No.9ベストアンサー
- 回答日時:
お久しぶりです。
ゴッフマン、懐かしい名前を聞いて、「おっ」と思いました。
もしかしたら同じ先生かもしれない。前期にミードの自我と客我やって、ゴッフマンやって、後期から×××やる先生だったらビンゴです(笑)。
えと、まず、クーリー、ソキウスでちらっと名前を見たことがあるだけで、知らない人です。ということで、わたしの社会学関係のタネ本『命題コレクション 社会学』(作田啓一・井上健編 筑摩書房)を見てみました(この本は命題の形でコンパクトにいろんな問題があげてあって、社会学の入門としてはすごく便利です)。
それで、ご紹介のページを見てみたんですが。
んー。わたしにもわかりません。何が書いてあるのか……。
ちょっと哲学を語るためには言葉が雑すぎる。「個性」なんて定義のしようもない言葉を使われても困るなぁ、という印象です。
もうちょっとあとに出てくる「私一般」と「この私」の対比も判然としません。
「社会学」的概念、「哲学」的概念、ということではないと思う。クーリーはよくわからないけれど、G.H.ミードは、ふつう社会学に分類される人ですが、哲学者、ともいうし、社会心理学者ともいう。
たとえばお母さんにだっこされている赤ちゃんが、最初はどこからどこまでが自分の身体か、わかっていない。これは確かにそうなんですね。もうちょっと大きくなってきた赤ちゃんが、うれしそうに手をぱんぱん叩いているのを見たことはありません? あれは、これが自分の手だ、自分の意志で動かすことができるんだとわかって、楽しくてたまらないからいつまででもやっている。
つまり、人間があらかじめデカルトが言うみたいな〈明証的な自我〉を持っているのなら、生まれたときから「自分」というものを独立して認識できなきゃおかしいわけです。最初は、他者とさえも未分化な存在だった。クーリーが言っていることは、この人が書いているみたいに比喩なんかじゃありません。人間は成長する段階において、他者の眼を通して、自分、というものを知り、呼びかけられることを通じて、自分であることを知っていくわけです。
よく「近代的自我」という言い方をします。
なんで「近代的自我」といって、現代的自我、と言わないのか。
それは、この「近代的自我」という言い方じたいに、すでに現代思想からの批判がこめられてるからなんですね。
「近代的自我」と言うとき、もちろん人によっては差がありますが、そこに想定されている共通のイメージは、他者の知らない、どこかひっそりとした場に、純粋で、あらゆる束縛から自由な、自分の〈核〉みたいなものがある、ということです。
二十世紀になって、言語に関する考え方が大きく変わっていった。
それまでは、ことばというのは観念を伝える不完全な道具、としてとらえられていたわけです。ことばを正しく使えば、ものごとの「本質」にたどりつける、と考えていた。
自分の本質、認識の本質、世界の本質、みたいにね。
ところが、ソシュールが言語は差異にもとづく関係である、といって以来、この考え方はあらゆる方面に影響を及ぼしていった。
つまり、ことばはことばであって実体とはなんの関係もない、ということです。
わたしたちは、ものごとを考えようとするとき、ことばを使うしかない。
自分とは何かを説明しようとしても、ことばによるしかない。
そうして、そのことばは「関係」のうちにしか存在しない(たとえば「右とは何か?」と聞かれても、「左ではない方」としか答えられないのです)。
さらに、人間とことばの関係はそれだけにとどまりません。
人間は何かを見たり聞いたりして判断し、そうしてそれをことばにするのではない。
逆に、見ること、聞くことはすべて、ことばによってあらかじめ規定されている。
思考さえもことばによって規定されている。そうしてわたしたちが経験するのは、「意味としての経験」です。
この経験は類型化されることで、客観化することができ、他者と共有することもできる。
わたしたちはこうしながら「自分」や「他者」を理解し、コミュニケーションを行っている、というのが、現代の思想の根っこのところにあると思います。
だから、自分というものをどんなにことばで説明しようとしても、それは説明しつくせないものであるし、ことばの届かない「本質」のようなものがあるわけではない。
もちろん、今日、デカルトやカント、はたまたもっとずっと昔のアリストテレスやそれ以前の哲学の研究が無意味かというと、全然そんなことはない(今日的にどんなふうな意味があるのか、は、大学の先生に聞いてください)。
だから質問者さんが
> 特権化された私というものは存在する
と考えても、全然かまわない。
ただ、やっぱりソシュールは踏まえておいたほうがいいとは思います。
ゴッフマンはわたしが習ったときは、そこで終わっちゃったから、へー、そういうもんかー、だったんだけど、実はおもしろい人なんです。
ウェーバーの時代から、行為というのは行為主体相互の関係でとらえられてきた。
ところがゴッフマンがオーディエンスという視座を導入したことにより、ジラールの三項図式に道を開いたんです。これがまたおもしろいんだわって言い出すと、話はとめどなくずれていくので、とりあえず『命題コレクション』、これ、便利です。
お返事遅れてしまって申し訳ございませんでした。
あれからいろいろ読んでみたのですが随分と役に立ちました。本当にありがとうございます!!
>もしかしたら同じ先生かもしれない。
それはそれは、すごい偶然ですね!!
また何かの機会にお世話になることになるかもしれません…笑
いずれにせよ、助かりました。ありがとうございます!
No.8
- 回答日時:
あらゆる哲学者、社会学者のいっている事はエクリチユールされたものを基本にしており、私もそうですが、それは自分の意見になりません。
参考にはなりますが、まずデカルトではないのですが、懐疑論的認識形態をとるべきでしょう。エクリチユールされたものを懐疑していく、それによって認識主体が固まってくるとおもいます。本来、自分自身というものはありません。これをパラフレーズすると長くなるのでやめますが、結論からいえば「あなたがどうおもうか」ということになります。こないだアーレントとレヴィナスの文献をあげましたが、それ自身も懐疑する事の必要性が自明だと考えます。私達人間はすべて生まれたときから、あらゆるものをあたえられています。だから自分で思考している事は思考してないという事になります。先にあげた文献を読んで懐疑してみてください。それがとっかかりになるかもしれないと希求してやみません。No.7
- 回答日時:
すべての認識は、“二者” を対比さすことによって、すなわち二者の相違を確認することによってなされる。
したがって「私」の認識も、私と他者と対比さすことによってしかなされ得ない。
そして、その「他者」を “何にする” かによって、「私」の認識の様相も異なる。
たとえば、
(1)他者/自然 ── 私/生命
(2)他者/無機物 ── 私/生物
(3)他者/植物 ── 私/動物
(4)他者/畜生 ── 私/人間
(5)他者/他人 ── 私/己(おのれ)
しかし、デカルトは、「私」を認識する他者として、さらに“思い”あるいは“想念”というものを持ち出した。
これは上記、羅列の(1)の前に位置付けられるものであり、
他者/想念 ── 私/魂
となろうか。すなわち、ここで言う“魂”とは、すべての想念を生む原因・エネルギーとでも言える。
それは当然、自然と生命の対比で定義される「私」のさらに深いところにある「真我」である。だからこそ、その真我によって、下位に位置する“自然”の探求が可能となり、ひいては自然科学の誕生の契機となったのである。
No.5
- 回答日時:
「私」って何処までが私なんでしょう?
300年以上も前のデカルトにしてみれば私っていうのは精神のことだし(しかも実体であるといってますから形而上学ですね)、100年以上も前のジェームスに言わせれば名声やら預金通帳やら自分の所有物の総体が「私」ってことなので、その辺が明確にならないと応えようがないです。
ちなみに私は今自分の腕やら足やらを認識できますが、別に疑うまでもないことです。
No.4
- 回答日時:
引用されているデカルトの言葉は、自我の明証性をあらゆる認識の根拠に置く、という意味で、まさに近代的思考といえるでしょう。
けれども、この考えではどうしても「他者」の存在を位置づけることができない。いわゆる「独我論」という問題に、不可避的に落ちこんでいってしまう。
もはや今日では、
> 私は私のみでも認識可能なのか
という考え方は、哲学の分野でも成り立たなくなっているように思います。
では、「自分」と「他者」の問題はどう考えていったらいいのか。
思いつくまま、いくつかの方向性をあげていきます。
社会学がどのように「自我」の問題をとらえていったか、というのは、このページに大変わかりやすく書かれています。
http://www.socius.jp/lec/08.html
とくにここで紹介されているG.H.ミードの『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』(青木書店)という本は、自我やコミュニケーションの問題を考えていく上で、非常に重要な本だと思います。
別の角度から。
「わたし」ということを、ほんとうにこの「自我」に一元化してしまっていいのか。デカルトが物体に分類した自分の身体は、ほんとうに「自我」が「所有」しているものに過ぎないのだろうか。
市川浩は『精神としての身体』(講談社学術文庫)のなかでこのように言っています。
----(引用 p.71-72)------
われわれがさいしょに出会う身体は、私である身体、つまり〈主体としての身体〉(主観身体)である。……この身体はわれわれの行動の基体であり、意識の明るい地平から、晦冥な、なかば霧にかすむ地平までをつらぬいて、つねにわれわれの前に、というよりわれわれとともに現前している。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、この身体は、ふつうそれ自体としては意識されないままにとどまっている。この意味でわれわれは身体をもつのではなく、身体であるというべきだろう。われわれは身体をもったり、もたなかったりすることはできないのである。
-------
こうして、身体のうちにある自己が、どうやって自己や他者を把握していくのか。
市川はいいます。
-----(引用 p.163-164)
もし自己と他者がさいしょから孤立した主観性であるなら、われわれは孤独を感ずることさえないだろう。われわれは根源的に他者とむすばれた存在であり、他者を介してはじめて自己として存在しはじめたからこそ、自己を独立の主観性として意識すればするほど、ますます孤独を感ずるのである。……
こうして他者は、私が自分を私として認識するための条件であるとともに、私としての私が存在するための条件でもある。私は他者を自己の存在条件として発見するのである。このような相互主観性の世界は、私が他者を意識の対象としてとらえ、かつ自分が他者の意識の対象となっていることを自覚することをとおして把握される。前者は他者の対象身体を介して、後者は私にとっての私の対他身体を介して了解されるのであり、両者の背後には、私の主観身体と他者の主観身体の把握が潜在している。
--------
もうひとつ別の角度から。
上田閑照『私とは何か』(岩波新書)では、仏教の基本思想である「私なるものはない」というところからこの問題についてふれられています。
ただ、これは語り口に反して、わたしにはものすごくむずかしい。たとえば「限りない開け」とか、西田幾多郎からくる「我は我ならずして、我なり」というのが、なんとなくわかったようで、ちっともわかってない。
だけど、わかんないのはわたしの理解力に問題があるかもしれません(笑)。ともかく、ここにあげられている様々な「実例」、あと、夏目漱石やブーバーの部分はおもしろかったです。
あとは、他者問題というと、レヴィナスということになるでしょう。実はレヴィナスはいつか読もうと思って、そのいつかがまだ来ていないのですが、たとえば『ヘーゲル』(今村仁司 座小田豊編 講談社選書メチエ)のなかのこのような部分を通して、その一端を知ることができます。
-----(引用 p.175-176)---
通常、他者は私へと現れるものであり、〈知〉の次元において考えられている。私が知ることのできる他者、私が認識することのできる他者である。…そのとき、他者を受けとめ、理解し、尊重するということは、まずなによりも他者をよく認識することであり、それは他者を客観的に位置づけ、一般性として了解可能な形態や様態を追求することである。
しかし私へと現れ、私が知ることのできる他者は〈他者としての他者〉ではない。その他者性を保ったままの他者、まったく異質な他ではない。他者をして他者たらしめている秘密――独特な単独性、特異性――としての他者ではない。
他者が他者であるゆえんは、真に現前するものとして私に現象することはないという点にある。……
他者という現象はある〈非現前の現前〉として現れる。根源から充満した同一性を欠く現前として現れるほかない。他者は現前するのだが、しかしその現前はある種の〈模擬=擬態としての現前〉というかたちで現れるだけである。
------
いくつかあげてみましたが、もちろんこれ以外のアプローチの仕方もあるでしょう。
何らかの参考になれば幸いです。
この回答への補足
たびたびすみません。
社会の多様性に合わせて自分も多様化するという現代において本当の自分というものがわからなくなる人がいたり、自分探しという言葉をよく耳にしたりします。
これに関してE.ゴフマンが状況に応じた役割演技をしているのであって、特権化された私などいない、といっています。
これに対して、今の時点での私には特権化された私というものは存在すると思うのですがどうでしょうか?
参考資料等の紹介ありがとうございました。
早速あたってみようと思います。
ところで。
「クーリーの批判はデカルトに対しては正統な批判になっていない。」
(http://www6.plala.or.jp/swansong/0157000taikakus …)
というページを見つけたのですが、納得できるようで納得できないような感じです。クーリー(社会学)で扱う私とデカルト(哲学)で扱う私には実際差があるのでしょうか。
本題からはずれますが、2年前にカントの件でもお世話になり、ずいぶんとghostbusterさんには感謝しております。(あの時は本当に困っていたのでかなり助かりました)
本当にありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
無意識世界はカオスとも表現されますが、これは間違いでも正解でもあります。
健康な無意識はけしてカオスではありませんが、煩悩、欲、悪意などのマイナス感情はカオスです。これらのマイナス感情を払拭しない限り自分自身の忠実な自画像は描けません。この事実をもってマイナス感情が現実でない証拠として、心から追い出す努力も出来ます。
No.2
- 回答日時:
デカルトの「こぎと」に関して私も質問した事があります。
宜しければ御参考に。http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568
あと、以下の質問
http://personal.okwave.jp/kotaeru.php3?q=1232179
に対する回答のなかでANo.19sirayukihimeが引用している過去の質疑
http://personal.okwave.jp/kotaeru.php3?q=153804
を御覧になってみてください。
これは但し相当長い質疑かつ難解ですが、昨今の当サイト質疑のレベルの甚だしい低下に比べ、きっと得られるものがあるだろうと、お薦めします。
参考URL:http://personal.okwave.jp/kotaeru.php3?q=153804
No.1
- 回答日時:
社會學は人間の集團がつくる人間同士の仕組みを研究する學問ですから、人間社會を構成する「私」の存在は無條件で認める必要があります。
人間社會の構成員である個人は、當人にとつては「われ」であります。一方、哲學では、「われ」の存在は無條件で認めるのではなく、「一體、われとは何か。果たしてわれは確かに存在するのか」などの疑問があります。その疑問をふまえて、「その疑問は私が發してゐるのは確かだ。私の存在を認めないと、この疑問自體が意味をなさないではないか」といふところから「われあり」と、われの存在を確かめるのがデカルトの有名な言葉かと思ひます。「私」をどのやうに考へるかにもよりますが、この世の中に、人間社會があり、些かでも他者との繋がり、交流、關係があるならば、社會生活を營む「私」は、「他者あつてこその私」でしかありえないでせう。假に、人類が絶滅して、「私」獨りが生き殘つた場合、「私を認識すること」自體が無意味になります。自分獨りが生き殘り、自分の腹の中に胎児がゐて、生まれくる子の爲に何かを考へる場合、それは既に、獨りではなく、他者を前提とした思考になります。
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