マンガでよめる痔のこと・薬のこと

 私の家はある田舎で明治時代から先々代まで「弔い神主」という葬式専門の神官をしていました。神道は江戸時代には許されていなかったので、なるほどそうかな、と思っていたのですが、最近、近隣の集落で「私の家では江戸時代から神主をしていた」という人と話をしました。
 その人が見せてくれた江戸時代の書き物には神主とか禰宜とかの文字が書いてありその下に書いてある名前が先祖だと言っていました。また、神主の免許状みたいなものも見せてくれました。そこで疑問が生まれたのですが、

1 江戸時代には全国民が仏教徒だったと思っていたのですが、農民に神道が許されていたのでしょうか?

2 もし、神道が許されていたなら、神主や禰宜はどんな制度のもとで許可されていたんでしょうか? 

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A 回答 (7件)

補足です。



>江戸期の庶民に神葬祭が許されたかどうかを知りたかったのです。

友達の事例の限り許されていたのだと思います。

>もし許されたのであれば、それを執りおこなったであろう神主?は、どんな制度のもとで認められていたのかな??と思ったわけです。

神主という職分の認可ということでわかるかぎりお答えします。
江戸時代の中頃になると、全国の「神主」と呼ばれるような人々は、京都の吉田家から許し(裁許状)を得ることで、自分たちの神主家としての正当性を確保し、それをアピールすることになります。
江戸時代は幕府があっても、地方行政は諸藩にまかされていましたから、神主たち全国統一的に支配におかれるのではなく、諸藩ごとに支配におかれていました。
諸藩のは吉田家からの裁許状を基にしたり、各神主から自分の家の由来を書かせた由緒帳を提出させることで、自分の藩の神主達を把握し、彼らを神主集団としてまとめます。この集団は現在の職業組合のようなものと考えてください。
そして、その集団の頭に一定の権限を与え、神主内の争論をまとめたり、お触れを伝えたりします。

つまり、神主は宗教法人というよりは、職業者組合のような形で制度化され、支配におかれいたと言えるでしょう。

で、だいたいの場合、その「神主」という人たちの由緒をつぶさに調べるとでっち上げが多く、江戸時代の初期やその前の戦国時代には本当に「神主」か疑わしい例が多いです。元々は、農民や山伏であったり、侍であったり、はたまた仏教者であったり。

つまり、江戸時代に神主という集団が支配者達に把握されることによって、ある程度、組織化、制度化されたと考えられます。
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答をいただきありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:35

歴史的な詳しいことは他の回答者さんの意見を参考にすると良いと思います。


自分のはあくまで、こんな例もあるよというぐらいに受け止めて下さい。

自分の友達に江戸時代から続く(史料的にも確認できる)小さな農村の神主の家の人がいるのですが、彼の家の裏には神式の葬送地があり、墓!?もあるそうです。
もちろん、彼の家は代代、神式だそうです。

こういう事例もあるので、神式で葬られることが禁じられていたわけではないと思いますよ。
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この回答へのお礼

例示をいただきありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:34

会津保科家は二代目を除き全て神式で葬られていますので、神式葬儀が幕法で禁止されていたということはなかったと思います。



既に出ていますが、寺社奉行の管轄下でお寺は過去帳を管理していました。この制度は戸籍制度とおなじような機能を果たしていましたので、全国民はなにがしかのお寺に所属することとなっていました。これが全国民が仏教徒だったと思われた根拠だと思います。

一方で、村落や町の行事はおよそ神式というか土俗神の行事の一貫として江戸時代もずっと行われています。

屋敷神を持っている家(熊野権現や伏見稲荷・愛宕神社・浅間神社の分社が多いようですが)もあれば、共通の氏神を持つ人の集まりである「構」なども活発に活動していましたし、鎮守の杜の土地神の祭りも年の節々で催されています。

鎮守の杜の神社あたりだと神主をおいたケースもあるかもしれませんが、神事は村の文化として共有されていましたので、行事自体に神主や禰宜などは特別に必要ではなかったと思います。

ただ、葬儀に関していえば、神式だと死後「神」になってしまうので、庶民レベルでは遠慮したこともあるのではないでしょうか?

実際に「神」として祀られた人々を見ていると、一揆の首謀者として犠牲になった人や、自然災害を防いだり、堰を作り村の農業に多大な貢献をした人達です(庶民レベルでは)。
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この回答へのお礼

例示までいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:33

あなたの事も有っています


地方それぞれです
私の地方は仏教は死者の祭りが主です
それ以外は神社です
だから私の家には普通死者を祭る仏壇と家を守る
神棚が有ります
日常は神棚を拝み死人が出ると仏壇になります
だから神棚は至る所に有りますが仏壇は家に一つが
多いです
これらはその時の支配者がどちらを優先したかに
掛かっています
私の地方では死者は普通仏と呼ぶのが普通です

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1のかたに補足させていただいたとおりなんです。何か教えていただけることがありましたらお願いします。

補足日時:2005/09/29 12:33
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:32

ちょっと誤解があるようです。


江戸時代には仏教のみが許されていて神道はダメだったということはありません。キリスト教については禁止されていましたが、神社を礼拝することはOKでした。ただ一般の庶民については寺に所属して(檀家になって)キリスト教徒ではないことを証明する必要はありました。
江戸時代は神も仏も一緒でアマテラスオオミカミが本地は大日如来というように見掛けは違うけれど本質は同じものだと考えられており、神社をお寺が管理しているのは普通で、僧侶が神社も管理しているために専門の神主はいないということはありました。
ただ、昔からの由緒ある神社には僧侶ではない神主もいました。これらの上級の神主は朝廷から(実質は吉田家)官位をもらい(お金を出せばもらえた)その地位を確認してもらうとともに由緒をほこっていました。
それともうひとつ江戸時代には神道というような系統だった宗教にはまだなっていませんでした。いまの神道が確立されたのは幕末から明治にかけてで、それまではもっと民俗宗教といったもので仏教と神道というように並立するものではありませんでした。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1のかたに補足させていただいたとおりなんです。何か教えていただけることがありましたらお願い致します.

補足日時:2005/09/29 12:30
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:31

>1 江戸時代には全国民が仏教徒だったと思っていたのですが



寺請け制度(檀家制度)で、各家が寺院の檀家となり登管理されていた。つまり、今の行政の戸籍事務を寺院が行っていたのです。

>2 もし、神道が許されていたなら

神道が否定されていたわけではありません。寺社奉行というのもありましたから。社は神社のことです。

神主の免許は、吉田家(京都吉田神社)や白川家(京都神祇伯)から、神主の資格を授与されたいました。
江戸期、神社は今よりずっと多くあり、集落毎にだいたい神社がありました。そうした神社の場合は、専門の神主ではなく、地区の旧家などが必要なとき神主の役割を担い、平常は農業など家業に従事していました。
明治期に、神社の大幅な合祀統合がおこなわれ、現在に近い配置になったようです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。No.1の方に補足させて頂いたとおりなんですが、何か教えていただけることが有りましたらお願いします。

補足日時:2005/09/29 12:28
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:31

まとめて回答すると、質問者さんの認識が間違ってます。


神道と仏教が明確に分かれたのは明治時代になってからで、江戸時代にはこの二つの境界があいまいでほぼ同じようなものととらえられていました。
ですので自分が仏教(のみ)を信仰している認識は当時の人にはないし、神道だから許可がいるなんてことも無かったはずです。

現に江戸時代には「お伊勢さん(伊勢神宮、神道の代表格)参り」が大流行してます。

この回答への補足

ご回答ありがとうありがとうございます.質問の仕方が悪かったようです。
 江戸期の庶民に神葬祭が許されたかどうかを知りたかったのです。もし許されたのであれば、それを執りおこなったであろう神主?は、どんな制度のもとで認められていたのかな??と思ったわけです。

補足日時:2005/09/29 12:23
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/10/08 12:30

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Q士族の信仰は仏教ではなく、神道?

葬式を仏式でするか、神式でするかの話です。
「我が家は神式です。納骨も○○神社の納骨堂です。かつて、我が家は士族で、士族は神道でしたから」、という話を聞きました。
これは日本のどこでもそうなのでしょうか。
またそうであれば、どのようなわけでそうなのでしょうか。

Aベストアンサー

神葬祭と呼ばれる神式の葬儀を行うことと、身分呼称である士族とは直接の関係はありません。
「・・・かつて、我が家は士族で、士族は神道でしたから」という話は、おそらく明治初期の歴史的な経緯の結果生じた誤解と言いますか混乱です。

明治政府は仏教勢力を排除するという政治的な目的から、一般に神仏分離令とよばれる政令を幕末から明治初期の期間に布告しました。
布告そのものは明治5年に廃止されましたが、国家神道の確立のために神祇政策を推し進めました。
その一環として葬儀も神道に準じて行うように奨励しました。
東京の青山墓地はこのときに神道に基づいた墓地として造られました。
これに伴い地方によっては地域全体の葬儀を神式に変更した地域もありました。
明治政府の官僚にも仏式から神式に代える人が沢山いました。
官僚、官吏としては忠実な行為ということになります。
ただし、明治政府の思惑とは別に一般庶民には余り普及しませんでした。
相変わらず、先祖代々の菩提寺で葬儀を行っていました。

明治政府が定めた戸籍上の身分呼称である士族は、この神祇政策とはべつなものです。

ご指摘のお話をされたお宅は、明治以降、戸籍上の身分が士族で、政府の神祇政策に忠実に従って神式の葬儀を執り行ったのをそのまま代々受け継いでこられたのでしょう。
(都道府県庁、教育機関など公的な機関にお勤めか関係されておられたのかもしれません)

蛇足
「神祇際」という儀礼は非常に複雑な歴史的経緯のある儀式です。
葬儀の形式も原則的なものはありますが、歴史的に継承されたものではなく、神社によってそれぞれに創意工夫されたものです。
神道の大元である皇室の形式とも異なります。
葬儀だけではなく肝心の神社の位置づけも相当に複雑な歴史的な経緯がありますので注意して下さい
詳しくは下記サイトをご参照ください

教派神道 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/教派神道

神葬祭 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/神葬祭

殯 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/殯

神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm

神葬祭と呼ばれる神式の葬儀を行うことと、身分呼称である士族とは直接の関係はありません。
「・・・かつて、我が家は士族で、士族は神道でしたから」という話は、おそらく明治初期の歴史的な経緯の結果生じた誤解と言いますか混乱です。

明治政府は仏教勢力を排除するという政治的な目的から、一般に神仏分離令とよばれる政令を幕末から明治初期の期間に布告しました。
布告そのものは明治5年に廃止されましたが、国家神道の確立のために神祇政策を推し進めました。
その一環として葬儀も神道に準じて行うよう...続きを読む

Q天皇家は神道?仏教?

天皇家の信心は神道でしょうか?仏教でしょうか?
天照大神はよく神棚で見かけますし 仏教が伝わる前は神道を崇拝していたと思います
しかし歴史的には 出家した法皇が居たりと仏教な面もあります

現在の皇室はどうなのでしょう?

Aベストアンサー

>天皇家の信心は神道でしょうか?仏教でしょうか?

明治維新前後で変わりますね。
ご存知の様に、明治政府は「天皇中心の国家」を目指して政策を進めましたよね。
(江戸幕府が、仏教中心の国家でしたから反動でしよう)
そこで、神仏習合を廃止して「天皇=神の子孫(生きている神様)」としたのです。
ここから、天皇は「天照大神の子孫」との考えだけが優先します。
つまり、国家神道の誕生です。
明治維新以降は、天皇家は神道となります。
が、明治維新までは「神仏習合」です。
門跡寺は、天皇家一族から出家がある寺ですよね。(明治維新時に、廃止)
江戸時代まで、皇室の葬儀は「仏教」で行なっています。岩倉具視・三条実美に暗殺された?孝明天皇(明治天皇の父)が仏教式で葬儀が営まれた最後の天皇です。
※三条実美など(都落ちの時)は、孝明天皇から「逆賊・追討例」が出ています。
江戸時代までの皇室の位牌は、京都の泉涌寺など皇室の菩提寺に祀られていました。
嘘か真か、明治維新寺に「皇居の祭殿に移した」様です。

>現在の皇室はどうなのでしょう?

完全に、神道です。
明治天皇・大正天皇・昭和天皇も、神道で葬儀を行なっています。
天皇即位の儀式も、神道形式で行ないます。

>天皇家の信心は神道でしょうか?仏教でしょうか?

明治維新前後で変わりますね。
ご存知の様に、明治政府は「天皇中心の国家」を目指して政策を進めましたよね。
(江戸幕府が、仏教中心の国家でしたから反動でしよう)
そこで、神仏習合を廃止して「天皇=神の子孫(生きている神様)」としたのです。
ここから、天皇は「天照大神の子孫」との考えだけが優先します。
つまり、国家神道の誕生です。
明治維新以降は、天皇家は神道となります。
が、明治維新までは「神仏習合」です。
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Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む

Q江戸時代

変な質問ですみません。
僧侶神官と武士ではどちらが身分的には上だったのでしょうか?
江戸時代の宗教家の地位はどんなものだったのでしょうか。

例えば、
日光門主・宮門跡と御三家
宗派の管長・大僧正クラスと国持ち大名
大名家菩提寺の住職・神主と家老
農村集落の寺の住職とその地域の代官
ではどちらが上座(立場が上)に座ったと考えられるでしょうか?

ご意見を伺えれば幸いです。

Aベストアンサー

武士と僧侶・神官は支配系統が異なりますので一概には言えません。
また実際に大名と僧侶神官が席次をもって同席するような機会はめったにありませんでした。
まず、僧侶についてはそれぞれの僧侶の地位は本山が支配しており、非行などがあった場合は本山が住職の地位や僧籍を剥奪しました。
ですからそれぞれの宗派の本山であれば大名とは同格とはいえますが、戦国威厳のように独立した権力をもっているわけではなく、経済的にも援助してもらっていましたので実質的には領主には逆らえませんでしたし、逆らえと支障もありました。。
上州小幡藩の織田家の菩提寺だった宝積寺で住職交代時の祝宴で旧領主の小幡氏が1位、在地の旧領主の小柏氏が二位、領主の織田氏が三位だったので、怒った織田信友が廃寺となっていた寺を再興して菩提寺を移したというような事件もありました。

輪王寺宮(日光門主)と御三家では、輪王寺宮はたいてい一品で御三家は極官でも三位ですから名目的には輪王寺宮が上ですが、将軍への年賀の拝謁でも日が異なりますので御三家の当主と宮門跡が同席することはありません。
農村集落の住職と代官では、もし住職が僧位・僧官をもつほどの僧侶であれば代官より上位だったでしょうが、そうでなければ下位ではなかったでしょうか。

神主については由緒ある侍史じゃの神主であれば朝廷から官位をもらっていましたので(実際は吉田家が出していた)、そういう官位をもつような神官なら無位無官の武士よりは上位になったと思われますが、これも実際にはケースバイケースでなんともいえません。

武士と僧侶・神官は支配系統が異なりますので一概には言えません。
また実際に大名と僧侶神官が席次をもって同席するような機会はめったにありませんでした。
まず、僧侶についてはそれぞれの僧侶の地位は本山が支配しており、非行などがあった場合は本山が住職の地位や僧籍を剥奪しました。
ですからそれぞれの宗派の本山であれば大名とは同格とはいえますが、戦国威厳のように独立した権力をもっているわけではなく、経済的にも援助してもらっていましたので実質的には領主には逆らえませんでしたし、逆らえ...続きを読む

Q神社とお寺の役割の違い

今まで、「神社は神道・お寺は仏教、宗教宗派の違い」という程度の認識しかなかったのですが、それは根本的に違う事に最近気づきました。郷土史資料館の方から、「日本人は神社・お寺を併用してきて、亡くなった人を扱うのがお寺、お願い事をする時には神社、という使い分けをしてきた」というような事を聞きました。

このときはそれ以上詳しいことは聞かなかったのですが、後から考えると、初詣に神社にお願いをしに行くのは正しいけど、初詣でお寺にいくのは実は間違っているのかな?と思うようになりました。

(1)お寺とは基本的に何をするところなのでしょうか?(亡くなった人の供養・墓参りのみ?)
(2)神社とは基本的に何をするところなのでしょうか?(願い事≒要求のみ?)
(3)神社とお寺の違いは?神社は神様、お寺は仏様と祀ってあるものは違う。鳥居の有無・墓の有無など表面的なことはわかりますが、根本的には何が違うのか?
(4)もともとの日本の文化では初詣にお寺に行くことは間違っているのでしょうか?近年になって宗教ボケしているから特に区別無く行くようになった?昔からお寺にでも初詣に行った?
(5)キリスト教と比べた場合、役割的にはどういう位置づけになるのか。「仏教(死後極楽にいけるように・亡くなった後の見守り)+神道(願い事)≒キリスト教」という感じ?それとも、仏教・神道のどちらか一方でキリスト教の役割を包括できるのか?

よろしくお願いします。

今まで、「神社は神道・お寺は仏教、宗教宗派の違い」という程度の認識しかなかったのですが、それは根本的に違う事に最近気づきました。郷土史資料館の方から、「日本人は神社・お寺を併用してきて、亡くなった人を扱うのがお寺、お願い事をする時には神社、という使い分けをしてきた」というような事を聞きました。

このときはそれ以上詳しいことは聞かなかったのですが、後から考えると、初詣に神社にお願いをしに行くのは正しいけど、初詣でお寺にいくのは実は間違っているのかな?と思うようになりました。
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Aベストアンサー

(1)お寺とは基本的に何をするところなのでしょうか?(亡くなった人の供養・墓参りのみ?)
お寺の性格は歴史的に時代とともに変わりました。
過去のことはともあれ、現在では、亡くなった人の供養が主体となっています。葬式仏教と陰口をきかれています。
奈良や京都にある古いお寺は、それなりの役割を伝承しているところもあります。
禅宗の本山と呼ばれるお寺では、僧侶の育成即ち、修行を主体としています。

(2)神社とは基本的に何をするところなのでしょうか?(願い事≒要求のみ?)
日本は八百万神というようにやたらに神様がいます。したがって神社によって多少違います。
現代では、願いごとを叶えるということをどこの神社でもやっています。
(叶うか叶わないかはお願いした人の受け取り方次第というある意味では無責任です)
その他に、お祓いということをどこの神社でもやります。一番多いのが厄払いや地鎮祭と称するものです。
お祓いとよく似たのでお守りというのがあります。(家内安全、学問成就、商売繁盛、安産etc)
一応は神様が請け負ったことになっていますが、これも依頼した人の受け取り方次第です。

(3)神社とお寺の違いは?神社は神様、お寺は仏様と祀ってあるものは違う。鳥居の有無・墓の有無など表面的なことはわかりますが、根本的には何が違うのか?
見てくれの違いは既にお判りのとおりです。
宗教的な主張の違いで神様と仏様は違いますが。日本人は適当に使い分けてきました。お祝い事は神様の役割で、人生最大の凶事である死は仏様の役目と勝手に決めています。
キリスト教のように教会がなんでも引き受けるということはありません。
但し、仏前結婚、神式葬祭(葬式)というのもあります。この辺があるからややこしいです。
僧侶が神官を兼ねているところもあります。

(4)もともとの日本の文化では初詣にお寺に行くことは間違っているのでしょうか?近年になって宗教ボケしているから特に区別無く行くようになった?昔からお寺にでも初詣に行った?
初詣にお寺へいかれてもかまいません。大きなお寺ではそれなりの新年の行事をやっています。
お寺へ初詣に行かれる習慣の方も沢山おられます。
いちいち拘る必要はありません。クリスマスパーティーが終わったあとで、除夜の鐘を搗いて初詣に行って下さい。ついでに二月になったら豆まきもして下さい。

(5)キリスト教と比べた場合、役割的にはどういう位置づけになるのか。「仏教(死後極楽にいけるように・亡くなった後の見守り)+神道(願い事)≒キリスト教」という感じ?それとも、仏教・神道のどちらか一方でキリスト教の役割を包括できるのか?
このご質問への回答は正確にやろうとするとおそろしく長くなりますので端折って大雑把に説明させて下さい。
キリスト教とかイスラム教というのは、唯一絶対神といって、神様は一人しかいません。
神道は八百万神(やおよろずのかみ)と言ってやたらに沢山います。
仏教も三千諸仏とかなんとか言ってこれもやたらに沢山の仏様がいます。
死んだ後どうなるのか、ということについて色々な考え方の違いがあります。
キリスト教やイスラム教は神様次第と考えます。(行く先は天国か地獄の二つでアッサリしています)
神道では、最終的には神様になるとされて、地獄のような都合の悪いものは考えません。
仏教は、六道輪廻と言って天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の各々の世界をぐるぐる永久に回り続けると考えます。
このぐるぐる回らなくてもいいのが仏様だと考えました。
この仏様になるにはどうしたらいいのかを一生懸命考えていろいろな宗派ができました。
見守りとか、願い事を叶えるというには、牧師や、僧侶が一般の人達を自分達の信徒にする為に考えたことです。
現世利益といいます。
キリスト教で役割を包括できるか?というのは何をどう信じるのかという受け取り側の問題で、個々の宗教側の問題ではありません。
何時の時代でも「おれの考えた通りに考えれば包括できる」と主張する人がいて、今でも後が絶えませんが。未だに成功した人もいなければ。これからも出てこないでしょう。どの宗教も一人や二人の思い付きでどうにか成る程やわな理論武装はしていません。2000年以上かけて鍛え抜かれています。

(1)お寺とは基本的に何をするところなのでしょうか?(亡くなった人の供養・墓参りのみ?)
お寺の性格は歴史的に時代とともに変わりました。
過去のことはともあれ、現在では、亡くなった人の供養が主体となっています。葬式仏教と陰口をきかれています。
奈良や京都にある古いお寺は、それなりの役割を伝承しているところもあります。
禅宗の本山と呼ばれるお寺では、僧侶の育成即ち、修行を主体としています。

(2)神社とは基本的に何をするところなのでしょうか?(願い事≒要求のみ?)
日本は八百万神というよう...続きを読む

Q創価学会の人かどうかの見分け方を教えてください。

事情で、創価学会の人とできるだけ関わりたくありません。
(詳しくは書きませんが、かなり迷惑を被っています。)
これからいろいろな人と知り合いになると思いますが、
創価学会の人かどうか見分け方がありましたら、
知っておきたいです。

ちなみに自分なりに考えたのが、
・どこの新聞をとっているか聞く
・どんなスタイルの結婚式を挙げたかを聞く
(神式、キリスト教式だと大丈夫かも)  です。
最近知り合った人には、さりげなく聞いてみて一安心でした。

たまたま私の知り合った人が熱心すぎる人だっただけで、
学会の人全てを否定しているわけではありませんが、
この事にかなりナーバスになっていますので、
学会の方はお気を悪くされないで下さいませ。
あと、学会の批判ではなくて、見分け方のみご回答願います。

Aベストアンサー

学会会員です。比較的簡単な見分け方は.

1.死者がいないのに(紙製の)仏壇を持っている
2.木製の仏壇の場合は.つくりが派手(他の宗派の場合には.分家したときに作った仏壇をいつまでも使いつづけるので.結構古い物が転がっています)。
3.お守り.破魔矢.熊手.達磨等の縁起物を持たない・買わない(私のような例外もいますが)
4.命日など家族で遠距離の墓参りに行く。(近所の宗派の方は.命日の近くの都合のよい日に出かけます。)
5.若い人のばあいには.「宗教の話をする」。今の若い方々は.宗教関係に興味を持たないのが大多数ですから。
6.夕方特定の遊びまわるわけでもないのに集まる(勉強買いです)。若い方の場合には.酒飲んでカラオケで騒ぐのが普通ですが.これをしない場合です。
7.宗教(日蓮)関係のわけのわからない本がある。

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む


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