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人は自分が正義だと信じている時に残酷になるといった旨の言葉を何度か聞いたことがあるのですが、それならば逆に正義を持たずに本能のまま生きていれば残酷になることはなく人類は平和に過ごせるのですか。

A 回答 (7件)

正義にも進歩というものがあると思います。



まず食べるために共食い的なことも避けられない未熟な時代には
全方向で争いが蔓延していた。
そこでは争いの強さこそが正義。

次に共食いの悪循環はまずいということで
いろいろな正義の旗印が模索されていった。
ただし掘り下げ切れていないよりどころの上での
矛盾を含んだそれぞれの正義でしかありえなかった。

この状態での正義がぶつかり合うと
表層の争いが激化して
それぞれの旗印を大義名分にして
そのために何でもありというようなことになってしまう。

現代は、とんでもない残酷までありのそういう状態から
次の正義の模索が大事な時代になっているという認識でいいと思います。

令和というのはそういうことなんでしょうね。
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「残酷」の意味にもよるのでしょう。

 扱い方がむごたらしく、ひどいさま。無慈悲すぎるさま このように残酷を捉えた場合には、畜産で肉を得るために育てから殺すのでも、扱いがむごたらしくなく、整然として、丁寧であれば、残酷ではないです。 アサリの味噌汁を作るために鍋で煮るのも、多くの場合残酷とは言いません。活魚料理も同様です。 生玉子を割るのも、同様です。 本能ではなく、社会の文化の一部になっていれば、残酷とは言いません。
テレビ、アニメ、映画、小説などで、戦闘、戦争、戦役が重要なシーンになっていることも多いですが、利益、権力、富、地権の争い、名誉や武勲の争いとして描かれていて、正義などという言葉は出てこないことが多いです。

これからの「正義」の話をしよう・いまを生き延びるための哲学・マイヶル・サンデルに、同性婚のことも正義の議論としてでてきています。 では、親子婚とかも、自由であると論じられるでしょうか。 もちろん、多妻多夫の集団婚もあるのでしょう。 今の話題ならば、子が育つ環境や得られる便益などに係わる不公平の問題もあります。 金持ち資産家で権力権勢もある者の子と、最貧困で教育環境どころか衣食住・衛生面でも難題を抱えている子との問題もあります。 正義と公平の観点から、「家庭と子」、「親子での継承」は問題だという指摘もありうるのでしょうか。

「本能のままに生きて」と言っても、嫉妬や羨望、愛憎や執着が優勢になってしまったら、バトルは避けられないでしょう。 
サンデルではないですが、公共、善良、信念、自由、権利、相互性の立場は重要です。 中には、宗教的信仰的な強い傾向を持つヒトもいます。それを無視しないがしろに扱うのは、問題です。 自分の自由を最重視すれば、独裁者の自由になります。 人類は、平和ではなくなるでしょう。

その時代のその社会の文化状況というのは、かなりなものです。
士農工商でも、市民と奴隷でも、領主と農奴、君主と臣下、男と女、親と子、先輩やリーダと後輩や部下、ある組織集団の構成員というだけでも、何らかの文化的秩序があります。 服装や行儀マナー作法のようなものさえも、重要です。 これをその社会の状況に著しく違和のあることをしてはならないのです。

平和というのは、「微温的な範囲でユックリと」「周囲もなんとなく甘受できる範囲で」ということです。 内容や方向性は、その場合には重要ではないです。 《むごたらしい》《ひどい》《無慈悲すぎる》と感じられることが少なければ、工業化、情報化のような社会変化をもたらしても、中産階級の没落・下層民の増大をもたらしても、一応平和であり、残酷とは多くの場合に言われません。 5世紀~19世紀半ばであれば、日本に限らず、どの地域でも、強い身分格差があり、相応の差別はあったのです。 平和が続き、戦役などがなくても、当時のその社会の人は、《むごたらしい》《ひどい》《無慈悲すぎる》とは思っていないのです。 むしろ、戦役を嫌がるよりも、状況によっては、戦闘に奮い立とうという方向の言辞に賛同者は多かったでしょう。 この50年間ほどのアメリカの政治状況も、他国に攻め込むことを是とする勢力の方が多かったと思います。
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正義マンが攻撃的なのは自分が薄っぺらい人間だという自覚があるからです。

なにかすがるものがあればそれのせいにしてうさを晴らせるのが楽しいのでしょう。
ただし韓国人のように「法さえも情で覆せる」ような野蛮民族はもっと残酷ですから、まぁ正義マンの方がマシかもしれません。
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重要な問題だと思います。



正義論は難しいですね。
「正義」というものが人間を残酷にさせるのではないと私は考えています。

歴史上の戦争は「正義」を掲げていましたが、それは、明らかに民衆を味方につけるための策でした。戦争遂行者の心の中は、相手を殲滅させるという残酷な心に支配されていたと思います。

その残酷な心の出どころは、支配欲・金銭欲・名誉欲などの欲望でしょう。こういった欲望は、慈愛と言う欲望、社会を良くしたいという欲望と同じで、本能的なものと言えるでしょう。

だから、エゴイスティックな本能的欲望に支配されたときに人間は残酷になり、利他的な本能的欲望に満ちたときに人間は立派になる、と言える思います。
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そんな気もします。


本能のままでいるなら、富をため込むことなく、おなかが満ちる程度の食物と、身を守れるだけの衣食住があれば満足するのではないでしょうか。
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あなたの書かれている正義というのは


要するに
戦争というものだって
自分たちが正しいと思っているから
残酷な戦争ができるとか
そういう意味でしょう

本能のままでしたら
動物の
弱肉強食のように
かえって残酷なのかもしれません

それを残酷と言えるかどうかは
別として
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「正義をもたない」=本能ではありません。



こちらが絶対的に正しいということは相手は絶対的に悪だということです。
「正義」が絶対的に信じれば当然「悪」を撲滅するのが正義です。
ですので宗教戦争などは非常に残酷になりがちなんですよ。

絶対的な「正義」なんてありません。物事は所詮は相対的なんですよ。
相対的なことと捉えることと本能のままに生きると言うことは全くちがうでしょう。
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