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日本各地に残る城遺跡には必ずと言ってほど天守閣 (再建されたものも含む)、またはその跡地が展示されていますよね。

という事は、江戸時代に建設されたどの城にも必ず天守閣があったと考えるべきなのでしょうか?

また、天守閣自体は一体何のための建物だったと考えるべきでしょうか?

姫路城を訪れた事があるのですが、天守閣内部に城主がそこで日常生活をしていたのかどうか、説明がなかったように思います (記憶違いだったらご免なさい)。

もしかすると天守閣は政務や会議をするための設備であって、家族との日常生活は別の平屋でしていたのかも?

よく時代劇などで、時の殿様が天守閣の一番高いところから町を見下ろして、感慨にふけるシーンがありますが、実際にこれって可能だった?

それと江戸城なんですが、元々は天守閣が存在していたのですが、1657年の大火で焼け落ち、当時の将軍家綱公が再建しない事を決定したと聞きましたが、と言うことは天守閣なんて飾り物であって、言ってみればあっても無くても構わない、実際には何の役にも立たない代物とも考えられるんですが ・・・

あとすみません、ついでに天守閣と本丸の違いを教えて下さい。  もしかして天守閣の事を本丸と呼んでいたのであれば、大火以後の江戸城には本丸が存在していなかったのかな、と考えています。

愚問で申し訳ないですが、宜しくお願いします。

A 回答 (4件)

昔から城の中心的存在として御殿に望楼を載せたような物は存在したが、天守閣という施設が明確になったのは松永久秀が永禄年間に大和国に築いた多聞山城が始まりとされます。


その後、織田信長が安土に築いた「安土城」などに引き継がれ、築城が本格化しました。
信長は安土城を天守ではなく「天主」の文字を充て、自らを神になぞらえたとも言われております。

http://www.grn.mmtr.or.jp/~bun777/nobu/

安土にはセルビア万博に出展された安土城の天主上層部の復元品が飾られ、安土城の復元模型も駅の横の記念館に飾られています。
また以前は駅の近くに、NHKの大河ドラマ「黄金の日々」で使われた、安土城の内部セットも公開されてましたが、さすがに今は無くなりました。
江戸城は1657年の明暦の大火で焼け落ち、天守再建を主張する老中を保科正之(将軍家綱の叔父)が抑えて許さず、その費用で府内6ヶ所で粥の炊き出しをさせるかたわら、幕府の米蔵の米を被災者に無償提供し、家を失った者には救助金計16万両を、旗本御家人たちにも作事料を与えると即断した。

正之の言葉として
「天守は近代、織田右府(信長)以来の事にて、ただ遠くを観望いたすまでの事なり。方今、武家町家大小の輩、家作を為すの場合、公儀の作事長引くときは下々の障りにもあるべし。かつ斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし、当分御延引しかるべし」
として、富士見櫓を天守の代わりとして、その後再建されること無く維新を迎えます。

薀蓄を一つ。
一般に天守は1つの城に1つしかありませんが、大阪城は2つの天守閣をもった城でした。
もともとの天守に対して、豊臣家の大老、徳川家康(五大老の筆頭)は、慶長5年、藤堂高虎に命じて西の丸に天守を建てさせました。
これにより、豊臣秀頼の居る本丸と徳川家康の居る西の丸に2つの天守が聳える城となり、これが関ヶ原の遠因になったとか。
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この回答へのお礼

有難うございました。 ご紹介の安土城に関するサイトを拝見しましたが、随分と中が豪華に仕上げられていますよね。 信長自身は普段ここで生活していたのかなと思ってしまいました。

ところで大阪城に天守閣が二つあったというのは初めて聞きました。 一体どんな感じだったんでしょうねえ。 

お礼日時:2005/05/12 16:01

天守閣という施設が明確になったのは織田信長の安土城が始まりとされます。


それ以前はやや堅固な櫓の構造の戦闘指揮所のような物でした。

天守閣の構造をとったのは安土城の真似で豊臣時代に、より堅牢に物見所や指揮所、最後の拠点として武器食料の保存場所などの役目を兼ねて建造されるようになりました。 また飲料水を確保する為井戸があるのが常識でした。 秀吉はこの中で生活したこともありました。
美観や象徴的な意味は後日付け加えられたものです。

従って戦時色が濃いので幕藩体制が確立された以降は必要ないと省略されるようになったのです。

平時この中で生活や政務が行われる事はなく、それらは他の建物で行われました。 警備や見回りは行いますが無人なので幽霊話や怪談がよく伝えられました。

江戸城でも無用の長物で再建には莫大な費用がかかるので、当時の幕府財政では負担出来ず見送られたのです。
天守閣は本丸の中の一建造物で、本丸は城の中心をなす地域を指すもので政務や領主一族の生活に必要な建物が集結していました。
大きな城では家族は二の丸などに住まわせたようです。 将軍の後継者、嗣子などが入る事が多かった。
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この回答へのお礼

有難うございました。 なるほど、当時の城の中で想像できそうです。 やはり天守閣は戦時の際の指揮所という事になるんでしょうか。

たとえは変ですが、戦艦大和で大型の砲塔が並んだすぐ後方にある、艦内で一番高い船橋と同じようにような役目があったのでしょうねえ。

映画などでは、そこで艦長や司令官が双眼鏡を両手に戦闘指揮をとっているシーンをよく見ます。

でも天守閣の中は平時の際は、ほとんど無人だったんですねえ。  暗くて誰もいなくて、やたらデカくて ・・・ 見回りの人も怖かったでしょうねえ。

お礼日時:2005/05/12 10:52

 天守閣は、もともと戦のための物見櫓がよりしっかりとした構造を持つようになった物、というのを聞いたことがあります。


 そのため、江戸時代に入ってから造られた城には天守閣が無いのが普通です。仙台城がその代表ですね。仙台城に天守閣が造られなかったのは、すでに天下が治まって戦が無くなったため、戦のための構造物である天守閣を造ることは戦に備えているということであり、まだ天下を伺っていると受け取られかねないと考えたからだそうです。

 明暦の大火で江戸城が天守閣を焼失したあと再建しなかったのは、当時の幕府の財政が逼迫していたことと、すでに天下が治まって天守閣が無くても十分幕府の威厳は保たれると考えたと云われています。
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この回答へのお礼

有難うございました。 仙台城には天守閣が無かったんですか ・・・ 全くのシロウトですので、姫路城や大阪城、あるいは名古屋城のように、城というのは敷地の中心にデンと最も高い建物を建てるのが普通かな、と考えていました。

でも戦のための物見櫓の役目があったというのは、納得できそうです。

お礼日時:2005/05/12 10:41

天守閣とは言っても、


その造られた時代や地域によってもさまざまです。
天守の始りは織田信長によって作られた安土城です。
そのころは、実際に城主が天守の中に住んでいました。
しかし江戸時代になると、
実際に天守の内部で暮らしていた城主は一人もいません。
主に城のシンボルとして建築されていたようです。
とは言え、天守閣のない城のほうが、
天守閣のある城より多いんですけどね。
             
ちなみに本丸とは、
最も内側にある曲輪の内部のことです。
その外側は二の丸、三の丸となります。
城主が住む場所であり、
天守閣を築いていることが多いです。
           
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。 信長の時代では実際に天守閣の中で城主が生活していたんですねえ。 階段の上り下りが大変だったでしょうね。

それと本丸は天守閣とイコールではないんですねえ。 要は城主が生活する建物だとすると、今でいう母屋のような感覚でいいんでしょうねえ。

お礼日時:2005/05/11 16:47

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