プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

仏教は無、キリスト教は愛、だとしたらイスラム教は何なんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 仏教が命?それはなぜでしょうか?

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/06 11:50
  • 空はブッダというより、龍樹が生み出した概念なのでは?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/06 11:51
  • 掟とか、規律とか、堅苦しいですよね〜?

    それなのになんで世界中で、何億人もの人々がイスラム教を信奉し続けているんでしょう?

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/06 13:52
  • >天台の空仮中の三諦

    それはどういう教えでしょうか?

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/07 09:18

A 回答 (9件)

「仏教は無、キリスト教は愛、だとしたら」


どのような視点で、理解するのでしょう。
 「仏教は無」
 「キリスト教は」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1
仏教  
釈迦の説く仏教の内容は、文献や学派によって異同があるものの、ほぼ次の五つに集約される。
❶ 未生無(みしょうむ)
原因が無いとき、結果は生じて無いということ。
❷ 已滅無(いめつむ)
過去にあったが滅したものは、すでに無いということ。
❸ 不会無(ふえむ)
今この場所に無いということ。
❹ 更互無(こうごむ)
AはBでは無い、BはAでは無いということ。
❺ 畢竟無(ひっきょうむ)
過去に無く、未来に無く、現在にも無いということ。存在し得無いこと。

中国・老子
中国における無は、存在論に立った有に対する無ではなく、存在論のもとにある有無の対立、を超えた絶対無である(前述の哲学の項も参照)。単に非-有(Non-being)の意味に解し、虚無主義と誤解してはならない。
初発の虚無主義は、神の意思を無とする観点だったので、その限りでは虚無主義にある[要出典]。それは日常のなにものでもないから、否定の接頭辞の無で語られる。

通常「無い」というのは、価値の無いことと同義とされるが、 中国では、老子の思想に代表されるように、無用の用(例えば、モノを入れるカゴは、中身が無いからモノを入れることが出来る)ということが強調されている。また、宇宙の始元を無極という。井筒俊彦によれば、これは純粋な存在が充実して窮まったところに現われる絶対無であり、絶対無と純粋な存在は実は同一である。無極は別名太極ともいうが、陰と陽とが互いに相手を飲み込もうとする太極図で示される。なお、物理学による解釈では、この無極は、完全な無ではなく、ちょうど物理学でいう「真空のゆらぎ」に相当すると考えられている。

禅宗
禅宗においても、無は根本的なテーマとして掲げられてきた。「狗に仏性はあるか」という問いに対し、「無い」と喝破したことを伝える「無門関」の第一公案は、極めてその方向性を強調している。ここでいわれている無もまた、決して単なる非-有(Non-being)ではなく、有と無の対立を超えて、それらを包括するような絶対的な根源としての無である。この公案の登場人物である趙州は、この無を理解する事こそ最初の要であり、そして最終的な到達点でもあると述べている。

キリスト教
キリスト教では、有が大前提であり[要出典]、無は有に対立する否定的概念である。
聖書には無の概念について、特別なことは書かれていない。しかし、有と無の対立を超えたところに神が存在するとする[要出典]。 実際には、有の方向が強調され、無(非-有)との相対的な対立を超えた絶対有とでも呼べるものを考えている[誰?]。これが神の本質である。
否定神学などは神が無であるかのように記述したが、その意図はむしろ神の存在を高め、神の純粋性をより深めるものであった。
従って、西洋思想史の全体に渡って、無が主要なテーマとして強く意識されたことはほとんどない[要出典]。

イスラム教
イスラムにおける存在一性論で「真空のゆらぎ」から「神の慈愛」によって、様々なものに存在が自己顕現するという説明をする。井筒俊彦の研究によって、イスラムにおける神学と哲学の発達が、東洋思想とも西洋思想とも有と無の問題に関して深く繋がっていることが明らかになった。ここでいわれている神の存在は、突き詰めれば東洋の絶対無と同じ事柄を指している、と井筒は言っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
仏教での愛と慈悲
仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。
「愛」に相当する、概念には サンスクリット語ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。

tRSNaa (トリシュナー)
人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう[19]。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。
広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。
また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。
kaama (カーマ)
kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。
仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。
密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に「彼の法」集団(俗に立川流と混同される)が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。
性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。
慈悲
preman, sneha
preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。
仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。仏や菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。
特に大乗仏教では、慈悲が智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲の章がある。
あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切の生きとしいけるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『スッタニパータ』[20][21])
一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。
観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。

キリスト教での愛

キリスト教において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりもアガペーである。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情について説明していることが多い。それらは以下のとおり。

「ストルゲー」 στοργή storgē
キリスト教では家族愛。
「エロス」 έρως érōs
キリスト教では性愛。(古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。)
「フィーリア」 φιλία philía
キリスト教では隣人愛。友愛。
「アガペー」 αγάπη agápē
キリスト教では真の愛。新約聖書においては「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にイエス・キリストを通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない。

イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。
西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2023/12/13 17:54

「祈り」かな?と思います。



こどもの頃「礼拝を一日五回」するイスラム教って、不思議に思えました。
本当に神を信じていれば、何もしなくても、神様は守ってくれるものだと思っていたからです

ただ、成長して、なんとなく理解できたのは
日本人が、神社仏閣を信じていなくても、正月初詣で手を合わせれば、なんとなく安心します

もしそれを、こどものころから、1日五回づつ、毎日やりつづければ、長じても非常に心は安定するんだと思うんです
だから大事にするし、世界のどこにいても「祈り」を行うのだろうと。
その「安心感」を否定されれば、他宗教や多宗派に反感を持つのは当然なのでしょう

「生活の中に組み込まれた信仰」という「神への帰依への安心感」がムスリムの方々の拠り所の大きな部分なのだろうと、想像しています
    • good
    • 0

仏教キリスト教イスラム教に共通するのは


「隣人愛」「喜捨」「慈悲(愛)」で、それはそれぞれの教義において同様の意味を含んでいます

・仏教が命?聞いた事ねえな。仏は生命、は聞いた事ある
・空は龍樹だけではなく、仏教全般に通じる基本的な教理で、
天台の空仮中の三諦が有名です。

・掟とか、規律とか、堅苦しいですよね〜?
偉そうな聖職者がアホくさい規律を守ってる、
信徒が真似する必要は無いと思うが

現在に必要な生きた宗教の条件に
時に応じ、地域に応じ、伝統に応じ
②自由自在の主体性③すべてを生かす④変化の信仰、
でなければならないと思いますが

この回答への補足あり
    • good
    • 0

慈悲。



イスラムが良く浸透している地域では
餓死者が出ない、と言われるほどです。

本当に出ないのかは別にして
弱者に優しい、というのがイスラムの
特徴だということです。


インドネシアで食うに困っている日本人が
いた。
そしたら、イスラム教徒がお金をくれた。

必ず返す。
ありがとう。

件のイスラム教徒は、

俺に返す必要は無い。
その代り、誰か困っている人がいたら
恵みを与えてくれ。
それが、俺に対する返礼になるから。


ちなみに、イスラムが先鋭になったのは
十字軍の為だ、と言われています。
    • good
    • 0

イスラム教は是非だと思います。


それから仏教は空で無とは微妙に違いますね。

諸法無我と諸行無常というものがどうしてもあって
そこまではわかっているラインの閾値以下の部分を
決めつけないで協調体制のたすきリレーにゆだねて
泳がせておいた先で、
竜樹が明確に空ということで
前面に押し出したんだろうと思います。

それから
人間にとっての社会を維持するということで
その妨げになることはどうしても悪い。
それで外せない是非というものが厳としてある。
そのベースの部分のよりどころが
時代の臨界点の限界を積み重ねた現代という時代には
現代なりの精一杯が求められる。

具体的には人間性否定は悪い。
ということで人間性の`理解・尊重・肯定`
ということがより深く掘り下げた部分まで求められている。
というのがよりどころ一般における現状
だと言っていいと思います。
    • good
    • 0

一文字で表すなら、イスラム教は「掟」じゃない?

この回答への補足あり
    • good
    • 0

キリスト→慈悲


イスラム→規律
仏教→命
この回答への補足あり
    • good
    • 0

仏教は無ではなく空(くう)です


イスラム教は礼拝です
この回答への補足あり
    • good
    • 0

平和です。

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A