教えて頂きたいことが2点ほどあります。
どなたかご存じ方がおられましたら、
よろしくお願いします。

・「シュトクハン」の話を以前に聞いたことがあるのですが、
 その漢字と仏典の出処を教えて下さい。
 「知恵が足りない彼が、釈尊の一つの言葉を守り悟られた。」という話です。
・それと、どこの宗派か分かりませんが、「便所掃除をすると女性は
 美人に生まれ変わる」という話があったと思うのですが、
 その正しい話と仏典の出処を教えて下さい。

A 回答 (2件)

○チューラ・パンタカ(周利槃特・周利槃陀伽・小路・修利槃特・朱利槃特・須利槃特)


パーリ部経典のクッダカニカーヤの中の長老の詩(テーラ・ガーター)が最も古い出典でしょうか。最近の邦訳としては「原始仏典9 仏弟子の詩/梶山雄一・早島鏡正」が手に入りやすいでしょう。
漢訳経典では、増一阿含経第11、善見律毘婆沙巻16、根本説一切有部毘奈耶巻31、法句譬喩経巻2などに説かれているそうです。
日蓮がよく説教に取り上げたようです(一代聖教大意、南条兵衛七郎殿御書など)。

○便所の神
民間信仰なのこれといって典拠はなさそうです。
便所の神が美しい女神だからという理由が多いです。例えば、一説には、厠の神は梵天で、その妻である弁財天が美人であるため、云々。
また、産婦は厠をきれいに清掃すると安産する、子供が産まれて何日かたつと便所にお参りする、ホトタタライススキヒメの伝説など、文化人類学的にも便所は女性・出産・性といったものに結びつきやすく、厠の神を美人の女神とする例は外国にも例があるようです。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2001/10/19 02:24

 「しゅりはんどく」周梨槃特のことですね。

いくつかの辞典を引いてみましたが、出典について触れたものはありませんでした。後段の便所掃除の話も分かりません。ひとまず漢字のみお知らせまで。
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この回答へのお礼

確かに、周梨槃特ですね。
有難うございます。
なぜ、いつから「シュトクハン」になって
しまったのでしょうか??
困ってしまいます。お恥ずかしい。
                ^ ^ ;

お礼日時:2001/10/17 07:30

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Q仏典の解釈とその実践における失敗

私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり、どうもうまく教訓が生かせないと思い、現在は歴史の修練に残った宗教の教えを参考にしようとしています。(生真面目な性格です。)

具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)

そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。

Aベストアンサー

 少しばかりお話させていただきます。
>>私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり・・
 私はそんな感じでいいと思うんですけどねぇ。非常に仏教的だと思いますよ。私は個人的には浄土教を信仰していますが、その中で説かれる信心のなかに「深心」というものがあります。
 この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です。まず「信機」というのは自分の愚かさを省みることです。そして、「信法」とは阿弥陀仏に身を任せた生活に入ることを指します。この二つは「信機」、そして「信法」この二段階で終わりではありません。「信機」は「信法」を深めて、「信法」は「信機」を深めていくという、相互干渉しあうものとされます。
 つまり、自分自身はなんと愚かであろうかという反省(信機)が、阿弥陀仏の救いのありがたさを感じ阿弥陀仏の本願に身を任せる(信法)。しかし人間というのは時が経つとそのときの心を忘れまた傲慢に振舞ってします。するとまた、自分の愚かさというものを身にしみて感じる(信機)。そして、阿弥陀仏の救いの心の尊さを感じる(信法)といった具合で深まっていきます。このように深まり続ける心だから、「深心」と呼ばれるわけです。
 お釈迦様の言葉を借りれば、『法句経(ダンマパタ)』というお経の中に「愚かさを推し量る愚者は、それ故また賢者である。賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそ愚者といわれる」と説かれており、お釈迦様は「愚かさを反省する必要のないほどの賢者」よりも、「自分の愚かさを反省し続けることのできる愚者」でありなさいと説かれるのです。
 そういった意味では、質問者さんは非常に仏教的だと思いますよ。

>>具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)
 そこで「どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます」と感じてしまうのが人間の愚かさなのでしょう。しかし、いかんと感じられるのなら私はあなたはなかなか自分を客観的に見る感覚はお持ちのようで、やっぱり仏教的な反省も得意な方のように思います。
 まぁ、お釈迦様も「犀の角のように歩め」とおっしゃる一方で「善き友と交われ」とおっしゃっていますし、これはもうご存知だと思いますが「仲間の中におれば、休むも、立つも、行くも、旅するも、常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独りで歩め」説かれているように「犀の角のように歩め」というのは、人々の中で仲良くしていながらも誰かに寄りかかるわけではなく、自分勝手に振舞うということではなく心は自由でありなさいという意味だと思いますよ。ですから、仏教を学ばない人がいても、その人とも仲良くできるのが本当の自由じゃないですかね。生意気申しました。悪しからず。
 私もテーラワーダ(上座部)の書物はよく読ませていただいています。平易な言葉で素直に受け取ることができて私も好きです。先に紹介していらっしゃる方もいらっしゃいますが、「仏法―テーラワーダ仏教の叡智」(ポー・オー・パユットー 著、 野中 耕一 訳)は名著ですねぇ。テーラワーダの教科書であると形容されることもあり、典拠主義に基づいた理論展開はすばらしいですね。個人的な感想であるかもしれませんが、個人主義的な部分も強いテーラワーダ仏教の中において、社会科学的な視点を取り入れ大乗仏教とも通じる部分を感じたしだいです。

>>そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
>>すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
>>そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
>>そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。
 なかなか、勉強家のようですね。私も本を読むのはすきなのですが、最近読んで面白かったのは
●釈徹宗 著 「いきなりはじめる仏教生活」
ですかね。この方は浄土真宗の方ですが、まずは現在の思想の解体から始まり、宗教とはいかなるものか、そして宗教の問題点等を挙げていき、お釈迦様の仏教を解説し、日本仏教の大きな流れである禅と浄土の思想を解説し、人間の問題の解決法を仏教の中に見出していくという流れになっっているかと思います。言葉も平易で読みやすい一冊でした。

 文章が急ごしらえのため誤字脱字乱文、どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀佛

 少しばかりお話させていただきます。
>>私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり・・
 私はそんな感じでいいと思うんですけどねぇ。非常に仏教的だと思いますよ。私は個人的には浄土教を信仰していますが、その中で説かれる信心のなかに「深心」というものがあります。
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Aベストアンサー

 こんばんは、先程の者でござます。

> 紹介のサイトはこのことを調べてるときに見ました。

 そうでしたか。これは失礼致しました。


> しかし仏教とジャイナ教の親にあたるという
沙門宗教
というのはググっても、それらしい記述が出てきませんでした。


 紀元前600年ころにはガンジス川流域での農耕文化が成熟し、余剰生産物すなわち「富」が生まれてくると共に王侯・貴族階級のクシャトリアの中でバラモンに対する不満が鬱積してきました。そのとき、反バラモン教の動きが出てきたのだそうです。そして、この人たちは「努力する人(シュラマナ)」と呼ばれ、「沙門」の語源となったそうであります。



> 沙門とはバラモン以外の修行者という意味ですよね、釈尊は出家後に先駆者の沙門には
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沙門宗教という一つのまとまった宗教があったという意味ではないですよね
となると、沙門宗教とはなんなのか、さっぱり分りません。

 そのときの反バラモンの一派(一宗派)かと考えております。つまり、釈尊もマハービーラも、(歴史には載ってはいないが)ある「沙門」の影響を受けた可能性がある、ということかと考えております。

 これは、釈尊、マハービーラの出家、さらには伝道の道程を詳細に調べることが可能でしたならば、判明するかもしれませんが、現実は困難なようであります。

 ただ、各々の弟子達には交流が見られたというのは、ほぼ確実かと考えております。ダンマ・パダ(法句経;そもそも釈尊の入滅後に記述されたものです)の類似性を鑑みますと、入滅後には、何らかの接触はあったろう、と考えております。

 ご参考になれば、幸いでございます。

 こんばんは、先程の者でござます。

> 紹介のサイトはこのことを調べてるときに見ました。

 そうでしたか。これは失礼致しました。


> しかし仏教とジャイナ教の親にあたるという
沙門宗教
というのはググっても、それらしい記述が出てきませんでした。


 紀元前600年ころにはガンジス川流域での農耕文化が成熟し、余剰生産物すなわち「富」が生まれてくると共に王侯・貴族階級のクシャトリアの中でバラモンに対する不満が鬱積してきました。そのとき、反バラモン教の動きが出てきたのだそうです。そし...続きを読む

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曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたるということである。』

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どなたかお教え戴けたら幸いです。

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Aベストアンサー

>>「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」

これは、仏陀の悟った法全体について述べているのでしょう。「宇宙即我」関連であれば宇宙空間とか遠い星雲についての悟りもあるでしょうし、物質の生成と消滅なども当然あると思います。科学的な知識の無い昔の人々にそんな話をしても理解できるわけありませんからね。

>>「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」

この部分は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の教えですね。これに関しては、一般の人になんとなく理解出来る気分にさせるけど、それでもなかなか理解は難しいはずです。
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