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満州国が成立して日本の傀儡政権が中国の関東地方を支配するわけですが、
元々満州に住んでいた人たちに対してはどのような方針で政策を行ったのでしょうか?
農民から土地を取り上げるとか、ビルを接収するとかいうことはあったのでしょうか?

GHQが日本に行ったような、現地の人にも喜ばれるような合理的な政策が行われたのでしょうか?
それとも軍事力にものをいわせて強引なことをやっていたのですか。
満州の開拓ということが大々的に行われていたようですが、現地の人たちと協力して行っていたのでしょうか?

当時の様子を教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

満州国の場合、皇帝や総理、各省部のトップは満州人(必ずしも現地人とは限らない)でしたが、ナンバーツウや実際に権限のあるポストには日本人がついていました。


また軍隊(関東軍とは別にいちおうありました)や警察のような権力機関の幹部はほとんどが日本人が抑えていました。
これらの人々のうちでも上級幹部はまだましでしたが、中下級幹部や役人には日本ではうまくいかずに食い詰めて満州国でポストを得たものや、軍や役人と結託して現地の人たちの土地や財産を取り上げるようなやからもあり、また現地の人々を見下し自分たちはお前らとは違うんだという態度をとる連中もたくさんいました。
そういうわけで現地の人たちと友好的とか協力してということにはなかなかいきませんでした。もちろんなかには理想を持って現地の人たちとも協力していた人も皆無とは言えませんが少数派でした。
そういうわけで、満蒙開拓団も自衛のための武器を持っていたくらいでした。
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GHQが現地の人に喜ばれるような統治をしたかは別として、


満州での日本人の様子を書きますね。

前の人も書いていますが、満州の官僚は日本人が非常に多かったのは事実です。
しかし、これは単に「中国人は文盲が多く、更に満州へ流入してくる移民・流民は
言語が統一されておらず基本的なコミュニケーションさえ満足にできなかった」から
です。日本人の若手は満州に「新国家」の夢を見て優秀な人がどんどん渡っていき
ました。
後年、それらの人を「人を見下した態度だった」と言うのは単に根性が曲がっている
か、誰かに言わされているからでしょう。

>農民から土地を取り上げるとか、ビルを接収するとかいうことはあったのでしょうか?

これも話が全く逆です。(元々はビルなんかなかったし。)
元々満州は漢人の入植禁止地域でしたから、土地も「無主の地」であり、わざわざ人の
土地を取り上げる理由がありません。
逆に当時条約で認められていた日本人に対する商工業、農業に必要な土地の商祖権も中国政府に
より「日本人に土地を商祖した者は売国奴として死刑に処する」との法律まで制定されました。
さらにこうした法令が過去に遡ってまで適用されたため日本人の南満州における商祖権はまったく
不可能になってしまいました。
また、中国は清朝の後継なのに「清朝がこれまで外国と結んでいた条約は無効である」と一方的
に宣言し、外国に貸している土地や利権を回収する運動を始めました。これらは外交交渉ではなく
一方的なものです。まさに現代中国に通ずる行動ですね。日本が不平等条約を幕府の後を継いだ
明治政府が50年以上もの外交交渉や自国の成長により解消したやりかたと対象的です。

彼らが言うことは「良いことは私がやった、悪いことは日本人がやった」が原則ですから。

>満州の開拓ということが大々的に行われていたようですが、現地の人たちと協力して行っていたのでしょうか?

もちろんです。
大々的な開発は現地の人と協力関係がなければ全く不可能です。
日本からの投資でダムや鉄道、道路などのインフラ開発が進みましたが、それらは満州の人に
職を与えますし、そのインフラを利用した産業が興りますから反対する理由がありません。
確か、高速鉄道(新幹線の先輩です。)も日本ではなく満州が世界最初です。
ダムによる電力供給も中国全体の90%ほどが満州からの供給です。これは戦後も変わりません
でした。
これらの進んだインフラをもって、毛沢東が「共産党が全ての拠点を失っても東北(満州)だけ
あれば必ず勝利する(だったかな?)」と言ったとされています。

これらの事は治安が維持されていることが条件となります。

前提として、日本は条約で鉄道保護のため1キロ当たり15名を超えない範囲で守備隊
を置く権利が認められていました。ちなみにこれで計算すると最大規模は 14,419名です
(もちろん日清条約でも承認)。これが関東軍の前身です。この後、日本の資本と移民
が入植します(当時の朝鮮人含む)。対する軍閥である張学良軍は30~40万と言われて
います。
その後、満州の治安は極めて改善され、産業も活発になり、この土地を求めて中国から
人が殺到します。いつの時代でも、人は治安が悪く、税金が高い土地には命令されても
住みません。満州の人口は辛亥革命当時1,800万であったのが、満州事変の頃には3,000万
に達したとの記録があります。
ここで、「本当に日本が悪政を行い、中国が国を挙げて排日活動を行っていたのなら、
この満州の人口増加は説明できない」ことをお考えください。要は排日運動は「満州の
権益から追い出された者たちの怨念」との側面が強いのです。

以下の著書に詳しいです。参考にしてください。
http://www.bk1.co.jp/product/2589540
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