個人事業主の方必見!確定申告のお悩み解決

学校の授業で斉藤茂吉の短歌「のど赤き 玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」について調べています。この短歌の詳しい解説、または詳しい解説が載っているページを教えてください。
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。
文学的な説明も入っててとてもわかりやすいです。

お礼日時:2005/10/04 19:12

有名な歌ですね。


下記のサイトに解説が載っています。

「読めば国語力がつく第72回」

http://www.doblog.com/weblog/myblog/46669/1313852

「前衛短歌を考える2」

http://blog.goo.ne.jp/omisosiruparty/d/20040901

「日本名歌の旅4」

http://www003.upp.so-net.ne.jp/s-waichi/meika4.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。
参考にします。
もう少し詳しいほうがいいです。

お礼日時:2005/09/30 22:47

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q斉藤茂吉の短歌「のど赤き 玄鳥ふたつ」について

ちょっと分からないところがあります。

どうしてここのツバメの喉は赤いですか。
丹頂鶴と似ていて、頸の羽毛は赤いですか。それども、ツバメは口を大きく開いて、赤い喉が見えるのですか。
もし後者になったら、ツバメは餌を待っている雛鳥ですか。それども、ただ叫んでいて、まるで詩人の母の死ために泣いているようですか。

詩人はどうしてのど赤きのツバメを書いたのでしょうかな。

Aベストアンサー

http://tubamenoseitai.com/

を見て下さい。ツバメの喉はひな鳥でなくても赤いのですよ。赤は命の色。だからこの歌は感動的なのでしょうか。


墨染めの取り乱したる畦道に彼岸花咲き君死にたまうなり

Q斎藤茂吉 至急お願いします

回覧ありがとうございます。

私は中2なんですが、明日国語の発表があります。

斎藤茂吉の「母の歌」です。

この短歌は教科書にのっています。


みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり



というものなんですが、この現代語訳を知りたいんです。

あと、この短歌のテーマも考えてほしいです。

お願いします。

Aベストアンサー

No.1さんの回答に賛成です。この三日間なにやってたんですか。

「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩歩まず」は石川啄木です。

Q日本の短歌

公務員試験の問題で与えられた短歌の作者を答える場面が出てきまして、答えはわかっているんですが、短歌の意味が気になっています。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり:斉藤茂吉

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに:石川啄木

幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく:若山牧水

邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓:折口信夫

よろしければ教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

・斎藤茂吉『赤光』のなかの『死にたまふ母』にある短歌
一つ。「母の死」を見た彼のまなざしは、「母の死」を即物的な現象としか「知覚」していない。「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて」という描写には、カメラのレンズが捉えるような瞬間しかない。その瞬間は、主観的な意味付け、つまり「知覚」に伴う「記憶」の主観的な選別を排除する。それは、単なる現実的瞬間である。彼の中にあった「母」という存在の「持続」は、「母の死」という「経験」不可能な「知覚」によって途切れてしまう。この「途切れ」こそが、「のど赤き…」という瞬間に露呈している。ここでは彼は、「母の死」の現実的瞬間に継起した、「経験」不可能な「知覚」に直面しているのだ。

・石川啄木
人間だれもが抱く望郷の情を歌ったもの
やわらかく柳の芽が青く色づいた北上川の岸辺が目に見えるようだ。いかにも思郷の涙をさそうかのようにという意味。
・若山牧水
寂しさが尽き果てる所にある、「安息の地」を求めて、旅を続ける牧水。空と海の一面の青色に染まることなく、凛として際立って漂う白鳥に、作者の憧憬の念を読み取ることができそうです。そうして、旅先で目にする物事に触発されながら、魂の赴くまま今日も旅をする

・折口信夫
村の近くにある山の松の木立に日の光が差し込んで、そこを明るく照らし出している。ひっそりと遙かな感じのたたずまいを見せる旅人の墓よ。

・斎藤茂吉『赤光』のなかの『死にたまふ母』にある短歌
一つ。「母の死」を見た彼のまなざしは、「母の死」を即物的な現象としか「知覚」していない。「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて」という描写には、カメラのレンズが捉えるような瞬間しかない。その瞬間は、主観的な意味付け、つまり「知覚」に伴う「記憶」の主観的な選別を排除する。それは、単なる現実的瞬間である。彼の中にあった「母」という存在の「持続」は、「母の死」という「経験」不可能な「知覚」によって途切れてしまう。この「途切れ」こそが...続きを読む


人気Q&Aランキング