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平成生まれの昭和アイドルファンです。

中森明菜さんは「少女A」のツッパリ路線でブレイクしたそうですが、その次のシングルは「セカンド・ラブ」で、ツッパリ路線ではないですよね?

予想なのですが、当時、明菜さんのツッパリ路線にハマり、次もツッパリ路線を期待していた人にとっては、少し残念だったのでしょうか?

A 回答 (4件)

残念ではないです。


82年組にはワクワクしながら観ていたので。
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後から検証してみると、82年組は新人当たり年で売れた歌手が多くいたことは今でもよく語られますね。


前年の松本伊代(81年10月デビューで82年組に入る)から始まり、3月に小泉今日子・三田寛子・堀ちえみ、4月に早見優・石川秀美、5月には中森明菜・シブがき隊と続々とデビューを飾っています。

歌謡界全盛のこの時代、新人にとってデビュー日は非常に重要でした。
年末の賞レース(特にレコード大賞&歌謡大賞)で新人賞を獲るためには、その年の前半までにはデビューする必要があったからです。
先にデビューして売れる歌手が出ると、後発組はどうしてもそれ以上に売れる曲でないと厳しいですよね。それにデビューが早ければ、仮にデビュー曲が不発でも2~3曲目で勝負をかけることも出来ました。

プロモーションには当然、事務所の力が影響していたものと思います。
この年の最優秀新人賞はデビューが最後発だったのに、シブがき隊がほぼ総なめにしたこと見れば、ジャニーズ事務所が大々的に売ったからこそと納得出来ます。
対する明菜は研音と言う小規模な事務所で、私の友人2人が当時有線放送でアルバイトをしていたのですが、そこにも挨拶回りに来たと言います。
礼儀正しく可愛い少女だったので「これは推すっきゃない」と思ったそうですが、デビュー曲の「スローモーション」は曲の出来こそ良かったものの、リクエストは少なく期待するほどのセールスではありませんでした。

そこで、路線変更せざるを得なくなったのです。
可愛い子ばかりの新人歌手がたくさんいたら、その中で目立つには誰もやっていない方向に転換するしかなかった。

かつて山口百恵は青い性路線で活路を見い出して売れました。
その後、阿木燿子&宇崎竜童コンビでツッパリ路線に移行しました。
しかし、反対にさだまさしの「秋桜」や谷村新司の「いい日旅立ち」は彼女の全く新しい面が引き出されました。
その山口百恵が引退し、「ポスト百恵」と目されたのが松田聖子です。
ところが、ぶりっ子の聖子は百恵路線とかなりかけ離れていましたから、聖子との差別化を図る上でも、中森明菜には見た目の印象からちょっと大人びたツッパリ路線で行くことになったのだと思います。

2曲目の「少女A」は「スローモーション」から3ヵ月足らずの7月下旬にリリース。
早めに手を打ったことが功を奏しましたよね。
この曲は話題になって売れ始め、それと同時に埋もれていた「スローモーション」も曲の良さが知られて、売上げがそれほど落ちなかった。

と言うことで、売り方次第で全く変わったでしょう。
事務所やレコード会社の思惑もありますが、敢えて純粋で一途な少女を歌わせるために、3曲目には再び来生姉弟の「セカンド・ラブ」が誕生したのではないでしょうか。

純真で奥手な少女と、全く正反対の早熟なツッパった少女。
交互に歌わせることで、明菜の多面的な魅力を最大限に生かし切ったと思います。
ツッパリ路線を期待していたファンも4曲目に「1/2の神話」で戻ってきたと思ったろうし、5曲目に再び「トワイライト-夕暮れ便り-」でか弱い少女に移ってもヒットしたのだから、この形は成功と言えます。

その後は「禁区」「北ウイング」「サザンウィンド」「十戒(1984)」「飾りじゃないのよ涙は」と細野晴臣・林哲司・玉置浩二・高中正義・井上陽水と次々と大物にも依頼出来るようになりました。
歌のうまさも相まって彼女の幅がどんどん広がり、2年連続でレコード大賞も受賞して、彼女は歌謡界の頂点に立てた訳です。
今でもファンが多いのは、そのおかげだと思いますね。
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そもそもデビュー曲はスローモーションだったはず。


少女Aでブレイクしたとあるが、スローモションだってヒットしたと思うけど。
ツッパリ路線はやめたというより原点回帰したという方が正しいと思う。

来生姉弟の曲はいいと思うよ。
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「少女A」は曲としてヒットしましたが、中森明菜というブランドは一般に確立されていませんでしたし、知名度もまだまだだったです。

なので世間が期待外れを感じるまで及びませんでした。
確かに早いシングルからヒットしてて早咲きだったとは思いますが、実質お茶の間の顔になれたのは「飾りじゃないのよ涙は」前後で、この頃になれば多くの小学生の間でも話題の中心だったと思います。それまでの大人っぽい曲より、「ミ・アモーレ」「SAND BEIGE」「DESIRE」辺りは子供にもキャッチーだったんですよね。

これはここ1年くらいで初めて知ったのですが、明菜はツッパリとは程遠いタイプの人間で、我が強かったこともあり、少女Aという曲を歌うのを凄く嫌がってたそうです。明菜の理想は、松田聖子のような正統派アイドルだったとか。ですが、少女Aがヒットし、本人はニンマリしてたそうです。
なので早々にツッパリ路線をやめたというのも不思議はないですね。

ただ、ヤンキー全盛の時代だったので、斉藤由貴(スケバン刑事の影響かと)、中山美穂(こちらも毎度おさわがせしますやビーバップの影響)、工藤静香なんかもそうですが、本人は不良と正反対のタイプなのに、ヤンキー系の子達にかなり人気あったと思います。
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