人は倫理にかなう行動をするべきであると言われますが、
時代・場所が違えば何が倫理的で何が非倫理的か、その
答えも変わってきます。ということは、現在、倫理的に
「正しい」とされている事柄というのは、結局は単に、
今、大勢の人が「正しい」と思ってる事柄に過ぎないので
あって、客観的に(論理的に)現在の倫理の正当性を
説明することはできないだろうと僕は思います。

というか、論理で説明できないからこそ倫理は強力なの
ではないかと思っていました。

しかし、過去・現在の哲学者によって倫理を根拠付ける
試みがなされているという話を聞きます。それは、一体
どのようになされるのでしょうか?そんなことが可能なの
でしょうか?ぜひ教えていただきたいです。

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A 回答 (8件)

 私も 倫理は基礎づけできない と思います。



ロールズも決して「基礎付け」ようとしたのではないと思います。
「原初状態」というものは「決して現実にはありえない。」
と述べた上で、「人が原初状態におかれたら、つまり、自分の性格や社会的地位
を何もしらなければ、平等と自由を望むだろう。」と言い、
読者の想像力を掻き立てているのだと思えます。

カントは、「理性によってなされる行為は、行為の結果では判断できない。
その行為をする時の内面が問題だ。」と言います。
しかし、この場合、倫理や道徳の客観的な評価はまったくできない
ということになります。そうなると、「みなが理性の要請に従っている。」
という「目に見えない前提」を受け入れないことには、カントの道徳論
は基礎付けにならないと思います。
 実際、われわれの時代だと、この前提を受け入れるのは難しいと思われます。

アリストテレスは、「善は誰もが求めているものである。ただし、善の内容
はそれぞれ異なる。」というように言います。彼は、そこで、個人の善と共
同体の善の一致を論じるのですが、これは、「私が大衆の教えてあげよう。」
というような「啓蒙」的な姿勢ゆえに可能なのです。
この倫理学では、最終的のは「俺の善は、みんなの善と異なる。」
と言えばそれまでなのではないでしょうか。

最近では、だいたい、個人と全体を対立項とみなし、個人を生を重視する
サルトルやキルケゴール、ハイデガー等の実存主義的な倫理観か、
個人の善はと社会の善と同じものであるべきとする、ハーバマス等のどちらか
が主流ですし、このどちらかの要素を含まずには、倫理学は無理でしょう。
ちなみに、レヴィナスは個人よりも他者を重視する珍しい立場と言えそうです。

倫理や道徳は言葉で表される限り、既にある倫理観や道徳観を描きなおすか、
新たな語を導入するかしかないと思います。
しかし、新たな語を導入したところで、
「共有」できなければ意味がないでしょう。
ですから、今は「基礎付け」る倫理学よりも、「役立つ」倫理学
が望まれていると言えそうです。

もし、倫理が成り立つ「条件」や「起源」を知りたいなら、
哲学の伝統よりも、「進化論」や「認知科学」のほうが
ためになるでしょう。

哲学は、既にある現象を、それと同じ言語で描きなおす試み
であり、「原因」を言い当てることはできないと思うのです。
 こういった「反基礎づけ主義」とその帰結を考えたいならば、
リチャード・ローティの著作をおすすめします。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

僕の質問の意図を完全に理解して頂けているだけでなく
非常に分かりやすい回答で、勉強になりました。

反基礎づけ主義に関しても非常に興味があります。
以前ローティーの「哲学と自然の鏡」を読もうとしてやめて
しまった(値段高くて…)ので、こんど図書館に入荷リクエスト
してみようと思います。

今回は、納得できる回答を頂けたことと共に、教えてGoo!の
哲学分野でコミニュケーションが正しく成立したことに感動(笑)
しました。

ありがとうございました。それでは。

お礼日時:2001/11/20 19:44

>そういうわけで、レヴィナスにしろロールズにしろ、


>そういう人たちが「どのように」倫理の基礎付けを
>試みたのか、っていうのが僕の質問だったわけです。

なるほど、良かった、これなら理解できます。でもすみません、それらの哲学者の名前は、今、わたしが注目している哲学者というほどの意味なので、実のところそれについてよく知っているわけではありません。

でも、聞きかじりの話で、大変申し訳ないですが、知ったかぶりで名前を出してしまった手前、ちょっと調べてみました。

ロールズは『正義論』という本の中で、正義とは何かを問うた政治哲学者です。キーワードは、原初状態と無知のヴェール。人間は、自然のままでいると、お互いに争い戦争のような状態に陥ってしまいますよね。そこでみんなが納得するようなルールを作ろうと言ったのがロールズ。まぁそれだけだと当たり前な上、空想的な事なんですが、そこをゴリゴリ行くのが哲学者です。みんなが納得するルール、つまり社会契約を結ぶには、どうしたらいいか?そこで出てきたのが、「原初状態において」という考え方です。そして原初状態において「人々は無知のヴェールのもとに置かれる」のだと言います。どういうことか。つまりですね、現在および来るべき社会の中で、自分がどのような地位についてどのような生活をしていくのかという情報を一切、持たない状態になったと仮定して話を進めようというわけです。つまりボクもワタシもアナタもキミも、みんな、それこそ王様もサラリーマンも哲学者も科学者もホームレスも、みんな、自分を規定している一切のものを捨てて、一個の人間になる。そして考え始めれば、「善い社会」がどんなものかわかるでしょ?といういうわけです。で、ロールズが考えた善い社会は、最悪のケースにおける損害を最小化しようとする社会だそうです。ロールズが構想した倫理は、社会の倫理、政治の倫理ですね。

レヴィナスは、実は私もよくわかりません。でも、一番気になっている哲学者であることも確かです。キーワードは、他者性。それは私に対して、私の知り得ないこと、支配し得ないことを指します。それを一般に超越性とか外部性と言います。どうやら、彼はそこに不毛な争いを超克する希望を見出したようなのですが、私にはこの辺までが限界です。申し訳ありません(>_<;)

参考文献はロールズが『友達のノート』(笑)で、レヴィナスが『岩波哲学思想事典』です。
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この回答へのお礼

何度も回答ありがとうございます。
友達のノートまで使って(笑)答えていただき、感謝します。

ロールズは理想的な社会を作るために必要な倫理を考えたわけ
ですね。なるほど。
レヴィナスはよくわかりませんが、興味があります。
講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズに確かレヴィナスが
入っていたと思うので、今度読んでみようと思います。新書でも
多分ちくまから入門書が出てた気が。

読みたい本が沢山でてくるのは嬉しいですよね。
それでは、ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/20 19:42

 最初に、次の三つのことを確認しておきます。



(1)shunchiさんは、「倫理」という言葉を「道徳」という言葉と同じ意味で使っている。

(2)shunchiさんは、ここで、「倫理」=「道徳」の存在そのもののではなく、その内容(道徳規範)の客観性、普遍妥当性を疑っている。

(3)以上の前提に立って、「道徳」の内容の客観性、普遍妥当性を根拠付ける論理があるのなら、聞かせてほしいし、また紹介してほしい。

 以上のことが間違いないものとしてお話しさせていただきます。

 結論から言うと、shunchiさんを納得させるだけの、「道徳規範」(僕は「倫理」と「道徳」を区別したいし、「道徳」の存在そのものではないという意味で、「道徳規範」と言わせていただきます)の客観性を積極的に根拠付ける論理はないだろうと思いますし、おそらく、shunchiさんも、既にそうお考えなのではないでしょうか。けれども、そこにとどまっていては、一歩も先に進めないでしょう。shunchiさんが「『倫理を論理的に根拠付けようとする』哲学者ではなく、むしろその逆の立場に立ってい」るとおっしゃる永井均氏も、そんなところにとどまってはいません。

 以前、shunchiさんが「独在性」についての質問をなさった時に紹介したので、もうお読みになったかもしれませんが、永井氏は「規範の基礎――「べき」の生成論の立場から――」(『〈魂〉に対する態度』所収)の中で、「道徳に関する人間性の発達段階」として、1「快楽主義的段階」、2「自己利益的(目的合理的)段階」、3「道徳主義的段階」の次に4「超脱(賢慮)的段階」を取り出し、「そうすることが自分の利益にならない場合でも、誰でも正しいことをすべきであるのか」という問いに真正面から答えるには、この第4段階を方法的に取り出さなければならないと言っています。詳細は、該当著書に委ねるしかありませんが、少なくとも、永井氏は、ネガティブな形ではあれ、「倫理」そのもの根拠を取り出してみせたのです。

 僕の回答も、おそらく、shunchiさんの求めていらっしゃる回答ではないでしょうが、問いの立てられ方に何か不毛な質疑応答を招来するものを感じたので、書き込ませていただきました。お気に障ったら、申しわけなく思います。

 ちなみに、shunchiさんのおっしゃる意味での「倫理の論理的基礎付け」を試みていると思える(成功しているかどうかは別として)書物として、もう読んでいらっしゃるかもしれませんが、柄谷行人『倫理21』をご紹介しておきます。

 少しでもご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

現代では、哲学にしろ科学にしろ、真理の基礎付けは
ほとんど諦められてしまい、相対主義的な考え方に
支配されているように思います。もちろんそれに対する
反抗の試みも沢山ありますが、もはや近代的な素朴実在論を
擁護するのは不可能なようです。

今パトナムの「理性・真理・歴史」を読んでいまして、
価値判断を含む相対主義への批判がそこに出てくるの
ですが、相対主義は破壊的な説得力があり(無論、問題点も
ありますが)、それを完全に封じることはできていません。

そんなわけで、他の哲学者がどのように真理を、
とりわけ倫理を基礎付けようとするのかに興味を持ち、
質問してみたわけです。

『倫理21』はできれば読んでみたいと思います。
ありがとうございました。

他の方から、他の哲学者についてのご説明があるかもしれませんので、
もう少しこの質問を閉じないでおきます。

お礼日時:2001/11/12 09:41

そのように流れまくるものは倫理とは言いません。


善悪系を提示すれば、倫理を言うことができるかもしれません。
善悪系は、流浪するこの世の中の、個々人のもつ言語では把握できません。
流れぬ世界を見る言葉。これによりです。永井均をよく知ってらっしゃるようですので、shunchiさんはウィトゲンにもお詳しいのでしょう。「私の」言語といっている間は多分無理です。「私」の言語常有持者には、善悪系は見えないし、聞こえないし、倫理を言う事も無理でしょう。
 僕は、とりあえずきめつけ系の流れまくる言語を常に使うので、善悪の判断はつきません。流れのないところを見たとして、果たして善悪系がそこに見つかるかもわかりません。そんなものないのかもしれないです。でもあるかもしれないですね。流れはなくても道はあることが出来ます。定的論理というんでしょうか。
倫理はそういう世界の道のような、定的論理によりもたらされているのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>流れはなくても道はあることが出来ます。

ん~、道というのは比喩的な言い方なんでしょうか、
具体的イメージがどうもつかめません。
そしてそれが定的論理であるということもよく
分からない。もう少し考えてみます。

お礼日時:2001/11/12 09:36

わー、確かに私は、倫理と倫理学をいっしょくたにしてますねぇ(汗)。

どうやら「倫理的=問い直す生き方」、「道徳的=問い直さない盲目的な生き方」という私のイメージ(先入観)が混じってしまっているようです。いきなり、「倫理的」でなくてすみません…。

shunchiさんのご質問の意図は、つまり、問い返さない倫理の論理的な根拠付けということですね。う~ん、申し訳ありません。哲学は、既にして問い返してしまうものなのではないでしょうか?従って、哲学による倫理(道徳)の根拠付けは、永井のような「問い返す」倫理学によってしかなされないような気がします。ソクラテスやレヴィナスやロールズといった人たちも倫理を問うた哲学者ですが、みんな既存の倫理を問い返してしまっていますよね。

あえて言うなら宗教者が、それに当たるのではないでしょうか?でもルターは問い返したな…。ん、儒者はどうでしょう?儒者は、過去の偉大な人のように生きることを倫理とした、と聞いたことがあります。…わ~わかりません!ピント外れでしたら、ご指摘ください。ごめんなさい!!
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この回答へのお礼

いや、何もあやまらなくても(笑)。

No.3のお礼で僕が、
>永井均は面白いんですが、彼は僕が質問で書いたような
>「倫理を論理的に根拠付けようとする」哲学者ではなく、
>むしろその逆の立場に立っています
と書いたのは誤りでした。すみません。
よく考えたら、倫理を根拠付けようとする試みは、
jumeさんの言葉を使えば、「問い返す」倫理に決まってます。
問い返さないなら根拠付ける必要ないですからね。

そういうわけで、レヴィナスにしろロールズにしろ、
そういう人たちが「どのように」倫理の基礎付けを
試みたのか、っていうのが僕の質問だったわけです。

お礼日時:2001/11/12 09:35

聞きかじり、読みかじりの話で申し訳ないのですが、参考程度に…。



まず倫理と道徳は、区別されるようです。道徳は、確かに国や地域、時代によって異なるものになってしまいますが、倫理はそうではない、と。つまり、どういうことかといいますと、人間ってなんだろう?という根本的なことから考えるからなんですね。倫理学って哲学なんですよ、根っこは。原理を探求して、そこから言えることだけを言う。これが倫理学ですね。道徳は「あれをしちゃいけません、これをしちゃいけません、それをしなさい、なにをしなさい」といろいろ細かく言い募るんですが、倫理学は「人間は人を殺せる」ということをまず認めて、それから「では、なぜ人を殺してはいけないか」を考え始めるんです。

そんな悠長なことしてられるか!人は殺しちゃいけないんだよ!…ごもっともです。でも、同じように「女性には人権を認めない」とか「身分・階級をわきまえろ」それが道徳だ!と言われて、納得できますか?そう、倫理学は道徳とは反対の、時にはそれを破壊するような、思考法なんです。

…あくまで私個人の理解です。心配なので、私が参考にした本を一冊紹介しておきますね。永井均著『<子ども>のための哲学』講談社現代新書。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まず疑問に思ったのは、jumeさんの御説明は、倫理と倫理学を
混同しているように見える、ということです。ぼくは、倫理と
道徳はほぼ同じであると考えています。倫理的に生きるという
ことは人として正しく生きるということであり、それは道徳的
と言い換えることもできる生き方だと思います。そして、倫理
学というのは倫理についての学であり、それはまさに根本的な
倫理・道徳への懐疑、考察であるはずでしょう。

>倫理学は道徳とは反対の、時にはそれを破壊するような、思
>考法なんです。

そうでなければならないと思います。例えば「人を殺してはいけ
ない」という倫理に対し、盲目的にそれを信じるのが倫理的・道
徳的なあり方であり、その場合に「なぜ殺してはいけないの?」
というのは社会にとって危険な問いであり、非倫理的な問いです。
しかし、倫理学が学問であるならば、なぜ?と答えが出るまで問
い続ける事が必要であると思います。

しかし実際には、(永井均も<子ども>のための哲学の168頁以降に
書いている通り)倫理学者は倫理・道徳を疑いません。そんな訳で
少なくとも現時点では倫理学は倫理的であり、根本的かつ非倫理的
な思考を投げかけられるのは(つまり倫理そのものを疑えるのは)永
井のような哲学者だけのようです。

それで、えーと、永井均は面白いんですが、彼は僕が質問で書い
たような「倫理を論理的に根拠付けようとする」哲学者ではなく、
むしろその逆の立場に立っています。
一体、倫理の論理的な根拠付けはできるのか、その問いに対する
回答をしばらく待つことにします。

ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/11 09:36

倫理というのは『廉恥であれ』ということですよネ。


そして、廉恥か破廉恥かの違いということは、勿論、民族や国、或いは、宗教によって異なる尺度を持っているものであると言えるでしょう。

ヒンドゥー教でウシを食べず、イスラム教で酒やブタを口にしない、韓国では目上の人の前では飲み物や食べものを口にするところを見られないようにしなければならない、インドネシアでは食事中に喋ってはいけない‥宗教や国によって様々な宗教的な戒律や社会常識がありますネ。
ですから、対象とするグループによって異なる物差しを使っていると言えるのですネ。

これらの異なる物差しも成立した時点においては、それぞれに非常に納得のいく根拠があったのですが、時代の流れによって状況が変化しても、その物差しだけが残っているのですネ。ウシやブタの寄生虫、砂漠で酒を飲むことは死を意味する‥といった十分な説得力のある戒律であったわけです。

さて、日本における倫理の根底は儒教にあるのではないでしょうか?
韓国では今でも儒教の考えは非常に強く残っていますが、日本では敗戦と共に連合軍に否定され、教育から排除されてしまいましたので、破廉恥な行為が溢れているように思われます。

多数の人が正しいと思っている行為が倫理である‥
そうなのでしょうか?
その社会に根付いている文化に照らしたときに正当な行為が廉恥であり、それが倫理なのではないかと思います。
すべての人が廉恥であるならば、法律などもいらないということになりますよネ。

人のものを盗まない、殺さない、和を大切にする‥
社会的な常識として根付いてきたもの、それが倫理であると認識していますので、論理的も何も、定理のようなものであると考えるべきなのではないでしょうか?

1+1=2ということ、『阿』を『あ』と発音すること、今日が平成13年11月10日であること‥こういったことと同じようなことであると考えるのは論理の飛躍になってしまうのでしょうか?
以上kawakawaでした
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>社会的な常識として根付いてきたもの、それが倫理であると認
>識していますので、論理的も何も、定理のようなものであると
>考えるべきなのではないでしょうか?

僕の「倫理は論理的に説明できるか?」という問いに対し、「そ
もそも倫理を論理的に証明する必要はない、それは自明の常識な
のだから」というお答えですね。なるほど。
しかしだとしたら倫理の論理的基礎づけを哲学者はどのような方
法でしているのか、やはり気になるところです。
その辺に詳しい方からのご回答を待つことにします。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/11 09:35

私は哲学を学んだことのない、ごくごく一般の人間ですが…



倫理がそのときその場所の背景によって変わるというのはその通りだと思います。でも客観的に倫理の正当性を説明できないというのにはあたらないと思います。なぜなら、そのときその場所が変数になった方程式を解くようなものだからです。言い換えればそのときその場で正当だからこそ倫理たりうる。

一夫多妻を推奨するアラビアの倫理感はその昔、男が戦争で多くなくなり、家系を維持できなくなった歴史背景があtって生まれたと聞いたことがあります。つまり、家系を保つために生まれた(←これが論理的な説明といってはまずいですか?)そうです。殺人を忌む考え方も、個体や種族の存続を導くためのもの(だから戦争は否定されない=他民族だから)などとの説明もあります。

こうした個々の倫理条項のなかで、絶対倫理というどの時代でも形は変われど存続するものがあると仮定し、その論理体系を導くことが過去現在の哲学者のしてきたことなのではないかと思います。私は殺人の否定などがこの絶対倫理に入るものではないかと考えます。
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この回答へのお礼

いち早いご回答ありがとうございます。

>アラビアの倫理感はその昔、男が戦争で多くなくなり、家系を
>維持できなくなった歴史背景があって生まれたと聞いたことが
>あります。つまり、家系を保つために生まれた(←これが論理
>的な説明といってはまずいですか?)そうです。

倫理に対するこのような説明には二つ問題があると思います。
第一に、この説明に対してはすぐさま、なぜ家系を保つ必要があ
るのか?という疑問が浮かびます。それに対しまた何か答えても、
やはりその答えに対してなぜ?と問うことが可能です。そのやり
とりを繰り返していると、答えは尽きてしまい、最後には問いだ
けが残る。結局説明しきることはできないという訳です。
第二に、たとえ説明しきれたとしても、それは「なぜそのような
倫理が存在するのか」という問いに対する答えであり、「その倫
理はなぜ正しいといえるのか」という問いへの答えではありませ
ん。
以上の理由で、まだ僕の問題は解決されていませんが、shu_sさん
の回答によって始めより問題が整理されたと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/11/11 09:34

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Q正論を吐き過ぎると、嫌われますね? 筋の通った論理的で合理的な正しい事は、随筆や小説や報告書等、文章

正論を吐き過ぎると、嫌われますね?
筋の通った論理的で合理的な正しい事は、随筆や小説や報告書等、文章に書くと賞賛されますが、やたら口に出して言ったなら、批判されたり挙げ足を取られたりしますよね?
ロシアやヨーロッパとかだと、酷ければ暗殺されるのではないかと?(苦笑)

だから下手に、話上手になって良いのかと思いますが相手に合わせたり他者の意見を尊重するのもまた話上手の内ですね。

だがしかし、全ての人から好かれると言うのは、難しいと言うより、やはり、ほぼ不可能に等しい事ですよね?
誰かから賞賛や尊敬をされると誰かからは嫉妬や中傷を受けるものなので。

Aベストアンサー

まづ 《正論》というときそれは 哲学として理論的に妥当であるかどうか
が検証されます。

妥当な理論やそれにもとづく議論であっても その内容を そのいま・その
場で発言するのかどうかや あるいは 誰を相手とするかなどどのような周
りの情況において発言するのかという問題。

この問題をめぐって その発言が 政治的に・権限関係の上で 妥当かどう
か。――これも 検証し考慮する必要があります。

言いかえると 《正論》というのは それらの検証に耐えた意志行為として
の自己表現です。




そのあとは その内容が批判され本人が嫌われたなら 万々歳です。
中身が相手の心に突き刺さったということです。
すでに半分その目的を達しています。

あとは気長に俟つのみです。



正論を吐く場合は すでに初めに みんな敵であればいいという哲学ないし
社会的立ち場に立っています。
あとは 歴史にゆだねます。

Q論理的な説明

二つお願いします。

論理的ということと、合理的ということはどう違ういますか?

論理的に説明するときに、どういう点に注意していますか?

哲学は、論理的だろうと思ったので、こちらに投稿しました。

Aベストアンサー

はじめまして、triple-Vと申します。

まず違いについてですが、合理的には2つの意味があります。
1は、論理的と同意である「論理にかなっているさま」、
2は、「目的に合っていて無駄のないさま」です。
1となら違いはないでしょうが、2だと少し意味はかわるようですね。

次に説明する時に注意することですが、
私が気をつけているといか、思うことは
1.物事を順序立てて説明する
2.第三者(誰が)聞いてもわかるように話す
3.感情で意見を発しない
4.一般論から物事を考える

と、こんな感じでしょうか。
参考になれば幸いです。

Q正しい答え、論理的思考、心

 ちょっと、質問が漠然としているかもしれないのですが、
 「どれぐらいの自信を持って回答してますか?」(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4637216.html)という質問などを見ていて、僕は反対に質問者について考えていたのですけれど、質問者の基本的なスタンスは、自分のわからないことに対して、納得したという感じの、主観的な答えの選び方をしよう、というものだと思うのですが、哲学には論理があって感情はないという話(というか、そんなこと)を聞いたことがあります。

 それで、まず聞いてみたいのは、
1.それは本当のことですか? 論理だけがあって、考えるというのは、論理(的思考)で行われるものだ。答えの正しさは論理の正しさによる。
 そうすると、
2.質問者が「質問それ自体」に対する正しい答えを選ぶためには、質問者自身にあらかじめそういう思考の(仕方の)用意が必要なのではないか?

 あるいは、僕が本当に聞きたいのはこうかもしれません。
3.論理とは何ですか? 論理的な思考をするにはどうすればいいのですか? 何を心掛けるべきですか?

4.哲学はよく役には立たないとか言われますけれど、僕も本当にたまに、考えることに対する誰かの本気さを感じると、これは何か他のことには別に役に立たなそうだとか思っているのですが、哲学が論理でするものだとして、哲学と論理は別のものですか? 論理というのは役に立ちそうだという感じがしているので、だからきっと、そういう思考の仕方を身につけたいと思うのでしょうが。

 でも、感情がなくて考える、というのは、僕にはまったく未知の方法なので、今一歩踏み込めないでいます。反対に、生まれ持ってそういう仕方でしか考えることのできない人というのがいると思うのですが、そういう人にとって、だから考えることがそうであるのは自明のことなのだろうと想像するのですが、僕にも論理的思考ができるようになるでしょうか?

 暇なときにでも回答などして頂ければ幸いです。

 ちょっと、質問が漠然としているかもしれないのですが、
 「どれぐらいの自信を持って回答してますか?」(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4637216.html)という質問などを見ていて、僕は反対に質問者について考えていたのですけれど、質問者の基本的なスタンスは、自分のわからないことに対して、納得したという感じの、主観的な答えの選び方をしよう、というものだと思うのですが、哲学には論理があって感情はないという話(というか、そんなこと)を聞いたことがあります。

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Aベストアンサー

基本的には「哲学」は西洋で発展した、人間の思考を科学的に追求したものの考え方の塊です。
簡単に言ってみれば、頭の良い人間達が物好きで、人間の思考を一つの論理体系や方程式を作りたいが為に研究されてきた学問です。

科学的と言っても、人間の心の問題なので、完全に立証できるものはなく、哲学者達は仮定理論を作り、後からそれに見合うまでの情報があれば実証できたと言えるものだけなので、万物の理論を本当に解き明かしたことにはなりません。
要するに、俗に頭の良い人間達の自己満足の世界です。
そもそも万物の論理を全て解き明かすと人間は人間でいられなくなると思いますが。
哲学では、難しい考え方にしようしようとされますが、
真理はとても簡単でシンプルなものでしかないものばかりです。
まぁ、こう言っている私の考え方も一つの哲学なのですが、、

質問に対する答えですが、、
まず、哲学と感情を切り離しての考え方ですが、
哲学という学問上、感情を切り離して考えるは基本です。
十人十色の感情が入れば、公式が成り立たなくなりますからね。

しかし、それ以前に、「感情」というもの自体に、疑問を持つことが大事でしょう。上記されている時点での「感情」という意味には、「私情をいれず、第三者的、客観的に見る必要性」ですが、
「感情」というものが「私情」とは限らないですし、感情なしに思考できる人間は実際にはありえません。
その人独自の考え方の癖もありますし、考え方を左右する性格も「感情」になる可能性もあります。
むしろ、「感情」を排除して思考する、というより、「人間の理性」w排他して、思考する方が真意的には的を得ていると思います。

あと、「論理」は人間が勝手に解釈した、ただの方程式みたいなものですから、本当には、間違いなのかもしれません。「完全な真理」は誰にも分かりません。(強いて言うなら神のみぞ知る。(自分は無神論者ですが、一応分かりやすく))。。ただ、「人間の理想」を公式化、指針化しているだけです。
ですが、人類が生きていくためにはやはり一定の指針や一般的なルールが必要になるので、「論理」は必要です。だから論理が打ち立てられている訳ですが、
そうなってくると、本当に深い所で、「人間の作り出す論理は、真理ではないかもしれない」ということになると、やはり、「自分の論理を信じる」ことが一番大事なことになり、それを信じて、実行する力が大事になってくるので、そうなると、もはや「哲学」の世界ではありません。
そうなると、「思想」の世界になってきます。
「哲学」を突き詰めて行くと、(人によっては)「思想」の世界に入ります。
あくまで「科学的に追求したい学者」はそのまま永遠と「哲学」のままですが、「人間が生きるための術(すべ)」につなげて考えだすと「思想」の分野に入るので、質問者様もいつかはどちらかの分野の方へ行かれると思います。

まぁ、それが、西洋哲学と、古代中国の諸子百家の違いですね。

直接的な答えになってなくて申し訳ないです。<m(__)m>
少しでも質問者様の参考になれば幸いです。
失礼しました。。

基本的には「哲学」は西洋で発展した、人間の思考を科学的に追求したものの考え方の塊です。
簡単に言ってみれば、頭の良い人間達が物好きで、人間の思考を一つの論理体系や方程式を作りたいが為に研究されてきた学問です。

科学的と言っても、人間の心の問題なので、完全に立証できるものはなく、哲学者達は仮定理論を作り、後からそれに見合うまでの情報があれば実証できたと言えるものだけなので、万物の理論を本当に解き明かしたことにはなりません。
要するに、俗に頭の良い人間達の自己満足の世界です...続きを読む

Q論理の間違いを説明する文の内容が、理解できません。どなたかもっと簡単に説明してもらえませんか?

論理の間違いを説明する文

「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
 大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。したがって、いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ」

上記の文は、すべてを網羅していないのに、網羅したと考えて結論を導く間違いの単純な例ということです。

{AのためにはBをしなければならない。CのためにはBをしなければ
ならない。したがって、いずれにしてもBをしなければならない}が論理的に正しいためには、
「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりませんが、例文の場合では網羅されていないからです。←と説明されていました。

質問(1)
すべてを網羅しなければならない、とありますが上記、大食いの例文での「すべて」とは何を指すのでしょうか?

質問(2)
「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅していなければなりません←この文の意味が理解できません。

では「Aのため」と「Cのため」ですべての「~のため」を網羅する、としたらいったいどうなるのでしょうか?

説明できる方は、ぜひ詳しく教えてくだされば嬉しいです。
よろしくお願いします。

論理の間違いを説明する文

「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
 大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。したがって、いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ」

上記の文は、すべてを網羅していないのに、網羅したと考えて結論を導く間違いの単純な例ということです。

{AのためにはBをしなければならない。CのためにはBをしなければ
ならない。したがって、いずれにしてもBをしなければならない}が論理的に正しいために...続きを読む

Aベストアンサー

#7です。
あくまで一素人の考えですが、
「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」
が正しいか否か、ということとはまた別の問題であるように思います。
これは#7でも触れたように、
「大食いすべきかどうかを【身をもって】知るためには大食いしてみなければならず」
と書くべきところのケアレスミスであろうと捉えます。

大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)大食いしなくてはならぬ。

これを、次のような例に置き換えて考えてみました。

あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が無いかどうかを知るためにも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

この場合、
「あの世があるかどうかを知るため」と「あの世が無いかどうかを知るため」で、
『すべての「~のため」を網羅』していることになると思います。
「ある」と「無い」が正反対の意味であることが明白だからです。
「全ての色は赤であるか赤でないかのどちらかである」が正しい命題である(と思うのですが)、
と同じ理屈で、
「あの世はあるか無いかのどちらか」でしょうから。

しかし、

あの世があるかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が【楽しいかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

という場合は、たとえば「あの世がつまらないかどうかを知るため」が考慮されていないことになります。
すべての「~のため」を網羅していません。
この論理では、たとえ死んでも、「(あの世が)つまらないかどうかを知ることができる」という保証はしていないわけです。
それであるのに、「いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。」
と言うのは筋が通りません。
は結論として偽だったことになります。
それで、論理的ではない文である、ということになるのだと思います。

これを論理的にするためには、

あの世がつまらないかどうかを知るためには、死んでみなければならず、
あの世が【つまらなくないかどうかを知るため】にも、死んでみなければならない。
したがって、
いずれにせよ、(ひとは)死んでみなくてはならぬ。

のように表現しなければならないでしょう。
 
 

#7です。
あくまで一素人の考えですが、
「大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず」
が正しいか否か、ということとはまた別の問題であるように思います。
これは#7でも触れたように、
「大食いすべきかどうかを【身をもって】知るためには大食いしてみなければならず」
と書くべきところのケアレスミスであろうと捉えます。

大食いすべきかどうかを知るためには大食いしてみなければならず
大食いしてはならぬかどうかを知るためにも大食いしてみなくてはならぬ。
したが...続きを読む

Q論理学と倫理学について

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識とは何なのか?
・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか?
・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか?
・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか?
・自由や幸福、正義とはなんだろうか?
そして私はこれらを追求することができる学部が大学にあると知り、その倫理学という学部にいくことを決めていました。
しかし大学のシラバスをよく見てみると生命や環境や社会などあまり私の疑問に思っていることを深く追求しているような大学はありませんでした。
それによくよく考えてみたらこの問いは自分で考えることができるし、大学の講義を聴いてそれで納得してしまうのであればそれはもはや虚無化してしまっているではないか、と疑問も出てきました。
そう、私が大学にいけばこの問いの答えが見つけられると考えていた時点で根本から間違っていたのです。
大学の講義で知識を手にれても答えは出ません。
自分にあった講義があるかないかではないのです。
講義を聴くのが目的ではなくそれを論理的に自分で思考するのが目的なのです。
自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。
ですから私は倫理学にいくのではなく哲学に言って論理学を学ぶべきだと考え、
そのことについて質問したのが論理学と倫理学についてでした。
そこでここまで踏まえてもらった上でもう一度答えていただきたく質問させていただきました
大学で論理学と倫理学どちらを学ぶべきでしょうか?
質問していいものかとも思いましたが専門家の意見が聞きたく結局質問させていただきました
迷惑かけますが回答のほうよろしくお願いします

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識と...続きを読む

Aベストアンサー

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもらってもよろしいで
しょうか?

以上のご質問をいただきましたので、お答えします。
質問者さんのおっしゃる論理能力とは「日常の物事を深く考える際に使う論理能力」ということですが、これを含めて論理学と述べさせていただきました。
哲学では、質問者さんが考えておられる論理能力の基盤として「日常」を捉える能力を問う「認識論」、「日常の物事を深く考える」方法論として「解釈学」や「存在論」、「分析哲学」等があります。つまり、質問者さんが「考えたい論理学」と「一般的な論理学」とは異なっています。
このような意味で、哲学の分野で質問者さんの考え方に一番近いのは他の回答者さんが述べていたように「臨床哲学」だと思います。

臨床哲学は、比較的新しい哲学の分野で、まだ分野としての認知も低く学べる大学は少ないと思われます。臨床哲学では、哲学の理論を日常の物事に当てはめて解釈するのではなく、日常から理論を作っていこうとするものです。
実は私は哲学の専門家ではなく、幼児教育の専門家です。しかし、この新しい哲学の考え方が「ある日常」に対して哲学することを受け入れるようになったので、異なる分野の哲学専攻の博士課程に入学して学ぶことができています。そして、臨床哲学の基盤は、「日常をあるがままに観取する」という現象学の手法(超越論的論理学)が有効的だと考えられています(対極は分析哲学でしょうか)。

先の回答で示しましたように、社会の価値が相対化し、虚無に陥るニヒリズムは、価値(もしくは生命)の破壊と創造という世界のダイナミズムの人間的な受容の仕方なのかもしれません。この「無」に対して、個々人が解消することは困難だとされています。大抵は、「デカダンス(荒廃)」に陥ってしまいます。デカダンスは、快楽主義に進行しますが、世界を自分とって「心地よい」か「悪いか」という二文法で分けてしまうと他者を対象としてしか見れなくなり、それこそ究極の個人主義と排他主義が蔓延することになります。戦前のナチスドイツが典型的な例です。

哲学を日常から出発すること、または、日常から哲学が生まれること、この際の、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」は、哲学では「明証性」、「必当然明証性」などと呼ばれています。この明証性をどのように導き出すかには、様々なアプローチの仕方があると思いますので、いろいろお調べになり質問者さんの納得される哲学に出会うことが大切かなと思いました。

陰ながら応援しております、がんばってください!

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもら...続きを読む


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