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数学カテゴリで質問しようかと思いましたが、やっぱり哲学カテゴリにしました。
以前、「ゲーデルの不完全性定理ってわかりやすく言うと何?」と質問したとき
回答者の方から『不完全性定理のストレートな解釈は「自動的に定理を枚挙する
ようなアルゴリズムはない」という意味です』というすばらしい回答をいただき
感嘆いたしました。これこそ「事実のもつ意味であり真理だ」と思ったものです。
そこで質問です。

【質問1】円錐の体積は円柱の体積の1/3、球の体積は円柱の2/3という具合
に、体積比はきれいな有理数値です。なのにどうして円周率(π)は有理数でも無
理数でもない超越数なのでしょうか?(無理数は超越数の一部かな?)
その意味するところを何か「うまい言葉」で表現することはできないでしょうか?
曲線と直線の本質的不親和性とか何とか、、、あるいは数という概念の限界とか
何とか、、、

【質問2】円周率(π)が超越数であるという「真理」は、造物主が創ったものなど
ではなく、人間が「円周と直径の比は?」という問いを発したからムクムクと姿を
現したものであると考えることができると思います。したがって「事実」は自然界
に自然に存在するが「真理」は人間が「問い」を発して「創る」ものだと思うの
ですが素人考えでしょうか。

【質問3】「真理」は広く一般に認められて「事実」となり、それがさらに高次の
「真理」を生み出す母体基盤となると思うのですが、どうでしょうか。

このところ、ぼんやりと考えている「ホントに素人」な疑問です。
どんな回答でも結構です。質問1~3のどれかひとつだけの回答でも結構です。
いろいろな観点からのお話をお待ちしています。

A 回答 (10件)

質問1


 超越数って、なんかスッゴイ名前を戴いちゃって、完全に名前負けしてます。超越数とは「整数係数の多項式=0」という方程式の解にならない実数のことです。整数係数多項式とは係数に整数しか許さず、足し算、引き算、かけ算だけで構成される式(だから、冪を使って表現しても、冪の肩に乗るのは自然数の定数だけです)。だからまあ、一番「易しい」たぐいの方程式でしょう。「与えられた円と同じ面積の正方形を定規とコンパスで描け」と言われてもできない。定規とコンパスだけで平面上に点を決める操作は、解析幾何学に翻訳するとすべて低次の整数係数多項式の方程式に帰着してしまうからで、どうやっても√πという長さが作れません。
 なお無理数とは「有理数でない実数」の事です。整数係数の方程式 nX-m=0の解はX=m/nですから、有理数は超越数ではない。すなわち超越数はみんな無理数です。無理数√2は方程式 X×X-2=0の解だから超越数ではなく、従って、超越数⊂無理数。
・実数と無理数に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=32339

 コンピュータのプログラムで任意の精度まで計算できる(「計算可能な」もしくは「構成可能な」)実数というのは、実は高々、自然数の個数と同じだけ(アレフ0個)しかありません。(証明はmori0309さんにお任せ。プログラムのゲーデル数を考えてみれば...)実数の個数はずっと多い(アレフ1個)ので、圧倒的多数の実数が計算不可能であり、また当然の事ながら計算不可能な数はみんな超越数です。で、πは計算できる実数。可愛いもんです。つまり、計算不可能な数⊂超越数。
・実数の個数に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=31937

 円に関係してπが出てくるのは、直径と円周の比、という所にポイントがあるんですね。面積と円周の比じゃダメです。円周も円の面積も、また円錐や球の体積・表面積も、みんな仲良くπの因子を1つずつ含んでいますから、お互いに比を取ればπは消えてしまいます。しかし、一般に半径rのn次元球の体積は
 nが偶数: V[n] = (r^n) {π^(n/2)}/{(n/2)!}
 nが奇数: V[n] = (r^n) 2 {(2π)^((n-1)/2)}/{n!!}
   (ただしn!!= n (n-2) (n-4) ... 1 )
です。円はn=2(2次元における体積=面積)、球はn=3(普通の意味での体積)。で、n=4次元だったら、
V[4]=(r^4) {π^2}/2
であり、円や球の体積との比を取るとπの因子が残ってしまいます。逆にn=1次元でも
V[1] = 2r
だから、πの因子が残ります。(1次元の場合の体積とは、直線上に中心Oを取り、そこからrの距離にある2つの点に印を付けて、その2点間の距離を測った物です。)
 ちなみにn次元の球の表面積はV[n]のrによる一階微分S[n]=dV[n]/drで表されますから、或る球の表面積と体積とではπの因子の次数はいつも同じです。(n=2の場合で言うなら、円の面積と円周との比を取るとπの因子は残らない。nが幾つでも同じ事です。)
・n次元球の体積に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=19508

 円形の海があってその周囲が丁度直径の3倍である、という記載が聖書の中にあるそうで、円周率が丁度3じゃない事に悩んだヒトも昔は(今でも?)随分いたと聞きます。これは大地が平らだと仮定するからそうなっちゃうんで、仮に空間の曲率が正であるとしたとき(この場合球面上)の非ユークリッド2次元幾何学を考えると話は違います。円周率は円の直径に依って変化するものになり、これが丁度3になるような海の直径を割り出せます。すなわち、北極点を中心にしてこのような円形の海があったとすると、その円周は丁度北緯60°の所に来ます。地球の半径をRとするとき円周の長さ=2πRsin(π/6) = πR, 球面に沿って測った海の直径は=2R(π/6)= πR/3ですから、円周率は(πR)÷(πR/3)=3になります。(だから聖書学は球面幾何学を含んでいる?というのは例によって考え過ぎです。)
・非ユークリッド幾何に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=30830

質問2
 とても重要な観点だと思います。「真理」という所を「概念」と呼んでみては如何でしょうか。数学にはいろいろな性質を表す言葉が導入されます。そしてそのような性質同士の関係を問う、などの問題を考える訳です。しかし(普通の数学の場合)これらの性質は、全部集合論の記号と論理式に完全に還元して表現することができます。素数であるとか、超越数であるとか、ゲーデル数であるとか言うのは、言ってみれば人間が発明した「概念」であり、本来は論理式のパターンに過ぎないものに名前を付けることによってヒトが創造した、と考えることもできます。
初めに言葉ありき。
 逆に「数の性質は初めからそこにあって、それを探求して発見して行くんだ」というケンキョな考え方もあり、どちらかと言うとこっちの方が普通でしょう。
・質問3に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=24901

この回答への補足

stomachmanさん、ありがとうございました。
他のみなさんも、ありがとうございました。

部屋を締め切るのは、ちょっとだけ、淋しさを感じます。
訪れてくれる人が、いなくなってしまうようで。
愛着や想い出に、永久封印をするようで。

う~む。回顧し懐古し解雇されちゃうmori0309でした。
(仕事が上の空で、ポカミス多発)

補足日時:2001/04/01 20:51
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この回答へのお礼

stomachmanさん、ありがとうございます。いつもながら、完璧ですね。スゴイです。
(私は、やっぱり、カテゴリミスをしてしまったようです。ハズしてばかりです)

> 円周率が丁度3じゃない事に悩んだヒトも昔は(今でも?)随分いたと聞きます。

どうしても「何か意味があるはずだ」と思ってしまうんですよねぇ。文学趣味者は
旗色悪いなあ。(私が安直な空想家なだけ?)
いつも、自然のなかの事実に寓意を読みたくなってしまうんです。でも、こう、
stomachmanさんに「分析こそ賛美」「事実に意味などない」ということの実例を次から
次へと見せていただくと、gooのネズミも出ないです。(あーオヤジギャグ)
ケンキョな「普通」の考え方(正気の里)に帰らなくちゃいけないのでしょうか。
やっぱり「普通」は偉大なのですね、、、ってまた価値判断をしてしまうmori0309です。

お礼日時:2001/02/14 22:12

mori0309さん、こんにちは



> motsuanさんは、「時間」も「空間」も「数」も「π」も、
> 人間のような認識者とは無関係に存在する客観的実在だとお考えなのですね。
> これは個人の多様な考えなど許さない鋼鉄の真理なのでしょうか。
に関してですが、私も、「時間」も「空間」も「数」も「π」もなにもかも、人間が認識している以上は、人間の認識の限界を超えられないと思っています。自然科学としては客観的実在はたぶんあって、そこに(自然現象に対する理解を含めて)人間の認識がはたらいたときにはじめて、人間にとって実在となるのだと思っています。つまり、人間の認識する実在に対して人間が自然科学的彼岸あると仮定する客観的実在によって私たちは(自然科学的)認識を広めていっているのだと思います。

だからπであろうがなんであろうが、解釈は可能だと思います。いえ、認識することは解釈することなのでしょう。だけど、stomachmanさんが「「真理」という所を「概念」と呼んでみては如何でしょうか。」といっているように、私たちのまだ見ぬ世界感(宗教のあの世みたいなもの?)を知ろうとすることだって、花を見て美しいと思うのと同じくらい感動的だと思っている人はいっぱいいるのだと思います。人間の存在を圧倒するような自然を前にすると、逆に人間の存在を壮大な自然の摂理の一部として捉えなおすことができるように、圧倒的な(論理的)調和の前で、人は自然科学的彼岸の一端を垣間見ているような気持ちになっちゃう!というのが本当のところではないでしょうか?(たとえば、なんかわかんないけど、計算したら、なにもかも上手くいっちゃうんだよねぇ~という不思議さ!です)

「人は変わることができる、認識は変わっていくものだ」という前提に立てば、
「私」の認識の向こうに神様を置いて、「私」の認識のこちらが側に心の叫びを置いて
心にうつる風景を楽しむことができると信じています。
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この回答へのお礼

motsuanさん、ありがとうございます。
哲学の部屋でserpent-owlさんと魅惑的な対話をなされていますね。
いつも読ませていただいています。興味と愉しみが尽きないです。
> 自然科学としては客観的実在はたぶんあって、
> 人間の認識がはたらいたときにはじめて、人間にとって実在となる
私はどうも、認識者を想定しない「客観的実在」というものが
イメージできません。それは何なのでしょう?
エネルギー? 素粒子? 空間とそのしわ? 場? 情報? 法則?
これらはすべて科学が提出しているひとつの回答ですね。
哲学はもっとちがう答えを考えるべきだと思うんです。
たくさんの人と「対話」しながら、真理を発見(創造)していけたら
すばらしいですね。

お礼日時:2001/03/24 00:47

>でも文系的センスと理系的センスは、永久に畑ちがいなのでしょうか。


そんなことはないと思いますよ。アインシュタインが書いた、仲のいい
子供に宛てた手紙なんてなかなか秀逸です。
「僕らの上半身は未来を見つめ、僕らの下半身は未来を決める。これが教訓だ。」
なかなかでしょ(笑)
高名な美術家にして写真家のマン・レイはそのへんの物理学者より光学に詳しかったとか。
一概には言えないです。ただ、普通両方合わせ持つ程の才能に恵まれないんでしょうね。<天才と比較してもしょうがない?


>ここでも文系(詩)と理系(事実)という二元論が出ていると思います。
従って二元論ではないです。詩的想像は得てして妄想に陥りやすいと申し上げているだけです。単なる客観です。お間違いなく。
詩的想像がある種の「真理」なるものを掴むこともあるでしょう。
東洋医学の代表格である、鍼灸の先生に聞いたことですが、
つぼのほとんどは、体験的に発見されたものと、瞑想により発見されたものと
だそうですが、体験的の方は医学っぽい(理系?)ですが、瞑想の方は宗教(文系?)っぽいです。でも今残っているつぼってのは効果があるから残っているわけで、否定のしようありませんし。これは文系的発想法はいかんという論理を突き崩す一つの証拠でもあります。

ただ、曖昧に作り上げられてきた鍼灸術が科学的に仕組みを理解されていないというあたりに、文系の弱さがあるのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

oni_ocさん、回答ありがとうございます。いつもお礼が遅くて申し訳ありません。
内容がどんどん難しくなっていくので、お礼したくてもできないこのごろです(言い訳ですね)
理性(理系的センス)と感性(文系的センス)が同時に働くというのはどうも無理の
ような気がします。花を見るときに生物学者の眼と画家や詩人の眼と両方の眼で見る
というのはかなり困難です。あんまり両刀使いにこだわると頭が分裂しそうで恐ろしいです。
瞑想によりつぼが発見できるというのは驚きです。本当なのでしょうか。だとしたら
超能力ですよね。(この点の再回答のお願いではないです。質問に関係のない回答は
消される傾向が強くなっているようですので。私も数日前に経験しました。)

お礼日時:2001/03/10 00:26

mori0309さん、こんにちは



> 安易に「神」を 作って安心してしまうのではなく、
> ありのままの「不調和」をそのまま見据える、素直さ強さ・無言に耐える精神力、そういうものが人間には必要なのでしょうね。
自然科学は「ありのままの「不調和」をそのまま見据える」というよりも、不調和がどうして不調和なのか、調和させたい!という人間の本能のようなもだと思います。もっとエライ神様、もっとエライ神様、もっと、もっと・・・なんだと思います。楽天的な観点からすれば、安易な「神」は自然科学の上ではいずれ失墜するのではないでしょうか。だから、沢山神様を擁立してもそんなに困らないのではないかと思います。なんでも「ありのままの「不調和」をそのまま見据える」というのは自然科学からの要請ではなく、現代社会の自然科学に対する偏見のようなところから出ている、社会的な脅迫観念なのではないでしょうか?

補足です。
> 離散的な「数」自体、人間が作った概念なのではないでしょうか。
に関して、自然数自体はどちらかというと、もともとあったもの、のように思っています。海は広いな大きいなといったとき「海」というのは人間が作った概念ではないか、といわれればそうともいえるし、そうでないともいえるようなもんだと思っています。自然数の計算に関しても同です。つまり、言葉(言語体系の中に埋め込まれた名前)は人間が作ったものであるということで、人間が作った概念であるという意味であればご指摘のとおりだと思います。ただ、そこに在った数というのものを人間が発見して、その中に自然とπが含まれていたという意味では人間が作った概念から出たという意味とは少しずれていると思います。(ちなみに、10進数というのは確かに人の指の数由来だと思いますが、素数は計算の概念があれば数の表記の仕方(2進数とか16進数とか)に関係なく存在します。)
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この回答へのお礼

motsuanさん、回答ありがとうございます。間をあけてしまって申し訳ありません。

> 「ありのままの「不調和」をそのまま見据える」というのは現代社会の自然科学に
> 対する偏見のようなところから出ている、社会的な脅迫観念なのではないでしょうか?

科学があまりにも完全で整合がとれすぎているので、してやられまいとする警戒心を
抱いてしまうのかもしれません。「説明のつじつまが合いすぎている」 これは
進化論などの学説に、いつも漠然と感じてしまう疑念です。でも数学は、科学という
より超純粋哲学みたいですし、芸術とも無縁ではないですね。(素人考えです)

> そこに在った数というのものを人間が発見して、その中に自然とπが含まれていた
> という意味では人間が作った概念から出たという意味とは少しずれていると思います。

人間や生物がいなくても、「地球」や「海」や「島」や「数」や「π」は存在するのでしょうか。
(これはたぶん哲学という学問のイロハの問いなんでしょうけど)
『認識主体とその認識能力を想定しなければ、「そこに何があるか」を語ることはもちろん
問うことすらまったく不可能』だと思います。「何もない」のではなく「何が存在するのか
問えない」し、そもそも「存在」という概念自体が成り立たない。認識主体がいなければ
宇宙はまったくカテゴライズされず、どんな認識のものさしにも汚されていない素のままの
「何か」として、その純粋さを保っているわけです。
これは何か。この純粋なるものを何と呼ぶか。われわれは認識主体であるがゆえに、それを
認識したり命名したりすることはできない。私には「地球」「海」「島」「時間」「空間」「数」「π」が
すべて人間的な「ものさし」に見えます。
(私はものさしとしての言葉ではなく、私にじかに感じられる生の現実だけをいつも信じていたい。
 たとえそれが幻でも。)
(相当はずかしいこと言ってますね。いつまでもmori0309の正体がバレませんように)

motsuanさんは、「時間」も「空間」も「数」も「π」も、人間のような認識者とは無関係に
存在する客観的実在だとお考えなのですね。これは個人の多様な考えなど許さない
鋼鉄の真理なのでしょうか。

お礼日時:2001/03/09 22:55

理系素人なoni_ocです。


なので、理系な話は抜きで。

事実に意味を付加することはいろいろな方法で可能です。
serpent-owlさんの指摘のとおり、円周率より音楽を導きだす
ことも可能ならば場合によっては世界のはじまりと終わりを
そこから読み取ることも可能かも知れません。
なんせ、ビートルズの歌から、予言を読み取る人なんつうのも
いますから(「ヘルタースケルター」に自分だけにわかる神の言葉
が隠されていると読み取ったチャールズ・マンソン)

悪い方面だけの例じゃ不公平なので、いい方の例も挙げておきましょう。
ある俳人(失礼!名前失念しました)の句を読んだ、松尾芭蕉は、
自身の解釈を述べながら、その句を褒めたそうです。
その解釈はその俳人からしてみれば、完全な誤解からなるものであった
らしいですが、その俳人は芭蕉の解釈の美しさに驚き、
自分との格の差を知ったとか。

まとめです。
僕は、誤解は誤解で構わないと思います。それは知的遊びの地点で。
その場合は解釈学として成立しえます。それは想像力を育てます。
しかし、それはある種の表現においての時点での話において。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読みかえしてみて、思ったことですが、
彼は実践的に農業を教えていたにも関わらず、あの小説の内容は
まるっきりそのような人間の姿を想像させません。
あれは詩的想像の偉大な産物であり、科学的想像のそれではありません。
分けて考える分にはなんら問題ないのではないかと思うのです。
そこで需要なのは、詩的想像と科学的想像を分けて考える分別でしょう。
それを「真理」とすれば、そこで思考停止に陥りかねない。
推論の下敷きが科学なのか、文学なのかそこが問題なのでしょう、きっと。
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この回答へのお礼

oni_ocさん、いつも回答ありがとうございます。
文学(というより哲学)と数学の接点が、何か得られないかなと思って、この質問を出した
のですが、なかなか無理のようです。
> そこで重要なのは、詩的想像と科学的想像を分けて考える分別でしょう。
> それを「真理」とすれば、そこで思考停止に陥りかねない。
そのとおりだと思います。文学趣味の人間は非現実的な空想にふけることが多いです。
(私だけかな?)イメージの類似性だけを根拠に、どんどん考えをふくらませてしまう。
これは要注意ですね。でも文系的センスと理系的センスは、永久に畑ちがいなのでしょうか。
ここでも文系(詩)と理系(事実)という二元論が出ていると思います。
これを何とか超越したいですね。(素人はこわいですね。私のことです)

お礼日時:2001/03/04 02:18

 mori0309さんの質問をよむとなんとなくレンタルビデオでみた『π』という映画を思い出します。

(映画自体は異様な感じを出そうとしている映画でした。もちろん!主人公に似ているといっているわけではないので、誤解しないでください。ほんとに)

 質問1~3について、私は特に答をもっていません。ただ、πという数字は人が円周と直径の比を計算したから存在するのではなく数という存在自体のなかに既に孕まれているものだと思います。
 素数全体(よって自然数全体)を束ねてその情報を一括管理しているような関数にゼータ関数というのがあります(URLをみて下さい)。その関数から自然に(!?)πがでてきます。素数というのは2進数であれなんであれ変わらないわけですから、これは人間とは関わりなくある不思議=調和なのだと思います。(不思議なものは調和させて(つまり、不思議なことAと不思議なことBを等号などで結んだりして)不思議じゃなくしてしまうのが人間なのじゃないでしょうか?そして、数学は、自然科学は、その欲望の果てしなき追究なのかもしれません)神様(真理)ははじめに調和をつくったのではなく人間の不調和(解決していない調和)の解決ために人間が作ったのだと私は思ってます。(だから、人間の不調和に対する畏れそのものとして、すなわち人間の大切な一部として大好きです。といっても、宗教のために私は死ねないので、たぶん死ねる人とは全然位置づけが違うのだと思いますが。当然、真理のためにも死ねません。)

 以上の解釈でいくと、真実なる事柄がわかったとき(不思議なことAと不思議なことBを等号で結べたとき)私たちは、これは真理だ(あるいは控えめに、真理に近づいた)と思うのでしょうが、すぐに、この等号がどうして結べるのだろうと思うでしょう?結局、他の真理と真理を結びつけようとして、さらに高次の真理ができるのかも知れません。(道路工事のように掘り返すから工事の心理がただしい?ちょっと違いますかね)....質問No.39578と同じこといってるだけですね。ごめんなさい、どうも、最近考え方がワンパターンで。修行して参ります。

参考URL:http://www.mcc.pref.miyagi.jp/people/ikuro/koram …
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この回答へのお礼

motsuanさん、回答ありがとうございます。
> 数という存在自体のなかに既に孕まれているものだと思います。
離散的な「数」自体、人間が作った概念なのではないでしょうか。指が10本あるせいか
どうか分かりませんが。(素人なもので)
> 神様(真理)ははじめに調和をつくったのではなく人間の不調和(解決していない調和)
> の解決ために人間が作ったのだと私は思ってます。
なんだか同感です。やはり人間は調和を求めずにはいられないのですね。でも安易に「神」を
作って安心してしまうのではなく、ありのままの「不調和」をそのまま見据える、素直さ・
強さ・無言に耐える精神力、そういうものが人間には必要なのでしょうね。
> 道路工事のように掘り返すから工事の心理がただしい?
これは笑うトコロなんですよね。(ごめんなさぁ~い)
ところでmotsuanさん「解釈学」の糸の口はつながりましたか。案外簡単なんですよ。

お礼日時:2001/03/04 02:22

 おもろいおっさんでいらっしゃいますね。

円周率から「真理」をお考えになるなんて。
 でも、お気持ちはわかります。πって、すごく不思議な数ですから。私もあるきっかけからπには強く心惹かれています。文系人間でして、円周率なんてものは小学校で学んで以来さして気にも止めていなかったんですが、天文学者の故カール・セーガンが書いたSF小説『コンタクト』を読みまして(ジョディ・フォスター主演で映画化もされましたね)、その最初の方に、
   π/4=1-1/3+1/5-1/7+1/9……
という風に、分母を奇数にして増やしていきながら足したり引いたりしていくと、徐々にπの値に近づいていくということに、少女時代のヒロインが驚きを感じたと書いてありました。で、私もまた、驚きを感じたわけです。だって、有理数を足したり引いたりを無限に繰り返すと「超越数」になるというんですから。
 これはもう、思わず自分で確かめてしまいましたよ。最初、手計算でやって「あ、ダメだ、こりゃ」と気付いてプログラムを作りました。こういうやつ…

LET p=4
LET q=3
LET n=1
LET f=1
DO
LET p=p-4/q*f
PRINT n,p
LET n=n+1
LET q=n*2+1
LET f=f*( -1 )
LOOP
END

 言語はBASICです。もしmori0309さんのマシンがウィンドウズなら、「十進BASIC」というフリーウェアを入手すれば実行できますよ。コピー&ペーストして。
 入手先は、ここ。
  http://hp.vector.co.jp/authors/VA008683/
 大規模なアプリケーションを作るには不向きですが、ちょっとした数値演算を行うにはたいへん簡便で使いやすい処理系です。πの計算以外に、「コンウェイの蟻」とか「ロジスティック写像によるカオス」とか「三体問題モドキ」とか、プログラムして遊んでます。
 あっと、話が逸れました。とにかく、有理数の果ての果てのそのまた先の果てに「超越数」が存在している…頭の中がすーっと寒くなるような感動を覚えました。
 なお、上記のような式は「マクローリン展開」というそうです。自然対数の底e(これも超越数)もマクローリン展開して、
   e^x=1+x+(1/2!)x^2+(1/3!)x^3+(1/4!)x^4…
と表せます。これにx=iθ(iは虚数単位)を代入すると、途中は飛ばしますが、
   e^(iθ)=cosθ+i・sinθ
というオイラーの定理が導かれます。さらにこれにθ=πを代入すると、
   e^(iπ)=-1
となります。これは変形すると e^(iπ)+1=0 となって、数学の上で特に興味深い五つの数、「e、π、i、0、1」が、すべて一本の式で結ばれていることになります。こんなにもシンプルな形で。これも感動しましたねえ…。
 あ、また話が逸れてしまいました。それに回答もまだですね。
 では、【質問2】への回答につながるかもしれない情報をば一つ、お土産に。
 なんと、「円周率πには、音楽が隠されていた!」という話です。下記の参考HPはこれに関するサイトです。
 円周率に出てくる数字を音符に置き換えていったら、あら不思議。音楽になっちゃったそうです。アップテンポあり、ワルツあり、レクイエムありのさまざまな楽曲が飛び出してきて、しかも「先に進めばまだまだありそう」なのだそうです。
 これを発見したのは中学校の先生です。発見の詳しいいきさつも、下のHPに書かれています。こちらもまた、おもろいおっさんであるようです。
 隅っこの方の、特に意味もないノイズのような文字列。そういう断片を古い方から順につなぎ合わせていくと一つの音楽になる…これは一つの解釈学ですね。
e.jp

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/haselic/pi/pa …

この回答への補足

serpent-owlさん、ありがとうございます。間をあけてしまって申し訳ありませんでした。
> π/4=1-1/3+1/5-1/7+1/9……
こういうふうに示されるとπって実は美人なんだなあと思います。
やっぱり美人は永遠ですね。(差別的?)
> e^(iπ)+1=0 
> こんなにもシンプルな形で。これも感動しましたねえ…。
これこそ意味が知りたいです。この数式はいったいどういう真理を表しているので
しょうか。eやπのような神秘的な超越数は他にもあるのでしょうか。
どうして人間は「シンプル」で「美人」な「法則性」に感動するのでしょう。
自分が「複雑さの極み」へと「強制連行」されているからでしょうか。遺伝子情報の
なかには、試行錯誤のあとみたいな無駄なキタナラシサがいっぱいということですし。
あぁー、キレイになりたい。すべてをやり直したい。全知全能になりたい。
> 円周率πには、音楽が隠されていた!
聴きました。会社では聴けないので家で。でも、ちょっと、、、つらいですね。
発見者(?)の興奮は分かるんですけど、、、
でも、楽しませていただきました。ありがとうございました。

補足日時:2001/03/09 23:39
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この回答へのお礼

serpent-owlさん、回答ありがとうございます。お礼が遅れて申し訳ありませんでした。
ご回答内容をしっかりと味わって、後日またお返事させていただきます。
「解釈学」を解釈してもやっぱり「解釈学」なのですね。それも独り語の。

お礼日時:2001/02/27 17:52

 質問2について



 「比」は物質があるという意味で実在するのでしょうか。私はその意味を「計算可能な事柄のある関係」と捉えています。命名することによる、あるとせよはその後の出来事です。
 (円周率)を考えるのと(きみどりいろ)を考えるのでは、数学的前提=自然数全体Nが存在する、のようなものを根拠に置くかどうかに最大の違いがあると思います。
 で、ここでもやはり数学の無限「観」が一番の勘所ではないでしょうか。現実的無限はダメだけれど、可能的無限なら帰納法によりOKだとか、ゲーデルの不完全性定理でよしとせよとかは、ホントはどうにも納得できないムラムラが残ってしまうのです。
 線分を点の集合と見れば世界の凡てが陥入してしまい、アキレスは何時までたっても亀に追いつけない世界がどこかにあります。だから「事実」と異なった理解を避けるために、「時間」と「空間」を同時に考えてはいけません、と限定付けします。
 まるごと全部解かりたい、というムラムラは神が存在しないとするなら、人間がその代わりとなっておかしくは無い、とするヒューマニズムの一種でしょうか。そんな病に私たちは冒されているのかも知れません。
 とは言え、充分過ぎるほどの英知を数学から頂戴している身であってみれば、美しい数式やすばらしい証明のその根源的な前提を、たまにササヤカに数学者に質問してみるだけで満足すべきなのでしょうか。う~ん難しい!

この回答への補足

Lanternさん、ご無沙汰しておりました。
私の魯鈍な頭脳では、問題のまわりをただうろうろするだけでLanternさんのご回答に
つりあうようなお礼は、土台無理なのでありました。
> ここでもやはり数学の無限「観」が一番の勘所ではないでしょうか。
> まるごと全部解かりたい・・・・・・そんな病に私たちは冒されているのかも知れません。
やっぱり「知りたい病」は永遠に癒されることのない病なんでしょうか。
『なぜ人間は「なぜ人間は・・・でしょうか?」と考えるのでしょうか?』
この『  』、そっくりそのまま「・・・」のなかに自己参照的に陥入してしまいますね。
無限は怖いです。どんなに拡大(後退)しても、どんなに縮小(接近)しても、見え方は
まったく変わらないんですものね。宇宙を超高速で飛行したら進行方向を向いている人
には宇宙がどんどん拡大していっているように見えるし、進行方向と逆方向を向いている
人には宇宙が縮小していっているように見える。飛行する(あるいは数直線上を移動する)
ということはどういうことなのでしょう。『「無限」に近づく』なんてできないことなんです
よね。相手に「無限」を選んでしまったら、「自分はつねに静止している」「自分は自由に
動き回ることはできない」と思い知らされるだけなのでしょうね。「真理」も「無限」と同じ
でしょうか。「思考」も「飛行」のようなものだとしたら、空恐ろしくなります。
人間が本当にやるべきこと、人間の本当の存在意義、それは「思考」なんかじゃないのかも。

補足日時:2001/03/24 01:22
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この回答へのお礼

Lanternさん、回答ありがとうございます。お礼が遅くなってすみませんでした。
Lanternさんの深遠なご回答に、なんとかつりあいのとれるお礼の文章を書きたいと
思い、思索を続けています。数日後に、また来ます。

お礼日時:2001/02/20 23:40

<質問3>


そうおもいます。真理をもとめるこころ果てしなく持ちつづけたいですね。「なぜ?」を考えなくなったら前進しないのと同じような気がします。ともすれば、時間をあともどししているのと同じです。

長旅にでかけたお友達の帰りをともに待ちつづけたいです。素敵な話をこれからもずっときかせてほしい。
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この回答へのお礼

♪ 、、、の終わりはいつもいつも 立ち去る者だけが美しい
♪ 残されて戸惑う者たちは 老いかけて焦がれて宮殿ミイラ、、、
センチなmori0309でした

お礼日時:2001/02/18 17:14

 やはりmori0309さんの見事なコメントには、ヤバイと分かっていて引っ掛かってしまうstomachmanです。

(まず覆面確認。)
 数学と物理は少し事情が違います。現代の数学は公理から出発する。つまりその冒頭は「『集合』在れ。」で始まる創世記です。しかし物理はまるでコーランのように、最も深遠的な啓示は最後のページに書かれているらしい。
 stomachmanは「事実に意味などない」とは思いません。それどころか、事実の意味を読み解くこと、すなわち「どんなに美しい理論も、僅かでも事実と齟齬があれば捨て去る」ということによって科学は進歩してきました。カミオカンデと言うとニュートリノの事ばかり思い出されるかも知れませんが、その最初のミッションは「陽子が実はもの凄く長い半減期(~10^31年?)で自然崩壊するのではないか?」という理論的予測を検証することであり(陽子崩壊は見つかっていません。)、あの水の量はその予測値に基づいて設計されたものです。膨大な数の水素原子核の内のほんの幾つかが1年以内に壊れるかも知れない。それを見るために建設された。いわば事実への完全服従です。ですから「事実に情け容赦などない」ということなら首肯できます。ヒトが絡まなくては意味が生じないと認めたとしても、ヒトが勝手に意味を作っている訳ではない。
 また「分析こそ賛美」とも考えません。仕組みを理解することの喜びは、謂わば賛美の右手であり、全体像の認識という左手と相補的であって初めて拍手ができる。従って、ろくに観察もしないで神秘的要因にさっさと還元し、分析を許さない、という自己撞着は「木も見ず森も見ず」ではないか、と言いたい。(この文に目的語「~を」がないのは、言うまでもなく、何を還元したかすら分からないからです。勿論mori0309さんを批判している積もりは毛頭ない。なにしろこの御質問を投げられたこと自体が、まさに木と森を共に見ようという意志をお持ちである証左ですから。)
 至る所にアナロジーや啓示を見いだしてしまうのは、人間が持つ、知的・詩的動物としての「本能」であり、認識と学習のための基本的な様式であろうと思います。(だから実は、詩的であるのはヒトだけ、とは思っていないんです。)大昔のスポ根漫画の主人公は、日常茶飯事から何かしら「ヒント」を掴まなくては絶対に次の段階に進めないんだそうで、そこには目的に対する迷いはなく、単に技術的・戦術的なブレークスルーの探求だけがあった。ところが「巨人の星」でこの公式は崩れる。今ではあらゆる価値が相対化して、迷い自体が主題になってしまった。だから、数学や物理の鉄壁の法則の中に啓示を求めようというmori0309さんの嗅覚はむしろ正常。見事なセンスだと思います。この御質問を契機に、ルクレチウスの乾いた信仰や、南方熊楠の粘ばつく宇宙像などを思い起こし、アナロジーと分析それぞれの意味を改めて味わいながら、オッカムの剃刀を研いでおります。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=27724
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この回答へのお礼

す、すばらしい! 名文! stomachmanさんって覆面取ったら誰もが知ってる有名人?

お礼日時:2001/02/18 17:13

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