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古代史は素人で、また「神社の並び」の類はいかようにも作れる話、と思っていたのですが、netで下記の事実に接して、方位があまりに正確なので困惑しています。この事実や理由についての情報が見つからない状況です。どのようなことでも構いませんのでよろしくお願いします。
(hinode.picsという地図のWebサイトと、google mapの緯度経度距離表示で確かめています)

■位置関係
1. 橿原の軽島豊明宮を基準とし、真北に宇治神社、真西に淡路島の伊弉諾神宮、真東に伊勢神宮外宮が存在して、二等辺三角形をなしている。
 ・北・西・東方向のずれは約2km 内外である。
 ・斜辺は、宇治神社から伊弉諾神宮へが冬至の日の入方位、伊勢神宮外宮へが冬至の日の出方位である。100km 近くの距離にも関わらず、本殿・正宮とのずれは数十m以内である。
2. 宇治においては、縣神社一の鳥居と宇治神社鳥居が冬至の日の出、すなわち伊勢神宮への方位を;また宇治神社鳥居と縣神社本殿が冬至の日の入、すなわち伊弉諾神宮への方位を;それぞれ指し示している。
■太陽の運行との関係
1. 宇治神社鳥居にたつと、冬至の日には伊勢神宮の方角から日が昇り伊弉諾神宮の方角に日が沈む。また太陽は一年毎日、真南の軽島豊明宮の方角で一番高くなる。
2. 縣神社参道において、宇治神社の背後に日の出の後光をおがむ位置は、冬至に縣神社一の鳥居を出発し、夏至に縣神社本殿に到着し、冬至にかけ一の鳥居に戻ってくる。言い換えると、半年かけて伊勢神宮から宇治神社に太陽が到来するように見える。
■備考
宇治神社背後の大吉山からは淡路島妙見山が目視でき、そのわずか北側の延長上が伊弉諾神宮。
なお軽島豊明宮・二上山・誉田御廟山古墳もまた冬至日の出方位線上にある。

質問者からの補足コメント

  • いただきましたご回答に深く感謝しつつ、若干の補足をさせていただきます。
    私の驚きは、宇治に冬至の日の出・日の入方位を示す神社の配置があり、それぞれの方位を100km近く延長した先にわずか数十mのずれで伊勢神宮外宮正宮、伊弉諾神宮本殿がある;偶然とも思えないが古代に測量できるはずがない、という点でした。これについては「可能だったかもしれない」と得心しました。ありがとうございました。
    また補足しますと、両神宮の中点の橿原の軽島豊明宮は応神天皇の、その真北の宇治神社(菟道宮)はその子菟道稚郎子(播磨風土記では宇治天皇)の居所です。渡来人もきていた時代です。中国では当時すでに高度な測量術があったようです。
    世界に説明のつかない遺跡は多く、これも真相は謎のままが良いのでしょう。

      補足日時:2023/10/27 21:49

A 回答 (5件)

まず、農業が本格化するまえの狩猟時代とされる頃に巨石文明というのが出現します。



この巨石文明は世界各地に存在し、日本にも存在ます。
これらが「文明」だとされるのは、単に大きな石を積み上げたわけではなく《方位や夏至・冬至などの日を指し示す工夫》が為されていることによります。

去勢文明は大体1万2千年前ぐらいに存在したとされているので、その時期の人類は、天体観測をして太陽の動きを測ることができたのです。

なぜ測ったのか?は定かではなく、大体「昔のもので、よくわからないものは全部信仰のため」となってしまいます。

この「信仰」というのも、ちょっと説明が必要で、たしかに「信仰」なのですが、実用でもあり、近代化文明ができる前は《自分達の暮らしを維持するためには、神々の助けが必要》という認識が強く、巨石文明も《単に天体観測のためだけ》だったかもしれませんが、それなのに風雪に耐える巨石を積み上げたのは《当時の人々が天体観測を重要だと見做し、生活の安定を祈って危険で労力のかかる作業をしたから》なのです。

このあたりの労力のかけ方は、たぶんピラミッドも同じだし、奈良に東大寺も同じだし、200年作り続けているサグラダファミリアも同じ、人間の祈り=宗教性がそこにあるわけです。

日本にも巨石文明は見つかっていて、天体観測をしていたと推測されています。つまり当時の日本には天文学の基礎知識はあったわけです。

また、測量技術は巨石文明の頃にはあったのではないか?とされていて、レイラインと呼ばれる「どこそこの巨石と別の巨石二つが2等辺三角形になる」というものも世界各地に存在します。

測量技術は木を使えば、かなり正確に測れますし、何年もかければ精度は非常に高くなります。

>斜辺は、宇治神社から伊弉諾神宮へが冬至の日の入方位
は何年もかけるか、または宇治神社と伊弉諾神宮の付近に住む人々がそれぞれ独自に冬至の方向を示す指標を持っていれば、方角を合わせるのは簡単です。

後は、距離の精度ですが、何年もかけて調べればかなり高い精度で位置を特定できるでしょう。現代人は「どのくらいの時間で作ったのか?」という点について、自分達が通常行う数年の単位で考えがちですが、サグラダファミリアの例のように、百年単位で位置を合わせていったかもしれないのです。
それなら、かなり正確に位置が合ってもそれほど不思議はありません。

近年、遺伝子ゲノム研究から人類の移動の時期や方向がかなり特定されてきました。

たとえばオーストラリアのアボリジニは12万年前にはオーストラリアに到着していたのではないか、とも言われていて、海を渡る航海術がそれなりに発展しなければ不可能だったし、日本人もフィリピンや台湾を経て、沖縄諸島を北上した人々がいることは分かっていて、しかしそのためには台湾から沖縄まで《その先に土地があるかどうか分からない状態で航海した》はずなのです。

となると数万年前にはかなり発達した航海術や外洋の波を航行できる船の技術があったはずで、日本の人口の増え方を見ると、4万年前の人類は現代人が思っているよりも高い技術力や知識を持っていて、日本に航海する技術があった可能性が高いです。

航海技術は当然に天体観測ですから、夏至や冬至の位置を特定するのは何年もかければ簡単ですし、船を作る技術は木工技術ですから、測量器具を作ることもできた可能性があります。

「なぜ」というのは分からないことがあるのですが、「どうやって」という点なら《それほど難しい事ではなく、可能だった可能性が高い》です。
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この回答へのお礼

詳細なコメントたいへんありがとうございます!

お礼日時:2023/10/25 22:42

神社の並びの類はいかようにも作れると、私も思います。


そもそもいつどのように建築されたのかさえ明らかでないものを、また相互関係も密である挙証もないものを、現状の地理的配置、方位、距離で眺めることが、無意味です。
海が大半を占めるところであって、比較的近距離であれば、いくつかの目印を基に方位を確認し、相似形をイメージすることは可能ですが、10km以上離れては、平坦な砂漠であればともかく、樹木や起伏のある所では方位を求めることはできないです。星や太陽、月をあてにしたのでは、陸上で樹木や起伏、河川のあるところで、直線状のイメージを引き当てていくことはできないです。
陰陽五行にしても、5,6世紀であれば、ある地点を中心に各方位の意義をつけているだけで、その方位の先の線上のポイントを直接には問題になどしてません。 方忌みで回避してしまえる程度の考え方です。 日本で、8世紀、9世紀に歴史書的なものができても、その中であるのは、日の方向や季節、月の変化、くらいです。 陰陽とか風水とかの気はないでしょう。
方位のはっきりするメルカトール地図にコンパスと定規で適当に描いて、googleマップ上に神社や古墳、遺跡を片端から探せば、なにかは見つかるでしょう。 無意味な行為だと思います。
「神社・古墳が冬至の日の出・日の入の方位に」の回答画像5
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この回答へのお礼

コメントたいへんありがとうございます!

お礼日時:2023/10/25 22:42

考えすぎでしょうw


平安京も東西南北に揃えて作られています。昔から何か特別な施設等を作ると言う時には、テキトーに場所を決めるのではなく、すでに信仰をあつめているものを基準にして選定した等が集まった結果でしょう。なので、そのような方位の一致というか一直線上に並ぶみたいな現象は起こるのかなと思います。レイラインとか言って、昭和ころから知られているものですね。

日本神話には星への信仰(関心)が薄いように感じますし、魏志倭人伝の注釈だったかに『倭人は正歳四節を知らず』とあるように、冬至夏至や春分秋分を基準として四節(春夏秋冬)や正歳(暦)を作っていたりはしていない、と書かれているように、冬至といった天体の動きにはあまり関心がなかったように思えます。
関係ない2施設などが、たまたま偶然に冬至の日の出の方向に合致している!などというのを見つけて、そう言っているのではないでしょうか。(この”合致している”ってのも、かなりズレてる場合が多いように思いますw)
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます!

お礼日時:2023/10/25 22:42

陰陽道も風水も無かったのですから、農業は太陽の動き、漁業は月の


満ち欠けが重要な事で、それに季節の移ろいが判れば宜しいので、
日の出で起きて日の入りで就寝の行動パターンですから、神宮や古墳造営
に日の出の方向は気にしたでしょうが、経度、緯度までは留意しなかった
と思います。
アスカやインカと違って八百万の神々の国ですから大雑把だったのでは?
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます!

お礼日時:2023/10/25 22:42

農耕文明国の王権で一番重要なのは、天文学の知識で中でも大切なのは太陽の運行で季節を測り、可能な限り正確な暦を持つことです。


それによって種蒔きの時期を民に知らしめるわけです。

日本は中国長江の中下流域、呉や越があった辺りの水稲耕作民が、中国の人口増加や戦乱の影響で、日本に渡来した倭人(弥生人)が先住していた縄文人と和合しながら建国した国です。海流に乗って直接南西諸島沿いにやってきたり、斉の国(中国山東半島)や朝鮮半島を経由しながらやってきたりです。
今の天皇家に繋がる太陽神天照を信仰していた天孫族は、弥生時代の後半に南九州に上陸しています。

弥生人は暦法としては中国から水稲耕作技術などとともに太陰暦を日本に持ってきたはずです。

弥生人が中国から持ってきた天文学の知識は縄文人よりも高度だったでしょう。
神社・古墳をどの位置に造るのかは、古代人にとっては宗教的に非常に重要な問題ですから、当然太陽の運行を睨みながら方位や位置を正確に測定したうえで建立したはずです。

例えば、伊勢神宮は太陽神天照を祀る場所ですから、当時の都から見て、重要な日に太陽が昇る真東の位置に、できるだけ遠くの場所で神器の八咫鏡を祀らねばならなかった。そういうことかと思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます!

お礼日時:2023/10/25 22:42

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