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そういう天皇としての意思を示したのに、思うように行動できなかったということは、つまりその権力が実質上なかったことになりませんか?つまり天皇機関説は正当だったことが証明されてしまった。もっと端的に言えば明治天皇とは違い?お飾りに過ぎなくなってしまっていたということにならないでしょうか?終戦工作も鳥の一声で決まったわけではないし、昭和天皇とは戦前から、陸海軍の最高権力者などというのは偽りの看板だったということになりませんか?

A 回答 (4件)

>つまりその権力が実質上なかったことになりませんか?


はい、その通りです。

>つまり天皇機関説は正当だったことが証明されてしまった。
はい、その通りです。

>明治天皇とは違い?お飾りに過ぎなくなってしまっていたということにならないでしょうか?

明治維新の後、伊藤博文らによって、天皇親政から立憲君主体制を指向し、明治22年に憲法発布に至っていますが、その間明治帝がこれをイヤがってサボタージュした様子はありません。
 
つまり憲法ができる前から、明治政府は「天皇を御簾の向こうに置く元老院体制」だったわけで、すでに天皇は機関(悪く言えばお飾り)であったといえます。

>昭和天皇とは戦前から、陸海軍の最高権力者などというのは偽りの看板だったということになりませんか?

それは言葉のレトリックでしょう。
実際、グアムから帰国した小野田少将は「天皇陛下のご命令」で任務を遂行した、と発言しています。

軍隊や社会という組織論でいえば、日本の統治者は天皇であり、戦前は政治も軍事も宗教も統べる最高権力者であったことは間違いないからです。

しかし明治憲法による立憲君主制によって「統治権を委託する」ことにしたので、実質的な権力は軍部と政府(大政翼賛体制後は軍部と政府はほぼ一体)に委託されたわけです。

なので二二六事件においても、天皇が近衛兵を率いて鎮圧する、ことは法的には可能でも、憲法の枠組みからいえばかなり難しかったといえます。
 しかし、昭和天皇の断固たる方針は、二二六事件に対する政府の方針に影響を与え、ポツダム宣言受諾と並ぶ昭和天皇のご聖断とされています。

明治憲法を踏まえれば「ご聖断」自体がありえません。それこそ大正時代には「天皇機関説」が通説になり、天皇自身がそれを許容していたからこそ歴史的に「ご聖断」とされるわけです。
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この回答へのお礼

明治維新から基本的構造は変わらないが、明治天皇という象徴としての存在感は違いました。事実大正天皇神宮、昭和天皇神宮はありません。

お礼日時:2025/07/04 07:29

かたちとしては天皇は軍の最高指揮権を持ちますが、実際軍事行動の決定は参謀本部や軍令部等の機関を経由するものです。

そういう意味ではお飾りですが、2.26の際は天皇が反乱軍の鎮圧の意思を示していたのに軍部が動かないので「お前たちが朕の言うことを聞かないのであれば自分で動くぞ」と圧力をかけたわけです。結果的に軍部はそれまでの反乱部隊支持の姿勢を翻して鎮圧に動いたわけですから、単なるお飾り以上の力はあったと考えるほうが妥当じゃないですか。直接に行うか間接的か、そこだけの違い。単なるお飾りだったら間接的な影響力も行使できないでしょう。
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この回答へのお礼

お飾りとしての地位があるから、間接的な影響は行使できたのです。

お礼日時:2025/07/04 07:24

天皇が自らの意志を示す事は、大日本帝国憲法に於いては、


憲法違反なのです、それを承知で行動したのです。

青年将校の決起を利用して、統制派から実権を奪おうとした皇道派の
高級将校は天皇がお飾りでない事で、身の保身を図った為に、
青年将校達の思いは天皇陛下届かず、結果的には無駄死に成りました。
統制派は、異を唱える、軍部、政界、財界の人に対して、「わし等は
良いが若い者が黙っておらんでの~」と言って黙らさせ、大東亜戦争
に突き進みました。
統制派の高級将校も、反乱将校に向かわせた軍隊が合流する恐れが
有ったのでオロオロするだけで何も出来ずにいました。
反乱軍を制したのは、どちらの派閥にも属さない、軍事の天才将校
の石原莞爾大佐でした。

腰抜けで何等の施策を持たない統制派が石原莞爾を予備役の弊職
にして、万里の長城を越えて、支那大陸の侵略へと進みました。
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天皇陛下は旧憲法でも現憲法でも、権威の象徴であり、権限を
持って居無いのです、何の為に存在しているかと思いますよね。
権威と権限の日本独自の二重構造が重要なのです。
権威の象徴で天皇陛下が居られるので、戦争好きで多くの将兵を
殺したナポレオン、異を唱える者を二千万人以上の自国民を
殺したスターリンなどの様な独裁者が長い日本の歴史に於いて
誕生しなかったのです。
天皇陛下は「知らす」存在なのです、憲法の作成に当たり、井上毅は
あらゆる文献を読み研究して、天皇陛下を「知らす」存在として
表記する事にしましたが伊藤博文が国民に解り辛いと言う事で
「統治」するに表記を変えたのです。

「知らす」を日教組などの天皇制度反対派の為に学校では教えないのです。
権威の存在の天皇陛下が居られるので、日本国民は幸せに暮らす事が
出来ているのです、お飾りでは断じて無いのです。
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この回答へのお礼

>青年将校達の思いは天皇陛下届かず
届いたでしょう。不敬の輩として十分な行動をしました。
「知らす」存在であるというのは賛成ですね。

お礼日時:2025/07/04 07:26

そう思います。



軍人の力が強かった。天皇は名目に使われたと思います。
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この回答へのお礼

はい。そして皇道派さえも実はそうなのです。

お礼日時:2025/07/04 07:27

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