ネタを探しています。

到底難しそうな約束をして実際に守り、何か大きなことを成し遂げたとか、大切な人の信頼を勝ち取ったとか、そんなような歴史上有名な人の話を知りませんか?
現代の偉人とかでもいいです。

よろしくです~☆

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A 回答 (12件中1~10件)

源義経なんかはどうでしょう?


いま、大河ドラマでもやっているし…(^^ゞ
平家討伐の一ノ谷の合戦、屋島の奇襲、壇ノ浦の合戦など、勝ち目のない戦で奇跡的な逆転勝利を勝ち取り、あまりにも勝ちすぎたので後の将軍である兄・頼朝には疎んじられましたが、後白河法皇からは絶大な信任を得られたようです。
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古代中国の名君「重耳」という人がいます。


重耳は君主である父に殺されそうになり、他国に亡命し、何年も他の国を転々とし不遇の日々を送っていた。
その後「楚」という大国に訪れた時、他の国の君主は見向きもしなかった重耳を厚遇する。
楚王は重耳に「貴方が国に帰り、王になれた時、何をくれるのかな?」と聞いた時重耳は「貴方の国は財宝も美女も有り余っておりますから、私の国と楚が争った時、私の軍を三舎(3日の行程分)退きましょう」と言った。
後年、重耳と楚王が戦った時、重耳が圧倒的有利だったにもかかわらず、約束を守り、三舎退いた。
その後、重耳は亡命中に恩を受けた国や人を助け、粗末に扱った国を討ち、春秋戦国時代の覇者となった。
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意外なところで戦国時代を代表する梟雄・宇喜多直家など。



備前の浦上家の最前線に乙子城という城を築いたのですが、強敵に囲まれている上に城は小さく、味方の城とは離れていたので、誰一人進んで防衛に当たろうとする武将は居ませんでした。

そんな中、17~8歳の直家が志願して入城し、耕作したり夜盗・辻斬までし、それでも足りないので直家はじめ全ての者が月に何度も断食して兵糧を確保し、見事城を守りきり、逆に敵の領地まで兵を進めました。

見事期待に答えた直家は主君からの信頼を勝ち得、落ちぶれていた宇喜多家は復活の足がかりを掴むのですが、その後は毒殺やだまし討ちなど凄惨な謀略の限りを尽くして主家を凌ぐようになり、ついに浦上宗景を追放してその版図を乗っ取ってしまいました。
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東海道新幹線の経路・駅に関する国鉄の公式記録では



・新幹線の経路として山脈をぶちぬくルートと迂回するルートの 2つが検討され, 建設の技術的・時間的な観点から迂回するルートが選ばれた (つまり, 当時の技術では山脈をぶちぬこうとすると開業が間に合わなくなる可能性があった).
・その結果, 迂回路で列車遅延が発生することが予測されるため, 退避設備としての駅を (現在の位置かどうかはともかくその付近には) 作らざるをえなかった.

として, 政治家の働きかけによって駅を設置したことを否定しています (働きかけの有無に関係なく駅を作らなければならなかったのだから).

見方を変えれば「地元請願駅」といえなくもないんですがね.
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あんまりピッタリそうなのは思い浮かばないですね。


事前に約束をしたことまで後世に伝わってないと言うか。
・源義家
後三年の役で部下に恩賞を約束したが、朝廷からは私闘とみなされ恩賞がもらえなかったので、自分の領地を割いて恩賞を与えた。→関東武士が源氏に恩を感じる元になった

・勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城

政治家がらみではいろいろ「公約」はありますが。
・池田勇人元首相の所得倍増計画
・某政治家が地元に駅を作ると約束して、東海道新幹線の経路を曲げたとか(笑)…地元民の信頼は勝ち取ったでしょう
・郵政民有化?
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三国志の話で


太史慈が呉に降るときの話はまさに
「走れメロス」的なエピソードです。

孫策の呉郡攻略の際
孫策と一騎打ちの後意気投合し
孫策軍に降る約束をした太史慈は
兵を集める為に一度劉ヨウ軍の元へ戻る。
孫策は太史慈を信じそれを快諾するが
家臣は誰もが太史慈が約束を違えると口々に言った。
しかし太史慈は約束を守り部下を連れて孫策に降った。
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マイナー路線で:


ケマル・アタテュルク: オスマントルコ帝国の借金を返した

革命などが起きたことで旧政権が外国にしていた借金を「なかったことにしてしまう」ことが多い(例: 旧ソ連というかロシア・ソヴィエト)中で, 一応借金を返したというある意味で珍しい例.
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宗教の開祖と言われる人は大なり小なりそのような人では?


ダビデはエジプトから奴隷とされていたユダヤの人々を神に啓示されたカナンの地に導く事を宣言し紅海を渡りパレスチナに達したといいます。
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ギリシャのアレキサンダーは自分が最高と信じたギリシャ文明を世界に広める事を使命と考えて世界征服の遠征を始めました。


当時世界最大のペルシャ帝国と戦い次第に版図を広げてついにペルシャ全土を征服しましたが、それで留まらずインドまで遠征しましたが、部下が長い遠征に疲れ帰国を迫ったのでついに帰国を命じたといいます。

この間ペルシャ文明がギリシャ文明と比べて遜色のない事を発見し両文明の融合を押し進めました。
見たこともない異境へ突進した勇気は誰にも真似できない偉業でした。
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ゴダイバ夫人(だっけ?)なんかどうでしょう?

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Q偉人の名言、格言

歴史に残る偉人の名言、格言の筆書がどこで手に入るかわかるかたいたら教えてください。

Aベストアンサー

名言集や格言集のようなものをお探しだと思いますが、この手のものは図書館に行けば、たいがい置いていると思います。
また、アマゾンなどで「名言」「格言」のキーワードで探すのもよし、WEBでも参考になるサイトはたくさんあるようです。

参考URL:http://www.kkgs.net/

Q歴史とは偉人たちの伝記の集まりなのでしょうか

歴史という科目は偉人たちの伝記の集まりなのでしょうか。」

Aベストアンサー

「歴史」と一言で言っても,その定義付けは非常に多様でなかなか説明しづらい言葉でもあるんですよね。
で,この「歴史とは何か?」を考える学問に「歴史哲学」というものがあります。
「歴史」という概念を高名な哲学者・歴史学者が色々と定義・分類しています。
参考までに近現代に絞ってその一端をご紹介します。

1・ヘーゲル(ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺として位置づけられる)

彼は,歴史を大きく二つにわけて考えました。
一つは「客観的歴史」です。
これは,「過去に起こった種々の事柄、出来事」であるとします。

二つ目は「主観的歴史」です。
これは,今生きる「わたし」が「過去に起こった事柄を探求し叙述する」歴史です。

この二は歴史の持つ性質であり,故に難しい問題を孕んでいることになります。
「歴史」を示す英語「history」の語源はギリシア語の「Historein」からです。
この言葉の意味は「調べて、学び知り、物語る」という事です。
そして「歴史(学)」とは,「過去の出来事」の中で「現代に残ったモノ」を「調べて」、そこから某かを「学び知り」、その内容を何らかの方法で第三者に「物語る」ことです。
さて,彼が「物語る歴史」は本当に正しいのか,言い換えれば客観的なのかとい問題が出てきます。
客観的であればそれは「真実」であり,主観的であれば「彼」の創作でしかない。

つまり,「過去の出来事(客観性)」と「その出来事を調べて書く(主観性)」が複雑に絡み合ったのが「歴史」の性質なわけです。


2・ベルンハイム(ドイツの歴史学者)

彼は「歴史の著述の仕方」を三つに分類しています。

一つは「物語風歴史」です。
これは,過去の出来事をを著述家・語り手が自らの関心を基に表現された歴史です。
「顕著数奇な人の運命や魅力」に惹かれて語られる神話や伝説,英雄的エピソードなどがこれにあたります。

二つ目は「教訓史的歴史」です。
著述家・語りてが過去の出来事を語るだけでなく,それを評価し,後世に対して忠告や警告を与えるために書かれた歴史です。
よく,「歴史に学べ」とか「これを教訓にしなければ」とか言われるのがこれに当たります。

三つ目は「発展的歴史」です。
これは,近現代の歴史学が到達した「科学としての歴史」です。
物語は英雄の輝かしい功績など,語り手が受けた印象を主観的にしか語られていません。(そして多くは脚色される)
教訓史では,語り手の問題意識によって出来事が選び出されてしまい,これも主観的です。
しかし,「歴史学」は多くの史料を検証し「なぜそれが起こり,結果どうなったのか」という一連の問題意識をもって客観的に認識しようという学問です。
その域に人間はやっと達したと彼は考えました。
ただ,ベルンハイムが言うほど事は簡単では無いのですが・・・。


3・E・H・カー(英国の歴史家・外交官)・クローチェ(イタリタの政治家・哲学者)

「歴史とは現在と過去との対話である」
カーの有名な言葉です。
歴史の客観性とは,自然科学のように「絶対的な法則」は無く,「事実と解釈」の間、「過去と現在と未来」との関係性において存在するとしました。

「すべての歴史は,現在の歴史である」
クローチェの有名な言葉です。
歴史が語られる時,その背景には必ず現代の問題意識が絡んできます。
その問題意識から人は過去の事実を知ろうとし,過去もそれに対して語りかけてくるとしました。

以上,主だった歴史家・哲学者の分類・定義付けです。
他にも色々な人が色々な定義付けをしていますので,「歴史哲学」で検索してみると視野が広がって良いかもしれません。

ではでは、参考になれば幸いです。

「歴史」と一言で言っても,その定義付けは非常に多様でなかなか説明しづらい言葉でもあるんですよね。
で,この「歴史とは何か?」を考える学問に「歴史哲学」というものがあります。
「歴史」という概念を高名な哲学者・歴史学者が色々と定義・分類しています。
参考までに近現代に絞ってその一端をご紹介します。

1・ヘーゲル(ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺として位置づけられる)

彼は,歴史を大きく二つにわけて考えました。
一つは「客観的歴史」です。
これは,「過去に...続きを読む

Q昔の偉人の思想や格言が載った本

僕はインターネットで調べたところ人々の思想について興味を持ちました。
特に揺り動かされたのは生と死に関する思想。本当に心を動かされました。

例えば、
・私はつらい人生より死を選ぶ。
byアイスキュロス
・最初の呼吸が死の始めである。
byフラー
・生きるべきか、死すべきか。それが疑問だ。
byシェークスピア

などです。(以上ttp://kuroneko22.cool.ne.jp/life&death.htmからの引用です)

そこで、昔の偉人の思想、格言についてまとめられている本はないでしょうか。(生と死のことでなくてもよいです)
ただし、日本語で意味が載っているものをお願いします。英語の原文が載っていなくても日本語での意味が載っていたらokです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私も格言好きです。
格言集は本当に山のようにありますから、より多くの格言を知りたいなら図書館の「人生訓」というようなジャンルのコーナーに行ってみることをお勧めします。分類番号は159だと思います。

私が持っているのは
堀秀彦「格言の花束」とゲーテ「ゲーテ格言集」の2冊です。

前者は<生きる苦しみを思う人に>や<恋をしている人に>などの項目別にたくさんの言葉が掲載されています。後者も<人間について>という風な項目別だったと思います(今手元にないので)。
どちらも解説なしです。

Q遣唐使とか遣隋使とかは、現代版として復活する可能性がありますか?

中国の近未来を教えてください。世界史の流れでは今後中国はどういう位置づけになりそうなのか、お考えを教えてください。

Aベストアンサー

「朝貢」

・・といって、中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して
皇帝側が「確かに君主である」と認めて恩賜を与えるという貿易・・

それが日本の場合「遣隋使」「遣唐使」です。

まぁ日本は「中国の臣下」という位置づけです。

(一度対等な立場で訪問した際、煬帝に怒られた)


世界的に見て強い影響力をもつようになった中国です。
今後アメリカと2強体制になっていくのかもしれません・・。

また、日本には資源はありませんが技術はありますね・・。

TPPが死に、中国主導のRCEPが今後どうなっていくか
ですね・・。

(これが現代版遣唐使になる・・?)

Q歴史上の人物や偉人の名言・格言を作詞に入れて曲をつけて販売するのは違法なのでしょうか?

別に今すぐにどうするってことはないのですが、商業的に使用してはいけないのかな?使用するとどうなるのかな?とふと疑問に思ったので、もし良かったら教えてください。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

その格言などが、ただの言葉でしたら、著作物ではないのでかまわないと思われます。

No1さんのおっしゃるように、詩、短歌、小説、戯曲のフレーズなど、著作物だったら、著作権の保護期間が過ぎたものでないと、著作権者(著作者やその遺族など)に使用許諾を得る必要があります。

著作権の保護は、著作者の死後50年経過するとなくなります。ただし海外の人の著作物の場合、日本が第二次世界大戦で戦った連合国のものだと、戦時加算というものがあってプラス10年経たないと、著作権が切れないものもあります。

保護期間が過ぎた著作物は、使用許諾を得なくても使用することができます。

また、著作権の保護期間が切れたものだとしても、著作者人格権というものが存在しますので、それらの著作物の著作者を自分だと偽って使うことは禁じられていますし、著作者が生きていたら嫌がったであろう使い方(それらの著作物を馬鹿にするようなもの)は、制限されます。

詳しくはこちらをどうぞ

↓著作権の保護期間を教えてください。
http://www.bunka.go.jp/c-edu/answer.asp?Q_ID=0000185

↓著作者人格権は、いつまで保護されるのですか。
http://www.bunka.go.jp/c-edu/answer.asp?Q_ID=0000205

参考URL:http://www.bunka.go.jp/c-edu/answer.asp?Q_ID=0000185,http://www.bunka.go.jp/c-edu/answer.asp?Q_ID=0000205

その格言などが、ただの言葉でしたら、著作物ではないのでかまわないと思われます。

No1さんのおっしゃるように、詩、短歌、小説、戯曲のフレーズなど、著作物だったら、著作権の保護期間が過ぎたものでないと、著作権者(著作者やその遺族など)に使用許諾を得る必要があります。

著作権の保護は、著作者の死後50年経過するとなくなります。ただし海外の人の著作物の場合、日本が第二次世界大戦で戦った連合国のものだと、戦時加算というものがあってプラス10年経たないと、著作権が切れないものもあります。...続きを読む

Qヨーロッパの歴史で代表的な偉人は?

ヨーロッパの歴史を学びたいと思い、とりあえず何人かの偉人から入ろうと考えています。
なにせ私は日本史を「坂本龍馬」「織田信長」「源義経」などの英雄譚で詳しくなったので。

ただ、私はヨーロッパの歴史は詳しくありません。
ヨーロッパで名前を知っている偉人なんて、両手があれば数え終わります。

なので、ヨーロッパの歴史で、歴史を変えるような大きな働きをした代表的な偉人を教えて下さい。
また、ジャンヌ・ダルクのように、歴史全体から見ればそれほどの活躍ではないものの、小説や映画などで多く語られているような偉人も、よければ教えて下さい。
ただ、ダ・ヴィンチやガリレオのように政治に関わりが薄そうな文化人や科学者、そしてロビンフッドのような伝説上の人物などはちょっとご勘弁を。

Aベストアンサー

tapaさん、こんばんわ。

そうですね。有名なのはカール大帝でしょうか?後はナポレオン、ロシアのピョートル1世、ハプスブルク帝国の皇帝カール5世、マリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ2世、フランスのルイ14世、イングランドのエリザベス1世というところでしょうか?
詳細は下記のURLを参照ください。


カール大帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
ルイ14世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96
エリザベス1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B91%E4%B8%96
ナポレオン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3

ピョートル1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB1%E4%B8%96

カール5世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB5%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
マリア・テレジア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2
フリードリヒ2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B)

tapaさん、こんばんわ。

そうですね。有名なのはカール大帝でしょうか?後はナポレオン、ロシアのピョートル1世、ハプスブルク帝国の皇帝カール5世、マリア・テレジア、プロイセンのフリードリヒ2世、フランスのルイ14世、イングランドのエリザベス1世というところでしょうか?
詳細は下記のURLを参照ください。


カール大帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D
ルイ14世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96
エリザベス1世
http://ja.wikipe...続きを読む

Qこういう意味の格言というか偉人の言葉は何でしょうか?

こんにちは。お世話になります。

「生まれた時は人間ほとんど誰も同じだが、その後の環境や努力で大きく違ってくる」というような趣旨の言葉はなんだったでしょうか?論語の中にあったでしょうか?どういう言葉だったのか、誰が言ったのかも思い出せません。

漠然としていて大変申し訳ないのですが、ご教授をお願いできませんか?

Aベストアンサー

「習(なら)い、性(せい)となる」でしょうか?
《「書経」太甲上から》習慣は、ついにはその人の生まれつきの性質のようになる。
だそうです。Yahoo辞書から。

論語ですと
「子曰、性相近也、習相遠也。」
というのがあるようですね。
書き下し文
子曰わく、性、相(あ)い近し。習えば、相い遠し。
現代語訳
孔子がおっしゃいました、
「人は皆同じような性質を持って生まれてくるが、学習によって様々な人格に変化する。」

Q明智惟任日向守光秀などの「○○守」の命名者など

明智惟任日向守光秀、羽柴筑前守秀吉など「○○守」という名前(正確には、官職の名称でしょうか)がありますが、戦国時代においては、この名前は誰が命名したのでしょうか。

また、ドラマなどを見る限りでは例えば筑前守秀吉が筑前を統治したことなど一度もないように見えますが、「○○守」という名前を名乗っていることと実際にその「○○」の国を統治したかどうかあるいはその「○○」の国から金や物を納めさせたかどうかとは、戦国時代には、何の関係もないのでしょうか。

Aベストアンサー

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。


しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。
しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています(北条家臣団なんかは守職が山ほどいます。でも大名以外は任官していません。僭称です)。

織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。

・・・以下は取ってつけたようなものなので、かぶるところがありますがご了承を。

さて、誰がつけていたかというのをまとめると
1.勝手に名乗る
2.先祖が勝手に名乗ったものをそのまま使う
3.朝廷からもらう

もちろん本来的には3が正しいものです(正式任官となります)。
しかし、戦国時代以降3はほとんどなく、その多くは1,2、つまり僭称です。
なお、明智光秀の日向守については正式任官、羽柴の筑前守についても正式任官となります。
しかし、これは1575年の話で、それ以前になのっていたものは僭称となります(滝川一益は左近将監をなのっていたがおそらく僭称)。織田家については、京に上洛するなど、政治の中心地にいたから正式任官がいるわけでして、非常に「例外的」です。織田家については3でして、信長が朝廷に依頼して、家臣に官職を与えてもらったのです。

なお、僭称は江戸時代になると余計にひどくなり、守が人気のある国は5人くらいいるなどざらでした。

ただし、No1の方がいっているように「知行地と関係のない官位を名乗るのを禁止した」というわけでもなく、理由なんてほとんどなしに官職の名乗りは通されていました(実際にはその土地にかかわりがあるからという理由が必要だったのですが、そんなものはほとんど嘘を書いても通ったようです)。
例外的に「大名藩が丸ごと治めていて、かつその大名藩が名乗っている官職(前田の加賀守など)」については、禁止していました(それと同姓同守もまずいので差し止められました)。
また、これを行っているのは幕府です。本来的には守は朝廷が任官させるのですが、この時代は幕府が、名乗らせるかどうかを決めています。


統治したとか関係あるかというのは、戦国時代においてもほとんど関係ないです。えらそうに聞こえるから適当になのっていたようなものでして、あくまで「箔」なのです(そのため戦国時代以降において、名乗る=任官ではありません)。

まえに出ていた質問ですが、江戸時代の官職についてはこちらで詳しく述べられています。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2222395

参考URL:http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/zassou/zassou-nobunagakansyoku.htm

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついで...続きを読む

Q歴史上の偉人のオナニーに関する格言ってないんですか

歴史上の偉人のオナニーに関する格言ってありますか?あったら教えてください。

Aベストアンサー

戦時中、軍の秘密兵器を開発する研究機関で
湯川秀樹氏が(ノーベル賞受賞者)
「若い人は性欲が溜まり、研究に悪影響を及ぼすことがあります。そのような時は積極的に自慰をしなさい。そうすれば区切りがついて研究に没頭できます」
というニュアンスの公演をしたと聞いたことがあります。

自慰行為とは異なりますが、
日本企業最高益の本田技研創業者 本田宗一郎は、
機嫌の良いときには
「頭とチ○ポは使いよう」
「チ○ポは生きているときに使え」
と処かまわず蒙語していたようです。

Q羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

Aベストアンサー

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。

秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む


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