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ふと思った疑問です。
人生の折り返し点もだいぶ過ぎ、今の生活は可もなく不可もなしと感じています。
不可もなく、といっても「つましく暮らしていれば衣食住にこと欠くほどではない。日常に差し支えるほどの不幸はない」という程度です。

私より良い家にすみ、お金をもち、家族友人に恵まれ、楽しい日々を送っている人はたくさんいます。
でも、もう少し○○があれば、もっと○○だったら、などと思うことはあっても「上を見ればキリがない」と、さほどのムリもせずに、苦笑することも諦めることもできます。

でも、人生を振り返ればそれなりにいくつかの分岐点はあり、一つを選んだということは他の選択肢を捨てたということです。
思い返して「あっちを選んでいたら、今どうだったんだろう?」と時々思います。

あの仕事を選んでいたら、あの人と結婚していたら、あそこに引っ越していたら・・等々。
でも、結局はその先の想像が及びません。
別の選択をして、その先で自分がどうしたのか、どうなったのかを具体的には思い描けません。
バラ色の空想をしても、ほんとにそうなるのか?
うまく行かない想像をしても、ほんとにそうか?

全部根拠がなく、もしかして、人生にも「もしも」はなく、今の自分はなるべくしてなった、必然的結果なのか?と思ったりします。

歴史も人の人生も必然で、「もしも」はないのでしょうか?
皆様はどうお思いになりますか?

A 回答 (8件)

「もしも」があるのですよ、だから選択する時に悩むのですよ。


そして貴方が選択しないのを、他人が選択したらその結果も分かるではないですか。
詰まり私が思うに、「人生にもしもは無い」とは軽薄的な言葉なですよ。しっかりと考えれば、上記が分かる筈です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに、他の人が選択してその結果を見れば、あっちはああなったんだな、とわかりますね。

お礼日時:2020/02/09 18:07

「もしも」はあると思います。


少しスピリチュアルな話になりますが、私はパラレルワールドというものを信じています。(信じているというか、肯定的な考えで生きています)

全ての瞬間、動作、決断
それぞれ全てに違う選択をした自分がいる世界を肯定します。
するといま自分が置かれている環境は、何通りもある人生の選択の中から必然的にいまの自分が選んできた結果であって、何通りもの可能性のうちの一通りにしかすぎないです。
私はそう考えるので、いろんな選択肢の分岐点で分かれていった自分は他の世界で(パラレルワールド)いまの自分とは異なった環境で過ごしているのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

パラレルワールドという考え方は興味深いというか、ある意味、心の慰めになりますね。
別の次元で、別の人生を生きている自分がいる。
この自分はそのうちの一つのなんだ、と考えると、「選ばなかった」と思っている選択肢もちゃんと選べているんだ、と思うことができますね。

お礼日時:2020/02/09 18:10

歴史というのはすでに起こった事実。


「もしも」を語ったところで過去を変えることはできない。
人生も同様、過ぎた事に「もしも」を語っても変わりはしない。

そういうことをいっているのではないですか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね。
もしも、を語っても何も変わりません。
変えることができるのは、未来だけ。
だから、もしもには意味がない、そういうことかもしれません。

お礼日時:2020/02/09 18:12

もしもあの時は、すでに終わったこと。


その時選択した結果が、今の自分です。
なるべくしてなった、必然でしょう。
  
時間を巻き戻す事はできないのだから「もしも」なんてあり得ない。
仮に巻き戻してその時の自分になったら、やはり同じ選択になるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうなんです。
今の自分自身も過去の選択の結果なのだから、過去に別の選択をしていたら、今の自分と同じ感性、考え方ではない自分になっているはず。
今のこの自分には、別の選択をした自分の未来は想像できない。
という堂々巡りに陥ります。

お礼日時:2020/02/09 18:15

ある意味、あなたをうらやましく思います。

 これまで、可もなく不可もなく過ごされて来られたのですから。
私も普通と言えば普通の生活をしていますが、いくつかの冒険は経験してきました。
冒険が失敗したこともありますし、冒険とは思っていなかったことで冒険的な経験もして今があります(今についてはプロファイルでも見てください)。
エレクトロニクスのエンジニアの私にとって、それを志した時代は、集積回路と言う今は当たり前の技術や製品が未熟だった時代でした。 その時代、その世界はアメリカが本場でした。 なので若い私は結構無謀な望みと計画を立てました。 無駄な時間やお金も使いましたが、ひょんなことで今の生活を手に入れました。 これは若いころの私には『もしも』だったと思います。 そこから言えるのは、望みは捨てずにやれることをしっかりやり続けることだなぁ、ということ。
私は辺境の地の医系の家に育ちました。 そういうところの医者が都会の医者とどう違うかは皆さんは想像できないと思います。 しかし、それを眺めて育った私は同じようになりたいと思いました。 しかし、血を見れない私を知っていた兄が手術に立ち会わせてくれ、卒倒したことで諦めました。 そこには『もしも』はありませんでした。 そして今、子供がその道に居ます。 子供は血を見て怖がりません。 ある意味『もしも』ですかね。 しかし、彼は医者になるつもりはなく、先端的な医療機器を開発するエンジニアになりたい、と言います。 家の血と私の血が混ざった世界に進もうというのも私にとっては『もしも』を通り越して『まさか』です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

これまでの人生が可もなく不可もなく、ではなく、今の自分の生活が「自分にとっては可もなく不可もなく」なのです。
過去にはいくつかの転機や予期せぬ出来事もありました。
親や人の反対を押し切ったり、争ったりもありました。その都度自分で考え、自分で洗濯してきました。その結果が今です。

現在については私が「不可もなく」と思っているだけで、他の人からみたら「ええ?不可がいっぱいじゃない?」と言われるかもしれません。

お礼日時:2020/02/09 18:21

思索を楽しむことです。



思索することと実際に生きることはイコールではないけれど、思索する楽しみ、思索する自由を手放してはいけない。

たら、れば、の思索をするのは人間の特権ですよ。
犬や猿はそのような高度な知性を持っていないから、現実世界だけが世界なのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

おっしゃる通り、思索は誰にも奪われることのない、自分自身のものですね。

お礼日時:2020/02/09 18:22

選択肢が沢山ある。


何を選ぶのも自由。

自由というのは、実はあまり
良くない面もあるんですよね。

どれを選ぶか、悩むし、
選んだ後も、これで良かったのか
悩みます。

選択肢が多すぎて、迷っている
間に人生が終わることだって
あります。
フリーターなんてその例でしょう。




歴史も人の人生も必然で、「もしも」はないのでしょうか?
皆様はどうお思いになりますか?
 ↑
もしも、はありません。
覚悟を決めるべきです。

『選んだ道が正しかったのです』
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

選んだ道が正しかった。
そう思えることが幸せなのかな、と思います。

お礼日時:2020/02/09 18:24

歴史でも人生でも、もしも、はない、というのは思考停止なんだと思います。


考えても仕方のないことをうじうじ考えて前に進まなくなるのを止めるための言葉なのでしょう。
ただ、過去の行動の是非を問うことは今後のより良い選択の糧にもなると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

過去にとらわれ続けることは足を止めることになるだけだが、是非を問うことは未来への糧になる、ということですね。

とても含蓄のある回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/02/14 12:20

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