プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

「満願」を読んだんですが、特に何も感じられませんでした。
読んだ本の文末には「(中略)『満願』『女生徒』『富嶽百景』など、芸術的に寸分のすきもない整った見事な短編に転ずる」とかいてありますが、「満願」はすばらしいとは私には思えません。
この小説のテーマ、作者は何を伝えたいのか、満願を読んで皆さんは何を感じられたかを教えてください。

A 回答 (5件)

 これが傑作などのはずはありえません。

文庫本で2ページ半の長さで起承転結があるわけでもない。星新一のショートショートにはとてもかないません。
 もしあなたが、これに感動できないと劣等感を持っているのなら、そんな心配はいらない。西洋の文学観からいったらこんなもの小説の範疇にはいりません。
 たた、大変エロティックなことをさらりと書いているそのうまさが光っているのです。
 「奥さま、もうすこしの辛棒ですよ」、亭主は肺病で3年養生している、若い奥さんにいまがだいじと固く禁じた。何を禁じているのか、勿論若い夫婦のセックスです。しかし、「けさ、おゆるしが出たのよ」それで飛ぶように歩きパラソルを軽快に回しているのです。
 気持ちのいいセックス賛歌を日常の一こま―医者の家の縁側で麦茶をすすりながら新聞を読む―のなかにさらりと描き出したところがすごいのです。
    • good
    • 1

「満願」は昭和13年9月に発表されているようですが、


この年の11月に、太宰は石原美知子と婚約しています。
前年12年には、小山初代と自殺を図り未遂に終わっています。
(これは、もっぱら太宰が初代と別れたいがための狂言だとの説がありますが)
未遂事件以後、しばらく筆を断っていますが、
婚約を機に、太宰は心機一転、気分も新たに創作意欲を見せ始めたようです。
そんな中で、書いているのが、この「満願」や「女生徒」「富岳百景」なので、生活も安定し、
精神的にも前向きで、作品の完成度もとても高くなってきている
太宰の側面を感じます。この2年後、あの「走れメロス」の発表があります。
「満願」では、薬を取りにくる肺を病んでる教師の妻が
「もう少しの辛抱ですよ」と言われ、ついには
3年後に「お許し」が出るのですよね。それでパラソルがくるくるっと……… 
このあたり、言外に表わされている男女の機微(^^)を何となくほほえましく感じます。
ちなみに、美知子は女学校の教師で、太宰は肺を病んで兵役を免除されています。
ただ、私は、パラソルの妻の雰囲気が、この数年後に太宰の周辺に登場する、
太田静子に何となく重なるのですけどね……… (^^)
                                                 
    • good
    • 2

もう一度読んでみましょう。


きわめて短い作品ですから、すぐ読み返せます。
なんならWEB上の青空文庫で。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1564_ …

作者は何を伝えたかったのか。
それはこう書いてあります。最後から2センテンス目。
「年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。」と。

どんな美しい姿だったのか。
これもこう書いてあります。そのすぐ2つ前の段落。
「(……)清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。」

清潔な女性のうれしげな姿、はずむ気持ちが、年月経つほどに作者のまぶたに浮かんでくるのです。
それをただ「白いパラソルをくるくるっとまわした。」の一行で代表させています。
書きたかったのはこの生き生きとした瞬間でしょう。いま一度、情景を思い浮かべてみてください。
この日常のなにげない出来事。うっかりすれば見過ごしてしまう一瞬の情景。

この、作者が受けた感銘を読者に伝え、読者と感銘を共にするためにはどういう工夫をすればいいでしょう。
いきなり「若い女性が白いパラソルをくるくるっとまわした」だけでは、読者は何のことか分からず、感銘は伝わりません。
話の順序としてこの女性の配偶者が病気であること、女性はその薬を受け取りに医者に来ていたことを知らせておかねばなりません。その長い辛抱のこととともに。
また、作者がどうしてそんな身近で見聞できたかも言っておく必要があります。そのお医者さんと親しくなったいきさつ、お医者の奥さんと寛いで話せるわけも。

こんなふうにこの作品を読み返してみると、必要にして充分なことだけが書かれていることに気づかれるかと思います。
無駄が一切なく、文章は簡潔です。

そして読み終わって、読者のまぶたの中にも、
「飛ぶようにして歩いていく女性」「くるくるっとまわったパラソル」が、よみがえってきませんか。
直接には見ていなかったのに、作者と一緒に見ていたかのように。

たったそれだけのこと?
はい。でも、それはとても大切なことなんです。
日常の些細なこと、それをすっとすくって見事に提示してくれる作者もたいしたものです。
短編小説にはしばしば詩の味わいがありますが、これもその一つかと思います。

以上、私なりの読み方、見かたです。参考に資するところがあれば参考にしてください。
    • good
    • 3

確か学校の宿題で買った短編集で読みました。

他の作品が
課題だったのですが、これも印象に残っています。

 清々しさを鮮やかに切り取ったような作品だと思いました。
他の作品とは違って、捻くれた所が余り見られない気がしました。
短い文章でしたが、質問者さんの読んだ「芸術的に寸分のすきもない
整った見事な短編」という評価は個人的には納得しました。
    • good
    • 1

 うーん、困りましたね。


 一般に芸術作品との出会いは、人との出会いと同じで、出会う側の感受性の問題ですね。質問者さんが、太宰の『満願』を読んで「何も感じられなかった」のなら、「それまで」のことです。それは、解説者が「見事な短編」と一種の権威性によって保証しようがしまいが関係ないことです。100人中99人が「素晴しい」と言っても1人の「私」が「否」と言えば、それは「私」の世界では完結します。
 よく言われることですが、作者が何を伝えたかったかについて、賢しらに知りたがるのは「愚の骨頂」となる虞があります。
 「満願」を読んでの感想をということ。最後のパラソルがくるくる回っている描写を読んで、非常に微笑ましい思いがした、くらいですかね。題材と描写の間にムダがなく感嘆しました。
 質問者さんのお求めになっている答えになっていませんが、他の方のアドバイス(ないし回答)も参考になさってください。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!