全能の神でも仏様でも教祖様でも いいです。
●四色問題は 彼等に解けるでしょうか?

 また いままでそのように崇拝された存在が その存在だけでなければ
 解けなかった設問は あるのでしょうか? あるとしたらなんですか?

 経典には あたりまえのこともしくは既存の概念
 しか書かれてないんじゃないでしょうか。

 みなさんのお考えを教えてください。

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A 回答 (29件中1~10件)

まず神とは。

これがずれていては,ネイティブアメリカンと日本中世の貴族が話をするようなものです。
これがずれている,というのなら後の文章には別に納得も反論もしてくれなくていいです。(神とはどういうものか,というラインでの議論は別,という意味です)

神はあくまで絶対的な存在。
神にはキリスト教もイスラム教も仏教もない。
意識体が存在し得る限りにおいての「概念(意味,宇宙,現実,あるいは道徳)」の中枢のようなものです。
そもそも神とは崇拝の対象を意味するではない。

・本論
キリストや,仏陀は何をしたのでしょうか。
神の存在を知ったのでしょう。(詳しくは知りません)
それを知ったというのはやはりすごいことだと思います。
宗教の本質は,あくまで神の存在を知るということだと思います。
ただ宗教の実質はそれとは全くかけ離れて,全く(ほぼ)無意味な儀式と化しているようです。(精神のよりどころという意味では,当人たちにとって見ればかけがえのないものです。)

そういう意味で,世間一般において,神の存在を知っている人はそんなに多くないように思われます。
まあ,それなりに結構いるでしょうけれど。

キリストや仏陀による教典などは,あくまで彼らのものであって神のものではありません。
もしかしたらあなたは段階としてはキリストや仏陀の段階を越えているのかもしれない。
まあ最初に発見した彼らというのはやはり現代に生きる我らとは比べようがないでしょうが。

神を知っていれば幸せに生きられるはずです。
苦しかったり,楽しかったり,自己嫌悪,ぬか喜び。あるいは自殺したりするかもしれない。
それでもあくまでも幸せであることには代わりはない。
この世に存在する(あるいはしない)ことがわかっているのだから。

こういうのは,言葉で知ったりするものではなく,感じるものだろうから,うまく伝わっているかわかりませんし,また伝えたかどうかもわかりません。
もちろん感覚を伝えるのだから,いくらあっても言葉では表し切れません。

まあこれで明らかなように(この意味では)神は四色問題を解いたりしませんし・・。


これを書いていると,宗教には二つあるような気がしてきました。
崇拝の対象と,中枢の絶対的なもの。
中枢の絶対的なものが崇拝の対象となってから,両者の混同が起こったのではないかな。


回答を読んできた限りでは,私は一番caballero さんの意見に近い気がします。(違ってたらすいません)
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この回答へのお礼

●とりあえず 神とは宇宙の真理だとしましょう。

 宇宙の真理をもってしても解けない四色問題とは いったいなんなのでしょう。
 わたしは解けると思います。
 イエスでも釈迦でもだれでもいいです。もしその神を感じたなら(会ったなら)
 是非四色問題の解を聞いていただきたい。
 もしそれを聞き出せないなら その方はイエスや釈迦と同じです。
 哲学の先人となんら変わりありません。
 成果なし!ってことです。
 考えることはおのおのの問題なのです。他人の考えたことは参考にもなりません。
 地道に論理を積み重ねて宇宙の真理に届かんとする科学のほうを
 参考とするべきなのです。

 いずれ科学は四色問題をも解ける宇宙の真理に行き着くでしょう。
 そのとき神を見たと言うことは可能でしょう。
 しかしその神を擬人化する必要はありません。

 あなたの神は絶対的存在で 全ての中枢で 四色問題が解けない。
 わたしの神は 解ける。 解けるほうがいいと思いませんか?

お礼日時:2002/01/29 00:49

>ただあなたの文言によりあなたの身が危険になることだけは覚えておいた方がいいですよ。



ということですが、
 「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」
と法華経陀羅尼品にあります。
 人間の頭が七つに破れるということを示しております。
 また、日蓮大聖人は『種種御振舞御書』のなかで、この頭破作七分の現証は、実は「心破作七分」である、ということを仰せになっております。つまり、心が七つに破れるということです。たまには頭が七つに破れる場合もありますけれども、しかし実際は心が七つに破れることが、未来世においてやはり地獄に堕ち、本当に頭が七つに破れる現証の元であるということです。
 心が七つに破れるといことは、実に、法華経を謗ることによって皆、頭がおかしくなっていってしまうのです。昨日はあれを考えたかと思うと、今日はこれを考えるというように全く統一がなくなってきて、そして、しょっちゅう口から出まかせの嘘を言うようになります。
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この回答へのお礼

「ワニの論法」をご存知ですか?
ワニに子供をとられた母親が返してくださいと懇願する。
ワニはオレが返すつもりか返さないつもりか答えろ 正しければ返す と言う。
返すと答えれば間違い。返さないと答えれば返すつもりだったが答えが間違い。
どっちにしてもワニは子供を返さない。

●さてこのワニの論法はどこがおかしいかわかりますか?
 正解:わには答えが無い状態で相手に答えを言わせているのです。
 ああいえばジョーユーというやつです。(ふるー・・・。)
 宗教とは答えのないことを適当な呪文(或いは神)で飾り
 あたりまえの事柄を羅列した経典をおまけにつけているような物なのです。
 ことわざでも意味が全く逆のものが多くありますよね。
 世の中とはそうゆうものなことをいいことに 宗教は言いたい放題です。

●頭が七つに割れるんだったら おきおつけなさい!
 あなたの宗教なんですから あなたが気をつければいいことです。
 兼好法師も徒然草で言ってます。
 つまづま合わせて語る虚言は恐ろしきことなり・・・と。

 ところで わたしの質問に対する回答はどうしたんでしょう・・・?
 全く統一がなくなってきて、そして、しょっちゅう口から出まかせの
 嘘を言うようになっているのは あなたですよ。くわばらくわばら。

お礼日時:2002/01/29 01:16

>このような観点からOOをしなければならないということを作らない事 といっているわけです。


 OOをしなければならないと思うことは すでにそのことを愛しているのです。
 そしてそのOOをしなければならないを 他人のこころに強要することが 争いの種となるのです。争いをおこしたくないのであれば強要しないこと。 OOしたほうがいいとおもいます。くらいにしてシツコクしないことです。

ということですが、
 仏法では、「慈悲」です。
 愛を説いているといいながら、本当の愛を知らないようです。
 御本尊に背く邪宗謗法に人達が、皆、無間地獄に堕つべきところを助けるためにも、折伏をするのであります。
 この折伏をしないということは、いったい、どういうことになるのか・・・、それは、人が地獄に行くのを放っておくことだから無慈悲になる、と言われております。
 ここで、慈悲ということについて、章安大師の「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」との言葉があります。
 「慈」とは、相手の悪いことを取り除いてあげること、相手の悪いことを「間違っていますよ」と言ってやめさせることが、本当の慈悲ということです。
 この慈悲の心というものがなくて、表面的に仲良く付き合っていくことは、相手にとって怨になる、と言われているのです。
 言い換えれば、偽りの親しみということになります。
 偽りの親しみは、本当の慈悲ではない。表面的な偽物の親しみであって、本当の友情でもなければ、本当の愛情でもありません。相手にとっては、むしろ怨になります。

 大聖人の仏法を下種仏法といいます。これは、相手の生命の中に仏になるための種を植える仏法ですから、下種仏法というわけです。
 この下種仏法においては、信じた人も救われるけれども、反対し誹謗した人もついには救われるのです。これが下種仏法の大功徳なのです。
 この仏法を誹謗して地獄に堕ちることになるならば、それは、仏法のことを知らないまま地獄に堕ちることとは、まったく似ても似つかないことなのです。
 つまり、仏法のことを知らない人も、結局、不信謗法の失によって、最後は、皆、地獄に行くわけですが、その地獄の苦しみから抜け出す方法がわからない、幸せになる方法がわかりません。ところが、仏法のことを知り、それに反対して地獄に堕ちた、という場合は、その人の耳等から仏法が入って、しっかり生命の中に仏になる種が植わっていますから、いったんは地獄に堕ちたとしても、必ずいつか、その種が芽を吹いて仏法につくことができ、救われる日がくるのです。
 或る信者の友人の話ですが、
 彼の所に来て、この御本尊様を指さし「こんなくだらない宗教をまだやっているのか」と大笑いしれ嘲って帰ったことがありました。
 それから一年目の同じ日に、起こさなくてもいい所で不可解な交通事故を起こし、電柱に頭を激突させて頭を砕き、命を亡くしたのです。
 日蓮大聖人様は、「この仏法に背けば、百日目、一年目、三年目、七年目の区切りで必ず罰がある」と説かれていますが、彼の友人は、御本尊様を誹謗して一年目の同じ日に、頭を砕いて命を落としたのです。
 また、Wさんという方は、この仏法の話を何度も聞き、聞くたびに「良い話ですね。でも、今日は時間がありませんから、またそのうち・・・」と言っては逃げていました。
 その人は、けっして悪口を言ったわけではないのですが、五回、十回と話を聞いて、なお信心ができなかったのです。
 それから二週間ほど経った時に、Wさんは交通事故に遺い、奥さんと子供さんは即死、自分自身も頭を打って意識不明、数ヶ月後に意識は戻ったのですが、頭がおかしくなっていました。気の毒だと思って、その後も信心の話をしようとしたのですが、もう普通の会話ができない状態なのです。それも頭破七分の現証です。
 最後に重ねていいますが、仏様が罰をあてるのではなく、仏様は民衆を救おうとして、不幸を免れる方法を説いてくださった、それなのに、それを知りながらあえて背く者が悪いのです。
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この回答へのお礼

●仏法に背けば罰があるって その罰はどこからくるのでしょう。
 その罰がくるところと仏法には どんな関係があるのでしょう。
 知りながら敢えて背く者に罰があるわけですから。
 罰を下すものと仏法は無関係ではないということになります。
 言い換えれば罰を下すことに仏法がかかわっているということになります。
 このような論法であなたが仏法のことを言い続けることは
 決して仏法にもあなたにも良いことはありませんよ。
●なぜなら他の宗教によってその罰を下すものが排除されるからです。
 いわれのない罰をうけることは 誰も好まないからです。
 日本ではあなたは比較的に安全かもししれません。
 しかし異国の他教徒の国でいまあなたがここで述べている論理を
 話しつづけてみてください。殺されることもありうるのです。
 あなたは それだけ危険なことを知って口を開いていますか?
●もういちどわたしの設問を見て ほどほどを心得てください。
●処刑人という映画を観ることをおすすめいたします。
 あなたがやろうとしていることはこの映画のなかの処刑人となんら変わりません。
 処刑人の感覚がPOPなだけあなたよりズットましです。
●あなたの信ずるところのモノで世の中を良くしようなんて思ってはなりません。
 平等にしようとか真理を開こうとも思ってもなりません。
 みんなの思いがそれぞれにあることが許されて それでも 尚
 平和と平等と自由と個人の権利がMAXになる「システム」が必要なだけです。
 いま そのようなシステムはありません。しかし近い将来できるでしょう。
 あなたはあなたの信ずるところにより思う方向にいけばいいじゃないですか。
 わたしは地獄に落ちようが突然死のうがどうでもいいのですが。
 こころの自由だけは失いたくないです。
 ただあなたの文言によりあなたの身が危険になることだけは覚えておいた方がいいですよ。

お礼日時:2002/01/26 23:24

> みんなそうやって 自分の聖人様や 神様や 教祖様が正しいと思い込んじゃってるから 戦争になるんですね よくわかりました。


 戦争を回避する手立ては OOをしなければならないということを作らない事ですよ。
 
ということですが、
 戦争とはいうまでもなく国と国が武力をもって争うことです。これを縮小した形が人と人の争いです。人どうしが争う原因を考えてみますと、まず自分の利益や欲望(エゴ)のみを充たそうするときに起きます。これを仏法では貪欲(とんよく)といいます。次に感情的な忿怒による場合があります。これを瞋恚(しんに)といいます。また相手をよく理解しなかったり、考えが浅いために争いとなることもあります。これを愚癡(ぐち)といいます。その外に高慢心や猜疑心が争いのもとになることもあります。
 国家間の戦争も個人と同じように人間が本来生命に具有している貪瞋痴(とんじんち)の三毒、あるいは慢疑を加えた五悪心の作用に起因します。しかも仏法の上から現代という時代をみると、今は末法といって、劫濁(時代・社会そのものの乱れ)、煩悩濁(苦しみの原因となる貪瞋痴などの迷い)、衆生濁(人間の心身両面 にわたる汚れ)、見濁(思想の狂いや迷乱)、命濁(生命自体の濁りや・短命)の五濁が強大となって、いたるところで争乱や殺りくが絶えまなく行われる時(闘諍堅固)と予言されています。
 たしかに人命軽視や刹那的欲望による犯罪、そして自己中心の風潮は現代社会の病巣として深刻な問題となっています。これらの社会問題が貪瞋痴の三毒という単に理性のみで解決できない生命の奥深い迷いから起っているわけですから表面 的な道徳教育や、倫理の訓話などで解決できるほど単純なものではありません。現に人殺しはいけない、暴力はいけない、親不孝はいけないと誰でも知っています。それでもなおかつこれらを犯してしまう事実は、もはや知識や教育の次元を越えて、人間生命の奥底から揺り動かす真実にして力のある仏法によらねばならないことを物語っています。国家間にあっても、一時的に争いが止み、戦火が鎮まっているといっても、それのみをもって真実の平和とはいえません。なぜならばおたがいに三毒強盛の人間が動かしている国政、軍事であれば、いつまた火を吹き、殺し合うかもしれないからです。

 「信じる」ことが、エゴであり、勝手に自宗を正しいと思い込んでいるから争いが起こるという判断は、戦争を表面 の争いという点だけを見て、その原因の三毒を知らないために生じたものでありましょう。真実の平和を確立するためには三毒強盛の人間性と五濁の世相を正し、仏法によって浄化し、一切衆生悉有仏性(誰人も仏になる可能性をもった尊い存在ということ)自利利他(自分も他人もともに幸せになること)の精神を共通 の根本理念にしなければなりません。そのためには宗教の正邪・高低・真偽を厳格に区別 し、選択しなければなりません。
 私たちの布教は決して争いを起こそうとしているのではなく、誤った宗教はあなたの人生を不幸にしますよと教えているのです。また折伏とは相手の人間を攻撃するのではなく、あくまでも邪悪な宗教や低級な思想を平和を破壊するものとして指摘し論破するものなのです。
 あなたの意見は、たとえば世界平和を実現するための会議で各国代表が部分部分で意見の食い違いがあったといって、それのみをとり上げて、自語相違だ無益だと非難しているようなものです。
 本来の折伏は民衆救済と世界平和という大目的のための破邪顕正であることを知るべきです。
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この回答へのお礼

●あなたのあげられた 戦争の要因(個々人の争い)はまちがっています。
 あなたのあげられた要因はこぜりあいの要因です。
 命をかけた争いの要因は愛なのです。愛とは自分の命を投げ出してでも対象を
 護ろうとする感覚系の感情です。戦争とはこの感情を巧みに用いる政治手段です。
 争いとはその愛する対象が相違することにより起こります。
 あなたのあげた争いの要因はバカのやることで防げます。
 しかし愛という感覚系の感情を諌めるのはほとんど不可能です。
 だから戦争を無くすには愛を無くすかその対象を無くすかしかないのです。
 愛は本能でなくせません。
 だから対象を無くさなければなりません。
 もしくは 対象が他国家と干渉しないようにするしかないのです。

 ↑このような観点からOOをしなければならないということを作らない事
 といっているわけです。
 OOをしなければならないと思うことは すでにそのことを愛しているのです。
 そしてそのOOをしなければならないを 他人のこころに強要することが
 争いの種となるのです。争いをおこしたくないのであれば強要しないこと。
 OOしたほうがいいとおもいます。くらいにしてシツコクしないことです。

お礼日時:2002/01/25 20:25

>わたしも呆れております。


 あなたのようにだまされやすい方が多いから災いが絶えないのかなあ・・・と
ふと感じたり致しました。

ということですが、
 日蓮大聖人は、災難のよって来たる根本原因と、そこから災難が起こるまでの過程を、三段階に分けて示されている、すなわち、
 「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」
と仰せのように、世の人々が正法正義に背き、邪法邪義を信奉すること(背正帰悪)によって、
 「善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず」
つまり国土を守護していた善神・聖人は、その国土を捨てて去ってしまい(神聖去辞)、それにかわって国土には、
 「魔来り鬼来り」
国土を破壊する魔鬼の働きが乱入して(魔鬼来たり乱るる)、ついに恐るべき大災難が起こる、と明かされたのである。
 これは、仏法に無知な世間の人々にとっては、まさに驚天動地の内容であり、容易には信じ難く解し難い御教示である。が、これこそ、日蓮大聖人が、一念三千の法理(なかんずく依正不二・色心不二等の理)の上から説き出だされた、凡慮を絶する救世の大原理に他ならない。

 自然界で起きた災害といっても、これは根本的には私ども有情の想いというものが、自然界に反映して起こるのであります。
 邪宗・謗法が原因となって国が乱れ、そして人々が不幸になるのであります。
 邪宗・謗法によって起こる種々の災いを、三災七難といいます。
ということになっております。
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この回答へのお礼

●みんなそうやって 自分の聖人様や 神様や 教祖様が正しいと
 思い込んじゃってるから 戦争になるんですね よくわかりました。

 戦争を回避する手立ては OOをしなければならないということを
 作らない事ですよ。
 命を生きるとは すべてが自由だ! ということに気付かなければなりません。

お礼日時:2002/01/25 19:09

No.22の返答についてのコメントです。



>その必然性を説明できると思いますよ。例えば熟成という考え方ですよね。
>論理の蓄積と熟成 時間がそれにかかわるわけで必然性は見つかるはず
>ですよ。

微積分の話を例にしますと、ニュートンとライプニッツについては、
そういう考え方も取れるかもしれません。両方ともヨーロッパの学者です
からね。

しかし、和算学者の関孝和は説明がつきません。
もちろん、彼が微積分の概念を発見したのは、西洋の数学とは全然関連
がないんですよ。
和算の学問的な積み重ねとしても、それだけではニュートン・ライプニッツ
とほぼ同時代に発見したという現象について、既存の学問の積上げだけ
という概念だけでは説明ができません。


また、chihokoさんが数学のことをどれだけ知っているかわかりませんが、
微積分の概念というのは、当時としては革命的な発見だったんですよ。
単に既存の数学の論理を蓄積して見つけられるようなシロモノではない
のです。その革新的発見を、直接的な関係のない和洋3人の学者が別々
に成したというのが驚きなのです。


そもそも、発見・発明というのは本当に不思議な現象です。
私は技術者として普段から創造的な仕事に取り組んでいます。
別に私自身が革新的な発見をしたわけではないのですが、技術的な難問
に取り組んでアレコレ苦労している時、まれにですがフッと今まで自分
の中に存在しなかった、全く新しい閃きが浮かぶことがあります。
その閃きを手がかりにして、問題解決に導かれていく、そういう経験が
何度もありました。

この不思議な閃きがどこから来るのか、私にはわかりません。
何かの本に書いてあったわけでもない、誰かから聞いた情報でもない、
全く新しい概念なのに、それを信じて研究/開発/調査を進めていくと
何故か問題解決に導かれていきます。

こういうのを天啓というのかな、と勝手に信じています。
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この回答へのお礼

●とても興味深いおはなしを ありがとうございます。

 ある方の発言です。
 ◇関孝和にしてもライプニッツにしても、藩主や王朝家という時の政治権力者に
 宮仕えをしていたので、整合性を重視する見方が求められていたはずです。
 やがてこのような考え方は、現在各国で使用されている「産業連関表」
 (ノーベル賞経済学者のW.レオンチェフが考案した)の作成へと
 結実して行くことになります。

●偶然に思えることの必然性を追求している方は たくさんいらっしゃいます。
 すべての事象は偶然である とは言えないが 必然であるとは言える訳です。
●「死んでも魂は残って またべつの命に生まれ変わる 世界の全ての物は
 神様がつくっている。」←これは どんなバカでも言います。
 すこしでも知性があるのなら 自分なりに考えてみなけりゃバカと同じなんです。
 わたしの考えたいまのところの結論は
 魂:そのものがそのものであるための 宇宙の真理(摂理)にてらされた設計図。
 従って もし 生まれ変わるとしても そのものそれ自体になります。
 物質とエネルギー:見ての通り輪廻転生している。
 神:宇宙の真理(摂理)を神と呼称することもできるが 擬人化する必要なない。
 と いった感じで認識しています。

●天啓についてですが 正にあなたが体験されていることがそれにあたるとおもいます。
 ただ わたしが思いますに 天啓とは 次のようなことだと思います。
 わたしたちの脳の顕在意識は非常にキャパシティの小さいものです。
 小さい必然性は 生きるための自然淘汰の知恵でして 深く考えるよりも
 すばやく処理するというとことが生き残ることによって選択された結果だと
 思います。しかし深く考えることを繰り返すと潜在意識がその思考を
 代替してくれるようになります。表層では敵と戦いつつもその影では
 戦略を練ることができるわけです。
 いろいろ悩んでて ひと寝したら解決したということがよくありますよね。
 これも天啓の小さいものです。

 ご回答ありがとうございました。また面白いお話がございましたら教えてください。
 

お礼日時:2002/01/25 19:00

>問いたいのは人間の抱える難問(論理でも規範でも感情でも空想でもなんの命題でもかまいません)を解いたことがあるのかってことです。



つまり「神様ったって大したこといってないじゃん。悔しかったら俺を感動させるような教説を垂れてみろ」ということですか?
そういうことでしたら私も、宗教が私の抱える難問に答えてくれたことはありませんので、その点については同感です。ある宗教の教理が、人間のひとつの思想・哲学として感動的に深いものであると感じることはありましたが、それが私に信仰という意味での感動を起こさせたことはないのです。

ただ、「私の抱える難問」ではなく「人間の抱える難問」ということになると、今まで多くの人が宗教に感動し人生を変えていった例があることを考えると、「ある人々の抱える難問」に答えたことはあると言えましょう。
その解答の内容は、たいていは陳腐なものでしょう(「生命は大事」とか)。しかし、陳腐なものを感動的な教理と感じさせてしまうのが神の神たる所以と言えましょうか。質問者さんは直感を大事にされるようですが、論理的には陳腐なものが直感として感動的に感じてしまう人々がいたのです。

何故そこまで絶対の真理と感じてしまうのか、人間が不思議なのか、神が不思議なのか、よくわかりませんが、「神様の言うことなんてたいしたことないじゃん」というのは、少なくとも私と質問者さんには真理なのですが、他のいくらかの人々には妥当しないようです。
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この回答へのお礼

●人々の抱える難問にこたえているって
 ただ 長い物にはまかれろって感覚にあてこんでる感じですよ。
 
 世の中みればわかりますけど 信じることで考えることを止めてるんですね。
 だから不幸に落ちてくことに気づけないわけです。
 あなたなら 十分わかりますよね。

 考えるだけの暇のなかった時代は 信じることで救われたわけですが
 現代は 暇でしょ。なら考えたほうがいいにきまってるでしょ。

 妥当しないじゃ 済まされないですよね。
 地球がぶっこわれちゃいますよ。
 考えないからですよ すべて 神なんていないんだってなれば
 戦争くらい避けれる知恵にたどり着くまで 考えるんじゃないかな・・・。

 ご回答ありがとうございました。また よろしく。

お礼日時:2002/01/23 02:31

全知全能の神、創造主を考えてみましょう。


私達が感覚する事柄、空間・時間・物体・物理法則をすべて創造主が
作ったとしたら、創造主にわからないことがなにかあるでしょうか、
という答えになるかと思います。

では、その全知全能の神が具体的に何か難問の答えを教えてくれたか
というと、どうも直接には教えてくれないようです。
このことについて、もう少し考察してみます。


四色問題は私もよく知らないのですが、別の箇所で微分・積分の話題
がありましたので、それを例に取り上げてみます。

微分・積分の概念を最初に考えたのはニュートンとされていますが、
ほとんど同時期にライプニッツという数学者も同じ問題に取り組んで
いました。ただ発表がわずかにニュートンの方が早かっただけです。
そして、なんと同時代にはるか地理的に離れた日本でも、関孝和(だと思った...)
という和算学者が、微積分の計算方法を編み出していました。

この不思議な現象について、こう考えています。
微積分の内容を知っている全知の存在が別にあり、彼が望む時期に
その内容を最も努力する人間に示したのではないかと。
微積分の問題については、和洋合わせて3人の学者が努力していた
ので、それぞれに示したのだと思います。後は誰が最初に論文を書いて
発表するかです。

似たような話は他でもあります。電話を発明したのはグラハム・ベル
ですが、やはりほとんど同時期にエジソンも発明に着手していました。
これもタッチの差でグラハム・ベルの方が実用化が早かったので、彼の
名が残ったわけです。もっともエジソンは他でも名を成しているので
一つぐらいは譲ってもいいのではと勝手に思っていますが。


----------------------------------------
聖書にヨブ記という話があります。
長い話なので要約しますが、金持ちだけれども神の前に誠実な男であった
ヨブが、悪魔の試練を受け、全財産と子供をすべて失い、さらに自分は
難病にかかってしまいます。
誠実であったヨブもすっかりしょげてしまい、見舞いにきた友人にこう
問い掛けます。
「私は、こんな思い罰を受けるようなことをした覚えはない。
 なぜこんな目に会うのか」

友人達は「いや、隠れて悪いことしてたんだろう」とかいろいろ言います
が、ヨブは納得しません。延々と問答を続けます。
ついには友人達への問いかけを止め、切々と神に訴えます。

そして最後に神が現れ、ヨブに語りかけます。しかしそれは、
ヨブの疑問に直接答える内容ではありませんでした。
「無知の言葉をもって、神の計ごとを暗くするものはだれか。
 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。
 わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。」
...
「非難するものが全能者と争うとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ」

友人達には屈しなかったヨブも、少し謙虚になります。
「見よ、わたしはまことに卑しいものです、なんとあなたに答えましょうか。」

神の言葉はさらに続きます。
「あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。
 あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか。
 あなたは神のような腕を持っているのか、
 神のような声でとどろきわたることができるか。
...
 すべての高ぶる者を見て、これをかがませ、
 また悪人をその所で踏みつけ、
 彼らをともにちりの中にうずめ、
 その顔を隠れた所に閉じ込めよ。
 そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、
 あなたの右の手は
 あなたを救うことができるでしょう。」

最後にヨブは悟ります。
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、
 またいかなるおぼしめしでも、
 あなたにできないことはないことを。
 『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』
 それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
 みずから知らない、計り難い事を述べました...」

悟ったヨブは、神から祝福され、再び繁栄するようになり、
多くの子孫に恵まれて安らかに死ぬというところで話は終わります。


長々とヨブ記のことを記しましが、これを読んでわかることは、
全知全能の存在があったとしてもそう容易く真理を教えてくれたりは
しないということです。
しかし絶対教えないわけではなく、切実に求める人には相応の導きが
必ずあるのではないか、そういう教訓が含まれているように思います。

この回答への補足

●全能の神とヨブのお話ですが 人間界におきかえて思いますと。
 やくざ(神)とチンピラ(ヨブ)のお話に酷似していますね。
 このお話は こそくな人間のしがらみからの発想だなあ と
 つくづく感じるのはわたしだけなのでしょうか?

補足日時:2002/01/23 10:40
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この回答へのお礼

●まず たいへん読みやすく文字がならべられておりましたので
 心遣いのある方だと拝察いたしました。ありがとうございます。

 さて ヨブのお話ですが マジっすか? って感じです。
 こんなお話を信じちゃってる方達が いるんですかね?
 
●同時期に同じような研究がなされる ということは神によらずとも
 その必然性を説明できると思いますよ。例えば熟成という考え方ですよね。
 論理の蓄積と熟成 時間がそれにかかわるわけで 必然性は見つかるはずですよ。

●ヨブは 単に神にびびっちゃってるだけのように感じました。

 丁寧な姿勢で書き込みいただいたので すこし同調しちゃおうかな
 とも思いましたが やっぱりそれは失礼だとおもいまして
 わたしの感じたままを 述べさせていただきました。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/23 02:10

●質問者さんは理性でもって宗教の迷妄を砕こうとされているのでしょうか。

だとしたら、仰りたいご趣旨は分かるような気がします。
 しかし、例えそのような意見が理論的に反駁不可能だとしても、おそらく100%の人々の支持は得られないでしょう。信仰とは理性で説明不可能なところにあるのですから。
 証明可能なことと納得可能なこととは違うのです(もっとも、最近の哲学はこの辺を理論的に研究しているようですが)。

●そもそも神の偉大さの基準として「難問を解いたか」を立てるのはどうなのでしょう(もっとも宗教批判の第一ステップとするだけなら意味があるでしょうが)。この基準でいくと、ニュートンやアインシュタインがより神に近いということになってしまうでしょう。
 もし知恵を示すことが、神の目的にとって有用ならそうするでしょうが、むしろ奇跡でも起こしたほうが民衆を教化するのには楽でしょう。しかし、質問者さんの前に神が現れたら、世界の難問を解いてくれるかもしれません。そういえば、手塚治虫の「ネオ・ファウスト」に悪魔メフィストが一ノ関教授に宇宙の神秘を数式で示して、自らが悪魔であることを証明する場面がありました。
 ところで、世界各地の神話には「人間に知恵を授けた神」の伝説があります。たとえば、アイヌの神話ではオキクルミカムイが、アイヌ民族に家造り、アッシ織、狩猟などを教えたことになっています。もしこれが事実であれば、神は当時の人間には分からなかったことを教えたことになるでしょう。もちろん今の目からすれば幼稚な技術ですが、今の技術はそのような幼稚な技術がなければ有り得なかったわけであり、もし今、神が現れればもっと凄いことを教えてくれるでしょう。

●釈迦に関していえば、お釈迦さまは神ではなくて思想家です。いわば、プラトンやアリストテレスの教説の優れているのと同じレベルで優れているのです。
 そして、その哲学というレベルでの深さは、「あたりまえのこともしくは既存の概念 」というレベルではないことは確かです。もし、質問者さんが「あたりまえ」と感じるのであれば、それは、耳学問による後知恵か、経典を自分が理解できるようにしか理解してないか、質問者さんが非常に優れた人なのです。
 仏教の経典というのは釈迦自身が書いたものではありませんし、ましてその解説書となれば解説者のレベルによっては陳腐なものに思えるでしょう。しかし、一度まともに哲学書として経典を読んでみてください、相当に深いものがあります。もちろん、「人間の思想」としてのレベルの高さですが。

●全知全能の神の矛盾に関しては、「全知全能の神であっても矛盾はなし得ない。しかしそれでも神は全知全能である」ということは1000年前から一応の論証はされています。たとえば、トマス・アキナスの「神学大全」あたりを読んでみてください。
 ただ、その前提にはギリシャ以来の論理学のドグマがあるんですよね。最近の研究はそのドグマを超えようとしていますので、もしかしたらそのうち論理的に矛盾を超える神が論証されるかもしれません。

●「お釈迦さんが なんていってるかよくは知りませんが 縄文の人々の生き方に いきることのヒントがあるような気がしてなりません」
 ここら辺の実証性の無さが気になるんですよね。何やら結論ありきの感じがして、その辺が批判されるとことの宗教と同根のような、ちょっと言いすぎましたが。
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この回答へのお礼

■ネオファウストのエピソードはおもしろいですね。
 わたしは宗教の存在意味を云々しようとしているわけでは ありません。
 普通の疑問をなげげかけているだけですから誤解のないように・・・。
■ドグマを越えることは簡単です。自分で考えるだけでいいのです。
 お釈迦様が 神であろうが仏様であろうが なんであろうがいいのです。
 あなたが優れた思想家だと考えるのでしたら あなたにとっては
 そうでしょう。問いたいのは人間の抱える難問(論理でも規範でも感情でも
 空想でもなんの命題でもかまいません)を解いたことがあるのかってことです。
■やっぱ手塚治虫は 優れてる・・・。
 わたしは感覚で物言いしてますから実証性は必要ありません。
 実証してるほど暇ないですから。あなたもどうぞ感覚で発言してください。
 感覚で発言できないひとは パソコンとおなじですよ。

お礼日時:2002/01/21 12:54

また来ました。



>うそを 信じさせて ひとをコントロールした時代を終えたいだけです。
>真理をうそで 隠して うそを信じ込ませることほど罪なことはありません。

ということは、宗教はうそで、別の真理があるということですね。
そしてあなたはそれを知っているということになります。
よろしければ教えてください。
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この回答へのお礼

●真理なんか分かるわけないじゃないですか。
 根拠もなく信じてしまうことは百害あって一利なしです。

 わからないままでいいじゃないですか 気楽なもんですよ人生なんて。

お礼日時:2002/01/20 18:30

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Q釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいた。

釈迦が菩提樹のしたで悟りをひらいたとき魔がおりてきて釈迦を苦しめて結局釈迦が魔に勝て悟りをひらいたときのストーリーをおしえてください。すいません。

Aベストアンサー

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か、若い乙女がいて、彼女から乳粥を捧げられ、これを食した後、身を清め、ブッダガヤーの菩提樹の下で、瞑想に入り、この瞑想の過程で、以下の参考URLに簡単に記されているように、悪魔(マーラ)が、釈迦の悟りを妨害しようと、様々な「欲望」で誘惑します。
 
  このシーンは、丁度、イエズスが、荒野で苦行をした折り、サタンが現れ、わたしを拝めば世界の王にしてやるとか、高い崖から飛び降りても、神が受け止めてくれるだろうと、色々、世俗の欲望や力で誘惑し、イエズスの苦行を妨害したのに似ています。
 
  しかし、釈迦は静かに瞑想を続け、遂に、夜明け、金星の光が輝くと共に、「悟り」を開き、仏陀となり、釈迦族の聖者すなわち「釈迦牟尼」になります。
 
  悪魔(マーラ)は、釈迦の成道の妨害に失敗したものの、釈迦が悟りを開くや、その前に姿を現し、「「悟り」を開くという目的は達しられた、もはや、生きていることに未練もなければ、死ぬことに恐怖もないであろう、ただちに、入滅し、ニルヴァーナに入れ」と勧めます。釈迦は、このマーラの言葉にしばし納得しますが、しかし、ここで、泥のなかの蓮の花の話が出てくるのですが、この世には、いま少しのところで悟りへと到達できる者が少なからずいる。今、自分がニルヴァーナに入ることは簡単であるが、それでは、この悟りを開けるかも知れない者たちは、そのまま泥に沈んだまま、花を水面の上に咲かせることができない。いま少し生き、自分の悟ったことを、世の人に伝えてみようと考え直します。ここで釈迦の決意は定まり、マーラ(悪魔)は、釈迦から離れます。
 
  ……と、ここまでの過程が、釈迦の悟りと悪魔(マーラ)の妨害の戦いの話のはずです。釈迦が、悪魔の言葉に従い、あるいは、世の人には、自分の悟った真理は理解できないだろうと、隠遁してしまうと、釈迦は、独覚(プラティエーカ・ブッダ)ではあったでしょうが、仏教は生まれなかったことになります。
 
  また、この時のマーラ(悪魔)との対話が、「大涅槃経」に出てくる、マーラとの会話に続きます。
 
  マーラは、晩年の釈迦の前に姿を現し、「いま既に、汝は、教えを説き、多くの弟子たちが、アルハトとなった。汝の望みは実現した。されば、いまこそニルヴァーナに入れ」と、成道の時の会話の続きで、入滅を求めます。釈迦は、これに答えて、では、入滅しようと答えるのです(この過程で、アーナンダと会話して、「如来は望めばおのが寿命を長くすることができる云々」という話が出てきますが、釈迦の入滅は、悪魔との約束によるものだとも言えます)。
 
  悪魔(マーラ)とは、サンスクリット語ですが、これはラテン語における「悪 mala(malus, malum)」と同じ語根の言葉です。
 

参考URL:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7710/771012.htm

 
  そういう話は、釈迦牟尼の生涯について記された夥しい書物に載っていると思いますが。
 
  釈迦あるいはゴータマ・シッダールタは、四苦(生・病・老・死)を知り、世の無常より自己の救いを求めて、当時の著名な宗教指導者の元に弟子入りし、教えを学ぶのですが、間もなく、師匠を超えた境地に達することができ、しかし、それでも心の平安が得られないので、死を賭して苦行に入り、断食行を続けるのですが、骨と皮ばかりになって、苦行では、悟りは開けないと知りました。彼が山よりおりた処、確か...続きを読む

Q全知全能な神は存在しないことにより神は存在しない?

全知全能な神は存在しないことにより 神は存在しない?

人の生きがいとは 自己の欲望を満たすことであり他人からの賞賛である。人は全ての欲望が満たされていない時 自己の欲望を満たすために活動することが楽しいのである。
人は 自分以外に誰(生き物全て)もこの世界に存在しないならば生きている意味を見つけることは難しい。人は満たされない欲望を満たすために生きている。

もし 人の全ての欲望が満たされたとするならば 人は何か満たされない刺激を求め始める。全てが満たされた世界に於いて 他人が同じように全ての欲望が満たされていたとしても 人は他人は自分より不幸であるとみなしてしまう。
神が人間を創造したとするならば 神は不完全な人間しか創造できない。何故ならば 人間は不完全である故に完全さを求め続けることにより 幸せを感じることができるからである。

不完全な人間しか創造できない神は 全知全能な存在とは言えない。また 神も不完全な存在である。神が不完全なら 神とは呼べない。よって 神は存在しない。どうでしょうか?

Aベストアンサー

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創った補償はない」

 #ニュートンの「神の存在が証明できない」というのと一緒。

なのだから、少し面倒なことを書くけれど。

「神が完璧でないのか、人間が完璧ではないのか」

この二択になってしまうと、考えるんですよ。

 #σ(・・*)たちのような、そこに宗教を見ていない科学者はね。

で、こういう結論がでるわけね。

「神の存在証明が出来ない以上、それは人間が作り出したものであろう。

人間は不完全であり(不完全性定理もあるしね)、自然界をも不完全にしか解釈できていない、

ゆえに、神の完全性も証明できない」

 #これは結構、大変な話です・・・。

ある程度信じるのか信じないのか? という世界になるとは思います。

そういうところでも、神!を見ることはある。

数学で行くとね「6以上の偶数は、二つの素数の和で必ず表される」。

証明は出来てないけれど^^; (ゴルドバッハ予想という問題)

実際にちょっとやると、

6=3+3 (3:素数だね)

8=3+5 (5:素数だよ)

10=3+7=5+5 (7も当然素数ね)。 こんな風に。

こういうところに、たま~に出没されます。

が、それは数学の神だと思う。 これがね、他のことにも役に立ちそうなら、

まだ考え方はあるけれど、ほかになさそうなんですね。

全知全能の神様ならば、こういうものも全て何か別の領域でも

必ず役に立つのだろう。 何故ならば~で、無駄なことはされないはずだから、ね。

一神というのは、どこか不完全になりやすいと思う。

学術にいる連中は、向こうの連中でもそうだけど、結構たくさんの神様を見てるよ^^;

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

信じるのか信じないのか?だよ。 σ(・・*)は絶対神は不必要とするけどね。

仏教徒だから、ご先祖が大事^^;

No.5です。遅くなりました。

法華経に詳しいね。σ(・・*)は曹洞宗。

感じ、創価さんではなさそうね。六道どうのこうので、大体判別できるけど

よく知ってあるようです^^; 

 #いるんだ時々、こういう風なところでかき回す邪教徒が。

仏教徒だからね~、八百万の神で「数学の神様」もいれば「トイレの神様」もいる、

ってスタンス。

公理系の話しだけど、黙って書いたわけではないからね。

前述しているけれど
「今観測している現象は、人間が観測して法則だてたものであって、

その法則を神が創...続きを読む

Q釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。

それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます)
そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。

この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。

 天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。

長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。

wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」
と、その修行...続きを読む

Aベストアンサー

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、全ての菩薩の共通する願いでもあります。
1、衆生無辺誓願度・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するぞ
2、煩悩無量誓願断・煩悩は無量だが、すべて断つぞ
3、法門無尽誓願智・法門は無尽だが、すべて知るぞ
4、仏道無上誓願・成仏の道は無上だが、かならず成仏するぞ
というものです。1の誓願は利他、残りの234は自利行ということになるでしょう。大乗では1を重視しますが、234もちゃんとありますからね。他者の救済でも、自分自身の悩みの解決でも、何を機縁に仏を目指すかは人それぞれで良いんじゃないですか??後に出来た伝説かと思いますが、ナンダは「天女を奥さんにしたい」っていう理由で仏門に入って、悟りを開いてしまいますからね。もちろん仏道修行の最中に心は改めますけどね。

>>釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。
 私もそのように思いますよ。お釈迦様は菩提樹の下で成道されました。そして、この悟りを誰にも説かずに悟りの境地を楽しみながら、入滅してしまおうとお考えになっていました。そこへ、梵天という神様が現れお釈迦様にその悟りの境地を皆に説いてくださいと頼まれます。そうした梵天の頼みによって、お釈迦様は五比丘の元へ向い初転法輪(初めての説教)となるわけです。
 この梵天勧請のお話をお釈迦様の心の中の葛藤としてしまえばそれまでですが、出来上がった説話だけ見てみると、お釈迦様としては成道してすぐには悟りの境地を人に説くという事は考えてにはいっていません。ということは釈迦様の「悟り」の境地には、他者に教えを説く、もしくは他者を救済するという要素は含まれていないことになります。
 しかし、梵天勧請によってお釈迦様の中に「悟り」とはまた違った要素が与えられます。それは、他者に教えを説き、他者を救済するという要素です。それを仏教的に言えば「慈悲」や「大悲」と表現するものといえるでしょう。梵天勧請以後のお釈迦様の中には「悟り」と「慈悲」という二つの異なった理念をもって行動されます。しかし、結果を見てみれば「悟り」と「慈悲」は異なる境地であるかもしれませんが、そこに矛盾がなかったからこそお釈迦様はそれを一生涯続けることが出来たとも考えられます。

 確かに梵天勧請以前のお釈迦様は菩薩というより阿羅漢というニュアンスのほうが強いですね。ただ、それも阿羅漢・菩薩という言葉の問題も出てきます。言葉の原意から言えば、阿羅漢は当時のインド宗教一般としては「尊敬されるべき修行者」をさしてようですし、菩薩はbodhi-sattvaの訳語ですから、bodhiは悟り、sattvaは衆生、両語を結合して「悟りを求める人々」となります。こうなると、阿羅漢も菩薩も同じような気もしますしね。

>>天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。
 「天上天下唯我独尊」この言葉は中村元先生に言わせれば「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」のだそうです。「三界皆苦我当安之」という後半部分は、経典によって若干の異なりがありますが、『修行本起経』のこの文句は、自己の正覚と衆生の救済の二つをあらわしていて、「唯我独尊」を一人ひとりが尊いという意味で捕らえるときの根拠となるわけですね。私はこの言葉は何の根拠も無く作られた説話ではなく、成道後のお釈迦様の言葉や行動を基に作られたのではないかと考えています。

>>大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。
 この大乗と上座部(小乗)の違いはそこなんでしょうね。上座部は成道前のお釈迦様をモデルとして修行に励む。大乗は成道後のお釈迦様をモデルに修行に励む。ということになるのでしょう。
 個人的な意見としましては、お釈迦様自身は「悟り」と「慈悲」の二重構造を持っており、それを修行中の者が自分の「悟り」をそこそこに「慈悲」を持って他者の悟りへ介入するというのは難しいように思います。観音菩薩や文殊菩薩のような仏と同等クラスの力があれば別ですけどね。
 また、大乗仏教の中でも「悟り」と「慈悲」を二重構造として扱っているものも出てきます。代表的なのは日本浄土教の考えです。そのなかでも特に親鸞聖人に顕著に見られます。『歎異抄』第五条には
「親鸞は父母の孝養ためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず」(わたしは父母の追善供養のために念仏したことは一度もない)
というのです。その理由を「そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と説いています。私たちは自分の作り出した業によって苦しみの世界から逃れられず生まれ変わり死に変わりしているという、輪廻思想は古代インドの思想から受け継がれた仏教の生命観ですが、親鸞は『歎異抄』のなかでしか輪廻の思想については語っておられない。しかし輪廻があるとすれば、あらゆる生物はいつの世にか父母兄弟であった身であったはずです。親鸞は自分の力で仏事を行った善をもって父母を助けようなどという自力の心を捨てて、まずは極楽往生をし阿弥陀仏の指導を受け自分自身が悟りを開きてのちに、父母を救うべきであると説かれています。
 お釈迦様の場合とは形は違いますが、他者を救済するよりまずは自分自身の悟りを目指すべきであると説かれています。この極楽浄土に往生し成道して(往相廻向)、後に慈悲を持って衆生を救済する(還相回向)という、「悟り」自分の悟りと「慈悲」他者の救済ををはっきり分割したスタイルが説かれています。

 思ったことをつらつら述べさせてただきましたが、まとめきれず申し訳ないです。文意を読み取っていただきたく思います。
 合掌 南無阿弥陀佛

 私は大乗仏教を信仰する人間ですから、意見は大乗仏教に偏りかもしれませんがその辺はご容赦ください。
>>釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?
 そうですね。ここで言う釈迦は修行時代ということですよね??その意見には賛成できます。

>>その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。
 菩薩行の中にもそういった目的は存在しています。菩薩の修行の目的は四弘誓願に集約されます。菩薩が仏道修行を求めるときの誓いです、...続きを読む

Q全知全能の神が存在しないことの証明

ちは~、ふわっぴぃです。

実は友人の某君から難題を吹っかけられました。

「全知全能の神が存在すると矛盾することを示せ」

私はこういうことはからっきしダメなので往生してます。

どなたかいい智慧を授けてください。

(蛇足)
ヒントをくれといったら、某君はこういいました。

「そうだな、ゲーデルの不完全性定理でも勉強するんだな。
でも、丸暗記とかはダメだぜ。自然数論とか形式的とか
証明とかいう専門用語を一切出さずにいわんとすることを
的確に表現した喩えで答えてくれよな。」

Aベストアンサー

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら、そのひがきても、いきのこれるの! でも、そのひには、しなないことになっちゃうの! それじゃあ、まえしってた、じぶんがしぬときって、なんだったのかなぁ~? しらなかったことに、なっちゃうじゃん! うわ~い、「ぜんち」じゃないんだぁ~
 でね! もしほんとに「ぜんち」だったら、そのひに、しななくちゃ! かわいそうだけど、ふくろうくん…。…ぜんのうじゃ、なかったんだね…。
 だからね! ふくろうくんは、ぜんちであって、どうじに、ぜんのうであることはできないの!
 これで…えーと…くおど?…んーと…えらと?…で…でも…でもんすとらんだむ!
 ことば、むつかしいなぁ~

 でもね、これ、かんたんにこわせるよ! かぷっ! ほら! こわれた! うわ~い!」

 …だ、そうです。
 あの…子どもですんで、大目にみてやってください。
 あ~、また、別なの考えてる…。おめめキラキラだね、へびくん。

 ふくろうです。こんばんは。

 ご友人の鼻を心配しています。へびに噛まれてはいないかと。
 でもご安心を。毒はありません。へびくん、この手の知的な論理ゲームは大好きなんです。ほら、こんなこと言ってます。

「ほ~い! へびくんだよっ! あそぶの、だいすきだよっ!
 じゃーね、またかんがえたの!

 ふくろうくんは、なんでもしってるの! 「ぜんち」なの!
 だから、じぶんがいつ、しぬか、しってるの! すごいな~。
 でね! もしふくろうくんに「ぜんのう」のちからがあったら...続きを読む

Q釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来

如来というのは仏のことですよね。
仏教を開いたのはお釈迦様(ゴータマシッダルタ)と聞いていますが、
その人物が釈迦如来ですか?
釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来は別人ですよね。
しかし同じ境地に達した人なのでしょうか?
時代的に言うと3人の前後関係はどうなっているのでしょう?
お釈迦様が仏教を開いたのに、3人は同格なのでしょうか?
お釈迦様は仏教で最高位ではないのですか?

これらのことについて全くわからず、少し調べてみたのですが難しくてよくわかりません。
わかりやすく教えていただけたらうれしいです。

Aベストアンサー

ANo.1です。

>ということは、観音様や~菩薩というのも実在した人物というわけではないのでしょうか?

そうですね。実在した「菩薩」は、修行時代のお釈迦さまだけで、観音菩薩も地蔵菩薩も、実在の人物ではありません。
「行基菩薩」など、実在の高僧が“生き神様”みたいな意味で、「~菩薩」と呼ばれたりすることはありますが、お寺などで「○○菩薩」としてお像が祀られているような菩薩、経典に書かれているような菩薩は、皆フィクションです。

観音菩薩を初め菩薩方は、薬師如来や阿弥陀如来よりも、さらに我々衆生に近い存在として描かれています。
お悟りを開かれた最高の存在である仏さまよりは、まだ修行中の身である菩薩さまの方が、衆生に近い存在、親しみやすい存在ということです。
社長に直接お願いするよりは、営業の社員にお願いした方が、取引がスムーズにいく……こんな譬えをすると、また宗教家の方からは怒られるかもしれませんが、そういったイメージだと思います。

Q神様は全知全能だが、あなたの願いを叶える事は無い

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです。
そう言うタイプは最終的にカルト宗教に行きつきますが、神様にお願いしたとしてもですよ、願いに邪心や疑念があって正直でないと、願い事を聞き届けたりしないでしょう。
正直な真心を打ち明ける事が、相談事を持ちかけるコツです。
相手がだれであれ、仮に神様だったとしてもです。


さて。
良くある苦悩に、全知全能の神様は何故私の願いを聞き届けてくれないのか、というエテ公の独りよがりがある。
それは願い、または望みが正確でないのだ。
自らをあざむき、社会をねたみ理解しようとしない、そんな君達は、教え込まされた欲望ばかりで自らに望みがないのだ。
すなわち同じ人間でも仏陀としての知恵がなければ、神と通じ合う事は無い。
すなわち、エテ公のマスタベーションを神様が手伝う事は無い。
そう言う事だよ。
神様が不完全なのではなく、君たちが不完全で、それは当然だと考えるかもしれないが、自身の自覚すらないため、そもそも正しく願う事が出来ない惨憺たる状態なのだ。

意見してくれ。

占いに凝っていてね。
他方で出したコメントだ。


タロットの場合だと、タロットに問いかける内容を正確にしないと占えません。
すなわち占ってほしい人がいちじるしく冷静さが欠けていたり、邪心や疑念があって正直でないと、問いかけが成立しないので占いはできません。
名前等の個人情報が無くても相談だけみっちりすれば、「この人」と言うだけでカードの問いかけは成立したりします。
占い師なら全知全能のごとくすべてお見通しなので何も言う必要がないという思い込みで相談したいのならそれは間違いです...続きを読む

Aベストアンサー

私の最大の喜びは、困難を克服する喜びだ。
それは、予め与えられている。

世界を愛し、自分の可能性を最大限に活かす事だ。
それは、与えられる事ではなく与える事であり、
「聞き届けて」もらうものでもない。

Q仏と釈迦の違いは?

おもしろ語源に関するエピソードで、わからないことがありました。「物が壊れたとき、ダメになった時に「おしゃか」「おしゃかになった」と言いますが、これは昔「仏様を作ってくれ」と頼んだのに出来上がったものはお釈迦様だったため、「お釈迦じゃねーか」と言ったのが語源だとか。」

仏と釈迦の違いはなんですか?

Aベストアンサー

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存在に変わります。
不動明王、観音菩薩、薬師如来などなど様々な仏の中に、「釈迦如来」という仏がいます。ガウタマが神格化された仏様です(仏に神格化というのも変な話ですが他にいい言葉が見つかりませんでした)。
つまり仏の中のひとつに釈迦がいる、ということです。
仏と釈迦は別物ではありません。

ちなみに広辞苑「お釈迦」には
>地蔵や阿弥陀の像を鋳るのに誤って釈迦像を鋳てしまったことからという
と書いてありますので、お釈迦さまと仏を別物としたのは、その回答者さんのミスだろうと思います。

同じものです。
というより仏の中にお釈迦様が含まれます。

まず「釈迦」というのは仏教の開祖というガウタマ・シッダールタがシャーキヤ族であったため、シャーキヤ→釈迦と変化してガウタマさんの呼び名となりました(釈迦牟尼、略して釈迦。牟尼は聖者なので「シャーキヤ族の聖者」という意味です)。

仏は仏陀、「悟りを得た者」という意味です。

だから釈迦牟尼=仏陀、つまり釈迦=仏です。

その後仏教が変質していくと仏の概念も変質して、悟った人間というより信仰の対象としての神のような存...続きを読む

Q創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。

創価学会の法華経経典の存在、位置づけ。
南無妙法蓮華経の題目で、妙法蓮華経(法華経)を南無(帰依、信心)するわけですが、
どうして、法華経を実際学ばないのでしょうか?(学ばせないのでしょうか?)
「南無御書」のような気がします。
法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?また、どういう位置づけなのでしょうか?

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位の教典です。

しかし、『時』というものがあり、末法の今日では
「南無妙法蓮華経」の御本尊に帰依し、自行化他の
実践の中にしか、成仏の因はありません。
言い方を変えると、『法』である「南無妙法蓮華経」
に帰依することこそ、自身の生命状態を最善へと導く
事になるのです。

今でも、朝夕の勤行の際には、妙法蓮華経 方便品第二
と妙法蓮華経 寿量品第十六の自我偈を読み、その後、
「南無妙法蓮華経」を唱題します。

質問者様が、どういったお立場の方か存じ上げないので、
不明な点があれば、また、ご質問をお願い致します。

創価学会 壮年部の者です。

>法華経を実際学ばないのでしょうか?

・一般信徒の立場として、創価学会ほど『法華経』を
学んでいる信徒はいないでしょう。数年前までは、
連載で『法華経の知恵』ということで、連載もされて
いましたし。
また、『法華経』は「南無妙法蓮華経」の説明文みたいな
物ですから、『法華経』だけを勉強したところで、理解が
できるわけありません。


>法華経経典は教義上どう扱われているのでしょうか?
>また、どういう位置づけなのでしょうか?

『法華経』は、釈尊の説いた最高位...続きを読む

Qお釈迦さまの人生

1.)
お釈迦さんの人生は、どういう経典に書かれていますか。

2.)
その経典は、お釈迦さんが亡くなってから、
何年ぐらいたってから出来ましたか。

3.)
何百年も後になってから出来た経典は、
実在のお釈迦さんについての、信用できる記述でしょうか。

4.)
お釈迦さんは王子さんで、16才で結婚して子供を設けてから、家出して、宗教に凝ったことになっていますが、そのような、お釈迦さんの身元や履歴をはっきりさせる記述の信憑性は、どれくらいでしょうか。捏造することもできますし、何百年も後になると、捏造しても、その真偽は確かめようがありません。新興宗教の教祖の身元や出自は、現代でも嘘っぽいのが多いのですが、お釈迦さんの出身は、事実でしょうか。


以上の疑問は、歴史的事実と、神話的伝承との区別が、お釈迦さんの人生について、どこまで可能なのかという疑問です。(歴史のカテゴリーかもしれません。宗教がありませんでしたので、哲学にしました)
 

Aベストアンサー

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古い経典でも、釈尊の教えをリアルタイムで伝えたものではありません。しかしながら、バラモン教の聖職者がヴェーダ聖典を暗誦していたのと同様に、釈尊の教えの主要部分は、かなり早くからある程度詩文化されて、口伝えされていたのではないかと思います。
 もちろんその中でも、すでに演出や誇張など脚本化(?)された部分もあるでしょうが、骨子になる部分は実際の状況を基にしているのではないかと思います。(そのためか、初期の経典では問答形式になっていたり、口語的な表現になっている部分が多く、後の時代の経典とは感じがかなり異なります。)

4)について。
 釈尊が何人種なのか、王子か部族長の息子か執政官の息子か、という点は100%確定したわけではなかったかと思いますが(←少なくともクシャトリア階級ではあるのだろうとされていますが)、仏伝の大雑把な流れは、信憑性は高いものとされています。
 インド人は物事を記録するという意識に薄かったようで、古代インドの様子はなかなかわかりくいらしいですが、経典に記される国の名前や地名などは確度の高いものとされています。釈尊が生まれ育ったカピラヴァスッツも位置が推定されているそうです。

 もちろん、釈尊が腋の下から生まれたとか、生まれてすぐに歩いたとか、さすがにそれは誰が見ても演出だろうという部分ですし、城の四方向の門から出かけ、それぞれの機会に老・病・死と求道者に接するというのは、出来過ぎた(誰かが脚色した)話でしょうけれど・・・少なくとも、実在した貴族階級の一人物が、世のあり様に思い悩み、妻も子供も自らの義務も責任も捨てて出奔し、後に釈迦族出身の聖者と呼ばれるようになり、その人物は80才まで生きて人々を教え導いた、というのは本当でしょう。
 そして、(#1の方も触れているように、前世譚などは除いて考えた方がよいと思いますが)伝説めいた話のなかにも、何らかの事実を指し示しているものもあると思います。

 わかりにくい話ですみませんです。では。
 

 

こんばんは。。

 原典をきちんと読んでいるわけではないので、かなり頼りない説明にしかならないと思いますが・・・

1)について。
 阿含経典類と呼ばれる最初期の経典に、釈尊の教えが記されていたり、当時の地名などが記されていたりします。
 まとまった仏伝で古いものは、「マハーヴァスツ」(律蔵大品)に記されているものだとされています。

2)について。
 #1のご回答にもありますが、最も古い経典でも、仏滅後100年くらいしてからだとされています。

3)について。
 最も古...続きを読む

Q【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?教典

【宗教の教祖】イエスキリストやブッダなど宗教の教祖たちは若い頃に悩みは無かったのでしょうか?

教典や昔の資料に教祖が悩みを打ち明けているシーンはないのですか?

教祖たちの幼少期?若いときの悩みが知りたいです。

別に新興宗教でも良いです。教祖の悩みが知りたいです。

Aベストアンサー

ブッダは出家する時に、かなりなやんだそうです。参・手塚治虫氏の「ブッタ」


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