、それでも地域で同じ名字ということがあるのでしょうか。なるほど、だからAさんと高祖母の旧姓が同じでも親戚と限らないということですね。
日露戦争で殉職したのは元吉くんと書いてあり名字も全然ちがうので、権さんではありません。
なるほど、東洋医学の関係だった可能性があるのですね。曽祖父は新しく入ってきた西洋医学のほうが上とおもい、意気揚々と西洋医学界に邁進していったけど、実は違っていた(万能どころか救急や一部外科以外はほとんど役に立たない・・)ことで意気消沈したのでしょうか。
悲劇は院長時代は常にあったと思います。腸チフスが猛威をふるう中に放り込まれて最後は自暴自棄のように感じられる記述があります。180人ほど地域で患者がいたのが80人くらいに減ったとあります。治した人もいたけど死んだ人もたくさんいたのではないですかね。助手時代は研究もやっていましたが、院長時代は責任ある立場でもありいろいろ壮絶だったようです。
戸籍謄本の取り寄せしてみます。日々供養するために全員の命日を知りたいので・・
どうもありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
ちょうど解読中でしたので、一時ご返信させていただくことにしました。
解読の方はてこずっているのですが、大方の意味(訳)が読めてきました。
(もちろん、間違えているということが念頭にございますが……)
親戚ということであれば、非常に納得いたしました。
お手紙の方を訂正して読み返すと、
恐らく、権太郎様あるいは権左郎様が兵役か、あるいは国の義務のようなものをされていたのですが、終わって無事に帰ってきたのではないかと思うのですね。ですから、(Aさんのお父様が亡くなり)喪中であるにもかかわらず、不幸な気分が飛び失せたという意味ではないかと。ですから、ご家族ともに嬉しくて涙せずにいられなかったのではないでしょうかね。
恐らくはAさんのお父様はご子息をいない間も、療養しながら、一人で研究等を取り組んでいらしたのではないでしょうかね。
そして、Aさんはお父様の面倒をみていたのではないかと……。
B様のことですが、もしかしたら再婚後、籍を移していなかったのではないでしょうか……?
記憶違いかもしれませんが、再婚の場合は確かに養子縁組という形で親子となるそうで、当時も同じであれば、養子縁組をしていなかった為可能だったという説もあるのではないでしょうかね。
昔は、妻が亡くなった後、後妻として妻の妹を娶ったという話もあるそうで。
色々と現代とは勝手が違うのではないでしょうか。
とんでもありませんよ。調べようと思われたこと、素晴らしいことだと思います。
時間はいくらでもあるとはいいつつも、やはり色々としている間にあっという間に過ぎてしまいます。
人生100年時代とはいえ、いつ何が起こるかわからないので、早めに取り掛かられることに越したことはないと思いますね。
私の親戚にも家系図等を調べて本にした方がいらっしゃいました。
その際に思ったのですよ。やはり資料がお手元にあるからこそ、自由に調べることができるので、どういう経緯にしろお手元にあることは羨ましいと。
別の話になるのですが、このお手紙は確かに前文は非常に気落ちされていらっしゃるようでしたが。
このお手紙の内容が直接的に起因しているわけではないのではないかでしょうかね。
非常に悲しいことがあったけれど、しかし、Aさんへの気遣いをしながら人生紆余曲折ということをお手紙には書いていらっしゃるのではないかと。
ですから、大正元年11月の以降のお手紙がもしあれば、そちらの方に直接的な経緯が書かれているのではないと思うのです。
大正元年11月以降について何か残っておりませんでしょうか?
どうもありがとうございます。
はじめはAさんやAさんのお父さんは他人なのであまり興味がなかったのですが、高祖母の出身の家、親戚となれば興味がわいてきました。でも多分ですけどね。名字が一緒ということでそう思いこんでいるのですが・・
手紙の抜粋もあるのですが、Aさんの家族のことについては一切ありませんね・・
家系、経歴、性格容貌、文才、高等小学校のときの答辞文、中学校ときに山の中を出て担任教師の家に下宿していたとき5カ年1日のごとく生活する様子(教師談)、高等学校、大学での勉強のことなどを実父にかいた手紙、実母が亡くなったときの実父への手紙、助手時代の研究の実績を実父に報告する手紙、人格陶冶、尊祖神敬、師恩や友愛、故郷愛、息子がうまれたこと(死亡当時2歳)、2人の弟のこと、それから大正元年の院長時代になりますが、腸チフスが猛威を振るう中で危険を顧みず至誠をもって診療に奮闘する様子や功績について書かれています。
従兄弟の戦死、実母の死、恩師の死、大学時代の友人の葬儀についてもかかれていますが、Aさん関係ではありません。
本題と離れますが、この実母の命日と私の息子の誕生日が同じ、私の誕生日と弟(弁護士のほう)の誕生日が同じなのです。このような偶然はないと思っています。知ったときはゾッとしました。(命日はあの世での誕生日です。どうりで息子といると安心するなーとおもいました・・とは考えすぎですかね)
No.10
- 回答日時:
【3/6-1】
程ハ只かりそめ然事と所(ぞ)
存じて百年二百年の籌
を祈り奉り居り□しに 一
昨日の御手紙尓(に)より御容体
農(の)容易ならざる越(を)承り
【3/6-2】
日夜憂苦致し居り候□今
遂尓(に)以(もって)訃音接し誠尓(に)
何とも申様無久(く)候 曩尓(に)ハ
御令息權太郎様の御不
幸あり今復(ま)た數年□□
※以下は口語訳です。
----------------------
(平素から恵まれた父上様の事ですから、初めは)大したこともない一時的なことだろうと思い、百年、ニ百年もご活躍されるものとお祈り申しあげておりましたが、一昨日のお手紙では、ご容態が悪化されたことをお聞きしまして、日夜憂えておりました。
いま訃報に接して何とも申し上げる言葉もございません。先にはご令息の權太郎様のご不幸もあり、今また数年・・・(続く)
No.9
- 回答日時:
なるほど、そうでしたか。
立派なご先祖様をお持ちだったのですね。
考えるに、高祖父様ほどではなくとも、Aさんのお父様以外にもあと2人か3人ほど優秀な方がその地にはいらしたのではないでしょうかね。考えすぎかもしれませんが、商山四皓というだけあって、一度地元を離れて戻られた方が4人いたという考えもあるのではないかと思いました。ただ、歴史に名を残すほどの功績はなかったのではないかと。
お手紙のほう女性に宛てたとなれば、ますます気遣われたのではないかと思いました。
もちろん、またこちらの誤解である可能性はありますが。
こういうことではありませんでしょうかね。伝記にお名前がないのは、Aさんはご結婚後、姓が変わっているという事です。
ご子息もいらっしゃるのに娘であるAさんに送られているところを見ると、この続きが鍵のようです。
せっかく載せていただいたので、欠けていた一文のみ簡単な訳ですが、
「ご子息がお持ちになっており、荷物共々京都(都心)へ移り、何かに遭った」としか今のところ訳として読めないので、詳しく調べてみたいと思っております。
お手紙の件は、大正元年であればおそらく辻褄は合うのではないかと思いますので、とりあえずは大正元年としておきます。
しかし、面白いものですね。現在は令和元年11月です。お手紙が大正元年11月のものであれば、約107年前のお手紙になるわけですが。偶然でしょうかね。なにかしらのご縁を感じますね。
とんでもありませんよ。私の方は浅知恵の為、見覚えのあるものが確かどうかを調べながらですからね。
また、現代においては読める読めないではないと思いますね。貴重なご資料等を代々大事に保管されてきたことを思えば、ご謙遜なさっていらっしゃるとしか思えませんよ。
どうらやら本題にはいったようですので、幾つか訳の方にも影響(何通りかの意味に取れるので)がありますので、
つづきのほうはゆっくりしていこうと思います。
悩まれていらっしゃるようですので、ベストアンサーの方は私ではなく先のお二人にしていただればと思います。
私個人、何と書かれているのかを質問者様同様に読みたいだけですので。
それでは、また後日ということで。失礼いたします。
あの山の中にいたのですかね・・全国に100人ほどしかいない珍しい名字で(今まで正しく読まれたことがない)そのあたりに特に多いので、商山四皓がいたとしたら元々親戚だったかもしれません。
おもて表紙のすぐ次に曽祖父の肖像画があり、次にこの手書きの手紙がのっていて、次から正式な伝記が経歴からはじまります。Aさんも巻頭にこの手紙をのせることによって、Aさん父の功績も伝えたかったのですかね・・
ほんとですね、大正元年11月に令和元年11月。偶然とは思えません。
今伝記を読み返して、気づいたのですが、明治38年に亡くなった曽祖父の生母(高祖母)は名字がAさんと同じです!!伝記では嫁にきた曾祖母や高祖母、また高祖母の後にきた継母などすべてなぜか旧姓で呼ばれています。◯◯氏と・・嫁にきてもうXX家に者になっているのに。
つまり高祖母の旧姓とAさんたちの名字が同じなので、同郷で、Aさんの父と高祖母は兄弟などだった可能性がありますね!曽祖父とAさんはいとこだった可能性ありですね。
伝記を訳すと「君の生母であるA氏の喪を終えて、明治40年◯月、継母のB氏を迎えて満身の至誠で孝行する様子は生母に対してと同様であった。」とあります。ここで更なる発見がありました。このBという名字は曽祖母の旧姓と同じ名字なので、このあと曽祖父は、継母の娘と結婚したということになるのかもしれません。ってことは戸籍上、兄弟と結婚したことになりませんかね・・)
代々保管というほどでもないですよ。曾祖母は90まで生きましたが(最後まで近寄り難かった)、子供2人とも、嫁、義父などが先になくなり、私の父も弟である叔父も転勤族のため同居はできず、可愛そうなことに天涯孤独で老人ホームが長かったです。死後に2冊あったので、両親と私とで1冊づつ持ちました。
60年間は妻である曽祖母が大事に保管し、残りの期間は適当なところにそういえばあった、という感じで申し訳ないです・・
ご先祖のことは定年後に興味をもったり調べたりすることで、現役中にこんなことをしている私は大したことがないという証です。(昔、曾祖父の弟が大阪で弁護士を開業していて、その息子が定年後色々調べたらしく、私の父に家系図の詳細やお便りがありましたが、父は興味がないようで一切無視していました。親戚なのに)
ありがとうございます。お陰様でいろいろ新たな発見がありました。
No.8
- 回答日時:
一人,遅れながら。
その前に,前回(2/6)の私の回答の中の2行目,〇越 は 手紙 と訂正します。
さて,やはり完成ではありませんが。ご参考になれば。
ただこれだと一行目は,前文最後とは続いていないので 私的に???
---------------------------------------
程ハ(は)只かりそめ○事と△ …△は 所(ぞ) か。
存じ百年二百年の籌 …籌(ちゅう) は 数 のこと。
を祈り奉り居毛須 一 …居(おり) 毛須 もうす か?
昨日の御手紙尓(に)より御容体
農(の)容易ならム手紙承り …ム手 は無理読み? 手 をここまでくずすかは?
日夜憂苦致し居候 文
遂に此訃音接して誠尓 …して は 疑問あり。
何とも申様無久(く)候 曩尓ハ …曩 は 先 のこと。
御令息権太郎様の以(い)ふ …以ふ は 言う。
---------------------------------------
須 は もし文頭とすれば すべからく…べし(簡単に,当然ながら でいいかも)ですが,
ここは仮名としましたが……。
おおおーー素晴らしい!m(_ _)m
虫のはったような字をよくここまでおわかりで感心しますとともに、心より感謝申し上げます。
現代訳なしには全く分からないはずの私もここまでになると、うっすら分かる部分があります。どうもありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
ありがとうございます。
気が急いてしまい、文字のタイプミスなどが多いのでご容赦ください。
曾祖父様の経緯を教えて頂いたため、様々な方向から見直すことができました。
予想がおおよそ当たっていたということで、こちらもまた非常に嬉しく思っております。
解読の方はお二方の方が正しいのではないかと思いますが。
ひきつづきお手紙と照らし合わせていくと解読がより正しくなっていくのではないかと思います。
(そうなることを願っております)
ただ、肝心なところが恐らく違っていたのではないかと思うのです。あと何度か訂正させてください。
ご返信を読ませて頂いた後、お手紙に関しましてもしかしたら大正元年のものではないのではないかという疑念が浮かびました。
内容が明治のものとありましたが、今一度ご確認いただけないでしょうか?
明治は45年7月30日までであり、その後は大正元年になるのですが。
曾祖父様は大正元年10月に地方に行かれたとのことでしたね。
ただ、お手紙の内容からして、やはり学生や助手の頃のものではなく独り立ちした頃のものではないかと思うのです。
大正を避けて考えておりましたが、仰っていらしたように師を非常に敬う方が、学生時代や助手時代にこのようなお手紙を書くとは個人的にはどうしても思えないのです。
もちろん、まったくの検討違いであるのかもしれませんが……。
また、個人情報ですので、差し支えない範囲でよろしいのですが。曾祖父のお父様(高祖父様)やお母様(高祖母様)の記述は残っていないでしょうか?
考えるに、明治45年7月から大正元年9月までに曾祖父様はAさんのお父様と会っていらっしゃるのです。
ただ、大正元年8月あるいは9月にAさんのお父様が亡くなり。
大正元年10月に曾祖父様が地方へ行かれたのです。
それから、11月21日あるいは11月25日にお手紙をAさんに送りました。
しかし、本題はAさんのお父様の不幸だけでなく、別にも不幸があったのではないかと……。
秋に対する表現が非常に寂しいので、お一人だけ亡くなられたわけではないのではないかと。
(それに関しまして、先の方がすでに解読されていらしたので、あらまし間違ってはいないのではないかと)
Aさんのお父様が亡くなったのがいつ頃なのかが、おおまかでもわかればいいのですが。
恐らくはその年が鍵ではないかと……。
お手紙に関しては、やはり現代人が用いない言い回しがあるのだと思いますので。
こればっかりは知識量の問題かと……。(草書体にも色々ありますので……)
「権太郎様」あるいは「権左郎様」のどちらか正しいのかはわかりかねますが……。
ただ、質問者様が代々優秀でいらっしゃること羨ましく思います。
文才があるというお話については伝記の通りかと思いました。
最初のほうに「秋露」と用いられていらしたので一目見て風情がある方だなとわかりましたので、文才ある方が読めば相当なものだったのではないかと。個人的に、最初の1/6はAさんに向けた気配りを感じたのです。
質問者様が仰る通り、非常に繊細で情の深い方だったのでしょう。
手紙自体の内容が悲しい文章ではあるのですが、仰る通り、Aさんのお父様のことを慕い敬っていらしたのでしょう。
ですから、千字文からの引用で「綺回(廻)漢恵」から、「回漢」を用いて表していらしたのではないかと……。
(ご存知かもしれませんが。綺理季を含めた4人の賢人(隠遁者)が漢の太子の地位を戻した話ですね。
この4人の賢人を商山四皓というのですが。この4人の賢人たちは秦の時代末期(始皇帝の時代)に乱を恐れて商山に籠り隠遁者となりました。しかし、漢の時代に移ってから高祖皇帝に高名から臣下になるように呼ばれたのですが、それには応じなかったのです。ただ、高祖皇帝の側室が太子を廃し、我が子を太子に据えようとしたため、太子の母呂后が張良と対策を立て、商山四皓を太子に仕えさせたのです。高祖皇帝はこのことを受けて、太子を廃することができなくなったのですね)
このことと、お手紙から察するに、Aさんのお父様も元々は非常に有名な方で、晩年は山近いところ(郊外など、田舎など)に暮らしていらして。京大など権力の集まる場所は(教師などの誘いは断り)避けていらしたのではないかと。時代としては、先に書いたように現代とは違い、医師免許がない時代から医師免許が確立された時代へ変化している最中だったと思われます。
当時、非常に優秀な方で、知る人ぞ知るという御仁だったのではないでしょうかね。
また、高祖父様も同様に肩を並べるほど優秀だったのではないかとご推察します。
つまり、A様のお父様は身体を壊していましたが、家で休みながらも、田畑を耕したり(ご家族と共に?)しながら研究もされていたと見ています。
もちろん、これらも私個人の仮説ですので正しいとはけして言い難いのですが……。
不幸が幾つも重なり、精神的に疲弊されている最中のお手紙なのではないでしょうか。
文字の乱れはそのためかと……。
大変、長くなってしましましたが。
ご確認のほどお願いいたします。
すみません、内容が明治もののというのはデタラメです。大正初期に亡くなったので、活躍したのは明治のため明治と適当に書いてしまいました。
手紙はおそらく大正元年10月以降なのですね。私も在学中とは思えません。回答者様のおっしゃる理由以外にも、在学中は非常に忙しかったようです。従兄弟が日露戦争で戦死したときにも、勉学の地から地元に帰省できず葬式にもでられなかったようです。お盆なども(日数もかかるので)。
明治38年9月に母親(高祖母)を亡くしています。他にも恩師や友人の死など、いつかわかりませんが記載があります。(血の繋がりもない恩師の5歳くらいの子の面倒を一生みるつもりだと、高祖父への手紙に書いてあります)
明治45年7月から大正元年9月という2ヶ月の間にAさんの父と会っているのですね。
そう思います。大正元年10月に地方赴任ということは、実家から京都の距離より更に実家と遠くなってしまうので赴任する前に、しばらく帰れないかもということで実家に帰省したと思います(伝記にはAさんやAさんの父についての記述は、この手書きの手紙以外一切ないのでいつ亡くなったかもわかりません)
この3兄弟だけが優秀で子孫は普通です。私は社会的には普通以下です笑
父親や師を神のように崇拝、敬愛していたのは、本人の父(高祖父)に対してです。ご回答者様のご回答で初めてAさんの父ともそんな深い繋がりがあったと知りました。
高祖父とその父(曽曽曽祖父)の2名は二宮金次郎のように地元で非常に功績があったようです(治水、田畑など公共事業。また小作人のために至誠会というのを結成して鼓舞激励したようです。)
ご回答様は漢文にお詳しいのですね。私は教養はありませんから全く読めません。古文漢文の成績も良くなかったです。みなさんのご回答も残念ながら現代訳なしにはわかりません・・
Aさんもその父も、私の高祖父と同じ地元にいたと思います。おっしゃる通り県境の山の中です。子供の頃は親が転勤族だったので私は住んだことがありませんが、現在私の両親がそこに舞い戻り住んでいます(うちは、曽祖父の数代前に落ち武者として逃れてきたそうです)
Aさんというのは女性かもしれません。下の名前は佐織と書いてあります。
編集・発行人として。愛郷会とありますので同郷の近所の人なのだと思います。
字数制限が・・どうもありがとうございます。
No.6
- 回答日時:
No2です。
先の回答に少し追加しました。前回以上に自信はありませんが、ご参考まで。
-------------------------------
□ハ只かりそめ□事とは
存じて百年二百年の對(?)
を計り奉り居り□しに一
昨日の御手紙により御□体
応(?)容易ならざる□承り
□□憂苦致し居り候□今 …[憂苦]思い悩んで苦しむこと
□□以(もって)訃音接し□□ふ …[訃音]訃報に同じ
何とも申様無久(く)候曩尓(に)ハ …[曩(さき)尓(に)ハ]先にはと同じ
御令息權太郎様の御不
No.5
- 回答日時:
連日の書き込みになってしますのですが、あと一つ書き忘れていました。
様々な事をしているとすぐに忘れてしまうので、先に書かせていただきます。
恐らくお手紙は明治32-44年、特に「37年ー44年」の間のものではないかと推察します。
その間の冬、11月21日あるいは11月25日。
(最初は明治初期かと勝手に思い込んでいたのですが)
その理由として、大学自体が明治32年創立とのことですから。
まず32年に書いたとは思えないわけですね。
また、当時は現代と違って4年制だったそうですから、はやくても36年以降にご卒業しているはずだと思いました。
在学中にこのようなお手紙を書くことはまずないのではないかと思う事や、
医者として独り立ちしてからのものではないかという印象からご年齢的に26~8歳の間だったのではないかと思います。
また、兵役に関しても加えると(時代背景や知識が乏しいので、妄想になっていると言っても過言ではありませんが)
20歳頃に医大に入り、24歳にご卒業後に助手を数年されて26歳前後で地方にいかれたのではないかと思うわけですね。
大いに間違っている可能性が高いままですが。
恐らくお手元に他にも参考になる資料が残っていらっしゃるのではないかと思います。
個人情報ですので、当てはまっている箇所だけ拾っていただければ幸いです。
該当なしという場合もありますが……。
伝記をみると、大学入学が明治39年9月、卒業と同時に助手についたのが明治43年11月。大正元年10月に地方に赴任し、ちょうど2年後くらいに殉職しています。29歳のときです。なのでご推測はすべて当たっています。
兵役は行っていないので、医学生ということで免除されたのでしょうかね・・
何かほかに必要な情報があれば提供しますのでおっしゃってください。
どうもありがとうございました。
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