全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。
●四色問題は 彼等に解けるでしょうか?

 また いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ
 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか?

 経典には あたりまえのこともしくは既存の概念
 しか書かれてないんじゃないでしょうか。

 みなさんのお考えを教えてください。

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A 回答 (29件中21~29件)

おつかれさせてしまうかもしれないので、よければ読んでください。


>その言葉が 聞きたいんですよ。
では聞けばいいじゃないですか。
あなたに響く言葉はあなたに聞かされるからです。
あなたが、まず、求めているので、いずれ聞くでしょう。←宗教臭いね♪

以下特に疲れるので、特に薦めません。
>オリジナリティあふれる 論理を教えていただきたい。
希少性のある論理ですか?現代人には受けない方が希少ですよ。最初の僕の回答じゃダメですか?数式まで書いたのに、。1)の答えは、蓮華でスープを飲んでます。一般的な人のように論理的です。解るはずです。僕が説明度下手ですが、。
2)の回答は、現代のフツーの人がその人を見ると、「まだ飲んでない」のに、「もう飲んだ」と、その人は言います。確かに飲んでます。
>神様が人間より能力低いという考え方もありだと思っています。
神を全てとするなら、低いも高いも無いので、低くも高くも無い事も無い。もちろん、大きくも小さくも無い。だから、はかろうとしてはいけない。図れる者でない事は解っておられるはずです。自分についてもそうでしょう?
「神を試すのか?」と、イエスが言うのは、それがうまく行かないどころか、ダメなほうに行くからです。
>具体的に 考察していかないと結局幻想とか妄想の域をでませんよ。
リアルな思考ですよ、。具体的に考察すると言うのに、箸でスープを飲み続ける気ですか?思考が、本物なのです。覚えもしないし、忘れもしません。知るとはそう言う感覚です。

>すべてだってーんじゃ いてもいなくても同じだよそれって。
ちがうじゃん(笑)いないからいるんですよ。いてもいなくても同じだよって、何か神に意味を求めてるんですか?意味は無いから、全ての意味をもつんです。
ないものはないんです。だから、隙間無くあるんです。すべてが。いてもいなくてもという表現が、追いつかないことがわかりますか?何故なら、追う者でないからです。
>じっさいに行って見せれば 疑いは薄らぎますよね。
多分疑いは膨らんで、迷いも膨らむと思いますよ。うまく行かないと思います。今の人間はそういう風に感じるはずです。なぜなら、他から見せられる事によって、自分を見ることを忘れるからです。個人を得る前はそのようなことは不適切です。
個人から個人を離そうとするのは、虚偽です。たくさん、見れば見るだけあります。だから、限られています。
 
魔貫光殺法ぐらい、人間にもうてると思います。幻想ですか?箸でスープを飲むような者ですよ?かるくうてます。宇宙人とかうってそう←幻想。
全てに何を求めるのか?
神と、あなたと、比べるような者ではありません。
あなたが得るものはあなたが得るべきです。
僕は、何をゆっていいか分らなくなりました。
次に会うときは何時でしょうね。そのときは、何かゆえたらいいんだけど。
あなたは言葉を必要ない人と、僕は常々感じています。
 じゃあもし、次またこれたら、あなたに言います。
よければ気にしないで下さい。
そのときがあるように、。 
  
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この回答へのお礼

●あなたのいうことは観念なのです。
 観念をたのしむなら それはそれでいいでしょう。
 それでおしまいのことなのですから。
●わたしが必要としているのは 幸せなんです。
 幸せへのメソッドなのです。だからどうするのか?
 の どうするかが 知りたいわけです。

 それを ひとつも言えない神なんて まぎらわしいだけですよ。
 ないほうが まだましです。

お礼日時:2002/01/19 22:06

URLはやさしく書かれた法華経と、現代語訳、維摩経です。


維摩経はわかるけれど、法華経はわかりません。
維摩経は哲学で、考えればわかります。が、法華経は「信仰」です。
法華経を理解するには、法華経があることを、「知らなければならない。」
僕は法華経を知りません。しかし、知ってないとも言いません。
このスタンスは、重要です。
僕が、「」の、カギカッコ自体の内側を見たいと言っていましたよね。何かあるのがわかっていたからです。
その時の僕の言語に対するスタンスと、法華経に対するスタンスは同じ感覚です。 当時、あなたや助言たちが現れたように、今、すでにそれは現れています。
僕はその者らに逢うでしょう。
 
維摩経:http://www.hi-ho.ne.jp/universe/yuima/yuima0.html

哲学が許されるなら、維摩経は許されます。
その時、法華に気付きます。
 
キリストは叫んだ
「我が神!我が神!何故、私をお見捨てになったのですかっ!」
そしてもう一度叫んで、「っ。」とうなだれた。
 
これがイエスのあかしです。
このあかしに対する僕のスタンスも、又、同じです。
出逢うでしょう。
 

参考URL:http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/yasashi_bn …
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この回答へのお礼

●どうも話が 思う方向にいかないんで 誘導させてください。

 宗教とは あたりまえのこと+既成の概念+幻想 だと・・・。

 いやいや 悟った人や 神を見た もしくは逢った もしくは感じた人は
 こんなにすごい「輝く言葉」を手に入れたのですよ!

 その言葉が 聞きたいんですよ。
 維摩経でも 法華でも キリストの言ったことでも なんでもいいです。
 オリジナリティあふれる 論理を教えていただきたい。

お礼日時:2002/01/19 00:39

最後の4行が主文です。

しんどければそれだけどうぞ、。
そうですか、数学者は箸でスープを飲みきったんですね(笑
飲んだって言うよりなめたと言うほうがいいかもしれません。偉大ですね。そういうのもありでしょう。箸で釘も打てそうですね。その内、三本使っても、「箸」だと言うようになります。彼らはそういうのとくいです。(笑 
まぁ、箸もしがめば何か飲めるという、いつか蝿も捕まえてみせようという、こだわりの精神ですね。網を使ってしまえば意味が無いのです。箸で蝿を取ることが、すごいと、思ってるんです。その内、ラクダも針の穴に通すかもしれません。ホイポイカプセルも出来そうですね。やればやった分だけ出来るでしょう。そのため限られているでしょう。すでにやっている事を知れば、限られません。
 
仏教の因果律が優れているのは、原因が他にあるのではなく、自分にあるからです。結果もまた自分にあります。だから正しいんです。さらに行くと、因も果であり果もまた因です。何故なら、最初と最後は同じだからです。
最初の因は最後の果です。因果の無い事はありません。
 
神は並ぶ者のない言葉です。全ての事なので、全てに含まれないものはありません。あなたも、石コロも、全てに含まれるのです。空もまたすべてです。終わりであり最初であるのはそういうためであり、そうであるからです。理由が事実です。

また、人間は、知ることにより忘れたのです。エデンの知恵の実の話はそういう話でしょう。忘れを知ったともいえますね(笑 「すべて」を忘れたのです。
皆が神と言ってるのは、創造神もまた神であるし、羞恥心もまた神です。なぜなら、全てに含まれないものはないからです。だから、全能なのです。あなたがあなたであるように、全てもまた全てであるのです。だから同時に無いのです。創造神、破壊神、慈愛神、石ころ神に、カワヤ神、あなた神に、何でも神。

つまり、神は無い。
 
だから、ありなのです。すべてなのです。
しかし、神、全ては嘘を嘘と明らかに。ほんとをほんとと明らかに。します。
知る事で、ほんとを嘘とするのは人間です。
しかしそれもまた、神はそうするのです。それもまた神であるからです。
神が、解らないようにあれないわけがない。全てなのに。同時ですし、ばらばらです。すべてです。また無です。

全てから離れるものはありません。
 
皆が誤解しているのは、「すべて」が最も大きい包括的カテゴリだと思っている点です。
ちがいます。カテゴリそのもであり、何でもあり、すべてであります。
言葉は要りません。
しかし、ドコからも全てに繋がっているので、言葉でもいいです。
皆は神を誤解している。
神は全てです。全能の神もまたすべてです。

中観とは、天秤のバランスを取るようにあるのではなく、そうなくもない。と思うことです。
中は内です。なかの意味です。バランスのとれている事ではありません。中庸をバランスと言うのは間違いです。中観を得るのに基準はいりません。
その時なかはなかになり、そとはそとになります。中を指でさせます。外はさせないです。中は点でそとは広がりです。宇宙空間で、空間を指ではさせません。
それと同じような事ですが、真の外は空間を指でさせます。空間もまた中であるからです。真の外に隙間はありません。

その外、真です。
 
神に、「ないものはない」
何故なら神はすべての事だからです。
僕の神の解釈は、全てであると言う事です。
誤解の課程は以下のようです。
みかんをくりと呼べばそうなります。そのくりはすっぱいでしょうね。
すっぱいをからいと言えば、みかんはからいですね。意味がやいこしいでしょう。
ほとんどの知識人がこのようにこんがらがってます。
名前に惑わされてはいけない。
 
自分を知れ。そして器を知ると言う意味がわかる。
自分が器なのか、中身なのか、両方なのか、
答えは全てです。
僕の回答にも囚われてはいけない。捕らえるようなものは、虚偽です。
解らない事にも悩んではいけない。解らない事は解らない事です。それが解ればいい。
 
僕の言った事で、経典に書かれていないことはありません。
しかし、経典に書いてある事でゆっていないことはあります。そりゃそうだ(笑
聖書も経典も、理解できれば両方間違っていないのです。
なぜなら、理解するものは知っているからです。
知っているから理解するんです。理解するから知ってるんです。
ここにもまた因果律があります。
法華経は解りません。知識しかありません。とりあえず行き止まりですね。
空をとべる事を知れば、解るでしょう。解る事もまた知れるからです。
イエスならわかると思います。なんか、言っていることそっくりですもん。
山に動いて海に入れと信じて疑わなければそうなる(笑
どの宗教、宗派も、方便ですし、事実です。方便である事を知らなければ成りません。
 
イエスが若いころ経典を読み漁ったって言うのはホントなんでしょうか(笑
どうでもいいですけど、
どっちがどっちなんて、、、、。、。、。ねぇ?
あっちこっち(笑
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この回答へのお礼

●神はすべて ねえ まあ なんでもいいんですけど。
 そういう考え方って かんこいいと思いますか?
 なんか そういう神って 忙しそうだし たいへんそうだねえ
 わたしの感では そういう考え方は 現代人には受けないなあ・・・たぶん。
 救世主のほうが かっこいいよ ネオみたいにね。
 自分が救世主であることを信じることで 精神世界(MATRIX)での
 死から復活してみせたんだよ。
 あと おんなを発情させるおとこの神とか
 男をたたせる おんなの神とかのほうが うけるね。
●あなたの言う「神」がカメハメハでもやってみせるんなら おもしろいけど。
 すべてだってーんじゃ いてもいなくても同じだよそれって。
 今 地球は人間によって汚されてるよね あなたの神はどうおもってんの?
 よごれたのもまた「神」ですってーんじゃ 話にならないよ。

お礼日時:2002/01/19 00:28

「全能の神」というのは人間が考え出したものです。


「いかなる難問をも解き得るもの(物・者・人物・神・仏)」を空想したのです。

「4色問題」だって、「全能」であるからには解けるはずです。
しかし「全能の神」は人間の前で人間に解るようにそれを示すことをしません。

全能であるからには、どんな盾でも射抜く事のできる矛と、どんな矛を以っても射抜けない盾を
同時に存在させるといった事ができるはずです。
しかし「全能の神」は、可能ではあってもあえて実行しないのです。
いや仮に実行したとしましょう、しかし人間には、そんな盾と矛を同時に観測する事はできないかもしれません。
「できる」ということと「じっさいに行なう(行なって見せる)」ということは同じではないのです。
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この回答へのお礼

●じっさいに行って見せれば 疑いは薄らぎますよね。
 できるんなら できることを論理でわからせてほしいですね。

●盾側から見れば射抜かれてなく 矛側から見れば射抜けてて
 その中間からみれば 射抜いているようでもあり射抜いていないようでもある
 そんなところで いいんじゃないですか。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/18 23:45

 「四色問題」とは、


 平面図形をどのような領域に分けても、四色のみで隣接した領域を塗り分けることができるか否かという証明問題のことで、1976年にスーパーコンピュータが 1,200時間かけて証明したとされています。
 自然科学でも、幾何学(数学)は、仮説により導き出す約束事であります。数字にしても、約束、仮設であり、これを解くことが、真理を説くことになるのでしょうか?
 仏教では、宇宙の実相が説かれています。
 真理は仮説でもなく、宗教は、科学により証明することが困難でありましょうが、科学を網羅している筈であります。
 経典を、全て理解出来る方は、仏でしか有り得ませんが、既存の概念とは何でしょうか?
 誰も知れ得れなかったことが説かれてある為に、信じれずにいるのでしょ。難信難解と言われていますよ。
 あなた自身が、全て経典を、ご理解されているのなら、仏とはどういう方なのか、質問されるまでもないでしょう。釈尊は、学者ではありません。修行により悟られたのです。
 神は、人間がつくったものでしょ。キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが教典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現わしたことはありません。
 一番初めに神様があって、そこから神様が人間を造ったというのがキリスト教の一番基本的な教えであります。そのほか、マホメット教においても、アラーの神がみんな我々を造ったというようなことを言うのです。
 しかし、その神は原因がないのです。原因がなくて、ただ漠然と結果としての神様が存するわけです。すると原因、結果の理法に背いているわけなのです。
 仏法においては、仏様という方はけっして初めから存在したというのではなくして、必ず原因があって、その結果として仏様の尊い勝れた命を得られたのであるということです。ですから、因の行、すなわち原因があり、その結果としての仏様という果徳が得られたということであります。
 そういう意味で、爾前経においても、あるいは迹門においても、仏様という勝れた人格と智慧を得られたところの元の原因というものが説かれてあり、また、その結果が説かれてあるということであります。
 宗教は、幸福境涯になるための直道です。
 釈尊は、微積分すら解かないと存じます。それを解くことが、成仏に繋がらない、他事、遊戯雑談だからです。
 如何でしょうか?

この回答への補足

●あたりまえのこと=よく見聞きし考えればわかること

●既存の概念=すでに論理的の説明されていること

                      です。

補足日時:2002/01/18 23:54
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この回答へのお礼

●釈尊は、微積分すら解かない
 わたしも たぶんそうじゃないかとおもうんですけど。

 宇宙の真理を見て 微積分は知らない。
 宇宙の真理を見れば微積分はおろかなんでも分る。
 ↑の間の どのへんの感覚なのかなあ?

 信ずることでひとは救われる 確かにそのような場合もあるでしょう。
 しかし 現代 信ずることよりも疑いのはての折り合いのほうが
 生きることにリアリティを与えれるように感じています。
 釈尊のしゃべったことは わたしにはたぶん全部理解できると思います。
 なにを言ってたか全ては知りませんが。推察はできます。
 釈尊のいわんとした いちばん大切なことは
 たぶん命のすばらしさ だとおもいますよ。

 わたしは 釈尊のことばにちゃんと向かい合ったことがないので
 もし これぞ人類の解けない難問を解いているという言葉がありましたら
 ぜひご紹介ください。 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/18 23:35

皆に答えるつもりで書きます。

chihokoさんへの敬意はお察しのとおりです。
>全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。
誰でも何でもいいってことですね(笑 ウサギじゃダメですか?
>「地図に描かれた各国のうち、境界線を共有する2国は必ず異なる色で塗り分けるものとすると、最低何色の色が必要であろうか」という問題をいう。1点で接しているだけの2国や、全く接していない2国は、同色で塗って差し支えない。
 この問題は、A.ケーレイが1878年にロンドン数学会の席上で提起して以来、人々の注目を集めるようになった。
 塗り分けが3色では不十分である。また、5色あれば十分であることは、P.J.ヒーウッドが1890年に証明した。したがって、4色で十分かどうかの問題が最後に残ったことになり、この問題は「四色問題」と呼ばれるようになった。

というものが四色問題です。ドコが問題になってるのか無学無知、アタマのろいので理解できません。だから、問題になりません。疑問がありません。
 
答えかたはたくさんあると思いますが、当時の数学者は、箸でスープを飲むつもりだったのか?ジョークが好きなんですね。(笑。100年以上経ち、箸も、使い方も、ずいぶん進化したので、スープぐらいきっと飲めるで笑。←マジです。
しがんだ割り箸に吸い込ませてもいけますね。(笑 
回答。
1.)境界線を引いた時点できちんと「塗り分け」られている。序二段くらい。二色。有無。白黒。それ以上塗り分けるのは、問題を解いてる途中に、国境線を継ぎ足す、増やす、国を増やすようなもんです。一元論がわかればわかる。
2.)僕は無職です(笑。無色でできる。一色も必要ない。小結?
ということで、僕の限界は小結です。まぁ限界も何も「ないん」ですが
1.)を数式で証明します
白=黒 境界線=国 間違っていますが、数学者はA=Bとする事で納得します。コレは間違いです。この数学式は皆嘘をついています。しかし、嘘も方便です。
2.)を数式で証明します。
無=無 0=0 = という事を以下に示します。
                       
                   
   
 
 
 
 
以上。
 
余談:二つの円が中途に二つ重なって、共有している部分と、していない部分と、どちらの円にも属さない部分が出来ます。じゃあ、二点で接するけれど、交わっていない円の部分達は別の色でいいのでしょうか?この場合、二色で塗り分けれるけれども、三色必要なんでしょうか?
 
当時はこの事(四色問題)で、学術費用、研究費とかゆって税金を使ってたんでしょうか?それともやっぱ自腹だったんですかね。民衆は黙ってませんよ、きっと。(笑 
でも、冗談で生活は出来ます。地球が豊かな印ですね(幸
>経典には あたりまえのこともしくは既存の概念
 しか書かれてないんじゃないでしょうか。
当たり前のことを思い出せば、問題は「ありません」。皆最初は知っている事を忘れたんです。何ででしょうか。
 
今回の僕の回答は間違いです。なぜなら、その態度、愛がありません。信仰よりも、異言(智慧)よりも、愛が優れています。まさに、愛が優れています。愛があれば、問題ありません。問題がっ!、ないのです。愛がなかったので、僕の答えは答えなのに何も解決しませんでした。いまならするかも。
悩みは、自分で悩むから悩んでるんです。悩みを自分のものと思わず、外にある「問題」として思っていることが、「すでに間違っています」。
この問題、話になりません。無数の教祖たちに聞いても同じです。
しかし、神においてはこうです。
みんな、神の行為は今から言うような行為です。 
「神においてはすでに答えています。」
神はすでに答えているのです。聞きなさい。聞きもしないのに解らんとかゆうのですか?答えはすでに与えられています。
 
この問題、当人にしか解けません。僕は数式を示しましたが、解るのは当人だからです。あなたにしか聞こえません。「答えはあなたに語られている」からです。
聞きなさい。
 
いつも皆がやるような、人と談義することはただのきっかけです。
人と逢うのはもっと後です。
 
皆が逢うように
皆と逢うように
すでに逢っている事を思い出すように    
オーム アーメン ツタンカーメン(今は冬)
 
あなたがサブいのは(=)あなたがサブいから(理由)です。
笑えないですね、。
答えはすでに与えられてます。
 
 
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この回答へのお礼

●なにを言わんとしているのか さっぱり わかりません。
 具体的に 考察していかないと結局幻想とか妄想の域をでませんよ。

 つぎのご回答もあるみたいなんで そっちよみますね。

お礼日時:2002/01/18 23:15

全能の神の『全能』とは『この世で可能なことは全てできる能力』でありさらに、人にはわからない部分もいっぱいあるから『人知を超えた能力』も有するという意味ではないかと思います。


つまり神にも出来ないことはある…と思います。
でなけりゃ悪魔だとかサタンだとかおいておかないでしょうからね。

四色問題については人間が解けたんだから神にも解けるでしょう(解く力を神が与えたもうたのだから)

>経典には あたりまえのこともしくは既存の概念
しか書かれてないんじゃないでしょうか。

そりゃ当たり前で、経典とは人間に理解できる(ように)ことを書いた。というのが建前なんだから…

>いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか?

私の想像では『ミッシングリンク』がこれに値するのではないかと思える1つです。いわゆる『創造説』と言うヤツです。でも自信は「なし」です。以上無神論者なりの想像です。
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この回答へのお礼

●四色問題が証明された とするのはあやまりです。
 コンピューターで多くの地図を塗り分けても四色で済んだから
 それで良しとしましょうということです。
 公理を用いて証明されていません。

 経典に 人間が理解できるように難問を解いてみせた例があるやなしや
 と設問したわけです。

 あなたには ちょっと難しかったかな?

●『ミッシングリンク』は観察比較すればだれでも気づくよー!

お礼日時:2002/01/18 23:06

宗教によって違うかもしれないけど、


神様が全てを創ったわけでしょ。
てことは、
その難題自体を考えた人間も神様が作ったわけだから、
その難問自体、神様が作った物って事になるじゃない。
で、「問題」っていうのは、
作った人が正解だといえば、それが正解なんです。
なので、神様が何か答を言えば、それが正解です。
つまり、答えられない問題は無いことになります。

そもそも、「全てを作った」という時点で、
創造者である神様自身を超えるものは存在しないはずです。
というか、自分より能力の低いものを作ります。
そうしないと「神」として存在できないから。
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この回答へのお礼

●そのような具体例があれば 神様のとらえかたが
 さらにはっきりするかな? という設問です。
 
 神様が人間より能力低いという考え方もありだと思っています。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/18 22:45

田中芳樹さんの銀河英雄伝説にこんなセリフがありました。


「全能の神がいるなら「誰の言うことも聞かないわがまま女」を作ってもらいたいものだ、もしその女に言うことを聞かせられないなら全能じゃないし、その女に言うことを聞かせられるなら「誰の言うことも聞かない・・・」という女を作れなかったことになる。だから全能なんてあり得ない。」
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この回答へのお礼

●全能の神なら 誰の言うことも聞かない女をつくることもできるし
 その女を言うことを聞かせるように改造できると思います。
 田中芳樹さんのセリフには時間のレトリックがあります。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/18 22:41

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釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいたとき魔がおりてきて釈迦を苦しめて結局釈迦が魔に勝て悟りをひらいたときのストーリーをおしえてください。すいません。

Aベストアンサー

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か、若い乙女がいて、彼女から乳粥を捧げられ、これを食した後、身を清め、ブッダガヤーの菩提樹の下で、瞑想に入り、この瞑想の過程で、以下の参考URLに簡単に記されているように、悪魔(マーラ)が、釈迦の悟りを妨害しようと、様々な「欲望」で誘惑します。
 
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  また、この時のマーラ(悪魔)との対話が、「大涅槃経」に出てくる、マーラとの会話に続きます。
 
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  悪魔(マーラ)とは、サンスクリット語ですが、これはラテン語における「悪 mala(malus, malum)」と同じ語根の言葉です。
 

参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7710/771012.htm

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か...続きを読む

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Aベストアンサー

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創った補償はない」

 #ニュートンの「神の存在が証明できない」というのと一緒。

なのだから、少し面倒なことを書くけれど。

「神が完璧でないのか、人間が完璧ではないのか」

この二択になってしまうと、考えるんですよ。

 #σ(・・*)たちのような、そこに宗教を見ていない科学者はね。

で、こういう結論がでるわけね。

「神の存在証明が出来ない以上、それは人間が作り出したものであろう。

人間は不完全であり(不完全性定理もあるしね)、自然界をも不完全にしか解釈できていない、

ゆえに、神の完全性も証明できない」

 #これは結構、大変な話です・・・。

ある程度信じるのか信じないのか? という世界になるとは思います。

そういうところでも、神!を見ることはある。

数学で行くとね「6以上の偶数は、二つの素数の和で必ず表される」。

証明は出来てないけれど^^; (ゴルドバッハ予想という問題)

実際にちょっとやると、

6=3+3 (3:素数だね)

8=3+5 (5:素数だよ)

10=3+7=5+5 (7も当然素数ね)。 こんな風に。

こういうところに、たま~に出没されます。

が、それは数学の神だと思う。 これがね、他のことにも役に立ちそうなら、

まだ考え方はあるけれど、ほかになさそうなんですね。

全知全能の神様ならば、こういうものも全て何か別の領域でも

必ず役に立つのだろう。 何故ならば~で、無駄なことはされないはずだから、ね。

一神というのは、どこか不完全になりやすいと思う。

学術にいる連中は、向こうの連中でもそうだけど、結構たくさんの神様を見てるよ^^;

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

信じるのか信じないのか?だよ。 σ(・・*)は絶対神は不必要とするけどね。

仏教徒だから、ご先祖が大事^^;

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創...続きを読む

Q釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行...続きを読む

Aベストアンサー

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、...続きを読む

Q全知全能の神が存在しないことの証明

ちは~、ふわっぴぃです。

実は友人の某君から難題を吹っかけられました。

「全知全能の神が存在すると矛盾することを示せ」

私はこういうことはからっきしダメなので往生してます。

どなたかいい智慧を授けてください。

(蛇足)
ヒントをくれといったら、某君はこういいました。

「そうだな、ゲーデルの不完全性定理でも勉強するんだな。
でも、丸暗記とかはダメだぜ。自然数論とか形式的とか
証明とかいう専門用語を一切出さずにいわんとすることを
的確に表現した喩えで答えてくれよな。」

Aベストアンサー

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら、そのひがきても、いきのこれるの! でも、そのひには、しなないことになっちゃうの! それじゃあ、まえしってた、じぶんがしぬときって、なんだったのかなぁ~? しらなかったことに、なっちゃうじゃん! うわ~い、「ぜんち」じゃないんだぁ~
 でね! もしほんとに「ぜんち」だったら、そのひに、しななくちゃ! かわいそうだけど、ふくろうくん…。…ぜんのうじゃ、なかったんだね…。
 だからね! ふくろうくんは、ぜんちであって、どうじに、ぜんのうであることはできないの!
 これで…えーと…くおど?…んーと…えらと?…で…でも…でもんすとらんだむ!
 ことば、むつかしいなぁ~

 でもね、これ、かんたんにこわせるよ! かぷっ! ほら! こわれた! うわ~い!」

 …だ、そうです。
 あの…子どもですんで、大目にみてやってください。
 あ~、また、別なの考えてる…。おめめキラキラだね、へびくん。

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら...続きを読む

Q釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

如来というのは仏のことですよね。
仏教を開いたのはお釈迦様(ゴータマシッダルタ)と聞いていますが、
その人物が釈迦如来ですか?
釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来は別人ですよね。
しかし同じ境地に達した人なのでしょうか?
時代的に言うと3人の前後関係はどうなっているのでしょう?
お釈迦様が仏教を開いたのに、3人は同格なのでしょうか?
お釈迦様は仏教で最高位ではないのですか?

これらのことについて全くわからず、少し調べてみたのですが難しくてよくわかりません。
わかりやすく教えていただけたらうれしいです。

Aベストアンサー

ANo.1です。

>ということは、観音様や~菩薩というのも実在した人物というわけではないのでしょうか?

そうですね。実在した「菩薩」は、修行時代のお釈迦さまだけで、観音菩薩も地蔵菩薩も、実在の人物ではありません。
「行基菩薩」など、実在の高僧が“生き神様”みたいな意味で、「~菩薩」と呼ばれたりすることはありますが、お寺などで「○○菩薩」としてお像が祀られているような菩薩、経典に書かれているような菩薩は、皆フィクションです。

観音菩薩を初め菩薩方は、薬師如来や阿弥陀如来よりも、さらに我々衆生に近い存在として描かれています。
お悟りを開かれた最高の存在である仏さまよりは、まだ修行中の身である菩薩さまの方が、衆生に近い存在、親しみやすい存在ということです。
社長に直接お願いするよりは、営業の社員にお願いした方が、取引がスムーズにいく……こんな譬えをすると、また宗教家の方からは怒られるかもしれませんが、そういったイメージだと思います。

Q神様は全知全能だが、あなたの願いを叶える事は無い

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです。
そう言うタイプは最終的にカルト宗教に行きつきますが、神様にお願いしたとしてもですよ、願いに邪心や疑念があって正直でないと、願い事を聞き届けたりしないでしょう。
正直な真心を打ち明ける事が、相談事を持ちかけるコツです。
相手がだれであれ、仮に神様だったとしてもです。


さて。
良くある苦悩に、全知全能の神様は何故私の願いを聞き届けてくれないのか、というエテ公の独りよがりがある。
それは願い、または望みが正確でないのだ。
自らをあざむき、社会をねたみ理解しようとしない、そんな君達は、教え込まされた欲望ばかりで自らに望みがないのだ。
すなわち同じ人間でも仏陀としての知恵がなければ、神と通じ合う事は無い。
すなわち、エテ公のマスタベーションを神様が手伝う事は無い。
そう言う事だよ。
神様が不完全なのではなく、君たちが不完全で、それは当然だと考えるかもしれないが、自身の自覚すらないため、そもそも正しく願う事が出来ない惨憺たる状態なのだ。

意見してくれ。

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです...続きを読む

Aベストアンサー

私の最大の喜びは、困難を克服する喜びだ。
それは、予め与えられている。

世界を愛し、自分の可能性を最大限に活かす事だ。
それは、与えられる事ではなく与える事であり、
「聞き届けて」もらうものでもない。

Q仏と釈迦の違いは?

おもしろ語源に関するエピソードで、わからないことがありました。「物が壊れたとき、ダメになった時に「おしゃか」「おしゃかになった」と言いますが、これは昔「仏様を作ってくれ」と頼んだのに出来上がったものはお釈迦様だったため、「お釈迦じゃねーか」と言ったのが語源だとか。」

仏と釈迦の違いはなんですか?

Aベストアンサー

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存在に変わります。
不動明王、観音菩薩、薬師如来などなど様々な仏の中に、「釈迦如来」という仏がいます。ガウタマが神格化された仏様です(仏に神格化というのも変な話ですが他にいい言葉が見つかりませんでした)。
つまり仏の中のひとつに釈迦がいる、ということです。
仏と釈迦は別物ではありません。

ちなみに広辞苑「お釈迦」には
>地蔵や阿弥陀の像を鋳るのに誤って釈迦像を鋳てしまったことからという
と書いてありますので、お釈迦さまと仏を別物としたのは、その回答者さんのミスだろうと思います。

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存...続きを読む

Q創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。

創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。
南無妙法蓮華経の題目で、妙法蓮華経(法華経)を南無(帰依、信心)するわけですが、
どうして、法華経を実際学ばないのでしょうか?(学ばせないのでしょうか?)
「南無御書」のような気がします。
法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?また、どういう位置づけなのでしょうか?

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位の教典です。

しかし、『時』というものがあり、末法の今日では
「南無妙法蓮華経」の御本尊に帰依し、自行化他の
実践の中にしか、成仏の因はありません。
言い方を変えると、『法』である「南無妙法蓮華経」
に帰依することこそ、自身の生命状態を最善へと導く
事になるのです。

今でも、朝夕の勤行の際には、妙法蓮華経 方便品第二
と妙法蓮華経 寿量品第十六の自我偈を読み、その後、
「南無妙法蓮華経」を唱題します。

質問者様が、どういったお立場の方か存じ上げないので、
不明な点があれば、また、ご質問をお願い致します。

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位...続きを読む

Qお釈迦さまの人生

1.)
お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。

2.)
その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、
何年ぐらいたってから出来ましたか。

3.)
何百年も後になってから出来た経典は、
実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。

4.)
お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。


以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)
 

Aベストアンサー

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古い経典でも、釈尊の教えをリアルタイムで伝えたものではありません。しかしながら、バラモン教の聖職者がヴェーダ聖典を暗誦していたのと同様に、釈尊の教えの主要部分は、かなり早くからある程度詩文化されて、口伝えされていたのではないかと思います。
 もちろんその中でも、すでに演出や誇張など脚本化(?)された部分もあるでしょうが、骨子になる部分は実際の状況を基にしているのではないかと思います。(そのためか、初期の経典では問答形式になっていたり、口語的な表現になっている部分が多く、後の時代の経典とは感じがかなり異なります。)

4)について。
 釈尊が何人種なのか、王子か部族長の息子か執政官の息子か、という点は100%確定したわけではなかったかと思いますが(←少なくともクシャトリア階級ではあるのだろうとされていますが)、仏伝の大雑把な流れは、信憑性は高いものとされています。
 インド人は物事を記録するという意識に薄かったようで、古代インドの様子はなかなかわかりくいらしいですが、経典に記される国の名前や地名などは確度の高いものとされています。釈尊が生まれ育ったカピラヴァスッツも位置が推定されているそうです。

 もちろん、釈尊が腋の下から生まれたとか、生まれてすぐに歩いたとか、さすがにそれは誰が見ても演出だろうという部分ですし、城の四方向の門から出かけ、それぞれの機会に老・病・死と求道者に接するというのは、出来過ぎた(誰かが脚色した)話でしょうけれど・・・少なくとも、実在した貴族階級の一人物が、世のあり様に思い悩み、妻も子供も自らの義務も責任も捨てて出奔し、後に釈迦族出身の聖者と呼ばれるようになり、その人物は80才まで生きて人々を教え導いた、というのは本当でしょう。
 そして、(#1の方も触れているように、前世譚などは除いて考えた方がよいと思いますが)伝説めいた話のなかにも、何らかの事実を指し示しているものもあると思います。

 わかりにくい話ですみませんです。では。
 

 

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古...続きを読む

Q【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?教典

【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?

教典や昔の資料に教祖が悩みを打ち明けているシーンはないのですか?

教祖たちの幼少期?若いときの悩みが知りたいです。

別に新興宗教でも良いです。教祖の悩みが知りたいです。

Aベストアンサー

ブッダは出家する時に、かなりなやんだそうです。参・手塚治虫氏の「ブッタ」


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