
No.16
- 回答日時:
まず、本のご紹介です。
竹村公太郎著 日本史の謎は「地形」で解ける 【文明・文化篇】(PHP文庫)
この本に、ご質問の内容ときわめて関連の深い考察が展開されているのですが、まずは順を追って回答します。
>徳川政権は、なぜ、経済の中心地であった上方に幕府を置かなかったのでしょうか?
No.7の回答者さんが書かれているように、そもそもは天下人秀吉が自分の地位を脅かされるのを嫌って家康を東国に追いやりました。
その後、秀吉の死によって実質的に権力を狙えるポジションにあった家康ですが、拠点は江戸に置いたままでした。
上記の本によれば、近畿圏はこれ以上首都機能を維持する事が困難だったというのです。安土桃山から江戸時代の頃には首都機能を維持するために政治と経済に従事する相当な人口を養う必要がありました。江戸はその後世界最大規模の都市になりましたね。
かつて日本の政治の中心は奈良から京都そして大阪へと変転しましたが、近畿圏では次第に首都機能の人口を養うための燃料(山から切り出す木材)が枯渇していきました。
そんな筈は無い。丹波や紀州など広大な木材の産地があったではないかと思われるでしょう。確かに建築資材などは良質の木材が多く産出されていましたが、問題は首都機能を維持する人口を養う燃料としての木材です。
電気もガスも石油も無い時代には燃料は薪をくべるしかありませんでした。しかもコストが安く大量に供給される必要がありました。重機も無ければ鉄道もありませんから、都市で消費する木材は川の上流で伐採した木を筏に組んで流し、消費地に近い川岸で加工するという方法が一般的でした。
近畿圏に木材の産地が多いといっても上記の条件に当てはまる地域は限られており、運び出しやすい場所の木材を切り出してしまうとそれ以上は山から川まで運ぶ労力が必要になるため供給が細ってしまうのです。
その結果、木材資源の豊富な他の地方への首都機能移転が不可避となっていたというのです。
御回答ありがとうございました。
<近畿圏では次第に首都機能の人口を養うための燃料(山から切り出す木材)が枯渇していきました。>のですね。
建築資材としてでなく、燃料としての薪、なのですね。
<奈良から京都そして大阪へと変転>しましたが薪が一因かもしれませんね。
紹介して頂いた御本を探します。
No.13
- 回答日時:
関東武士は、謀反の歴史
安易に離れられなかったのが
原因だと思いますよ
No.12
- 回答日時:
あと信州東北は馬の産地、
九州と駿河関東は兵士の産地でした。
徳川は九州に馴染みはないですし故郷静岡に近い江戸を幕府の地に選んだのはわかる気はします。
軍事的に強い状態を保てると感じたのかなと思います。
徳川は、秀吉の大軍とやりあって勝ってますからやっぱり戦争には強いですよ。
そして名古屋岐阜は織田の子孫や、古株の家臣団も当時いましたし、なんとなく、居心地悪かったのかもですね。
再度のご回答ありがとうございました。
関東・東北は軍事面で産地だったのですね。
関東なら<軍事的に強い状態を保てると感じた>のですね。
<名古屋岐阜>には小うるさい者が残っているのですね。
No.11
- 回答日時:
まず大阪は地の利は良いのですが、戦争ではめっちゃ弱いわけです。
実際、石山合戦(大阪市)では一向一揆衆は水路を止められて餓死してます。あそこに城を築くのは現実的ではないです。
また大和の松永久秀の反乱なんかも家康は知ってますし(とは言え身分の低いものだと納得しないのでややこしい)、
京都の公家はなんやかんや裏金を請求してきますし、
信長に対抗した比叡山には1万人を超える僧兵がいるわ、そのくせ殺したらめっちゃ評判下がるで
近畿めんどくせー
ってのが本音だったかと。
鎌倉から京都にのぼり、政権も鎌倉に開いた源頼朝にならったようにも感じますね。
信長も京都ではなく安土城(滋賀県北部)を築きました。
この距離は京都大阪に睨みを効かすのにちょうどよかったのかなと思います。
秀吉は大阪と京都伏見に城を築きました。これはちょっと謎です。守る気なかったんだろうなーって思います。
広島とか新潟なんて、当時の地の利は最悪だし、夜戦しんどいから攻めるのが困難だったわけです。
大阪京都はそのへん楽勝なわけです。だから、ちょっと子供の秀頼かわいそうです。
大軍から守るのは無理めですから。
僕なら、大阪は早めに捨てて姫路か広島で守りますけどね。でもあんなでかい城作られたら捨てちゃ駄目感あったのかもですね。淀うるさそうですし。
ただし江戸は何度も大火してどんどん財政悪化してましたし、江戸の町の木材はほとんどをはるばる四国から船で運んでました。
また昭和になるまで米の生産地もほぼ西日本だったので人口も西日本に多かったのです。
そう考えると幕府を名古屋とかにしても良かったのでは?と思ったりはします。
江戸幕府って基本的には「チーム東北+チーム東海」なんですよね。
遠くから西日本の主要都市の京都、長崎や福岡を抑えて、遠距離でコントロールしてたわけです。それが江戸末期には破綻していった。
それが果たして良かったのかどうかは分からないですね。
早速のご回答ありがとうございました。
初め軍事面から解析して頂きました。
<近畿めんどくせー<>なのですね。
防御に劣る、公家がいる、比叡山がある、のですね。
<鎌倉に開いた源頼朝にならった>このもあるですね。
No.9
- 回答日時:
大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。
1614年の大坂冬の陣と、1615年の大坂夏の陣。
すでに、家康は1603年に征夷大将軍となって幕府を開くと、江戸を全国の政治・経済・文化の中心地にするための本格的都市計画事業を開始した。この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」が賦課された。おもに西日本の大名に対しては、千石夫といって所領千石につき人夫10人の労役供出が命じられた。このとき神田山を掘り崩して砂洲や干潟等の低湿地を埋め立て、浜町から新橋にかけての町々となる広大な市街地を造成した。この工事では城郭拡充用の水路を東に延長して日本橋川を開き、日本橋が架けられた。1604年にはこの日本橋に五街道の起点が設定された。また江戸城拡充工事によって、廓内や旧城門前にあった宝田村・千代田村や、平河天神・山王社、神田明神・日輪寺とぃった寺院・神社を周辺に移転させている。
https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/310.html
1609年に江戸を訪れたフィリピン臨時総督ロドリゴ=デ=ビレロ(スペイン人)は、見聞記録の中で次のように記している。 江戸の人口は約15万人で、水路が整備され物資の運送に利用されていたことに注目した。次に、道路はすべて「同じ道幅と長さ」に整備されていて、その清潔さに驚嘆した。町人地(町人や職人の居住地)の住民は、同職のもので町が形成されていたこと、魚市場や青物市場の賑わいにも注目している。1609年には江戸の人口は15万人と言われた。
大坂は、もう既存の街があり、そこを区画整理し直して、江戸から移転するのは、非合理ということでしょう。
江戸が頻繁に大火・火災があったでしょうが、その経験で防火対策の都市計画や組織も整備してきているので、いっそのこと江戸から遠隔地に移転する方がいいという発想はしなかったでしょう。
早速の御回答ありがとうございました。
<大坂は、もう既存の街があり、そこを区画整理し直して、江戸から移転するのは、非合理ということでしょう。>ですね。
改善・修復より、新規に立ち上げた方が合理的だ、という判断ですね。
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