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 二度にわたる元寇は、台風(神風)により元軍の船がほとんど全滅してしまったと言われています。
最近の研究では、台風の時期ではなく、台風は無かったとも言われています。
 台風があったとして、日本側の台風による被害はあったのでしょうか。一夜にして大艦隊が全滅してしまうほどの台風なら、当然日本側にも相当の被害があったと思うのですが。

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A 回答 (6件)

 確かに第1次蒙古襲来である文永の役(1274年)には、台風は吹かなかったと考えられているようですね。



 元と高麗の大軍が対馬・壱岐に襲来し勢いをかって博多に上陸したのは、十月ですが、新暦に換算すると十一月の下旬ですから、台風の吹く季節ではありません。

 元の記録を見ると、高麗の船を徴発した元軍が壱岐・対馬を侵略したことは確かだが、後は博多に上陸して、偵察しただけで帰国したことが分かります。戦いは殆どありませんでした。けれども、日本の記録で竹崎末長らが奮戦したことになっているのは、そうでも言わないと恩賞が貰えないからだと思われます。

 一旦帰国した元軍は公安四年(1281)、南宋の水軍まで連れて14万もの大軍で襲来します。日本側も博多湾の海岸に石積みを築いて、これを迎え一進一退をを繰り返しますが、元の援軍が到着する閏七月一日に、今度こそ台風が襲って、元軍は壊滅的な打撃を被るのです。

 しかし、この時の元軍の行動には謎が残ります。何故、台風が吹いた時あの狭い博多湾に数百隻も終結していたのか。

 第一の原因は蒙古人が海戦を知らなかったことです。朝鮮の船を徴発してやって来た訳ですが、朝鮮の水夫の言う通りにすればいいのに、蒙古人の大将が命令する。台風襲来というので、博多湾に全ての軍船が入ってしまったのです。大きな風が吹いた時には、船は港から出るものです。
船と船の距離を離さないと危ないからです。それを逆に鎖で縛って大船団を繋(つな)いだのです。

 しかも、朝鮮の船は、前後左右に突起がやたらにある構造です。船と船がゴトゴトとぶつかり合っているうち、錐(きり)で付き立てたように船に穴が開いて、さしもの大船団もほとんど沈没してしまったのです。

 また、台風の時は陸に上がって避難するのが常識です。ところが、元軍は全員船に乗っていました。何故かと言うと、彼らが日本にやって来たのは夏で、海岸には蚊がいたからです。

 蒙古は乾燥地帯で蚊が一匹もいません。真夏に真っ裸で寝ていても、蚊に刺される心配がないのです。

 ところが日本はそうはいきません。博多に上陸して、大宰府まで攻めに行くが、近くまで行ったところで夜になる。暑いから裸で寝ようとするが蚊がいっぱいいて眠れたものではない。睡眠不足で戦うと疲労するから、結局、船の上で寝る。蚊のおかげで彼らは船と大宰府の間を往復ばかりしていた。そうだから、台風が来たときも元軍は全員船に乗っていて全滅したということでしょう。(と言う訳で日本側には被害が無く、元軍にだけ被害があったのは少しもおかしくは無いのです。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「蚊」とは新しい見方ですね。考えたこともありませんでした。元の将軍は海戦の経験のある南宋の武将の意見なんて聞く耳持たず、と言ったところだったのでしょうね。日本軍も小船で夜襲をかけたそうですが、
嵐の日に船を出したりはしないでしょうし。
 日本軍にしろ、島民にしろ被害の出るほどの台風ではなかった、のでしょう。そう考えます。

お礼日時:2005/04/02 20:43

元寇(蒙古襲来)は文永の役、弘安の役と二度行われていますが、いちおうこの戦いに関してはどちらも『神風』にて退けられたことになっています。



しかしまず文永の役ですが、嵐があったと書かれているのは日本側の『八幡愚童記』ではなく、高麗の『東国通艦』です。
嵐があったとされるのは夜なのですが、もし実際に大嵐があったとするならば、日本軍もなにか気がつくのではないでしょうか。
ところが、日本軍は朝になってはじめて元軍がいないことに気がつきます。しかも嵐で撃退されたと考えるのではなく、夜のあいだに元軍が帰ったというふうに考えているのです。
ということは、日本の被害はそれほどでもなかった、といえるのではないでしょうか。

しかし、二度目の弘安の役では実際に台風がきています。前回とは桁違いの4千ほどの船がやってきたわけですが、しかし当然この大軍すべてが日本の湾内に入れるはずがなく、後尾はまだ東シナ海にあったとか。
東シナ海まである船が台風でやられたとは思えませんが、湾内の船がかなりぎゅう詰めの状態であったことは確かでしょう。
こうした状況で、そもそも手抜きで作られた船が長くもつわけがありません。実際には、台風の影響にくわえて左右の船との激突による沈没もあったのではないでしょうか。

また、このときの日本には前回の経験を生かして3メートル近い石塁(石築地)がありました。これが防波堤の役割を果たしたというのなら、湾岸付近の被害はさほどでもなかった、と考えてもいいのではないかと思います。日本側の被害については特に語られていませんから、少なくとも語るほどの損害はなかったはずです。

ただし文永の役において、時期はずれだからといって台風が来ないともかぎらないようです。
その点について、面白いページを見つけましたので、参考までにURLを掲載しておきます。
これを当時の地形や住居の様子などと照らし合わせてみれば、また違う発見があるかもしれません。

参考URL:http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakur …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本軍側にはなんら被害は無かった。ということですね。また、「石築地」が防波堤の役目をしていた。のなら多少の波も防げたわけですね。
なるほど。
しかし、暴風雨による陸地で何らかの被害はあるのではと思います。
 ご紹介してくれました、ページ大変参考になります。

お礼日時:2005/04/03 22:00

時期だけで台風がこないとは断言できません。

日本付近に台風が接近するのは海水温と太平洋高気圧の張出しに左右されますが、当時の天気図がない限り判断する材料はありません。

現実に11月にも時期はずれの台風が来ることはあります。

もちろん台風だけとは限りません。強い季節風とか温帯低気圧でも暴風は起こります。

日本側の被害ですが、あまりにも日常茶飯事のことであり、だれも記録など残さなかったのでしょう。毎年、数個は台風が接近する日本です。毎年の記録を保存していたら膨大な量になってしまいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
季節はずれの台風、確かに今もありますね。
日本側の記録が無いとのことですが、
武士、公家、島民が何らかの記録は残していると思われます。伝聞や伝承として。
まあ、取り立てて言うほどの被害は無かったと
言うことでしょうね。

お礼日時:2005/04/03 16:49

文永の元寇は10月で台風のシーズンオフであり、日本側の伝聞と後年の資料にしか記録がないので、暴風雨といほどの物ではなく、せいぜい風雨の強いものとされています。



おそらく日本側の防戦の激しさに驚き、兵力装備の不足に気付いたのと夜間急を聞き松明をかかげて博多へ向け集結する夥しい明かりの量に継戦をあきらめ一夜にして撤退となったのでしょう。

実際に台風のあったのは弘安の元寇の時でした。
当時十分な準備と兵力で襲来しましたが、朝鮮を出発した東路軍は壱岐に向かう5月26日ごろすでに暴風にあい、その威力を経験していたようです。
6月6日博多に上陸しようとして、日本の防壁と十分な兵力準備にあい、近くの小島沖に停泊し一部の兵を上陸させましたが日本軍の夜襲や陸戦に悩まされ、東路軍は舟を鉄鎖でつなぎ防戦につとめました。

ここへ江南軍が大兵力で到着し決戦の日を迎えた。
所が7月30日から吹き始めた暴風が台風になり江南軍は大損害を受けたのが世に言う神風だったのです。
全部の船が沈没したのではなく助かった兵力は、その後の日本軍の掃討戦で殲滅されたのです。

当然日本側も被害を受けたでしょうが陸上と海上ではその大きさが違います。  地上で倒壊する何かの下敷きにでもならない限り助かりますが、荒れ狂う海上では溺死します。
しかも未曾有の大難が勝利に終わったので、台風の被害の記録は埋もれてしまいよくわかりません。

短期間に多くの大船を建造したのですから相当無理があったでしょうし、多少の瑕疵は見逃されたでしょうが無理からぬ事だったでしょう。

しかし「神風伝説」を生んだ事は後世幸せだったでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本側の記録というと「東鑑」でしようか。
確かに国難を振り払った大勝利を喧伝し、
鎌倉武士ここにありと言ったところでしょうね。
 だから、日本側の被害なんてたいしたことないと。
あっても、書き残すほどのことも無い。
地元にも被害の記録や伝承も無いのですね。
つまり、日本側:武士団、地元民にはそれほどの被害の出るほどの台風ではなかったと。

そう考えれば納得できます。

お礼日時:2005/04/02 20:36

日本に台風の被害はないでしょう。

というか台風じゃなくて暴風雨くらいだと思います。
実際、最初の文永の役において台風の記述は日本側資料にはないそうで、朝になったら元の船も人も消えていたと書かれてるだけです。当時元に支配されていた高麗の記述にはあるとの事ですので海はしけていたのだと思いますが。
台風ほどではないでしょうね。

元という国自体モンゴル民族(騎馬民族)の国ですから海上の戦法は不慣れですし、造船に関しては漢や高麗人に作らせていたので彼らは支配される事に不満を持っていた
事もあってかなり手抜き工事だったから暴風雨くらいでも十分痛手になるかと思います。

この回答への補足

なるほど。暴風雨で民家の屋根が飛んだとか、陣営が飛ばされたとかの被害はあったのでは。
漢や高麗人が作ったとしても、勿論あなたの言うとおり、手抜きはあったと思いますが、旧宋軍や高麗の軍もあったわけですし、まさか同胞の乗る船まで手抜きはしないと思います。モンゴル軍は海戦は不得手でも、漢人の軍は海戦の経験はあるでしょう。
結果としては、日本は勝利したわけですが。
 お答えありがとうです。

補足日時:2005/04/01 21:37
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日本は被害無いでしょう。



まず、日本は港に泊めています。
元軍は海に船を置いています。


それだけですが

台風かどうかはさておき、季節風とかもありますしね

この回答への補足

なるほど。港と言っても鎌倉時代の港は自然の浜や入江でしょうね。消波ブロックやコンクリートの防波堤もありませんし。博多湾がどんな地形なのかは分かりませんが。船に被害が無くても民家や陣営に何らかの被害があったとも思うのですが。
お答えありがとうです。

補足日時:2005/04/01 21:31
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(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

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これにはペリーも驚いた。
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ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
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まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
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幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む

Qノートパソコンでブルーレイは見れますか?

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具体的には、対応メディアにBDという表記が必要となります。

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

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この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q北海道はどうして「道」なのですか?

素朴な疑問ですが、他は県なのに、どうして北海道は「道」なのですか?

Aベストアンサー

 こんばんは。
 
 序ですから都道府県という行政単位の呼称の歴史と違いについても一緒に解説しておきます。
 
 “北海道”は本州・四国・九州とは異なった歴史を有しています。府県は明治政府が江戸幕藩体制の“藩”を国の直轄する地方機関である“県”や“府”に置き換えたものです。いわゆる“廃藩置県”です。
 
 しかし北海道、すなわち当時の蝦夷地には江戸幕府の支配は及んでおらず、藩も存在していませんでした。現在の渡島半島には“松前藩”がありましたが、他の藩とは別格の存在です。新しい一つの地方機関で管轄することになり、明治新政府はそれを“北海道”と命名しました。
 
 “北海道”の名の由来は、奈良時代から平安時代にかけて存在した“五畿七道”という行政区画を参考にしたようです。“五畿七道”とは山城・大和・摂津・河内・和泉の五国と“東海道”・“南海道”・“西海道”・”東山道”・“北陸道”・“山陽道”・“山陰道”です。皇宮周辺の五国は重視され、それ以外の地域は国の上に道という行政区分を敷いていた訳です。

 “府”と“県”は重要度の違いと考えるべきでしょう。“県”は訓読みでは“あがた”と読み、単に“地方”を意味する言葉ですが、“府”という言葉は古代から“役所”の意味で使われてきました。そこで明治政府にとって特に重要な東京(首都)・大阪(商業都市)・京都(旧皇宮所在地)だけは府”とし、 他は“県”と呼ぶことになったようです。

 “都”は戦時体制の生き残りです。戦前は“都”がなく、上記の通り東京も“府”でした。“東京都”は太平洋戦争中の1943年に東京市(現在の23区)と東京府の機能を統合して出来たものです。戦争中は国家総動員体制のため、各種の機関が統合されたのですが、これもその一つです。中央集権主義の当時、東京市は国家機関の一種とされていたようです。
 
 戦後の地方自治制度の再整備によって、都道府県の法的な差異は全く無意味なものとなり、単なる名称の違いだけになりました。北海道という名称は「北海+道」でも「北+海道」でもなく、強いていえば“北海道”という名称で“都府県”のような行政区分の名前と地方の名前を兼ねているということになります。厳密な意味では“都道府県”ではなく“北海道都府県”ですね。 
 
 また、北海道には支庁という制度があります。これは広域な北海道の行政区分を分割するものですが、これを一つの県と考えることも可能でしょう。実際にこの支庁を県として独立させることも検討されたでしょうが、北海道の人口は面積比にして少ないです。分割してしまうと、他の“都府県”との格差も大きいということで白紙にされたと思います。
 
 しかし東京都“Tokyo Metropolitan Government”を除いては、神奈川県も大阪府も全て“Prefecture”です。そこで北海道は“Hokkai Pref.”なのか“Hokkaido Pref.”なのか、言語学者の間では論争となっているようです。北海道庁は後者を採用しています。私は“Hokkaido District”を勧めます。その方が“道州制”施行後の名称統一がスムーズに行えると考えます。
 
北海道庁:http://www.pref.hokkaido.jp/menu.html
 
北海道庁>地方分権・道州制:http://www.pref.hokkaido.jp/skikaku/sk-ssnji/bunken/
 
戸田孝の雑学資料室>「都」と「道」と「府」と「県」の違いについて:http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefrank.html
 
>>

 こんばんは。
 
 序ですから都道府県という行政単位の呼称の歴史と違いについても一緒に解説しておきます。
 
 “北海道”は本州・四国・九州とは異なった歴史を有しています。府県は明治政府が江戸幕藩体制の“藩”を国の直轄する地方機関である“県”や“府”に置き換えたものです。いわゆる“廃藩置県”です。
 
 しかし北海道、すなわち当時の蝦夷地には江戸幕府の支配は及んでおらず、藩も存在していませんでした。現在の渡島半島には“松前藩”がありましたが、他の藩とは別格の存在です。新しい一つの地...続きを読む

Q懲役2年6月、執行猶予5年ってどうゆうこと?

懲役2年6月、執行猶予5年って判決の意味がわかりません。
これって、実際に2年6ケ月牢屋にはいらなければいけないのですか?
執行猶予5年の意味もわかりません。

Aベストアンサー

懲役(2年6月)=(最長で2年6ヶ月の間)刑務所に入って所定の労働をしろ、ということ。
執行猶予(5年)=刑罰を直ちには執行しないで、執行猶予期間中(の5年の間に)罪を犯さなければ執行猶予期間が満了(となる5年が経過)した時点から刑そのものを帳消しにして無かったことにする、ということ。

執行猶予期間中に新たに罪を犯したりすると執行猶予が取消になることがあります。執行猶予が取消になると刑罰を執行することになるので刑務所行きになります。しかし、執行猶予期間中に新たに罪を犯したとしても、条件は厳しいですが執行猶予が取消にならないこともあります。

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。
話す時はどちらでもいいですよ。

ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。「すいません」はちょっとくだけた感じかな。でも、これはあくまで私個人の語感。人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。

書くときはもちろん「すみません」にしましょう。

発音しやすく変化した発音の他の例としては
手術(しゅじゅつ→しじつ)
洗濯機(せんたくき→せんたっき)
などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む


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