ゆるやかでぃべーと すべての高校生はアルバイトをするべきだ。

大航海時代にヨーロッパ人が世界中に進出して植民地を獲得していったので、
この時点でヨーロッパの覇権が確立したようなイメージを持っていました。
しかしよく考えれば、これはあくまで相対的に軍事力が劣ってる地域
の原住民を征服しただけで、オスマン帝国・ムガル帝国・明清、といったアジアの大国
に比べればその時代のヨーロッパ諸国の国力は、まだまだ到底及ばなかったと思われます。
いつ頃からこれが逆転したのでしょうか?
アヘン戦争やアロー戦争までいけば完全に逆転してるのは分かりますが、
実際のところ何年頃が境目になっているのでしょうか?

A 回答 (7件)

難しい質問です。

ヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ・アメリカなど、世界の他の地域にいつ頃覇権を確立したのか?これは大陸・地域によって時間差があるので、一括りにするのは難しいです。

中南米地域においては、大航海時代以後(16世紀~)スペイン・ポルトガルの支配が広がっていきましたから、16世紀前半には覇権が確立していたと言えるでしょう。

一方、アフリカでは15世紀から、沿岸地域にポルトガル勢力の拠点が築かれ、象牙・金・奴隷などの収奪が始まっていました。その後オランダ、イギリスなどが進出しました。しかし、植民地経営に乗り出すのは、ずっと遅れて19世紀の後半からです。

仰る通り、アジア各地には17~18世紀に繁栄の頂点に達した大国が三つありました。それまでのヨーロッパ勢力の進出は、貿易拠点を確保しつつ、各地域に既に存在していた貿易ネットワークに参加しただけで、17世紀までは領土的野心は希薄でした。領土の侵略(植民地化)は、18世紀以降つまり産業革命の発展に伴って進んだと言えるでしょう。

インドのムガル帝国は、17世紀後半のアウラングゼーブ帝の治世から、地方勢力(ヒンドゥーやシクなど)が台頭し帝国とは名ばかりになります。18世紀中頃からイギリスの侵略戦争が本格化し、そして19世紀前半から本格的な統治が始まります。

中東のオスマン帝国は、17世紀末の第2次ウィーン包囲失敗から、衰退が始まります。18世紀以降はヨーロッパ列強の進出と、支配下の諸民族が自立の動きを強め、徐々に領土が縮小していきます。19世紀には急激に領土が奪われます。

東アジアの清帝国は、17世紀末にロシアを抑えてネルチンスク条約を締結しました。しかし清の最盛期(乾隆帝期)の後、18世紀後半には各地で農民などの反乱が起こり、しだいに衰退していきます。19世紀中頃のアヘン戦争は、ヨーロッパ勢力との力関係の逆転を象徴する出来事です。

長々と書きましたが大まかにまとめると、17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ勢力が進出・侵略を強め、19世紀には完全に従属せざるを得ない状況になった…と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

こうやって見るとアジアの帝国はヨーロッパとの競争に敗れたと言うより、内乱で自滅してる印象がありますね。
地方の反乱と中央の権力争いのパターン。
何でこうなってしまうんでしょうね?
もちろんどんな大国でもいずれは衰退するものでしょうが、
ではどうしてヨーロッパ諸国だけは衰退することなくどんどん勢力を拡大できたのでしょうか?

お礼日時:2006/03/02 18:42

ヨーロッパが世界の中心になったのは、


産業革命の時と考えています。

江戸時代、
鎖国をしたがために、技術や学問、医療、軍事、
全ての面で遅れをとりました。

清も鎖国政策を取りました。

ここで師弟関係のような、
遅れた国家の完成です。

先進国(一等国)
発展途上国(2等国、3等国)

日本は、2等国と呼ばれていました。

日本が1等国と呼ばれるようになったのは、
(列強の仲間入りを果たすのは)
日露戦争が終結した頃だそうです。

それ以前は、
不公平な為替レート(円、ドルの比率)を強要され、
治外法権、三国干渉と、

自治国家とはとても言いがたい苦杯をなめ続けました。

日本にしろ、清にしろ、
苦杯をなめる事自体が、
強い姿勢を取れない、
国家体制、軍事力、技術力、国力の、
遅れの証拠と考えます。
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「小銃の大量生産」


「艦砲」
「ガレオン船」
「外洋航海能力」

この辺りが、西洋が東洋(イスラム圏)を凌駕するに至ったキーテクノロジーではないでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9

「16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船からガレオン船に代わっていった。ガレオン船は船首楼より高い船尾楼を持ち、ガレー船の様に船首に衝角をもつことが特徴である。従来、竜骨の長さは船幅の2.5倍程度だったが、3倍まで船体の全長が長くなったことも特徴に挙げられる。ガレオン船は商船としても用いられたが、大量の大砲を搭載できたことから主に軍艦として用いられた。大航海時代の主役はポルトガルとスペインであったが、1588年、フランシス・ドレークらが率いるイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊(アルマダ)を破り、状況は一変する。スペインは大西洋の制海権を失い、イギリスが一大海運国として台頭するきっかけとなった。」

このくらいの時代ですね。16世紀に、西洋が東洋を海上軍事力で凌駕したと考えて良いと思います。

そして、地中海でトルコ海軍が西欧海軍に敗れた1571年です。ただし、この海戦に参加した艦船は、両軍とも櫂で漕ぐ地中海式の艦船でした。

例えば「鄭和の大遠征」と言っても、陸地沿いを港から港へ進む沿岸航海に過ぎませんでした。これは、大航海時代以前の地中海のベネチアやジェノバの航海も同様です。船の構造も、外洋航行には耐えられない/向かないものでした。

一方、大航海時代になると、天測航法が西洋で発達し、陸地を見ずに時には何ヶ月も大洋を航海できるようになりました。これができたのは西洋諸国だけです。そして、大砲を多数積み、どこにでも行ける西洋の軍艦は、少なくとも海の上と艦砲が届く沿岸部では「無敵」となりました。

17世紀以降、西欧諸国が支配する海域がどんどん広がっていき、19世紀には全世界を覆いました。一番最後にそうなったのが極東の日本近海です。

陸上の場合、西洋と東洋の武器に決定的な差が出るのが遅れたため、オスマントルコの勢力拡大が止まるのは17世紀末になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C% …
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私もNo3のご回答のように特定の時期をさだめるのは困難というのに賛成です。


しかし強いて考えれば、やはり大航海時代のあたりではないかとおもいます。
この時代西洋は多くの植民地の資源と富を簒奪しましたからその富と国力の充実は膨大なものでした。
スペインの隆盛は南米の銀と宝石によるもので、ポルトガル、オランダの発展は海外貿易とインドや東南アジアからの資源によるものでした。  スペインのインカ帝国征服は少数の武力にによる僥倖(南米は馬を知らなかった)によるものでした。

しかもこれらは武力の優越により裏打ちされていました。

中国はそれ以前、鄭和が海外に出ていきましたが平和裡の貿易で、沿岸航海の技術しかありませんでした。
中国はその中華思想に平和裡に眠っていました。

西洋はおおくの戦争によりその武器や戦術の進歩においてはるかにアジアを越えていたのです。
オスマン帝国はその武器と戦術が西洋を凌駕していた間は版図を拡大出来ましたが封建制度と内紛で国力を失い、武器と戦術の優位性を失って崩壊しました。

このように考えると大航海時代のどこかでターニングポイントがあったのでは・・・
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 "世界の工場"との比喩がありますし、その元祖が英国なのは言う迄もないと思われますが、この比喩が定着し始めた頃、西洋が国力(含む経済力、軍事力etc)の面で、優越な立場を確立した、のではないか?と私は捉えます。



 但し、(20世紀初頭以前では)国力にせよ(No2さんが指摘された)"富の量"にせよ、(国勢調査の如く)一定日時に比較してはいませんし、所詮不可能ですから、具体的な(19XY年a月b日と言う)逆転日は探れないとも思います。
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アヘン戦争のときは、まだ逆転しているとは思えないです。



第二次産業革命がおおむね終了する19世紀末じゃないですかね。
欧米と中国が正面から戦争して、欧米諸国が間違いなく勝てそうってなるのは、重工業力で圧倒的な差がついたこのぐらいの時期かと。

国力を、軍事力じゃなくて蓄積している富の量ってことだとすると、逆転するのは、20世紀に入ってからではないでしょうか。
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大航海時代からではないでしょうか?



みんな新大陸を市場の拡大を目指していきましたし。

完全にアジアとの逆転が決定的になったのは産業革命の直後じゃないですか?

そのころからイギリスやらフランスやらが植民地を拡大していったのがそのころですし。
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