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こんにちは
キリスト教についての疑問です。
大変不勉強でいまだに理解できないのですが、
アダムとイブが林檎を食べたという『原罪』(こういう理解で正しいですか?)と
キリストが磔になったことは
どう関係するのでしょうか?
林檎を食べたことの意味は何となくわかるような気がするのですが
(自我の発生や主客の分離、エゴイズムなど)
磔になったことで、それをチャラにできたとは全く思えないのですが
一般的にどう理解されているのか、解説をお願いします。

A 回答 (18件中11~18件)

「一般的にどう理解されているのか」というご質問ですが、自分にわかる範囲で発言したいと思います。



No.2の方が書いておられる「その後誰だったか忘れましたが…」というのは、おそらくアブラハムとその息子イサクの話だと思われます(創世記22章)。聖書によると、神はアブラハムにイサクをささげるよう言っているのですが、イサクがささげられる前に、神自身がイサクのかわりとなる小羊を備えたと書いてあり、イサクは殺されていません。イサクの息子がヤコブで、ヤコブは後に名前をかえイスラエルと名乗りました。
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/bibleftxt.php?VR …

話は戻るのですが、アブラハムのイサクをささげにいく道中の発言から、彼は、最後に神がどうにかしてくれるだろう、とはじめから期待していた節がうかがえます。このことに関して、新約聖書ヘブライ人への手紙11章を最後まで読むと、イエスの死後すぐに、イエスを信じた人たちの間では、神に信仰をもつことにより救いを得る、という理解があったようにうかがえます。
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以上にもみられるように、旧約聖書に書いてある内容は、身代わりとなるイエスが現れることを暗示している、というのがキリスト教の理解だと思われます。何にたいしての身代わりか、ということに関しても旧約聖書に書いてあるようですが、ちょうどNo.3の方が参照されていた新約聖書ローマ人への手紙5章19節によると、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に…」という部分は、アダムの罪により(14節からアダムのことが書いてあり、「ひとりの人」はアダムを指すと思われます。木の実を食べたのはイブも同様ですが、この実を食べないように神に言われたときの状況から、アダムに責められるべき責任があったととることができます)人類すべてに罪かあるとされ(原罪)、そして19節後半の「ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」においては、イエス(が神の計画に従順に、身代わりとなったこと)により、人間も義人、正しい人として赦される、と取れるようにも私には思えます。
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No.5の方が書かれている「汝の隣人を…」は、ルカによる福音書10章27節などにあるイエスが神の掟を要約して述べた箇所と思われるのですが、これは「…あなたの神である主を愛せよ」の次に続く言葉であり、この前半部分は原罪を考えるうえで関連があるかと思われます。
http://www.kidok.info/BIBLE/cgi/bibleftxt.php?VR …

No.1の方も書いていらっしゃるのですが、イエスが特別な存在であったために、その身代わりの死によって、アダム以来、原罪をもつ人間も救われることができる、というのが聖書の内容ではないかと私は考えました。
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この回答へのお礼

リンクの方が全部ハングル表示になってしまい
読めなくて残念ですが

そうすると、結局そこまでして救われなければならない
『原罪』とは神に従わなかった事以外では何なんでしょうか?
今日の言葉で言うと、エゴとか、自意識とかそうことなんでしょうか???
ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/05 14:55

原罪は歴史的事実としてとらえ、十字架は恵みと喜び


簡単にいうとまた別のものとして考えてください。

同じように考えていくとわからなくなりますよ~
(私も勉強中ですが)
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この回答へのお礼

ますますわからなくなりました(笑)
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/05 14:46

No.2です。


キリスト教は性悪説です。
キリスト教のことが面白いほどわかる本によると、キリスト教ではアダムとイブにより人間は全員罪があるので、人間は漏れなく地獄に行く運命だと定義しています。

これでは閉塞感があります。
いい事をした人も地獄に行くしかないのですから。
これでは宗教をやる意義も生きる意義もありません。


そこで考えしたのは、罪が全く無い人が罪がある人の身代わりになって死ぬことでした。
罪が全く無い人はキリスト教的に言うと100%死なないのです。
その死なないはずの性質を持つものが身代わりに死ぬことで、地獄行きが決定している人の運命を変えると考えたようです。
これが唯一生まれながらに罪がある人間の漏れなく地獄行きの運命を変える、つまり原罪を失くす方法だと定義しました。


罪が無い人 それは誰でしょう。
人間は原罪があるので、人間の中に罪が無い人は一人もいません。

キリスト教はイエスを人間ではなく創造主だとしました。
(創造主なのか創造主の一部なのかちょっとわかりませんが。。。まあ そんな感じで人間ではなく、全く罪の無いとしたのです。)

その死なない運命にあるイエスが死ぬ運命の人の身代わりになり死んだ事によって、一旦リセットがかかると定義しました。


蛇足ですが、キリスト教を信仰していなくても、イエスが身代わりになったことで全員リセットがかかるのかというと、それではキリスト教の存在意義がありません。
ただじゃあ リセットにならない。
イエスを受け入れた人 つまりキリスト教を信仰し洗礼を受けた人のみが、原罪が消えると定義しました。
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この回答へのお礼

>生まれながらに罪がある人間の漏れなく地獄行きの運命

そういう考え方なんですか・・・
ついていけない宗教だなあ・・・(笑)
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/05 14:45

参考程度に


アダムとイブの林檎の話は、旧約聖書の最初部分ですから、つまり、当時(2000年前)は、ユダヤ教の司祭(ラビ)ぐらいが知っていたことで、当時のイエス様の弟子が知っていたとは思えませんね。イエス様の弟子は、皆、普通の労働者でしたね。学問としてユダヤ経典は読んでいない、あるいは字なんかは読めなかったかもしれませんね。という理由で、十字架と原罪は、後世に作られた話であると思えますね。
では、なぜこんな話になったかと考えれば、理由はひとつですね。つまり、12人の弟子は、皆、イエスなど知らないといって逃げたからでしょうね。それが彼らの原罪となったということでしょう。その原罪から逃げるために罪を背負って十字架に掛けられたという話にしたのでしょうね。共同正犯ということでしょうが、誰しも心に罪を犯さず生きてもいけないので、この原罪と十字架による救済にも意味はありますね。
それから、イエス様の教え「汝の隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ」には原罪という考えは微塵もありませんね。
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この回答へのお礼

12人の弟子がユダのように逃げたことが
その『罪』というわけですか・・・

イエス自身は旧約のアダムとイブの話は知らなかった・・・
なるほど。おもしろい話ですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/05 14:42

なぜキリストが磔刑にあったのか、についてですが・・・。

新しい契約のためです。それ以前は旧い契約でした。
で、旧い契約では人間は救われない、だからキリストが磔刑にあうことで新しい契約が結ばれ、人間が救済されるようになった・・・という感じです。聖書やキリスト教について書かれた本はいっぱいあるし、○○入門みたいな本も数多くありますので、そういうのから読んでいってみてはいかがでしょう?
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この回答へのお礼

新旧の契約ですか・・・
全くなんのことか理解できませんので
やはりなにか入門書を読まなくてはと思っています。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/05 14:39

原罪と十字架とは直接的には関係無いのではと思います。


原罪は人が神と同等になろうとして、禁じられているにもかかわらず木の実(林檎とは聖書には書いてありません)を食べてしまったところに罪があるのではないでしょうか。
磔はイエス・キリストが自ら、罪深い(原罪ではなく)私たちを贖うために十字架につかれたという事で、父である神の御心でもあった訳です。
聖書にこう書いてあります。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
ヨハネの福音書3章16節
またこうも書いてあります。
「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
ローマ人への手紙5章19節
私はこう考えます。
もし誰かが、人の罪をかぶって死んでくれたとしたら、
しかも何も罪の無い方だとしたら、
その人は、その方の意思をついでいこうと
思うのではないでしょうか。
うまく説明できなくてすみません。

参考URL:http://www.bible-room.org/
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この回答へのお礼

>すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって・・・

なかなか感動的な一節ですね。
ありがとうございます。
原罪と関係ないとすると
どういう罪についての贖罪なんでしょうか?
キリスト教は性悪説なんでしょうか?
生まれてからなした罪のことを『自罪』というらしいのですが・・・

お礼日時:2005/02/03 21:39

その部分はキリスト教の解釈をしようと思えばできなくはないが、かなりコジツケ感があり、無理すぎると思っていました。



それでわたしはこう考えました。
ユダヤ人の祖先はアダムとイブだとしています。
他にも人間はその当時生きていたと認識はされていたようですが、神に選ばれ神から作られた人間はユダヤ人のみとしていたようです。


その子どもはカインとアベルで、神に喜んでもらおうと思って、カインは農耕をしてその収穫を神に収め、アベルは羊を殺して収めました。

神は植物より動物を選びました。
それからは神への忠誠心を示すために、農作物ではなく命を捧げるのが一番だという事になりました。

その後誰だったか忘れましたが、神は又動物ではなく人間の命を欲しました。
それも男に自分の息子を殺して自分に収めるよう要求しました。
(神は肉食オンリーだったのでしょうか。とにかくベジタリアンではないことは確か)

それで神へのご馳走は人間の肉(命)となりました。
しかし毎回ごきげんうかがいに、人を殺しては神に食べてもらうのはチトまずいというか、倫理的な問題があり、そこで人間は人間を生け贄に捧げる代わりに羊を治めるようになりました。

それからは神殿に参ると、羊を殺していました。
キリストが神殿内で大暴れした事件がありました。
奉納する羊を神殿内で売っていた商人のビジネスを邪魔したのです。
(何故蹴っ飛ばしたかはビジネスを神殿内でやっていたからではありません)

まあ ともかく、人間は自分達の王になるだろうと思っていた人が他国人に殺されたことをどう正当化するかと思考に思考を重ねた結果、キリストを神への奉納品とみたてることで、理論的につじつまが合うようにしたのだと思います。

あの民族独特の価値観だと思います。
他のいくつかの文明の中でも処女を生け贄として収める習慣があったという記録というか証拠が残っていることから、人間は困ったとき自己犠牲の代わりに自分が大事にしている他者を殺すことで自分だけは生きながらようとする習性があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

生贄の習慣と磔との関係と聞いて、その点はなるほど思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/03 00:33

それをチャラにできるからこそキリストは特別視されて


いる(神の子とされている)んでしょう。
またそれを信じなければキリスト教徒たりえないでしょう。
理詰めで考えて答えの出る問題ではないと思いますが。
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この回答へのお礼

別に”理詰め”の説明を求めているわけではありません。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/03 00:24

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