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教会は 目に見えない教会というかたちを採ればよいのではないか。

これを問います。

A 回答 (14件中1~10件)

他の方々へのお礼文を全部読んでいませんが、「組織化する必要性がないのではないか? 」 と問うておられるのですか?



だとしたら、それは大きな間違いです。聖書を読んでいてもわかることですが、全体に目を配る管理者的なものがいないと、扱う土台が同じ書物でも、地域や集団毎に、理解のズレが生じてしまうからです。なので、その組織の長、組織の長の長、更に全体を統治する長、というふうに、大きな組織を統治・管理するものが必要になってきます。パウロは、各々気がついた会衆に宛てて手紙を書き、その間違った方向性を正したり、褒めるべき部分を褒めて励ましたりしました。


家庭は小さな組織ではありませんか?

学校のそれぞれのクラスも組織ではありませんか?

それぞれに管理者である親や担任の先生がおられて、うまく運営できているのではありませんか? それがなければバラバラになるのではありませんか?


道を歩いていて気がつくことがあります。個人経営の店の入れ替わりが激しいこと、そしてある程度持ちこたえている店は、組織化された大きな店だということです。

もちろん、組織全体の方向性が間違わないように、一人一人が「土台」を熟知しないといけませんし、間違いがあれば正すことのできる「教師」である必要もあります。また、土台と調和した行動をとらない者は、そこから排除する必要も生じます。清廉な組織は、その辺りがうまくいっていると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「組織化する必要性がないのではないか? 」 と問うておられるのです
か?
☆ はい。組織があって みんなが集まりその建物もあるわけですから。


★ だとしたら、それは大きな間違いです。
☆ はい。水による洗礼も要らないというように 明らかに聖書にさからっ
ています。

★・・・全体に目を配る管理者的なものがいないと、扱う土台が同じ書物で
も、地域や集団毎に、理解のズレが生じてしまう
☆ その多様性こそが いのちなのだと考えます。

★ なので、その組織の長、組織の長の長、・・・というふうに、大きな組
織を統治・管理するものが必要
☆ 聖職者と平信徒との区別や ヒエラルキアとしては権威や権限の差異の
体制をつくることに何の意義や根拠がありますか?


★ パウロは、各々気がついた会衆に宛てて手紙を書き、その間違った方向
性を正したり、褒めるべき部分を褒めて励ましたりしました。
☆ という――けっきょくは各自の思慮によるべく――互いの自由な批判を
ゆるしあうよきマジハリによれば よいと思います。

聖書――聖職者の介在――人間 という序列は こっけいです。仲保者はイ
エスのみです。パウロは 解釈(預言)で解説してくれています。


★ 家庭は小さな組織ではありませんか? 学校のそれぞれのクラスも組織
ではありませんか?
☆ そういう集まりなら――そして 聖書同好会といったようなゆるい組織
なら―― だいじょうぶでしょう。

万人司祭といったモットーでも まだダメです。《司祭》なんて聖職者を立
てるのがダメです。


★ それぞれに管理者である親や担任の先生がおられて、うまく運営できて
いるのではありませんか?
☆ 同好会や勉強会や何やかやの集まりで 幹事役がいてもまったくかまい
ません。


★ ・・・そしてある程度持ちこたえている店は、組織化された大きな店だ
ということです。
☆ それは 話が別でしょう。

★ もちろん、組織全体の方向性が間違わないように、一人一人が「土台」
を熟知しないといけませんし、間違いがあれば正すことのできる「教師」で
ある必要もあります。また、土台と調和した行動をとらない者は、そこから
排除する必要も生じます。清廉な組織は、その辺りがうまくいっていると
思います。
☆ 教師は お互い様でしょう。

お礼日時:2020/04/14 12:18

一本とられました。

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この回答へのお礼

いえいえ。ご回答をありがとうございます。



・ 各ムラ(その議会か共同体そのもの)
・ 地球世界あるいは各家庭

☆ といった教会ならば No.11:GOMΛFUさんの言うように へだたり
をつくる《境界》は 見えないし ないとなる・・・ですかね。

お礼日時:2020/04/10 13:10

聖書そのものが教会ではありませんか。

キリスト教ではないですが、ユダヤ人は、ディアスポラ(離散)その時、モーセ五書とタルムードを心の拠点にしていたのでは。キリスト教も聖書が心の拠点、教会ではありませんか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 聖書そのものが教会ではありませんか。
☆ ううーん。教会と言えば 建物と運営管理する組織とがあると思われ
ます。


いわゆる宗教の組織は ヒエラルキアで聖職者の権威や権限の関係体系と
して成り立っています。


ふつうの学習会や研究所としての集まりなら いいわけです。(オシヘを
神とすることから自由です)。



教会のギリシャ語は ふたつに分かれます。

・ エクレシア(民会:⇒エグリーズ・イグレシア・キエーゼ)
・ キュリアコン(主の家:⇒キルへ・チャーチ・ツェルコフィ)

☆ 民会なら けっきょくムラ(市町村)の議会または ムラ共同体その
ものでいいわけです。

主の家なら コスモポリタンの住む地球世界となります。あるいは おの
おのの家庭。




★ キリスト教ではないですが、ユダヤ人は、ディアスポラ(離散)その時、
モーセ五書とタルムードを心の拠点にしていたのでは。キリスト教も聖書
が心の拠点、教会ではありませんか。
☆ 敢えて言うとすれば 心のよりどころは 《非知なるナゾ》なわけで
す。これが 見えざる教会だと思います。

お礼日時:2020/04/10 13:00

教会と境界をかけているわけですね。

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この回答へのお礼

座布団 一枚・・・んなわけない。




ん?

〇 見えない境界
☆ ってことですか。一味ありますね。

お礼日時:2020/04/07 21:30

そもそもですが、教会は目に見えません。



目に見えているのは、教会の建物であり、
神父であり牧師であり信者です。

教会は見えません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ そもそもですが、教会は目に見えません。
☆ ですから その見えざる教会のみを採用したらどうですか? という問い
です。


★ 目に見えているのは、教会の建物であり、
神父であり牧師であり信者です。
☆ そのとおりです。


★ 教会は見えません。
☆ 見える教会と見えない教会とがあります。

お礼日時:2020/04/07 16:30

手段と目的の倒錯ですね。

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この回答へのお礼

はい そうです。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/04/06 21:43

悟りのはなしと同じですね。

悟り悟りとうるさくて、悟るべき事柄にまなざしが向かわなくなる。
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この回答へのお礼

あるいは 建築現場の足場ですね。肝心の建物はあとまわしにして 足場だけを
立派につくる。

かな。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/04/06 21:41

言葉通り、そうですよね。

おしへ=神であるはずないですものね。なかなか気付かないですね❗
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この回答へのお礼

擁護するとすれば 《神とわれとのカカハリ》という正解へみちびく
補助線です。オシヘは。


――ご回答をありがとうございます。


月が 正解だとしますと あれをごらん! と言って月を指し示した
とき オシヘは その指にあたります。

でも 指を見て それが月だと受け取るひとはいないでしょう。

お礼日時:2020/04/06 21:32

ブラジェさん。

プロテスタントの方?みたいですね。おしへ否定論。
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この回答へのお礼

いえ。《オシヘは神ではない》論ですし わたしは 水による洗礼は受けた
ことがありません。いわゆる無教会派でもありません。


ですよ!



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/04/06 21:24

集まりあう目的を考えると、必ずしも箱物がある必要はないと思います。

また、華美な装飾も立派過ぎる建物も必要ないと思います。実際、非常の際などは、何も無い野天で集会が行われる事もあります。

同じ思いを持つ者同士集まり合うことのメリットとして、セーフティネットとしての働きがあると思ってます。

例えばガラテア6:10では、全ての人に、特に同じ信仰を持つ仲間に善いことを行いましょう、とすすめています。善いことをしよう。と言っても、誰が何を必要としているか、新鮮な情報がないとわかりません。これが普段集まりあっていると、すぐに手に入ります。いつも来ている人が来てないとすぐに分かります。体調不良であることがわかれば、誰かがそっと食事の差し入れをしたり、病院への送迎を申し出たりと援助の手を差し伸べてくれます。組織がきちんと機能していれば、孤立や孤独を防ぐことができます。これが集まりあうことの、もう一つのメリットだと思ってます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 集まりあう目的を考えると、必ずしも箱物がある必要はないと思い
ます。また、華美な装飾も立派過ぎる建物も必要ないと思います。実際、
非常の際などは、何も無い野天で集会が行われる事もあります。
☆ そうですね。ひとまづ そこへまで前進したように受け留めます。




★ 同じ思いを持つ者同士集まり合うことのメリットとして、セーフテ
ィネットとしての働きがあると思ってます。
☆ 人びととのマジハリは おのれの心をゆたかにし さらに社会とし
ての発展がのぞめます。



★ 例えばガラテア6:10では、全ての人に、特に同じ信仰を持つ仲間に
善いことを行いましょう、とすすめています。
▲ ガラテア書 ~~~
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく
者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまな
いでいると、時が来れば刈り取るようになる。

6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間
に対して、善を行おうではないか。
~~~


★ 善いことをしよう。と言っても、誰が何を必要としているか、新鮮な
情報がないとわかりません。これが普段集まりあっていると、すぐに手に
入ります。
☆ なるほど。そういうメリットもあります。


★ いつも来ている人が来てないとすぐに分かります。体調不良であるこ
とがわかれば、誰かがそっと食事の差し入れをしたり、病院への送迎を申
し出たりと援助の手を差し伸べてくれます。組織がきちんと機能していれ
ば、孤立や孤独を防ぐことができます。これが集まりあうことの、もう一
つのメリットだと思ってます。
☆ そうですね。あつまり あるいは 先ほどのマジハリ これは 社会
的動物である人間にとって 欠かせない条件(生活)ですね。



しかるに 質問者のコダハリは 《霊性――ガラテア 6:8 ――》です。
その点を優先させるなら――マジハリを絶やすことなく―― 建物をも超
えて欲しい・・・といったわがままです。

お礼日時:2020/04/06 15:06

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