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身内が亡くなり、仏事に触れるように
なりました。
仏壇購入後の開眼・位牌への入魂・新しく
建てたお墓の開眼などで、お坊様にお世話になっています。
その度、お経を読んでもらっていますが、
物でしかなかった仏壇や位牌・お墓に
本当に魂が宿るようになっているのでしょうか?
なんだか形式だけでお坊様とお付き合いをし、お布施を包んでいるような気がしているのです。
お坊様って、どんなお坊様でも、入魂が出来る程の霊力をお持ちなのでしょうか?
格好ばかりの人もいるのでしょうか?
皆さんは、このような開眼・入魂をどう
とらえているのでしょうか?

A 回答 (6件)

高野山に年3回以上通っていた頃、阿闍利のお一人とお話した事があります。



霊力とは本来、仏様(自然の理)が持っているものであり、お坊さんは仏教という考え方の形式を通じてその恵みに触れる方法を感得する人の事を言います。
よくちょっとアブナイ宗教の人が言うように「自分が霊力を身に付ける」わけではないのです。
さも霊力があるかのように振舞うお坊さんの方が信用がおけません。

仏壇・位牌の開眼、入魂とは「仏教の形式を通して、自然の理に帰られた御霊と接する」ための形を整える儀式です。
仏教には「方便」という言葉があって、解りにくく複雑な理論を、その人の考え方や立場に応じた方法で例えて説明する事を指します。(「ウソも方便」も、本当は「ウソも時には方法の一つとなる」という意味です)
超能力だろうが何だろうが、その言葉で逃避でも何でもなく真に自分が救われる意味に気づいたらそれでも良い、と肯定しているのです。

魂を入れました、と言うのはその「方便」です。
これで仏の世界に対する窓口(仏壇・位牌)ができました、あとはご遺族自身が心安らぐまで、ここからあの世や仏様や御霊のことを考えなさい、と言っているのです。
いずれにしても、お弔いも供養も本当は「残された者の心の整理を助ける手段」なのですから、お布施の面などで苦痛と感じるならば無理をする必要はないでしょう。

相談者さん自身が、金をとられているだけの気がする、お寺やお坊さんから何も得るところがない、と感じておられるなら、他の宗派に変えられるのも方便のひとつかもしれません。
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宗教家や善男善女の方からお叱りを受けるかと思いますが、葬式、法事、仏壇、位牌、お墓、お坊さんという職業自体も人間が考え出した特有の儀式、形式ではありませんか。

むしろお坊さんがこのこと(儀式、形式であること)を一番良く知っているのではないでしょうか。

遺体、遺骨については安全衛生や公序良俗を守るため一定の取り扱いが法令で定められているとは思いますが、宗教上の約束事、習慣をどう取り入れるか、解釈するかは個人の自由であります。

とは言っても我々凡人には他の方法を見い出せず、お亡くなりになった方への感謝の気持ちを表す自分の心の拠り所として、一般的な習慣に従って対応しているのも事実ですね。
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他の方がお答えされているように、宗教とは心の持ち方であって、科学的に考えるものではありません。


キリスト教や日本の神教などは神様の存在を信じることが前提ですよね。
また「お守り」や「おふだ」も実際に神様や神通力が備わってる訳ではないけれど、それを信じるから購入するわけです。
「お祓い」にしてみても、お坊さんや神主さん、神父さんに実際に「霊」を払う力があるかは判りません。
そもそも、「霊魂」の存在は宗教を信じるか否かで決まります。
元来日本人は全ての物に霊魂が宿っていると考えていた民族です。
その為、お位牌やお墓にも魂を入れたりする儀式をするのです。
また、信仰の対象物には魂が宿っていると信じるはうが貴方も信心しやすいでしょう。
あと、お坊さんは皆さんそれなりに修行をされています。
ですが、日頃の言動がお坊さんらしくなかったり、
あまりにも金銭的なことに執着するお坊さんも中にはいますね。
貴方の所のお坊さんがそうでしたら、お寺を替えられたほうが良いとおもいます。
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坊さん@浄土真宗です。


私どもの宗派では誤解の招く「入魂・開眼」の用語はもちいませんが、同様の時期に入仏法要などは行います。(私どもの宗派は原則位牌も用いないので具体的には異なりますが)
ただ、ご質問の意味合いで、
> 本当に魂が宿るようになっているのでしょうか?
は、この「魂」という語を霊魂とか、亡くなられた方のたましい的に捉えているのでしたら、その意味での「魂が宿る」ということはありません。僧侶にそんな器用なことは出来ません。
No1さんがおっしゃっているように、一定の区切りの法要で、「魂」という語は魂胆とかの熟語のように「気持ち」の意で捉えます。
No1さんが言われていますように「方便」でありますが、方便とはウソと言う意味ではなく、「真実に導く手だて」の意であります。
その意味で、入魂の法要と霊力とはまったく関係がありません。
もっともこのへんの意味合いは真言宗さんなどでは多少意味合いが変わりますが・・・
なお、布施はかならず交換であって、僧側の法施という布施に対し、皆さん側から財施という布施を出し交換となります。法施がないところに御布施(財施)は不要であります。
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佛壇(佛像)の開眼法要では、それまで単なる箱、人形だったものが、


自分自身の信仰の拠り所となるものになる儀式と考えては如何でしょう。
お墓であれば、単なる石の工作物だったものが、これ以降、お墓になるんだ
という転換の式です。
海外で名前まで掘り込む事が多い墓石は、はっきり言って無機的な工場で
生産された単なる工業製品です。(もちろん熟練の職人が手作業で丁寧に
作る場合だってありますが)
そんな工作物にいきなり手をあわせろと言われても気分ものらないでしょう。

佛像の場合なら「これが佛さまだ」という定義をあなたの心に入れると
お考えいただければわかりやすいかと思います。
お経を読むだけなら、お坊さんじゃなくたって誰でも出来る事ですが、
その儀式の意義を伝えてくれるのがお坊さんとお考え下さい。
その手段として、厳粛な儀式や、法話等を行っているともお考え
いただければよろしいのではないでしょうか。
単なる工作物じゃなく信仰対象となる有難いものだという意識を
植えつけていただいたお礼としてお布施を包むのではないでしょうか。
仮にその儀式に疑問をお持ちなら、素直にお坊さんに質問しても何ら
失礼にはならないし、質問されれば、丁寧に説明してくれるものと
思います。
お布施はお経だけに対する料金では無いのです。
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>本当に魂が宿るようになっているのでしょうか?


魂が宿るというよりは、わかり易く言うと魂と拝む人を繋ぐ受信器のような役割ではないでしょうか。もちろん魂が宿っている場合もあるでしょう。

>お坊様って、どんなお坊様でも、入魂が出来る程の霊力をお持ちなのでしょうか?
 本当に信頼のおける坊さんならば、そのようなことを思っている人は一人も居ないでしょう。霊力というのはお坊さんの霊力ではなく、仏さんの霊力なのです。僧侶はそのお手伝いをしているようなものです。

>格好ばかりの人もいるのでしょうか?
 そういう人は確かに居ます。だけど開眼されていないという事ではないのです。開眼作法という作法をしっかり伝授されたとうりに仏像や位牌に施すと本当に開眼されます。(因みに、この開眼作法というのは、伝授の中でも最終段階の秘奥の教えで、本当は、どんな僧侶でも伝授できるというものではないのです。)

                     以上 参考までに
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