しばしば倫理で出てくる「目的論的説明」ってどんなことをさすのですか?
 現代人や世間でもしばしばこの考え方をしてるものなんですかね?

 あとヘーゲルさんの「目的の王国」って・・・ う~ん、なんでこの場合の「目的」って、いったいぜんたいなんですか? 訳分かりません。

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A 回答 (2件)

目的論的説明というのは機械論(因果論)的説明に対するもので、さまざまな現象をその目的によって説明する理論です。


例をあげると
動物はなぜ餌を食べるのか?という問いに対して「それは固体保存の(目的)のためである」と答えるようなのが目的論的説明です。

機械論:「今までこうであった(過去の事実)」から「現在はこうだ(現在)」または「これからこうなる(未来)」を説明するやり方。
目的論:「こういうことを目指している(未来)」という目的によって、現在や過去を説明するやり方。
ということになります。

また「目的の王国」とはカントの用語で、彼の考えた理想的な道徳の世界のことです。これを分かり易く説明することは(私には)難しいのですが、いくらかでも努力してみましょう。

カントは人間の行動は因果律には支配されず、人はみずからの道徳法則に従って自律的に行動できると考えます。この自由の支配する世界を{因果律からは自由であるということからその対義語の「目的論」を使って}「目的の王国」と呼んだわけです。ですから、この場合の「目的」というのは何か特定の目標とか到達点とかそのようなものを意味しているわけではありません。単純に言うと「アトランティス」とか「ユートピア」とかいう名詞と同列に「目的の王国」という名詞を使ったと考えてください。
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この回答へのお礼

返事が遅れてすいませんでした。センター試験中でしたので… (幸運にもこの二つは出ませんでした。)

は~~~~~、そういうことですかー。

目的論的説明については、僕もそう解釈していた(ここまではっきりとはしてないが)のですが、友達から違うと言われたので、別の解釈をしていてしまいました。

じゃあ、結構、年配の方(じじい・ばばあ)は目的論的説明しますよねー。(僕の周りだけかな?)

すっごく明確&分かりやすい説明だと思います。あなたみたいな方に回答をもらえて僕は非常に幸運です。aminouchiさんは頭いいんでしょうね~

(あっ、先に答えていただいた方もすごく感心しました)
どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/01/20 22:19

 


  これはよく分からないので、こうではなかったかということを書きます。アドヴァイスです。
 
  まず、「目的論的説明」というのは、誰が言っているかによって意味が違って来ると思うのですが、何かの事象、行為などの理由、根拠の問いに対する答えとしての説明で、例えば、ある悪徳高利貸しの家が焼け落ちたとします。この時、「因果論的説明」で、家が焼けたのは、恨みに思っていたさる男が火を付けたのが原因だ、というのは、因果論的説明です。
 
  また、高利貸しはケチで、金庫は耐火設計のものを準備していたが、肝心の家の防火設備はけちって、消防署には嘘の申告をしていたので、あるはずの消火設備がなかったので、本来ぼやで済んで火事が、一戸丸焼けという惨事になった。原因は、高利貸しが消火設備をけちったせいだ、というと、これも因果論的説明です。
 
  これ以外にも色々因果論的説明は考えられるのですが、そうではなく、まったく別の説明もあるのです。家が丸焼けになることで、高利貸しが、これまでの行いを悔い改めるように、神様か仏様が、燃えるようにはからった、というのは、証明できませんが、燃やしたのは、神様・仏様だとすれば、因果論的説明ですが、悔い改めのため、燃えた、とすると、「目的」を目指して燃えたことになり、これは「目的論的説明」です。
 
  確か、目的論的説明というのは、カントが言っていることではないかとも思います。
 
  また、「目的の王国」というのは、カントが『永久平和論』か何かで述べていることではないでしょうか。ヘーゲルではなく。人間を手段として考えてはならない、人間はそれ自身の人格が目的であり、手段的な人間の把握をやめ、すべての人の存在が目的であるとすれば、人間は平等となり、互いを尊敬し、互いの価値を認め合い、こうして、永久の平和が実現できるというような考えではないですか。
 
  カントの『永久平和論』とか『啓蒙について』は、岩波文庫に入っていたし、あまり厚い本ではないはずです。
 
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この回答へのお礼

返事が遅れてすいませんでした。センター試験中でしたので… (幸運にもこの二つは出ませんでした。)
わかりやすいご説明ありがとうございました。なるほどーって思いました。

お礼日時:2002/01/20 22:06

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Qカントの人間観について

カントの人間観について、
素人でもわかるような表現で教えていただけませんか?

Aベストアンサー

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになったのでしょう。お手伝いします。)
 で、「カントの人間観」。少し包括的な問題になりますね。以下の三つの論点で述べようと思います。
 1理性には限界があること
 2人間は自由であること
 3人間は「目的」として扱われるべきこと

 まず「1理性の限界」。これはまず、冒頭に挙げた「コペルニクス的転回」のページをご覧になってください。簡単にまとめると、「理論理性(純粋理性)は、感覚を通じて経験できる範囲でのみ正しく認識を構成できる」、「経験できない領域(物自体、イデア界)には、理論理性は踏み込めない」ということです。つまり、「人間の理性には限界があるのだ」と考えていた点、これがカントの人間観、その1です。
 で、「2人間の自由」。
 純粋理性に関してその限界を定めたということは、一見、人間の自由を制約しているように見えます。だって人間理性が無限で万能だったら、それこそ本当に何でもできることになりますからね。けれどカントは、実はそのようにしたことで逆に人間の自由を根拠付けているのです。
 そう言えるのは、まず認識の局面では、「客観的に存在している物の情報が、一方的に意識に押し付けられているのではなく、むしろ意識が積極的に働きかけて、感覚の情報を経験へとまとめあげているのだ」としていることからです。まず一つ、人間の積極性・主体性の根拠がここにあります。
 もう一つの根拠が「実践理性」です。純粋理性が対象認識を担当する理性であるのに対して、実践理性は「意志」を規定する理性です。両者は区別されています。ここでもう一度純粋理性の振る舞いを見直しましょう。それは「認識は外界から一方的に与えられる」というものではありませんでした。でも、かといって「意識が世界を創っている」とまで言えるものではありません。意識が作れるのは(「構成」できるのは)「経験」だけです。
 ということは、「外界があって」しかも「意識があって」、その両方があって初めて認識が成り立つということです。やはり認識のためには「外界の存在が必要である」ことになります。
 ところが実践理性はそうではありません。外界の存在やその作用がまったく無くても、実践理性による意志は、主体そのものの中から内発的・自己原因的に発しうる。つまりここで、外界・自然の因果を断ち切って、人間精神は自由になっているのです。のみならず、純粋理性が「そんなもん、わからんよぉ、ぴぃー」と言って泣きながら放り出したイデア界の諸観念(神とか善とか)をも、それがあるものと要請し(想定し)、いわば努力目標として自分のものにできるのです。(このためカントは、純粋理性と実践理性とは、単に横並びの同僚というわけではなくて「実践理性の方が優位に立っている」としました。)
 さてこうして、実践理性は自然の因果を断ち切って自由になるとともに、神や善を志向することができるようになりました。つまり「善意志」を持ちうるわけです。ここで出てくるのが例の「定言命法」ってやつです。「ホニャララしたければホニャララしなさい」という条件つきの命法(仮言命法)ではなくて「とにかくやれー」と命じる、アレです。外界・自然の関与なしに、実践理性が主体に命令するんです。自然の関与なしに、ということは、人間の内なる自然たる「本能」の関与なしに、ということでもあります。つまり、エッチしたいから女性に親切にするってのはイケナイんです。そーゆーシタゴコロを超越したところから出てくる「やれー」なんです。
 ということで、「人間は自然を超越して、自分で自分自身の主人であり、その意味で自由である」ということ、これがカントの人間観、その2。
 さて「3人間は目的だ」。
 芸術はバクハツですが、人間は「目的」です。これ、どういうことかと言うと、簡単に言えば「人間を道具あつかいしちゃダメだよ」ってことです。よくドラマなんかで悪党の親玉が「あいつはもう用済みだ、消せ」なんて言ってます。仮にここで言う「あいつ」が、嫌いなポテトサラダをボスの代わりに食べてあげる役だったとすると、この「あいつ」は「ポテトサラダ食いマシーン」にすぎないことになります。それで死んだら、墓碑銘には「ポテトサラダのために生まれ、ポテトサラダのために生き、ポテトサラダのために死んだ」と刻まれることになります。まんもす悲ぴい。
 そーゆーふうに人間を扱ってはいけない。たまにはうな重でも食べさせてあげなくては…ということではなくて、どんな人であっても(部下とか手下とか下僕とかパシリとかであっても)、その人を独立した人格を持つ個人として、自分の道具じゃない、その人自身の主体性を持つ存在として、尊重しなさいということです。これ、カントの人間観、その3です。
 ちなみに、カントは「国連」を最初に構想した人でもあります。上の「人間を目的として尊重」というのを、国と国との関係にまで広げているわけです。

 どの程度わかりやすくなったかわかりませんが、こんなところで。

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
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Q分子結晶と共有結合の結晶の違いは?

分子結晶と共有結合の結晶の違いはなんでしょうか?
参考書を見たところ、共有結合の結晶は原子で出来ている
と書いてあったのですが、二酸化ケイ素も共有結合の
結晶ではないのですか?

Aベストアンサー

●分子結晶
分子からなる物質の結晶。
●共有結合の結晶
結晶をつくっている原子が共有結合で結びつき、
立体的に規則正しく配列した固体。
結晶全体を1つの大きな分子(巨大分子)とみることもできる。

堅苦しい説明で言うと、こうなりますね(^^;
確かにこの2つの違いは文章で説明されても分かりにくいと思います。

>共有結合の結晶は原子で出来ている
先ほども書いたように「原子で出来ている」わけではなく、
「原子が共有結合で結びついて配列」しているのです。
ですから二酸化ケイ素SiO2の場合も
Si原子とO原子が共有結合し、この結合が立体的に繰り返されて
共有結合の物質というものをつくっているのです。
参考書の表現が少しまずかったのですね。
tomasinoさんの言うとおり、二酸化ケイ素も共有結合の結晶の1つです。

下に共有結合の結晶として有名なものを挙げておきます。

●ダイヤモンドC
C原子の4個の価電子が次々に4個の他のC原子と共有結合して
正四面体状に次々と結合した立体構造を持つのです。
●黒鉛C
C原子の4個の価電子のうち3個が次々に他のC原子と共有結合して
正六角形の網目状平面構造をつくり、それが重なり合っています。
共有結合に使われていない残りの価電子は結晶内を動くことが可能なため、
黒鉛は電気伝導性があります。
(多分この2つは教科書にも載っているでしょう。)
●ケイ素Si
●炭化ケイ素SiC
●二酸化ケイ素SiO2

私の先生曰く、これだけ覚えていればいいそうです。
共有結合の結晶は特徴と例を覚えておけば大丈夫ですよ。
頑張って下さいね♪

●分子結晶
分子からなる物質の結晶。
●共有結合の結晶
結晶をつくっている原子が共有結合で結びつき、
立体的に規則正しく配列した固体。
結晶全体を1つの大きな分子(巨大分子)とみることもできる。

堅苦しい説明で言うと、こうなりますね(^^;
確かにこの2つの違いは文章で説明されても分かりにくいと思います。

>共有結合の結晶は原子で出来ている
先ほども書いたように「原子で出来ている」わけではなく、
「原子が共有結合で結びついて配列」しているのです。
ですから二酸化ケイ素Si...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Q日本史Aと日本史Bの違いについて教えてください。

こんにちは、疑問なのですがセンター試験の日本史Aと日本史Bとはどのような違いがあるのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたのですが、ほとんど日本史Bの事しか載っていませんでした。

二つの教科の違いや、選択時の有利不利などを教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古代史からスタートするので日本史Aの教科書より内容的に若干難しい内容も取り扱います。

 したがって、単位数の違いにより、日本史Aと日本史Bの教科書を使い分けていることです。主に、日本史Aは、職業科の学校で使われています。

 農業高校・商業高校・工業高校など普通科以外の学校で日本史Aの教科書を採択しているケースが多いです。普通科の高校でも日本史Aで近現代をやって、日本史Bで古代から江戸まで勉強して、受験するときは日本史Bで受験するというケースも見られます。

 つまり、日本史Aでは、教科書の構成上、近現代史がメインになりますが、日本史Bでは、古代史からスタートして現代史まで扱うという幅広内容になるということになります。そういうことから、日本史Aで勉強したいようで、勉強していないところ古代史~江戸時代の内容に関しては自力で勉強することが求められます。

 【大学受験での日本史選択】
(1)センター+私大(日本史で受験)する場合
 →「日本史B」を選択
(2)センターのみの場合(日本史A・B両方選択可で2次試験で日本史を必要としない学部学科を受験の場合)
 →「日本史A」を選択(学習時間が少なくてすむ)

 ※私大受験を考えていて、日本史で受験を考えているのであれば「日本史B」を選択するのが無難です。リクルートの進学サイトのURLを載せておくので受験科目の選択に参考にして見てください。

 何らかの参考にならば幸いです♪

参考URL:http://www.shingakunet.com/cgi-bin/shingakunet.cgi

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古...続きを読む

Qルソーの一般意思ってなんですか

ルソーが言った一般意思っていうのはなんですか?
全体意思との違いなども簡単に教えていただけるとうれしいです。
ウィキペディアなどで見たのですが、どうも私には難しすぎてさっぱりわかりませんでした。
なんか高校の政経の授業で一般意思は代表しない、とか
なんかそんなようなことを先生が言っていたような言わなかったような、、、でもうろ覚えなので意味はわかっていません。
素人なのですがわかりやすくおしえていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なるべく簡単に書きます。
簡単すぎて、不十分な点はあると思いますので、ここらへんをもっとくわしく知りたい、という問題意識がおありでしたら、補足要求してください。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特殊意志」
「特殊意志」を単純に加算していったのが「全体意志」
「一般意志」というのは、社会契約のもとに集まった、共同体の意志です。

そこでは、各個人の意志は「一般意志」にすっぽりと呑みこまれていきます。
ルソーは『社会契約論』でこう言っています。(引用は.「社会契約論」 『世界の名著 36 ルソー』所収)

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この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
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重要なのは、「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」という点。
個人は社会契約を結ぶ時点で「特殊意志」を捨て、「一般意志」に委ねるのです。

つまり、個人は個人の自由を手放し、共同体の一員となることによって初めて真に自由になれる、とルソーは考えたんです。「特殊意志」を捨てて「一般意志」のもとにみずからを従属させることで。そうすることで、人間は自己のもつ最高の可能性が発揮され、最高の自由を手に入れることができる、と。

なるべく簡単に書きます。
簡単すぎて、不十分な点はあると思いますので、ここらへんをもっとくわしく知りたい、という問題意識がおありでしたら、補足要求してください。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特...続きを読む


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