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私は30代前半の女性です。

この歳になって、自分のこれまでを振り返り辛くなることが多々あります。

私は人付き合いが苦手です。そのくせ、寂しがりやです。
10〜20代の自分を振り返ってみると、周りの友人たちとの交流の中で、無神経というか、
何気なく余計なことを言っている場面が多くあったなと感じています。例を挙げるのが難しいですが、、
今もその癖はあって、話が盛り上がったときについぽろっと余計なことを言うことがあります。
でも若い頃に比べるとそれに気づくようになってきたのか、その場を離れてから激しく後悔して落ち込むんです。
そのため毎日「今日は余計なことは言わない。聞き役に徹しよう。穏やかにいよう」と心に誓うのですが
例えば飲み会などで場が盛り上がってふと気が緩むとき、または会話を上手く続けたいと思うがあまり空回りしてしまった時、その癖が顔を出すことがあります。
本当はもっと若い頃に気づいて、その癖を修正していければよかった。

自分から人を誘うことも苦手です。
自分なんかのために相手の時間を割いてしまうのは…とか、誘いに乗ってくれたとしていまいち盛り上げられなかったらどうしよう…とか
色んなことを考えてしまうのか、自分から誰かを遊びやご飯に誘うことはかなり少ないです。
地元にいた頃、とても仲の良かった同級生はまだ気軽に誘えたのですが…
そのように積極性がないので、基本受け身です。この受け身な姿勢も周りから良くは思われていないだろうな…と思います。

人と関わることに常にコンプレックスを抱いているので、最近は遊びや飲み会などに誘われて
楽しく盛り上がった後でも、どっと疲れてしまうようになりました。
自分と関わることで周りを不快にさせているのでは…という気持ちが日に日に強くなります。

なので、一人でいればいいのでは…と思うのですが、寂しがりやで人に依存気味な面もあることが厄介です。
一人で過ごすのは好きですが、人と関わりたい、仲良くなりたいという気持ちもある。
なのにいざ人と交流すると上記のような感じで疲れたり、相手に余計なことを言ってしまったり。

とある先輩に、上記のようなことを包み隠さず曝け出して相談したことがあります。
その先輩からは「お前はもう年齢こそいい大人だけど、全然人付き合いの経験が足りないと思うぞ」と言われました。


案の定、恋人はいません。
これまで何度か好意を抱いてくれる人もいましたが、私がこんな性格なので
少し深く関わるようになるにつれてモヤモヤが溜まり、相手が自然と離れていくこともあれば
私が先に耐えられなくなり距離を取ったり。
パートナーがいて仲良く過ごすことに憧れはありますが、今の自分じゃ無理だと思います。


長くなってしまいました。
最近、ニンテンドースイッチのリングフィットアドベンチャーを購入したので、こんなふうに暗い気持ちになった時は
リングフィットを全力でプレイして汗だくになることで解消していたのですが、
数日前に風邪をひいて病み上がりのため体が動かせず、ひとり思い悩んでしまい、ここに書き込みました。

人との関わりで疲れを感じたり、コンプレックスを抱いている人はいますか。
そんな方は、日頃どんなことに気を付けたり、どんなふうに自分を律したり癒やしたりしていますか。
体験談やアドバイスなど教えていただけたら嬉しいです。

A 回答 (3件)

いま落ち込んでいるというのは、体調や天気(気温変化)の影響も大きいでしょう。

そういう時は何かしら自分を苛めるネタを見つけるものですよ。とはいえ、ご質問の内容について私なりに思っている事をお答えします。

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

余計な事を言ってすべてを台無しにする。これは私にもありましたし、他の人も同じだと思います。

私の知り合いは40歳過ぎてから気づいたようです。行き成り罵詈雑言が出てくるんですよ。その人は(ワタシと)大喧嘩になった後に「わかっている。分かっているけど止められないんだ」と泣き出しました。油断すると出て来るそうです。

人の脳はAIと同じ学習型(AIの方が人の脳を模している)コンピューターです。そのため普段から考えている事、やっている事を脳が学習してしまい、無意識に飛び出るようになります。本人の為になるか否か脳は気にしません。本人にとって不利に成る事であっても脳は気持ちよく学習します。何の反省もしません。

「日常どころか。独りでいるときの思考も含めて学習に活用
 されている。考える事。感じる事。すべてが学習の材料に
 なっている」

自分の思う事や考える事は誰かに知られる事はありません。しかし、学習は進んでいて、その結果はいずれ外に出てくるんです。そしてその様な状態に成ったときは自分の意思では止められないのです。

若いうちは体感で分からないと思います。しかし、中年を過ぎたあたりで段々と分かってきます。ある時のことです。道を歩いていて人とぶつかったことがあります。その時、私から出てきた言葉は「大丈夫ですか?」でした。ぶつかった相手(老齢の男性)そっと優しく抱え込んで転ばない様にしていました。相手の方も驚いていました。赤の他人に抱きかかえられて思いやられたのが嬉しかったのか? 笑顔で大丈夫だと返答されました。周囲の人も突然のアクシデントに驚き、それが思わず、いい話になったと思ったのか? 微笑んでいました。この時、私は自分が善人であると確信したんです。非常に小さい事。当たり前のことですが私には嬉しかった。

「私は油断すると善行を止められない」

これ以降、生きるのが楽に成りました。

「人生、生きていて、この体験を味合わないで何の意味がある?」

幼い時の自分は自分勝手でしたし、父親には冷たい人間と言われ続けていました。それを指摘されるのが辛かったですね。なので自分は善人には成れないと思い込んでいましたし、自分を嫌いでした。

「何のことは無い。脳が学習してしまったせいで、どんなに俺が
 誰かを嫌おうと、俺の無意識は善行以外は許さないって事だ。
 俺の主観は善人ではないが、俺の無意識は思いやりがあって、
 自分を顧みずに他人の安全を先に心配するようだ。
 そして俺はこれに抵抗できない」

こう成るって事です。この逆は辛いでしょう。

では質問者さんは違うのでしょうか? 実は私と同じで思い込みで自分を嫌っているだけかもしれませんよ?

普段考えること。普段感じるべきこと。自分が考えたいと思うテーマ。実はここに癖があります。自らが好んで考える内容は何なのか? それが家族への恨み言であったり、社会への不満であったり、知人への不満かも知れません。自然への愛着だったりするかもしれません。しかし、そのうち正解は僅かなんです。自分が選んでいる考え事は、自分を壊す学習かもしれないんです。自らの幸せを前提にした場合は、人の思考や感じ方は自由ではないというわけです。この怖さを考えずに自分を放置すれば、壊れた脳を抱えて余生を生きる事になるかもしれません。そして、その可能性はとても高いと思えます。

自由の怖さを侮った報いは必ずあります。ですので「そのテーマは考えてはいけない」「その場合はこう感じないと行けない」と都度自分に指示を出し続けることがとても重要です。流されるままに感じて「俺の自由な感じ方」見たいにやりますと、取り返しがつかなくなります。脳への学習を侮っては行けません。

「今この時。自分が何を考えたいのか?
 ここに気を付けて強制する。
 そういう気遣いを自分に対してする。
 ここだけを抑えて置けば自然と自分が整い報われる」

偽善を続けていると・・・いつの間にか本物になる。これって凄いですよね。逆に偽善を糾弾し続けていると善を見つけても糾弾する悪者になるんです。善悪を判別する部分が成長するのでなく「糾弾するという快感」ばかりを覚えてしまう。単なるイチャモン・ジャンキーに成るという事です。脳の学習は私たちの都合の斜め上をいくようです。あんまり激しくやり過ぎて既にそういう状態になっている方がネットで多数見かけます。その方々は私の知り合いと同じように「分かっていても止められない」と悩んでいるはずです。なので早く医者に行くべきなんですよ。

ご質問の話に戻ります。

「余計な事を言わないようにするにはどうすればいいの?」

これの問題は話したいという欲求が消えていない事です。つまり話すべきことが無いまま欲求が残る事ですよね。これも脳の難しい所です。

「話すべきことから逃げているとそうなるよ。
 例えば短い文書で簡潔に! とか言っているとそうなる。
 本当は丁寧に礼を加えたり文字数を端折ったりしなければ
 微妙なニュアンスまで伝えきれるよね?
 それを分かっていながら(脳が疲れるから)物臭をする。
 しかし話すべき文字数が減った分、その減らした部分でどう
 なるのか? 言ってはいけない事で埋められるんだよ。
 物臭をした分だけ自分に不利な発言をすることになるんだ」

つまり出来る限り長い文章で字数を稼ぐというのが大事だったという分けです。私がこれに気が付いたのは会社の偉い人が語る文体を見てからです。難しい言葉を使っていないのにスッと入って来る。対して自分はまともな文章が書けませんでした。

「草ッ。とか言って脳を楽にさせているとどうなるよ?
 本当は何行にもわたって繊細に表現すべきものなんだろ?
 これで通用するよね? みたいな文化を作っていいのか?
 そろって可笑しく成るぞ。これを何年も続けたら脳はどう
 なると思う? 伝えたいことを文章にできなくなるぞ。
 そしてその欲求不満は誰かを攻撃する欲求に変質するんだよ。
 立派な異常者の出来上がりだ。
 自分で自分の脳に何をしているのか?
 もっと真剣に怖がった方がいい」

質問者さんの悩みが生まれるのは、自分に生じる繊細な欲求を文章で完全に表現しようとしていないからです。長文を書けない人は、端折る事になれてしまい、物臭が癖になっています。

「ああ、ここは面倒臭がらず。一文入れよう。
 ああ、ここは面倒臭がらず説明を入れよう。
 ああ、ここは面倒臭がらず表現を変えよう。
 ああ、ここは面倒臭がらず・・・」

こういう視点をもって補足を沢山加えれば、話すことで一杯に成るはずです。

「自分は言ってはいけない事を言うと悩んでいる人は、
 自分の思う微妙なニュアンスは伝えられない人だ。
 微妙なニュアンスを話すと常に悪口になってしまう。
 そのため危険だと思って諦めている。
 そのため伝えようと思う前に会話の候補から無意識に外し
 てしまっている。そのためネタの候補が減ってしまう。
 それでも話したいという部分が残ってしまう。
 その我慢が限界を超えると嫌な事を言ってしまうのだ」

自分が感じる事柄。それらを言い過ぎず、抑え過ぎず、自分で自分を好きに成れるように正しく表現する。こういう練習をしないといけないんです。

「若者がする流行りのコミュニケーションを真似ない事」

これはいつの時代も鉄板です。全ての人の脳は成長しているわけではなく、(疲れたくないので)物臭をしようとします。日本語を変質させた省略形の用語と言うのは、使えば楽なので魅力的ではあります。しかし、細かな表現ができないですし、次の思考に繋がらないんです。つまりインスピレーションが湧かない。先進国の言語体系と言うのは、次の思考に結びつきやすく、厳選されています。これらを使わないと思考そのものが出来なくなり、欲求不満がたまるんです。

質問者さんの悩みを自分の経験から想像すると、

「誰かと話したいという欲求はどこから来るのか?
 実は思考をしたいという欲求では無いか?
 生きていて一度も本物の思考をしたことがない。
 そういう哀しさが欲求の源泉ではないのか?
 いつも心にある靄みたいなのが怖いのではないか?」

と思えます。

長くなりましたのでまとめます。

・普段の思考から脳が学習すると言う部分を侮ってはいけない。
・感じるべき事、考えたい事。これは自分のあるべき心の状態を
 考えてデザイン(都度矯正)する必要がある。
・物臭をせずに細かいニュアンスまで文章で表現できているのか
 チェックをし、これを繰り返す(字数が増える事を喜ぶ)
・細かいニュアンスまで表現できる自信が付くと話題にできる内
 容が増える。そのため余計な事を言わないで済む。
・細かいニュアンスまで伝える文章の作成練習は本物の思考をす
 る練習でもあり、自然と孤独感が癒される。

私も上の事に気が付いて30歳くらいで始めました。特に道徳にある「礼」を大事にして「自分が考えたいテーマ」に選んで(デザインして)います。

脳の学習と言う部分は侮れません。賢く利用すると良いと思います。また一朝一夕で済むものではありませんから、気長に取り組み、成果は晩年に喜んで楽しむものだと思います。

まずは甘いものでも食べて体調を回復させましょう。

以上、ご参考になれば。
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悪いけど、独りのほうが楽だぞ

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、何だかんだひとりは楽なんだと思います。
そう心から思えたら一番いいんでしょうが、どうしても寂しさを感じてしまうのです。
まだ未熟なんでしょうかね。

お礼日時:2023/04/02 19:12

分かる。

発達障害があるのかも。後はIQが俺は飛び抜けてたので普通の人と気が合わない。そこら辺を意識したらかなり良くなった、年齢もあるけど。
それとメールだとマシになる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

発達障害ですか。
確かに、自分にも何かしらそのような気質があるかもと思うことはありました。
実際に診断してもらったことはありませんが、一度調べてみるべきなのかもしれませんね。

IQが高いと考え方がその他の方と合わずに苦労も多そうですね。
メールなど文字媒体だとマシになるのはわかります、比較的じっくり考えて書くことができるので…

お礼日時:2023/04/02 19:11

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