No.6ベストアンサー
- 回答日時:
零細な石高の大名は免除されていたということはなく、もしも、「出府に及ばず」とされてしまったら、それこそ一大事なってしまったのではないでしょうか。
学校でも、会社でも、「遠いしキツいし大変そうだから通学・通勤しなくてイイです」となったら、「大丈夫です。ちゃんと行けます」と無理しても行くのでしょう。
この下のPDFのP46~47/54に、もう幕末も終わりの文久2年~元治1年(1862~1864年)の状況が一覧になっていますが、実質2年間でも石高の少ない(常陸 麻生藩1万石、伊予新谷藩1万石、肥前国福江藩1万2000余石→1万5000余石)を含め多数の出府(国元から江戸に)があったのがわかります。
P2/54には、つぎのように書かれています。
江戸時代の参勤交代とは、大名が江戸と領地の間を行き来して、定期的に将軍へ拝謁(「御礼」)し、また奉仕として警備や消防、土木事業などの役務を提供するものである(江戸行き・江戸滞在・江戸を退出する事をそれぞれ「参府」「在府」「退府」、そして領地に戻ることを「就封」などと称した)。病気その他様々な理由で例外が認められた場合を除き、多くの大名は領地で一年を過ごしたら江戸へ赴いて一年過ごし、そしてまた領地へ、という生活を延々繰り返した。しかし、関東の譜代大名は半年の在府であったり、長崎警衛を担う福岡・佐賀両藩などの特殊な役割を有する大名は、それぞれ参勤間隔に特例があったりした。また御三家の水戸藩や特定の譜代大名、大藩から分家されて生まれた支藩の藩主の一部などは、就封せずに江戸に常駐(「定府」)する慣例で、老中など役職就任中の大名もその間は就封しなかった。
https://core.ac.uk/download/pdf/229761118.pdf
この回答へのお礼
お礼日時:2021/05/04 22:50
回答ありがとうございます。
一部の例外はあったが、石高の大小に関わらず
全ての大名は参勤交代していたということですね。
鉄道も自動車もない時代に福江島から江戸まで
行ったり来たりって凄い重労働で、今の人間には
想像もできない。
No.5
- 回答日時:
「大名」 は 「江戸時代に1万石以上の大きな所領・石高を持ち、徳川将軍家と緩やかな主従関係を結んでいた有力な武家・藩主」 を意味しています。
もちろん大名には全員参勤交代の義務が課せられていました。 また、大名でなくても、大名格 (石高1万石以上)の「藩主」 も、参勤交代の義務がありました。 すなわち、自分の藩を持つ全ての「藩主」に参勤交代の義務が課せられていました。No.3
- 回答日時:
参勤交代を免除された藩はありましたが、石高で線引きされていたわけではないです。
家康が江戸定府を定めた水戸徳川家と幕府の公職についていた大名などです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BA%9C
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