全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。
●四色問題は 彼等に解けるでしょうか?

 また いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ
 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか?

 経典には あたりまえのこともしくは既存の概念
 しか書かれてないんじゃないでしょうか。

 みなさんのお考えを教えてください。

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A 回答 (29件中11~20件)

 


 
 
 
 
 
       子のみみに こえをかけるよう
       
       息を吹きかけよう かざぐるま
 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                           ただ、一つの風車も回せない。僕の息は、まだ光ってない。風が風を熾す様に、僕は吹くべきなのに。いつか、吹きかざそうと、思ってたのに。かざぐるまのひとつ、まわせません。ごめんなさい。あなたの言葉なら、まわせるのに。なんでって、僕はあなたに熾してもらったからわかってるんです。

あなたの言葉が 息を吹き返すように、。
 
これが 僕の、あなたに応じたすべてです。ごめんなさい。
もう来るのは最後です。

皆と出逢うから なにも迷いません 僕はそのために、僕についたんだから

大口開けたけど、こんなへぼくって、どうしようも無いって思いますか? 
いのります
 

 僕が光る風になるように 
               風を熾すように 
                       言葉が息を吹き返すように 
 
          ずっと後に    その時 風車 輝いてあるように
 
 
                     涙 ありき
 
 

 
 
 
 
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この回答へのお礼

●風車を回そうなんて 風になろうなんて思ってはいけません。
 あなたは あなたのままを生きればいいのです。
 言うことは ひまつぶし
 誰かにわかってもらおうと思うから辛くなるのです。
 堂々と思うがままを ひまにまかせて 叫んでみればいいです。
 それが いつか気がつけば 風になります。
 いつか気がつけば 風車は回っています。

 わかってもらおうなんて思ってはいけません。
 期待とは 裏切られるものなんです・・・。
 何も望まない 何も託さない 何も奪わない
 いいじゃないですか 無用の長物で・・・。お互い。

お礼日時:2002/01/20 02:44

>あんまり そのかんがえかたにつかってると 観念になって


 ぬけられなくなっちゃうぞ!
お叱りありがたいです。ぬけてるんです。僕は展望はもってます。だから、内を見れたんです。知っていたからです。ここの話題である観念なんてどうでもいい。
ただ、皆がぬけるように。
数学理論は、「箸」です。論理は道具(当たり前じゃい)
言葉は「箸」ではありません。箸も言葉です。道具も言葉です。
>例のときがあるといいですね ってなんだそれ?
 そんなもの なくっていいですよ
「輝く言葉」を聞きたいってゆったじゃん(笑 その時のことです。やいこしくてすみません(謝 
>そこでとまって なるほどなるほど では今を生きたことになりません。
 今を生きるとは いまあることに背をむけて次に向かうことなのですよ。
僕はなるほどじゃないですよ。「!?うおっはいあー!どらぁっ!」です。
ドコにも向かない。今に生きる。次々次のステージって、次?今は?次に向かっている状態が今ですか? じゃ最後はどうなんですか?あなたは幸せ感じているときに、「次」を意識しますか?今を生きることとは、時がなくなることです。時とともにいるからです。わかってもらえなくてもいいです。読んでくれるだけでウレシイですから。(本気でそう思ってます)
時にもいのちあり。時も知れているからです。
最後は最初です。時に関しては、僕はまだここまでしか分りません。もしかすると、時がランクアップ?するかも。←展望じゃない。ゆってみただけ。
次々や、昔はなぁ、とってると、「われを忘れる」かも、。
>どうすれば幸せに繋がるか?
外から手繰り寄せるものではありません。追う者でもありません。あなたがそうなので。あなたはあなたを追わないでしょう。同じです。
言葉は聞いて何ぼです。ミザル、キカザル、言いまくり(笑
あなたの目は見えていますが、耳はあまり聞こえていないのかも、と思ってます。どうなんですか?そして、言いまくりはしません。僕は言いまくりですね。
あなたが囚われているのは、「幸せ」かな。だから、「不幸」を避けよう避けようとし、幸せにあれないんです。地球があまりに痛ましいので、その姿に威圧され、溺れぎみなんじゃないですか(目がよく見えるので)?地球が立ち直るのはもちろん立ち直りますが、「溺れている者が、ライフセーバーになれますか?」
がつがつ行くよりも、スマートにパワフルなほうが、「進みます。」

>あなたは かくことが 長すぎる んで中身がない
いや、ほんとそうですね。へぽょへぽょです。あなたに言う事言えたらどれほどいいか。言われっぱなしなんで、申し訳ないです。
 
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この回答へのお礼

●過剰反応症候群っぽいぞ。
 あなたの文章はなぜか 得るものが無くかんじるんですよね。
 何でだろ ま いいか・・・。

お礼日時:2002/01/22 01:10

> 究竟の極説 とやらを ご紹介いただきたいものです。



 釈尊が、説かれた頃の人間の状態をご存じないのに、よくも断言出来たものだと呆れております。
 そして、「憲章」が人間社会を救う?
 実際に、現在、キリスト教等の教条主義的思想が争いを生んでいるのでしょ。所詮は、言う事とする事が裏腹な二重人格を形成するだけじゃないでしょうか。
 それに、誰も草木に成仏があることを知らず、宇宙観にしても知っていたとは思えません。
 誰もが知っていたのなら、説く必要もないことでしょ。
 それに、誰しも分かることと言っておられるのに、あえてご質問されているのは何故なのでしょうか?
 どうせ、究極の極説を答えるまでも無く、もう、答えを知っているとされるのでしょ。
 化法の四教である円教等は、ご存じなかったようですがね。
 以前、自分も答えを知っていて、質問し全て削除されたことがあります。 究極の極説も、もうちゃんと、すでに答えるまでも無く、記述させて戴いておりますよ。
 最初の設問とかけ離れますので、詳細は避けさせて戴きます。 
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この回答へのお礼

●わたしも呆れております。
 あなたのようにだまされやすい方が多いから災いが絶えないのかなあ・・・と
 ふと感じたり致しました。

お礼日時:2002/01/22 01:13

 付言するならば、


 般若経は、化法の四教のうちでは、円教に通教・別教を加味して説かれたもので、空仮中の三諦のうちの空諦を主として説き、空理を悟る智慧を磨かしめたのであるが、いまだ通・別の二教を帯びているために円融の三諦は明かされておらず、蔵教をも含んだ方等時の経よりは勝れるけれども、所詮は権大乗教である。
 四十二年間に説いてきた経々は、悉く方便の教であります。
 法華経こそ、化法の四教のうちでは、純然たる円教のみを説かれた経であり、十界互具、円融の三諦等を明かして、一切衆生を即身成仏せしめる一念三千の法門を顕説せられた、真実の大乗経であります。
 その現証として釈尊は、方等時以来、永不成仏(永久に成仏できない)として嫌ってきた二乗の成仏を許し、さらに、自身の本地(真実の正体)が久遠の昔に成道していた仏であることを明かして、その仏の命を得た源である一念三千法門が、久遠より常住する普遍的真理であることを示されたのです。
 般若経は、禅宗等が用いていますが、
 凡夫に内在する仏性は、即身成仏の実義の存する法華経を信受し、修行することによってのみ、事仏として顕現するのである。一代仏教の骨髄である法華経を信ぜず、背くことこそ魔の所為なのです。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

●わからない言葉が 多すぎて 内容がつたわってきません。

 分かる方には わかるのでしょうからその方のためになるんでしょうね。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/19 23:06

さっきのつづきです。


 
           死んだ後は無です。
           生きている間も同じ無です。
           どっちでもない場合も、同じ無です。
 

だから、皆に言います。
囚われる必要などない。
囚われるなら、あえて囚われてください。
どうしようもなく、囚われてください。
恋愛もそうですし、生き様もそうです。
どうしようもない、って、イケてます。
囚われないのも、イってます。
イッテイル人は、行けてます。
「イケてるじゃん☆」って、言いえて妙です。本気で思います。
「キテるじゃん☆」も、同じように思います。
行くと来るは同時です。同じですが、違わないこともない。
僕らはそのような者です。
chihokoさん、例の時があるといいですね。僕はそう思います。
次の次だけど、。
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この回答へのお礼

●例のときがあるといいですね ってなんだそれ?
 そんなもの なくっていいですよ。

お礼日時:2002/01/19 22:57

これは皆に言います。

chihokoさんへでもあるが、chihokoさんだけではありません。chihokoさん、そのときがあればいいですね。これはそのときじゃないです。次だけど、。
仏法、仏教の薦めは、他の回答者がされておられるので、もうしませんが、空観について少し言います。(仏教徒ではありませんが、だからこそ、聞いてもらえると思います。僕は皆です。)
存在そのものの証明です。あなたは、かつて存在そのもの証明をした人はいないといいましたが、いたのです。また、今もいます。

 = または0=0または無=無または   よって同時に全てがあります。
むずかしいですか?もし、何かから開放された感があれば、わかったのでしょう。
ぐるぐる考えて☆
あかしはあなたに与えられます。それは知です。知りなさい。

>この物理学における質量不変の法則は、まさに仏法で説く成住壊空、無常即常住の存在観の一端を明確に証明しているのである。
 
成常壊空みな無(空)です。無常即往生、無常は常ならず、往生は無です。色即是空、これが空観です。空とはなんと言いえて妙であることか、。仏法、その真性に似合わず、ほとほとおろそかかにされているものです。
末法ですか、。その通りですね。しかし、法は死んでません。

物理学では仏法は証明できない。むしろ、仏法が物理を証明するというほうがまだいい。物理学の証明は、何のあかしにもなりません。ただ、それが仏法に少しでも皆を傾かせるなら、それでいいです。(僕が仏教徒であるとは言いません)質量が光になるのは、質量もまた無常であることを「科学的に」証明しています。これは何のあかしでもありません。
 不変もむです。成もまた無であり、往もまた無です。壊もまた同時に無であり、空もまた同時に無です。あかしもまた無であり、三千大千世界が、五×百×千×万×十万×一千億×一兆の四乗×千個も集まった世界が、さらに無数に集まっている、無限の大宇宙
もまた、同時に無です。
あなたの意識も無です。
無意識も無です。
自我の本質もまた無です。
叡智ももちろん無です。
真も無であれば虚もまた無です。
愛もまた無ですし、
イエスもまた無です。
神々もまた無ですし、
道もまた無です。
得もまた無であるし、
因果もまた無です。
全てもまた同時に無です。

無でないものもまた、無です。
比べる者が無い。これをもって、空とします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あるその人が
清らかな叡智を深く働かせていた時
五つの要素は皆空であることに気づき
全ての苦厄から解放されました。
シャーリープッタよ。
色不異空 空不異色 色は空に他ならず、空は色に他ならないのです。
色即是空 空即是色 色はすなわち空であり、空はすなわち色なのです。
受・想・行・識もまた、これに同じです。
シャーリープッタよ。
全ての法は空の相なので
生まれたり消えたりするものではなく
汚れてもいないしきれいでもなく
増えたり減ったりもしません。
この空の中にある以上、
色は無であり、受や想や行や識も無であり、
眼耳鼻舌身意の六根も無ですし、
色聲香味觸法の六境も無ですし、
眼界も無、意識界も無です。
無明(愚かさ)というのも無ですし、
無ゆえに尽きることのないものです。
老や死も無ですし、それもまた
無ゆえに尽きません。
苦・集・滅・道さえも無です。
智も無ですし、得も無です。
なぜなら得る所も無ですから。
悟りを求める人は
般若波羅蜜多を拠り所にしますから
心にこだわりが無く、
こだわりが無い故、恐怖心がありませんから
一切の顛倒した夢想を離れて
涅槃を完成させます。
全ての仏も
般若波羅蜜多を拠り所にしますから
阿耨多羅三藐三菩提の境地を得ました。
ゆえに知るべきです
般若波羅蜜多は
大いなる力の言葉であり、
大いなる光の言葉であり、
この上なく尊い言葉であり、
並ぶもののない言葉です。
一切の苦を取り除いてくれる、
いつわりのない言葉です。
それ故に般若波羅蜜多の呪は次のように言われます。
行こう、行こう、とらわれのない世界へ行こう
素晴らしい所へ行こう
全ての人に幸あれ。
ここに般若心經を終わる

                     チャンチャン♪終わってるのに~

知るべきです。あなたはすでに知っている事を知らない。何故すでに知っているのかと言うと、あなたもまた無であるからです。
無でないものはないので、すべてあります。
 
みんな、行ってる言ってるもう来てる!(笑だけどマジです。
僕がふざけている間は真剣です。ふざけなくなったら、もう限界ってことです。
だから、聞いてください。ふざけなくなる事は、あるかも無いかも。
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この回答へのお礼

●ふつうですよ そうゆう考え方もあるということです。
 あんまり そのかんがえかたにつかってると 観念になって
 ぬけられなくなっちゃうぞ!

 あなたは かくことが 長すぎる んで中身がない
 いろいろ勉強して知ったなら その次へいきましょうよ。
 そこでとまって なるほどなるほど では今を生きたことになりません。
 今を生きるとは いまあることに背をむけて次に向かうことなのですよ。
 時間は止まらないのです。

お礼日時:2002/01/19 22:54

 卓越した教義として、『法華経如来寿量品』には、



仏法に説かれる宇宙・天体の姿

 「譬えば、五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祗の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き・・・是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず」
とある。まず『三千大千世界』とは、太陽を中心とする、月、地球、他の惑星等を、ひっくるめて一世界とし、これを一千万集めたものを一小千世界、さらに、これを千個集めたものを中千世界、そしてさらに、これを千個集めたものを大千世界、もしくは三千大千世界というのである。また、『五百千万億那由佗阿僧祗』とは、五×百×千×万×億(今日の単位でいえば十万)×那由佗(今日の単位でいえば一千億)×阿僧祗(今日の単位でいえば一兆の四乗×千)ということであるから、『五百千万億那由佗阿僧祗の三千大千世界』とは、三千大千世界が、五×百×千×万×十万×一千億×一兆の四乗×千個も集まった世界をさすことになる。そして、このような世界が、さらに無数に集まって、無限の大宇宙をおりなしている、と説かれているのである。
 今日の天文学によれば、太陽を中心とする我々の太陽系のような惑星群、それが約千億も集まって、直径約十万光年という巨大な銀河系の星雲となり、この小宇宙とも呼ぶべき星雲が、さらに数十から数千乃至数百億個も集まって、大きな星雲団を構成していることが確認されている。しかも、この宇宙には、そうした大星雲団が無数に存在しているというのであるが、現在の天文学は、いまだ、その全貌を観測するまでには至っていないのである。こうして仏法に説かれた宇宙観と、近代天文学によって確認されつつある宇宙観とを比較してみるとき、細かな数値の違いはともかく、基本的な宇宙観については、両者のあまりに正確な符合に驚かされるのである。しかも、片や、望遠鏡も何もない三千年前に説かれた仏典であり、片や、現代の天文学がようやく到達した観測結果なのであるから、まさに驚愕に値するではないか。

三世十方の国土観と生物の存在

 この宇宙観に関連して、仏法には、三世十方という概念がある。それについて日蓮大聖人は、
 「法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏」
と仰せられている。すなわち、この娑婆世界(地球)を中心としてみた場合、東・西・南・北の四方に東南・西南・西北・東北を加えた八方、それに、さらに上・下を加えた十方の世界に、それぞれの先覚者(仏)が出生して仏法を説き、民衆を教化救済しており、しかも、それは過去から現在・未来にわたって行なわれている、というのである。このことは、地球からみた十方・・・宇宙のいたるところに、地球上と同じうな、無数の国土・社会が存在していることを、明確に示したものといえよう。一方、今日の天文学においても、この地球と同じ条件を具えていると思われる、高等生物の存在しうる可能性のある惑星が、数多、発見されつつある。それは、いまだ天体望遠鏡を通じた彼方の世界のことであるが、それらの惑星に、我々人間と同様の衆生が存在するとしても、まったく不思議はないし、将来にわたる研究・観測によって、やがて、その実在が確認さえる日も訪れるかもしれない。いずれにせよ、生命を、この地上かぎりのものとし、夜空の星を小さな宝石のごとく思いこんでいた時代に、仏法では、このような卓越した宇宙観、国土観を説き示していたのである。

成住壊空と無常即常住の概念

 また次に、仏法には、成住壊空という原理が説かれている。これは、万物の生成の始まりから死滅に至る変化相を示したもので、仮に、ひとつの惑星にたとえていえば、最初、その惑星が形づくられた誕生期が”成”、そして数十億年が経過し、人間でいえば壮年期に入った状態が”住”、それが、やがて崩壊する時を迎えた状態が”壊”、そして、惑星を形成していた元素が飛び散り、もとの惑星の形が完全に消滅してしまった状態が”空”にあたる。ここで留意すべきは、最後の”空”という概念である。すなわち、この例でいうならば、惑星としての形は消滅したものの、惑星を構成していた元素自体はなくなってしまったのではなく、形を変えただけで、宇宙のいずこかに存在しているのである。したがって、”空”という状態は、ある面においては無のようであり、また別の面からは有のようであるといった、有・無を限定できない、しかも有・無に偏した状態といえよう。しかして、成から始まった変化相は空に至って終わるかのごとくみえるが、じつは、宇宙の万物は、成住壊空の四段階を繰り返しつつ、常に変化を続けながら存在しているのである。前の例でいえば、空の段階
となり、宇宙に飛散した惑星の元素は、やがて、あるいは再び小惑星を形成したり、あるいは塵となって宇宙を漂うといった、まったく新たな成の段階を迎え、さらに住、壊、空へと変化していく、ということである。このように、宇宙には、永遠に変化せず、そのままの形でいるものは何ひとつとしてなく、すべてが、成住壊空の変化相を連鎖しつつ、永遠に存在している、というのが仏法で説く無常即常住の存在観なのである。さて、近代の物理学においては、ある物体に、いかなる物理的あるいは化学的変化が起きても、全体としての質量及びエネルギーは不変である、との質量(あるいはエネルギー)不変の法則が発見され、物理学の根本的原理のひとつとなっている。この物理学における質量不変の法則は、まさに仏法で説く成住壊空、無常即常住の存在観の一端を明確に証明しているのである。また、そればかりではなく、近年の天文学における恒星進化論、あるいは膨張宇宙論なども、恒星さらには宇宙そのものまでが、成住壊空の四段階を繰り返しつつ存在していることを示唆しており、今後の研究の進展によって、さらに仏法の卓見の偉大さが、裏付けられていくであろう。

草木・国土・宇宙と衆生の関係

 こうして、仏法の教義内容のうち、科学の成果によって立証されてきたのは、なにも宇宙観にかぎったことではない。宇宙における人間の存在、宇宙と人間の関係についても、科学を超越した、仏法の勝れた叡智に深く感慨をおぼえるのである。すなわち、仏法においては、宇宙万物が地・水・火・風の四大元素から構成されるとしており、我々人間の身体についても、
「必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ」
と説いて、やはり四大から成っていることを明かしている。さらに、また、
「夫十方は依報なり・衆生は正報なり・・・正報をば依報をもつて此れをつくる」
と、宇宙を依報、我々衆生を正報として、正報は依報によって形成される、とも説いている。つまり、この大宇宙を構成する諸元素と、我々の身体を構成する諸元素とは同一のものである、というよりも、むしろ、大宇宙を構成する諸元素そのものによって、我々の身体が構成されている、というのである。むろん、ここで挙げた四大という元素は、きわめて哲学的意味合いを表わしており、今日でいうところの分子や素粒子などといった単位とは、おのずと異なるものである。しかしながら、この我々の身体を構成している元素が、はるか昔においては、他の惑星や恒星を構成していた物質であり、あるいは、いずこかに繁茂していた植物の一部でもあることは、今日の科学が指し示す厳然たる事実なのであって、単位の違いこそあれ、仏法の説く宇宙と人間との関わりの一面を、みごとに証明しているものといえるであろう。また、このことに関連して、仏法においては、我々衆生も、草木国土も、本来は同一のものが二つの形に現われたものである、と説いている。生物学でも、かつては生物と無生物とを絶対的に区別してきたが、研究が進むにつれて、生物と無生物の中間的存在ともいえるビールスが発見されるなど、最近では、生物・無生物の区別がかえって混沌としてきている。このことは、仏法で説くごとく、我々衆生と草木国土とが、まったく異なるものではなく、根底の本質が同一であればこそ、ともいえるのである。

仏法は科学を凌駕する極説

 以上、いくつかの事例をもって、仏法に説かれる宇宙観、生命観等が、科学研究の成果によって証明されつつあることを述べてきたが、ここに挙げた事例は、まだまだ、その、ごく一部にしかすぎぬことを付言しておきたい。そして、しかも、こうした仏法に説かれる卓越した宇宙観、生命観等も、けっして仏法の極理そのものではなく、これらを基礎・初門として、さらに、その上に、人生と社会とを真に救済する、究竟の極説が開顕されていることを知らねばならぬのである。まさに、科学をも凌駕する真の宗教・・・その実在を、我々は、今こそ拝信すべきである。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

●あなたは 法華経如来寿量品に記されたことを
 ことのほか 驚かれているようですが
 よく見聞きすれば 言えることだと思いませんか?
 たとえば植物や動物や太陽やよぞらの星々を感じる
 植物や動物を自分の手でとって食べるんですよ。
 そのようにして生きてる人間には わかるものです。
 お釈迦様でなくとも 十分に語れる世界観だと思います。
 言うか言わないかの違いだけでしょう。
 お釈迦様は言える環境に居たんでしょう。
 望遠鏡のなかった時代の人々をあまくみてはいけません
 お釈迦様がいたということは それくらいにかんがえれるひとが
 ほかにも大勢いたと考えるほうが 自然です。

 究竟の極説 とやらを ご紹介いただきたいものです。

お礼日時:2002/01/19 22:44

 では、まず、このことがご理解出来るでしょうか?



 釈尊の本意は何であったか!?

 仏教をよく知らない人々は、「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、
「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二)
と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、
「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二)
「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二)
「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十)
等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。
 このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。

 法華経の文底に前代未聞の大仏法が

 さて、その法華経の中には、
「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七)
「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四)
等々と、「末法」という時代のことが説かれています。「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。
 如何でしょうか?

 既存の概念ごときで推し測れるものではありません。
 相当、自分をおごられておられるようですね。
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この回答へのお礼

●ご回答いただいた内容はたいへんよくわかりました。

 たかだか2000年のスパンなんですね。
 縄文の人々は平和な(環境を汚さない生活)時代を一万年つづけていました。
 稲作がおこなわれて 富の集積がおこなわれるようになってから
 環境は破壊されはじめたのです。
 お釈迦さんが なんていってるかよくは知りませんが
 縄文の人々の生き方に いきることのヒントがあるような気がしてなりません。

●前代未聞の大仏法を予言した。
 弥生時代から自然の破壊は 進み 富の集積による
 欲が欲を産む構造は かなり地球がだめになるまで修正できないものでしょう。
 いずれここまでかって言うところに来て ひとは気づくのです。
 だからそのとき 大仏法が出現すると言えるわけですね。
 でもそれは 南無妙法蓮華経 では無いと思います。
 わたしの感では サイバースペースに生まれる 世界をひとつにイメージさせる
 マネーと理念が結びついた「憲章」のようなものだと思います。
 そうです ひらたくいえばA.I.です。
 その世界をひとつにイメージさせる意思「憲章」は
 地球を元どうりのすばらしい命あふれる方向にみちびいてくれます。
 もちろん みちびくだけの力(パワー)をその意思はもっています。
 そのパワーと知恵は わたしたち人間の願いの結晶なのです。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/19 21:54

神様の手ごたえが欲しいということですかね。


「全能の神がいるのなら、究極のカレーライスを今ここに出せ!」と
言っているのと同じ感じがします。

あなたにその手ごたえが感じられる日は、神の思し召しで決まるのかも。
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この回答へのお礼

●手ごたえなんか ほしくないです。
 うそを 信じさせて ひとをコントロールした時代を終えたいだけです。
 真理をうそで 隠して うそを信じ込ませることほど罪なことはありません。

お礼日時:2002/01/19 21:25

> その女を言うことを聞かせるように改造できると思います。



これは明らかにルール違反ですよ。
例えば教師が生徒に問題を出して、その教師がその問題を解くときには勝手に問題を変えていいことにはならないでしょ。
「言うことを聞かせる」ことと「言うことを聞くように改造すること」というのは違いますよ。
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この回答へのお礼

●No6のかたの 盾と矛の 設問と同じひっかかりなので 
 いちどに かるく説明させてもらいます。

 A:絶対射抜けない盾がある=なんでも射抜ける矛はない
 B:なんでも射抜ける矛がある=絶対射抜けない盾はない

 AとBが 同時に起こることを命題としているわけです。
 つまり 絶対射抜けない盾がある と
     絶対射抜けない盾はない が
     同時に起こることを命題にしているわけです。

●ある=ないでない ●ない=あるでない これは公理です。
これ以上説明ができないこの公理により論理展開しているわけです。
だから AとBが 同時に起こることを命題とすることは論理が破綻しているのです。
●ここまでは 分かりますか? わからなきゃこの話題には不向きです。

●さて 全能の神はこの論理破綻はどうでもいいのです。
 だから なんでもありです。
 だからこそ そのことが幸せを指向しているのか?と疑問におもうわけです。
 とりあえず 人類がとけなかった難問でも解いていたらすごいでしょ!
 たぶん といてねーぞーー! って感じの設問なんですよ。
 次のステージにすすんでね。

お礼日時:2002/01/19 21:17

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Q釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいた。

釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいたとき魔がおりてきて釈迦を苦しめて結局釈迦が魔に勝て悟りをひらいたときのストーリーをおしえてください。すいません。

Aベストアンサー

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か、若い乙女がいて、彼女から乳粥を捧げられ、これを食した後、身を清め、ブッダガヤーの菩提樹の下で、瞑想に入り、この瞑想の過程で、以下の参考URLに簡単に記されているように、悪魔(マーラ)が、釈迦の悟りを妨害しようと、様々な「欲望」で誘惑します。
 
  このシーンは、丁度、イエズスが、荒野で苦行をした折り、サタンが現れ、わたしを拝めば世界の王にしてやるとか、高い崖から飛び降りても、神が受け止めてくれるだろうと、色々、世俗の欲望や力で誘惑し、イエズスの苦行を妨害したのに似ています。
 
  しかし、釈迦は静かに瞑想を続け、遂に、夜明け、金星の光が輝くと共に、「悟り」を開き、仏陀となり、釈迦族の聖者すなわち「釈迦牟尼」になります。
 
  悪魔(マーラ)は、釈迦の成道の妨害に失敗したものの、釈迦が悟りを開くや、その前に姿を現し、「「悟り」を開くという目的は達しられた、もはや、生きていることに未練もなければ、死ぬことに恐怖もないであろう、ただちに、入滅し、ニルヴァーナに入れ」と勧めます。釈迦は、このマーラの言葉にしばし納得しますが、しかし、ここで、泥のなかの蓮の花の話が出てくるのですが、この世には、いま少しのところで悟りへと到達できる者が少なからずいる。今、自分がニルヴァーナに入ることは簡単であるが、それでは、この悟りを開けるかも知れない者たちは、そのまま泥に沈んだまま、花を水面の上に咲かせることができない。いま少し生き、自分の悟ったことを、世の人に伝えてみようと考え直します。ここで釈迦の決意は定まり、マーラ(悪魔)は、釈迦から離れます。
 
  ……と、ここまでの過程が、釈迦の悟りと悪魔(マーラ)の妨害の戦いの話のはずです。釈迦が、悪魔の言葉に従い、あるいは、世の人には、自分の悟った真理は理解できないだろうと、隠遁してしまうと、釈迦は、独覚(プラティエーカ・ブッダ)ではあったでしょうが、仏教は生まれなかったことになります。
 
  また、この時のマーラ(悪魔)との対話が、「大涅槃経」に出てくる、マーラとの会話に続きます。
 
  マーラは、晩年の釈迦の前に姿を現し、「いま既に、汝は、教えを説き、多くの弟子たちが、アルハトとなった。汝の望みは実現した。されば、いまこそニルヴァーナに入れ」と、成道の時の会話の続きで、入滅を求めます。釈迦は、これに答えて、では、入滅しようと答えるのです(この過程で、アーナンダと会話して、「如来は望めばおのが寿命を長くすることができる云々」という話が出てきますが、釈迦の入滅は、悪魔との約束によるものだとも言えます)。
 
  悪魔(マーラ)とは、サンスクリット語ですが、これはラテン語における「悪 mala(malus, malum)」と同じ語根の言葉です。
 

参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7710/771012.htm

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か...続きを読む

Q全知全能な神は存在しないことにより神は存在しない?

全知全能な神は存在しないことにより 神は存在しない?

人の生きがいとは 自己の欲望を満たすことであり他人からの賞賛である。人は全ての欲望が満たされていない時 自己の欲望を満たすために活動することが楽しいのである。
人は 自分以外に誰(生き物全て)もこの世界に存在しないならば生きている意味を見つけることは難しい。人は満たされない欲望を満たすために生きている。

もし 人の全ての欲望が満たされたとするならば 人は何か満たされない刺激を求め始める。全てが満たされた世界に於いて 他人が同じように全ての欲望が満たされていたとしても 人は他人は自分より不幸であるとみなしてしまう。
神が人間を創造したとするならば 神は不完全な人間しか創造できない。何故ならば 人間は不完全である故に完全さを求め続けることにより 幸せを感じることができるからである。

不完全な人間しか創造できない神は 全知全能な存在とは言えない。また 神も不完全な存在である。神が不完全なら 神とは呼べない。よって 神は存在しない。どうでしょうか?

Aベストアンサー

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創った補償はない」

 #ニュートンの「神の存在が証明できない」というのと一緒。

なのだから、少し面倒なことを書くけれど。

「神が完璧でないのか、人間が完璧ではないのか」

この二択になってしまうと、考えるんですよ。

 #σ(・・*)たちのような、そこに宗教を見ていない科学者はね。

で、こういう結論がでるわけね。

「神の存在証明が出来ない以上、それは人間が作り出したものであろう。

人間は不完全であり(不完全性定理もあるしね)、自然界をも不完全にしか解釈できていない、

ゆえに、神の完全性も証明できない」

 #これは結構、大変な話です・・・。

ある程度信じるのか信じないのか? という世界になるとは思います。

そういうところでも、神!を見ることはある。

数学で行くとね「6以上の偶数は、二つの素数の和で必ず表される」。

証明は出来てないけれど^^; (ゴルドバッハ予想という問題)

実際にちょっとやると、

6=3+3 (3:素数だね)

8=3+5 (5:素数だよ)

10=3+7=5+5 (7も当然素数ね)。 こんな風に。

こういうところに、たま~に出没されます。

が、それは数学の神だと思う。 これがね、他のことにも役に立ちそうなら、

まだ考え方はあるけれど、ほかになさそうなんですね。

全知全能の神様ならば、こういうものも全て何か別の領域でも

必ず役に立つのだろう。 何故ならば~で、無駄なことはされないはずだから、ね。

一神というのは、どこか不完全になりやすいと思う。

学術にいる連中は、向こうの連中でもそうだけど、結構たくさんの神様を見てるよ^^;

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

信じるのか信じないのか?だよ。 σ(・・*)は絶対神は不必要とするけどね。

仏教徒だから、ご先祖が大事^^;

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創...続きを読む

Q釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行...続きを読む

Aベストアンサー

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、...続きを読む

Q全知全能の神が存在しないことの証明

ちは~、ふわっぴぃです。

実は友人の某君から難題を吹っかけられました。

「全知全能の神が存在すると矛盾することを示せ」

私はこういうことはからっきしダメなので往生してます。

どなたかいい智慧を授けてください。

(蛇足)
ヒントをくれといったら、某君はこういいました。

「そうだな、ゲーデルの不完全性定理でも勉強するんだな。
でも、丸暗記とかはダメだぜ。自然数論とか形式的とか
証明とかいう専門用語を一切出さずにいわんとすることを
的確に表現した喩えで答えてくれよな。」

Aベストアンサー

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら、そのひがきても、いきのこれるの! でも、そのひには、しなないことになっちゃうの! それじゃあ、まえしってた、じぶんがしぬときって、なんだったのかなぁ~? しらなかったことに、なっちゃうじゃん! うわ~い、「ぜんち」じゃないんだぁ~
 でね! もしほんとに「ぜんち」だったら、そのひに、しななくちゃ! かわいそうだけど、ふくろうくん…。…ぜんのうじゃ、なかったんだね…。
 だからね! ふくろうくんは、ぜんちであって、どうじに、ぜんのうであることはできないの!
 これで…えーと…くおど?…んーと…えらと?…で…でも…でもんすとらんだむ!
 ことば、むつかしいなぁ~

 でもね、これ、かんたんにこわせるよ! かぷっ! ほら! こわれた! うわ~い!」

 …だ、そうです。
 あの…子どもですんで、大目にみてやってください。
 あ~、また、別なの考えてる…。おめめキラキラだね、へびくん。

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら...続きを読む

Q釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

如来というのは仏のことですよね。
仏教を開いたのはお釈迦様(ゴータマシッダルタ)と聞いていますが、
その人物が釈迦如来ですか?
釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来は別人ですよね。
しかし同じ境地に達した人なのでしょうか?
時代的に言うと3人の前後関係はどうなっているのでしょう?
お釈迦様が仏教を開いたのに、3人は同格なのでしょうか?
お釈迦様は仏教で最高位ではないのですか?

これらのことについて全くわからず、少し調べてみたのですが難しくてよくわかりません。
わかりやすく教えていただけたらうれしいです。

Aベストアンサー

ANo.1です。

>ということは、観音様や~菩薩というのも実在した人物というわけではないのでしょうか?

そうですね。実在した「菩薩」は、修行時代のお釈迦さまだけで、観音菩薩も地蔵菩薩も、実在の人物ではありません。
「行基菩薩」など、実在の高僧が“生き神様”みたいな意味で、「~菩薩」と呼ばれたりすることはありますが、お寺などで「○○菩薩」としてお像が祀られているような菩薩、経典に書かれているような菩薩は、皆フィクションです。

観音菩薩を初め菩薩方は、薬師如来や阿弥陀如来よりも、さらに我々衆生に近い存在として描かれています。
お悟りを開かれた最高の存在である仏さまよりは、まだ修行中の身である菩薩さまの方が、衆生に近い存在、親しみやすい存在ということです。
社長に直接お願いするよりは、営業の社員にお願いした方が、取引がスムーズにいく……こんな譬えをすると、また宗教家の方からは怒られるかもしれませんが、そういったイメージだと思います。

Q神様は全知全能だが、あなたの願いを叶える事は無い

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです。
そう言うタイプは最終的にカルト宗教に行きつきますが、神様にお願いしたとしてもですよ、願いに邪心や疑念があって正直でないと、願い事を聞き届けたりしないでしょう。
正直な真心を打ち明ける事が、相談事を持ちかけるコツです。
相手がだれであれ、仮に神様だったとしてもです。


さて。
良くある苦悩に、全知全能の神様は何故私の願いを聞き届けてくれないのか、というエテ公の独りよがりがある。
それは願い、または望みが正確でないのだ。
自らをあざむき、社会をねたみ理解しようとしない、そんな君達は、教え込まされた欲望ばかりで自らに望みがないのだ。
すなわち同じ人間でも仏陀としての知恵がなければ、神と通じ合う事は無い。
すなわち、エテ公のマスタベーションを神様が手伝う事は無い。
そう言う事だよ。
神様が不完全なのではなく、君たちが不完全で、それは当然だと考えるかもしれないが、自身の自覚すらないため、そもそも正しく願う事が出来ない惨憺たる状態なのだ。

意見してくれ。

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです...続きを読む

Aベストアンサー

私の最大の喜びは、困難を克服する喜びだ。
それは、予め与えられている。

世界を愛し、自分の可能性を最大限に活かす事だ。
それは、与えられる事ではなく与える事であり、
「聞き届けて」もらうものでもない。

Q仏と釈迦の違いは?

おもしろ語源に関するエピソードで、わからないことがありました。「物が壊れたとき、ダメになった時に「おしゃか」「おしゃかになった」と言いますが、これは昔「仏様を作ってくれ」と頼んだのに出来上がったものはお釈迦様だったため、「お釈迦じゃねーか」と言ったのが語源だとか。」

仏と釈迦の違いはなんですか?

Aベストアンサー

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存在に変わります。
不動明王、観音菩薩、薬師如来などなど様々な仏の中に、「釈迦如来」という仏がいます。ガウタマが神格化された仏様です(仏に神格化というのも変な話ですが他にいい言葉が見つかりませんでした)。
つまり仏の中のひとつに釈迦がいる、ということです。
仏と釈迦は別物ではありません。

ちなみに広辞苑「お釈迦」には
>地蔵や阿弥陀の像を鋳るのに誤って釈迦像を鋳てしまったことからという
と書いてありますので、お釈迦さまと仏を別物としたのは、その回答者さんのミスだろうと思います。

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存...続きを読む

Q創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。

創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。
南無妙法蓮華経の題目で、妙法蓮華経(法華経)を南無(帰依、信心)するわけですが、
どうして、法華経を実際学ばないのでしょうか?(学ばせないのでしょうか?)
「南無御書」のような気がします。
法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?また、どういう位置づけなのでしょうか?

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位の教典です。

しかし、『時』というものがあり、末法の今日では
「南無妙法蓮華経」の御本尊に帰依し、自行化他の
実践の中にしか、成仏の因はありません。
言い方を変えると、『法』である「南無妙法蓮華経」
に帰依することこそ、自身の生命状態を最善へと導く
事になるのです。

今でも、朝夕の勤行の際には、妙法蓮華経 方便品第二
と妙法蓮華経 寿量品第十六の自我偈を読み、その後、
「南無妙法蓮華経」を唱題します。

質問者様が、どういったお立場の方か存じ上げないので、
不明な点があれば、また、ご質問をお願い致します。

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位...続きを読む

Qお釈迦さまの人生

1.)
お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。

2.)
その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、
何年ぐらいたってから出来ましたか。

3.)
何百年も後になってから出来た経典は、
実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。

4.)
お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。


以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)
 

Aベストアンサー

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古い経典でも、釈尊の教えをリアルタイムで伝えたものではありません。しかしながら、バラモン教の聖職者がヴェーダ聖典を暗誦していたのと同様に、釈尊の教えの主要部分は、かなり早くからある程度詩文化されて、口伝えされていたのではないかと思います。
 もちろんその中でも、すでに演出や誇張など脚本化(?)された部分もあるでしょうが、骨子になる部分は実際の状況を基にしているのではないかと思います。(そのためか、初期の経典では問答形式になっていたり、口語的な表現になっている部分が多く、後の時代の経典とは感じがかなり異なります。)

4)について。
 釈尊が何人種なのか、王子か部族長の息子か執政官の息子か、という点は100%確定したわけではなかったかと思いますが(←少なくともクシャトリア階級ではあるのだろうとされていますが)、仏伝の大雑把な流れは、信憑性は高いものとされています。
 インド人は物事を記録するという意識に薄かったようで、古代インドの様子はなかなかわかりくいらしいですが、経典に記される国の名前や地名などは確度の高いものとされています。釈尊が生まれ育ったカピラヴァスッツも位置が推定されているそうです。

 もちろん、釈尊が腋の下から生まれたとか、生まれてすぐに歩いたとか、さすがにそれは誰が見ても演出だろうという部分ですし、城の四方向の門から出かけ、それぞれの機会に老・病・死と求道者に接するというのは、出来過ぎた(誰かが脚色した)話でしょうけれど・・・少なくとも、実在した貴族階級の一人物が、世のあり様に思い悩み、妻も子供も自らの義務も責任も捨てて出奔し、後に釈迦族出身の聖者と呼ばれるようになり、その人物は80才まで生きて人々を教え導いた、というのは本当でしょう。
 そして、(#1の方も触れているように、前世譚などは除いて考えた方がよいと思いますが)伝説めいた話のなかにも、何らかの事実を指し示しているものもあると思います。

 わかりにくい話ですみませんです。では。
 

 

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古...続きを読む

Q【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?教典

【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?

教典や昔の資料に教祖が悩みを打ち明けているシーンはないのですか?

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Aベストアンサー

ブッダは出家する時に、かなりなやんだそうです。参・手塚治虫氏の「ブッタ」


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