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下山事件の真相は当時の国鉄関係者や目撃者に聞き取りを行えば、分かるのでは?

A 回答 (3件)

下山事件のあった1949年当時の国鉄関係者って、2022年現在90〜140歳ですよ。


地獄ででもなきゃ聞き取りを行えませんので、分かりません。

そもそも70年間国鉄関係者や目撃者に聞き取りをした結果が「分からない」という答え。
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国鉄関係者や目撃者に聞き取りを行った結果自殺として処理された、ということになってます。

真相を知りたいんだったら聞き取りを行うのは当時の政府関係者かGHQ関係者でしょう。みんな鬼籍だろうけれど。GHQが関わってればもしかしてアメリカの公文書の公開時に出てくるかもね。
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下山事件は、日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に轢死体で発見された事件。



事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁内部でも捜査一課は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。

1964年7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。

他殺説の主張
下山が総裁だった当時の国鉄の幹部や従業員の中には、「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」という矜持が強かった。
実直な下山が、遺書も残さずに死ぬわけがない(国鉄の同僚の島秀雄・加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。
轢断面やその近辺の出血といった痕跡がないのは、轢かれる前にすでに死んでいたことを意味する(東大・古畑説)。(ただし遺体を剖検した法医学者の古畑種基は「死後轢断」と断定しただけで、他殺とは言わなかった。理屈のうえでは、自殺者の遺体が轢かれても死後轢断になることに注意)
前日7月4日の午前11時頃、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。
現場で発見された下山の靴は、毎日下山家の書生が磨いていた。書生の証言によれば、下山はこの靴を大切にしており、必ず橙色のコロンブス靴クリームを使って磨かせており外で靴磨きに磨かせたことはなかった。だが発見された靴にはコロンブスではないメーカーの焦げ茶色のクリームが塗られており、塗り方も書生の丁寧な塗り方とは異なり、靴紐や紐を通す穴などにクリームが付着している乱雑な塗り方であった。靴磨きを商売とする者がこの様な乱雑な仕事をすることはあり得ない。また靴紐の結び方も下山のものとは異なっており、下山の妻は下山の結び方とは全く違うと証言している。
下山の着衣に付着していたヌカ油と染料の組み合わせは皮革の捺染で用いられる。当時皮革捺染は東京の北東部、特に荒川沿いに集中しており現場付近にも捺染工場が複数存在した。下山はそれらいずれかの工場内に連行され、暴行殺害の後自殺に偽装するため現場に遺体が遺棄された可能性が高い。
当日現場付近で目撃された下山らしき人物は、故意に目撃されるように行動していたと思われる。これから自殺しようとする人間が人目に付くような不可解な行動をするとは考えにくい。
下山は当日朝食時、同日に名古屋から帰郷する予定の長男に会うのが楽しみだと語っていた。
仮に捜査一課が作成した自殺説に基づく報告書に書かれていることが全て事実であるとするならば、下山は5日20時50分に最後の目撃者である三田喜代子に目撃された後、列車に轢断される6日0時20分までの3時間30分の間に、自分でヌカ油が大量にある工場に忍び込み身体に油を浴び、染料のある倉庫に忍び込んで身体に染料をまぶし、石膏の塗られている壁を探し出してそこに寄りかかって石膏の粉を付着させ、その後線路脇のロープ小屋に移動して自分の身体に傷を付けて出血させ、小屋の床に血溜まりを作った後小屋の扉に手で血をなすり付け、それから線路に上がり血を滴らせながら東武線のガード下まで右左によろけながら歩き、時には立ち止まって血溜まりを作り、轢断現場にたどり着いた後靴を脱いでレールの上に置きその場にうつ伏せで横たわり、その後列車に轢断されたことになる。

自殺説
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張(毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため)。同紙記者平正一は取材記録を収めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。

1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし、調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
冤罪事件の被害者を支援してきた山際永三は「我々,冤罪に関わる人間が,一つのリトマス試験紙にしているのが下山事件なんです。下山事件は他殺だっていう人は私らの仲間ではないんです」とまで言い切っている。

自殺説の主張
失踪の直後、平塚八兵衛が下山の自宅に事情を聞きに行ったところ、まだ遺体が発見される前だったが、妻は「ひょっとしたら、自殺じゃないかしら。自殺じゃなければ、いいんですが……」と言った。平塚はのちに「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と回顧している。その後、平塚が東京鉄道病院の記録を調べたところ、下山は6月1日に神経衰弱症と胃炎という診断を受け、1日にブロバリン(睡眠薬)0.5グラムを2袋ずつ服用するなど、かなり重篤な状態であった。
下山には事件現場の土地勘もあった。現場はもともと鉄道自殺が多い場所だった。鉄道局長だったころの下山は、自殺対策がらみの仕事で地元と交渉するため、現場付近に来たことがあった。
事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、それらの先々で用件を言うでもなく他愛のない話などをして去っていた。ほかにも前日から当日朝(GHQより迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、開館時間終了後の交通会館に管理人に鍵を借りて入り、品川の日本列車食堂レストランから弁当を届けさせて一人で食べるなど)。
鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血がないこともある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器が粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
ルミノール検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車のトイレは垂れ流で、線路ならどこでも女性の経血で血痕ができるという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁がなく、犯行には不適である。ただしこの説に対しては殺害現場が別にあり、殺害後の下山の遺体をここに運び込んだという説明も成立する。
下山総裁一家と親しい間柄であった吉松富弥の証言[信頼性要検証]では、総裁死亡数日前に直接本人より「GHQから国鉄職員大量解雇の指示があって、弱ってるよ」との話を聞き、死亡当日には妻より「自殺したのだと思う」との言葉を聞いている。吉松は証言の中で、自殺とするより他殺にしておく形の方が日本国全体、GHQ、さらには下山家にとってもベターな選択だったのではないか、と述べている。
事件直前に轢死現場付近で下山と酷似する人物が1人で何か植物を掴むのが目撃されており、下山の上着のポケットから轢死現場付近の植物であるカラスムギが発見されている。ただし、これには替え玉が下山の上着を着て現場周辺を歩き回り、轢断前に下山の遺体に着させたという説もあり、自殺の根拠としては弱い。
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