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 私の家はある田舎で明治時代から先々代まで「弔い神主」という葬式専門の神官をしていました。神道は江戸時代には許されていなかったので、なるほどそうかな、と思っていたのですが、最近、近隣の集落で「私の家では江戸時代から神主をしていた」という人と話をしました。
 その人が見せてくれた江戸時代の書き物には神主とか禰宜とかの文字が書いてありその下に書いてある名前が先祖だと言っていました。また、神主の免許状みたいなものも見せてくれました。そこで疑問が生まれたのですが、

1 江戸時代には全国民が仏教徒だったと思っていたのですが、農民に神道が許されていたのでしょうか?

2 もし、神道が許されていたなら、神主や禰宜はどんな制度のもとで許可されていたんでしょうか? 

A 回答 (7件)

補足です。



>江戸期の庶民に神葬祭が許されたかどうかを知りたかったのです。

友達の事例の限り許されていたのだと思います。

>もし許されたのであれば、それを執りおこなったであろう神主?は、どんな制度のもとで認められていたのかな??と思ったわけです。

神主という職分の認可ということでわかるかぎりお答えします。
江戸時代の中頃になると、全国の「神主」と呼ばれるような人々は、京都の吉田家から許し(裁許状)を得ることで、自分たちの神主家としての正当性を確保し、それをアピールすることになります。
江戸時代は幕府があっても、地方行政は諸藩にまかされていましたから、神主たち全国統一的に支配におかれるのではなく、諸藩ごとに支配におかれていました。
諸藩のは吉田家からの裁許状を基にしたり、各神主から自分の家の由来を書かせた由緒帳を提出させることで、自分の藩の神主達を把握し、彼らを神主集団としてまとめます。この集団は現在の職業組合のようなものと考えてください。
そして、その集団の頭に一定の権限を与え、神主内の争論をまとめたり、お触れを伝えたりします。

つまり、神主は宗教法人というよりは、職業者組合のような形で制度化され、支配におかれいたと言えるでしょう。

で、だいたいの場合、その「神主」という人たちの由緒をつぶさに調べるとでっち上げが多く、江戸時代の初期やその前の戦国時代には本当に「神主」か疑わしい例が多いです。元々は、農民や山伏であったり、侍であったり、はたまた仏教者であったり。

つまり、江戸時代に神主という集団が支配者達に把握されることによって、ある程度、組織化、制度化されたと考えられます。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答をいただきありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:35

歴史的な詳しいことは他の回答者さんの意見を参考にすると良いと思います。


自分のはあくまで、こんな例もあるよというぐらいに受け止めて下さい。

自分の友達に江戸時代から続く(史料的にも確認できる)小さな農村の神主の家の人がいるのですが、彼の家の裏には神式の葬送地があり、墓!?もあるそうです。
もちろん、彼の家は代代、神式だそうです。

こういう事例もあるので、神式で葬られることが禁じられていたわけではないと思いますよ。
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この回答へのお礼

例示をいただきありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:34

会津保科家は二代目を除き全て神式で葬られていますので、神式葬儀が幕法で禁止されていたということはなかったと思います。



既に出ていますが、寺社奉行の管轄下でお寺は過去帳を管理していました。この制度は戸籍制度とおなじような機能を果たしていましたので、全国民はなにがしかのお寺に所属することとなっていました。これが全国民が仏教徒だったと思われた根拠だと思います。

一方で、村落や町の行事はおよそ神式というか土俗神の行事の一貫として江戸時代もずっと行われています。

屋敷神を持っている家(熊野権現や伏見稲荷・愛宕神社・浅間神社の分社が多いようですが)もあれば、共通の氏神を持つ人の集まりである「構」なども活発に活動していましたし、鎮守の杜の土地神の祭りも年の節々で催されています。

鎮守の杜の神社あたりだと神主をおいたケースもあるかもしれませんが、神事は村の文化として共有されていましたので、行事自体に神主や禰宜などは特別に必要ではなかったと思います。

ただ、葬儀に関していえば、神式だと死後「神」になってしまうので、庶民レベルでは遠慮したこともあるのではないでしょうか?

実際に「神」として祀られた人々を見ていると、一揆の首謀者として犠牲になった人や、自然災害を防いだり、堰を作り村の農業に多大な貢献をした人達です(庶民レベルでは)。
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この回答へのお礼

例示までいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:33

あなたの事も有っています


地方それぞれです
私の地方は仏教は死者の祭りが主です
それ以外は神社です
だから私の家には普通死者を祭る仏壇と家を守る
神棚が有ります
日常は神棚を拝み死人が出ると仏壇になります
だから神棚は至る所に有りますが仏壇は家に一つが
多いです
これらはその時の支配者がどちらを優先したかに
掛かっています
私の地方では死者は普通仏と呼ぶのが普通です

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1のかたに補足させていただいたとおりなんです。何か教えていただけることがありましたらお願いします。

補足日時:2005/09/29 12:33
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:32

ちょっと誤解があるようです。


江戸時代には仏教のみが許されていて神道はダメだったということはありません。キリスト教については禁止されていましたが、神社を礼拝することはOKでした。ただ一般の庶民については寺に所属して(檀家になって)キリスト教徒ではないことを証明する必要はありました。
江戸時代は神も仏も一緒でアマテラスオオミカミが本地は大日如来というように見掛けは違うけれど本質は同じものだと考えられており、神社をお寺が管理しているのは普通で、僧侶が神社も管理しているために専門の神主はいないということはありました。
ただ、昔からの由緒ある神社には僧侶ではない神主もいました。これらの上級の神主は朝廷から(実質は吉田家)官位をもらい(お金を出せばもらえた)その地位を確認してもらうとともに由緒をほこっていました。
それともうひとつ江戸時代には神道というような系統だった宗教にはまだなっていませんでした。いまの神道が確立されたのは幕末から明治にかけてで、それまではもっと民俗宗教といったもので仏教と神道というように並立するものではありませんでした。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1のかたに補足させていただいたとおりなんです。何か教えていただけることがありましたらお願い致します.

補足日時:2005/09/29 12:30
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:31

>1 江戸時代には全国民が仏教徒だったと思っていたのですが



寺請け制度(檀家制度)で、各家が寺院の檀家となり登管理されていた。つまり、今の行政の戸籍事務を寺院が行っていたのです。

>2 もし、神道が許されていたなら

神道が否定されていたわけではありません。寺社奉行というのもありましたから。社は神社のことです。

神主の免許は、吉田家(京都吉田神社)や白川家(京都神祇伯)から、神主の資格を授与されたいました。
江戸期、神社は今よりずっと多くあり、集落毎にだいたい神社がありました。そうした神社の場合は、専門の神主ではなく、地区の旧家などが必要なとき神主の役割を担い、平常は農業など家業に従事していました。
明治期に、神社の大幅な合祀統合がおこなわれ、現在に近い配置になったようです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1の方に補足させて頂いたとおりなんですが、何か教えていただけることが有りましたらお願いします。

補足日時:2005/09/29 12:28
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:31

まとめて回答すると、質問者さんの認識が間違ってます。


神道と仏教が明確に分かれたのは明治時代になってからで、江戸時代にはこの二つの境界があいまいでほぼ同じようなものととらえられていました。
ですので自分が仏教(のみ)を信仰している認識は当時の人にはないし、神道だから許可がいるなんてことも無かったはずです。

現に江戸時代には「お伊勢さん(伊勢神宮、神道の代表格)参り」が大流行してます。

この回答への補足

ご回答ありがとうありがとうございます.質問の仕方が悪かったようです。
 江戸期の庶民に神葬祭が許されたかどうかを知りたかったのです。もし許されたのであれば、それを執りおこなったであろう神主?は、どんな制度のもとで認められていたのかな??と思ったわけです。

補足日時:2005/09/29 12:23
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:30

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