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今の日本の法律は自殺を悪いものとはしていません。
宗教的にはキリスト教は仏教よりも自殺に対する寛容度が低いような気がします。
哲学的には自殺は悪なのでしょうか?そうだとすると何故ですか?

A 回答 (7件)

哲学は知的探求心だとか知恵を望む心が哲学になっているとか言われますが、結局のところ<生きる意味を探す旅>だと思います。



人は<何故自分は生まれたのか・生きる目的は・どこに向かって、結果何をなせばいいのか・任務はなにか>を求めたがります。
探し出せるまで苦しみます。
求めることを放棄しても、それは常に視界の隅から離れてくれません。
だからまたわづらわされる。

私的哲学でいけば、自殺は悪ではなく 一つの生の完結の仕方だと思います。

戦前は日本は自殺は 美 として捕らえられていましたが、今では悪いことだと教育されています。
どうして悪いことかというと、宗教がらみでは無い考えだと「だって納税者が減る 消費が減る」だと思います。
「違うでしょう 残された人が悲しむからでしょう」って言うのは表向きだと思います。

人は一人だと思います。
どんなに愛し合っていても 一人だと思います。
分け合うことのできない領域があります。
そこすら「自殺は悪だから」とまるで人の人生を乗っ取ったような言い方をする人は傲慢だと思います。
一人の生の完結を見送ることができない人は、自分の生をちゃんと完結することはできないと思います。
完結した人間を批判する権利は誰にもないです。

って思います。

何故自殺したのか 自分が至らなかったからなのか 社会が至らなかったからなのか それとも病気か

人の死体に鞭打つより、原因を探り出し、もっと生きられた可能性があったと思えるのなら、自分の今後の役割を見出せると思います。

それは残った人間が「自殺してはいけない」と壊れたテープレコーダーのように宣伝してまわることじゃない。


と私的哲学的にはこのように考えています。
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自殺は悪です。


人は幸福に生きる義務があります。
自殺した人は死後、魂の存在として、幸福になれません。
本人の問題としても、回りの人に与える影響を考えても、霊的視点(宗教的真理)に立っても自殺は駄目です。
凡庸な哲学者がいろいろ言っても、駄目です。
自分がもし自殺して、その場面を描いてみてください。好ましい事であるか、好ましくない事か、分かるはずです。
哲学的には、魂は死なない、心そのものは死なない事を、明らかに明記しておきます。
詳しくは補足要求があればお答えいたします。
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参考に


人生はたかだか平均80数年の学校みたいなものでしょう。みんな落ちこぼれていいのなら学校はいらないよね。言い換えれば、生まれてくることもないですよね。出来ようが出来まいが小学校だって6年辛抱すれば卒業でしょう。がんばって80年辛抱せいやということなんです。辛抱すれば見えるものもあるということですね。日本の社会はどこで辛抱するのも自由だからとっても楽だと思いますね。都会でも田舎でも山でも島でも川端でも橋の下でもOKですね。猫や犬でも一生懸命生きてるじゃないね。人に出来ないことは無いはずなのだけど、自殺?意味の無いプライドによるものなのかね。プライドなんぞは大哲学者にでもなってから考えるもので、凡人が大げさにもてるものではないですけどね。
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日本でも自殺を手伝ったら罪になります。


キリスト教の思想哲学と、仏教の思想哲学の違いは、前者は、生きることは、一生かけて罪をつぐなう原罪の意識ですが、仏教は輪廻転生、生死を超えた思想哲学になっています。個人的には、前者は肉食の意識(死んだら負け)で、後者は稲作の意識(来年も穣る)の違いがあると思います。
なんの根拠もない、個人的な意見ですのであしからず。
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まず、日本の法律では、確か自殺は刑法に触れる行為です。

ただ、実際はその自殺という罪を犯したものが死んでしまっているので罰せられないだけです。自殺ほう助が罪になるのはそこからでしょう。

哲学的に「自殺は自分以外の者すべてへの死刑宣告である」という言葉を聞いたことがあります。自分の意識の世界から他のすべての存在を全否定する。それが自殺するということです。
もし、このような意図が背景にあって自殺する人にとっては善でありうるでしょう。


古代哲学者にヘゲシアスという人がいたのですが、この人は「消極的快楽主義」という立場をとりました。「幸福とは、人生において苦しみがないこと」と定義しています。そして、一番の特徴は「苦しみに無関心になれなかったら一刻も早く死んだほうがいい」という言葉です。
彼は史上初の「自殺を勧めた」哲学者です。
この場合、死ぬことによって、自身を煩わせてきた苦しみから解放される、という善のために自殺してもいい、という考えなのでしょう。
こうなると自殺は悪とは言い切れません。

また、今度は悪という考えで見て見ましょう。
人生は「苦」です(そういう考えをわたしは持っています)。「苦」は誰でも避けたいものです。
ところで「義務」ってありますよね。義務って何でしょう。わたしたちを拘束するものですよね?自由を求めるのに拘束されなければいけないという事は「苦」ですよね?
ここで、「人生=義務=苦」という三段論法が成立しましたよね?自殺というのは、与えられた理不尽な人生という義務なら逃げること、とも取れるわけです。
義務から逃げる人を見てどう感じますか。
人それぞれだと思いますが、多くの人は「ずるい」と感じるでしょう。それは悪です。
だから自殺は悪だ、という考え方があるのでしょう。


哲学には絶対的正解は存在しないでしょう。特にそれが倫理的な内容だったら。
私はあくまでこの2つの例を挙げましたが、他にもさまざまな思想があるでしょう。なので、個人レベルで善悪の判断をすることはお勧めしますが、あくまでそれが全員に当てはまる、とだけは思わないで下さいね。
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哲学とはものの真理を求める学問ですから、結論は一つしかないのですが、自殺の良し悪しの結論は出ないでしょう。

むしろ答えが無いというべきです。

宗教は哲学ではありません。これは思想です。思想は真理を選べるのです。したがって宗教や、その他の思想によって善悪は決まりますから、普遍的な結論は有りえません。

答えのすり替えかもしれませんが、答えは、人間は自由だということでしょう。つまり自殺を選択することも、拒絶することもできるのです。機械論的にどちらが良いとは言えないのです。

一般の生物界では、種の保存に役立てば善であり、役立たなければ悪です。そういうと自殺は悪と単純に言いそうですが、必ずしもそうではありません。たとえば個体数が極端に増加して、種の保存が危機的状態になると自殺を選択する生物もあります。また羊などは襲われると意識を失うこともあるのですが、これは少数が襲われることで、多数の個体が生き残れるのです。生物の体内では、人間も含めて計画的自殺が行われます。アホトーシスのことですね。人間の指が5本とも離れているのは、間にあった細胞が自殺した結果です。

しかし、人間はこのような生物学的な問題も乗り越えて、自ら何の利益が無くても、自殺を選択することも、拒否することもできるというのが答えでしょう。
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こんばんは


難しい問題ですがいくつかの局面で切り分けて考えたいと思います。
自殺の動機という側面は見逃すことはできません。
思想・信条が社会体制に沿わない、弾圧に対する抗議の表明、責任を自死で表す、残される者の安寧を引き換えとする、などさまざまで、切腹ははらわたを見せる、すなわち潔白を証明するために行われるケースもあったといわれています。
ソビエトの政治犯の囚人監視のなかで、自殺は最も権力者から忌避され注意されていたそうです。
死刑囚は国家権力によって、処刑されなければならないからです。
そのような条件下では、自らの尊厳を守るために自殺は選択肢として、かならずしも悪と決め付けることはできません。

ひるがえって、昨今の日本の状況はそのような切迫性は少なく、企業や組織の存続などに配慮した不幸な板ばさみのような自殺は見られますが、多くは個人的な事情によるものでしょう。

哲学全般に通じている者ではありませんが、唯物論的な観点からすれば、死後はすべて無に帰するという点で割とシンプルですが、古来の輪廻転生的な考えに基づくと、自らの課題とした人生をまっとうせず断ち切ってしまう自殺は悪ということになります。

また、観点を変えると、自殺が悪かどうかは、
社会にとってなのか
残された家族や関係者にとってなのか
純粋に自殺者個人にとってなのか
という点が未整理のまま語られることが多いように思います。

社会学的には、日本人の自殺率が高いのでかならずしもよい国とは言いにくいという側面も語られます。

雑駁ですが、たたき台として書いてみました。
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