プロが教えるわが家の防犯対策術!

網野善彦著の「日本の歴史を読み直す」から引用します。

<この国の当初の制度では、公的な交通はすべて陸の道というのが原則だったので、>
道路が整備されていました。
<しかし、八世紀前半にたちまちその例外がみとめられはじめ、八世紀末になると、陸上の大道がだんだん荒れて、道のはばが狭くなり、部分的には使いものにならなくなってくることが、考古学の発掘によって確認されています。>

質問は、折角敷設された陸上の道が、なぜ、八世紀に使われなくなってきたのでしょうか?

A 回答 (5件)

律令国家の官道は、現在の高速道路と同じく地形を無視して真っ直ぐに開鑿した道でした。


当然ながら維持管理には手間と金がかかります。朝廷が経済的に窮乏してきたり、地方を税の収奪地としかみなさないようになり、公的なインフラ投資を行わなくなった事から、崩れたり流されたりした官道は放棄され、自然地形に沿った自然発生的な道が主要道となったのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<地形を無視して真っ直ぐに開鑿>ですね。私の住んでいるところでも。古代の官道が廃墟になって残っています。まっすぐで広く、今の国道と比較しても、遜色在りません。
<公的なインフラ投資>が行われなくなり、自然発生的な道が主要道になったのですね。

お礼日時:2023/01/14 16:19

> <一見整然と計画された平安京の路>は、<勝手が悪かった>のですね。



「一見整然と計画された平安京の路は、道として使いにくい、道としては具合が悪い」ということではないと、私は思います。
「平坦に整地された土地は、道として使う人も、牛馬を飼う場所として使う人も、糞便や用足し廃棄物捨て場として使う人も、耕作地に使う人も、遺体埋葬地に使う人も、家を建て住まう人、店を開く場所にする人、売買する土地として好適地だと目をつける人、色々いたのだろう」と思います。
「道は公用地であって、私物化してはいけない」というようには、多くの人は考えなかったのではないかと思います。
河原、野原、山麓、海浜、草原、雑木林、荒れ地、川沿いの木々の少ないところと、基本的に同じでしょう。 
人が住んでたところ、人が耕していたところでも、もう半年以上は放置されているように見えれば、そこに住んだり、家を改築したり、自分で耕したり、適当に通路・通り途に使ったりして良いと、多くの人は感じやっていたのだと思います。

明治になっても、かなりの土地は国有扱いになっているものの、事実上人々が自分たちで利用したり、元士族の授産事業として移植開拓地とされていたり、いろいろの利用形態があって、道もその時の住民が適当に作ったり、畑や宅地にしたり、色々利用していたようです。 『ここからここへ幅3mの道路で、地図上で明記され台帳登録されている』というような認識は、だれもしてないのに近いと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<「道は公用地であって、私物化してはいけない」というようには、多くの人は考えなかったのではない>のですね。
<道もその時の住民が適当に作ったり、畑や宅地にしたり、色々利用していた>のですね。

お礼日時:2023/01/20 09:42

平安京の大路についても、かなり自由に使用する傾向があったようです。


https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/047.pdf
P2/2の中央部
実際、このように一見整然と計画された平安京の路も、どうも生活をしている人々、特に庶民にとっては路として利用するには勝手が悪かったようです。『餓鬼草紙』という絵巻物には、人々が道端で大小便をしている様子が生々しく描かれていますし、朱雀大路の側溝からは人骨さえ出土したことがあります。都の中心の道路に埋葬が行なわれたのでしょうか。
また、平安時代の後半になると、不必要に広い路は実際の役に立たず、庶民が馬を放牧したり、畑を耕作したり、さらには家まで建てていたことが当時の禁令などの史料からわかります。やがて非合法に占拠された、本来は路であった土地は私有化され、財産として売買されるようになりました。

京都の大路でさえも、人々は墓を作ったり、耕作地にしたり、宅地にしたり、売買の対象にしていたのでしょう。 そうした行為を禁じる命令も効果がなかったようです。
まして、都から離れれば、道路に整備された平面は、耕作にも、宅地にも魅力的に思われて、地元の人々はどんどん私的な土地として利用したのでしょう。

生活する人々にとっても、《通路・往来する道》は必要なので自分の必要で踏み分け道や私的往来に便利な通路を勝手に作って、それを適当に接ぎ渡るようにして地方道や街道が新規に、自然発生的にできたのでしょう。 そういう道路や街道も勝手に家を建てたり、農地にされて、別に経路ができたり、変遷は色々あるようです。
https://latestjapan.yokohama/t-plan/kaido/kaido/
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。勝手が悪かった
<一見整然と計画された平安京の路>は、<勝手が悪かった>のですね。
<生活する人々にとっても、《通路・往来する道》>を造る、自然にできたのですね。

お礼日時:2023/01/19 18:20

海上交通の方が速度と安全性があったからでしょう。


陸上は徒歩や馬くらいなので、速度も遅く、多くの荷を運べません。
さらに、山賊に襲われるなどの危険もあります。
江戸時代でも山の中では山賊が横行しています。
普段は農耕や山仕事をしている付近住民が山賊と化して襲うのです。

その点、海上は漁民が海賊になることもありますが、山賊よりは少ないです。
船の方が荷も多く積めます。
速度も速いです。

陸上よりはるかに便利だったのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<海上交通の方が速度と安全性>が分かってきたのですね。

お礼日時:2023/01/14 16:13

人が通らない道は、すぐ荒れて使い物にならなくなります。


田畑も、同様。耕作放棄するとすぐもとの荒地に戻ります。
今のようにアスファルトで舗装した道路ではなく、単に邪魔な岩などを除け、平坦にしただけですから、すぐにダメになります。
瀬戸内海などでは、海上交通の発達も一因でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
丹念に補修しないと、大道も使いものにならなくなるのですね。
地域によっては<海上交通の発達も一因>ですね。

お礼日時:2023/01/14 16:11

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!