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塩田剛三という方の技は、真実なのでしょうか?私は詳しいことはわかりませんが、あんなに小柄の人間がもし総合格闘技(階級無差別)などに出場した場合、果たして通用するものなのでしょうか?
私は格闘技を10年ほどやっていますが、体重は格闘技において非常に重要な要素です。同じ技量の選手で30キロの体重差があれば、あらゆる技が効かなくなるのは常識。
この方の映像を見ると単に相手が投げられてやっている気がしてしょうがありません・・・・これは本物なのか?・・・

A 回答 (34件中11~20件)

>随分、前の話になってしまいますが2万5000?の技を


教えられる人は現代はいないと仰いますが、それはそうですよ笑
達人と言われる人は自分で試行錯誤して無意識で覚えるわけですから
それを1つ1つ確認しながら全て弟子に教えるなんて不可能です。

確かに、Ganbatteruyoさんの文面は長文な上に難解な表現が多いように思いますが、違うジャンルの方、つまり素人にわかりやすいようにと考えた為、そうなったのでしょう。27万5千は多すぎるように思いますが、一つの技に一つの動きではなく、一つの技にも臨機応変な動きが含まれているといったことを仰りたかったのではないかと考えます。

>Gさんと言う方は余程、有名な方なのでしょうね。
自分が全て正しくて他の合気道家などを全批判出来る立場
の人なのですから・・・

念のために申し上げますが、『Gさん』とはGanbatteruyoさんの略称ですので、もととなったGanbatteruyoさんの発言にも目を通した上で仰っているんですよね。全批判の発言には見えませんが、批判はなさっておられますね。柔術や合気道 (古いもの) にも打撃術があったり、内包されていたりすることをご存じないのでしょう。
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こんにちは。


さっそく補足をありがとうございます。
質問者さんは「でも闘わなくては質問できませんか?回答者さんはどうでしょう?」とありますが、それでは伺います。
あなたは、べつに合気道と、ましてや塩田剛三と戦ったことのない人達の意見を集めただけで「現在の格闘技の世界では塩田剛三は弱い」という結論に満足なのですか?

一応、参考になれば、僕の経験談を書きます。
ご察しのとおり、僕は塩田剛三の養神館に10年ちかく通っています。段位はたった弐段ですけど・・・
でも僕自身は柔道のほうが得意で合気道なんていまだに使える自身はありませんし、合気道が強いとも思っていませんでした。
で、養神館のとある指導員に柔道的な乱捕りをお願いしてやってもらったことがあるんです。もちろんその先生はまだ神業的な技が使えるわけではないのですが。そのときの感想を書きます。

「軸が強い」

もちろん僕も合気道を知っているので手首を捻らせることはさせません。逆に柔道技で投げてやろうと思ったのですが、軸が強くて崩れないのです。
よく柔道の、大きい人はいくら技をかけてもビクともしないじゃないですか。あんな感じなんです。
もし殴りもありだったら、下手な投げに入ったあとぶん殴られてたなと思いました。

 そこで質問者さんの質問にぼくなりの答えを書きます。
合気道はパフォーマンスのために型練習を繰り返しているのではなく、体の中心にぶっとい軸をつくるための稽古かと思われます。
つまり、トレーニングジムが筋肉を鍛えるところならば、合気道は体軸を鍛えるジムといったところでしょうか。
ただ、体にぶっとい軸をつくりあげただけでは、ボディビルダーが筋肉を身につけただけと一緒で、実戦の強さには、プラス格闘センスが必要だと僕は思います。(ちなみに、塩田剛三は柔道も参段もっているんですよ。格闘技の下地はあったんです。)

最後に書きますが、僕自身、師範の人と立ち会ったことはまだありません。なので、師範の先生がどれだけ強いか知らないので、これ以上知りたいのでしたら、ぜひご自身で試されてみては?

この回答への補足

再度の回答ありがとうございます。

>最後に書きますが、僕自身、師範の人と立ち会ったことはまだありません。なので、師範の先生がどれだけ強いか知らないので、これ以上知りたいのでしたら、ぜひご自身で試されてみては?

はい、一応、大学で教えられている師範に一度だけお手合わせしていただきました。その先生はもう50代の年齢でしたが、私が感じたのは、体捌きが速くて、体は細いのに手首の力が異常に強いことに驚いた記憶があります。
逆にしっかりつかんだら手技を食らうと思ったので、おもいっきり諸手刈り(タックル)にいったら、意外とコテンと倒れてしまい「そりゃ反則だよ」と言われてしまいました(笑)

たまたまタイミングよく入ったんでテイクダウンが取れたのかもしれませんが・・・あとで合気道部の友人にも諸手刈りやってみたら結構決まったんで、これは使えるな~などと一人考えてました。

まぁ私の昔話はどうでもいいんですが。
回答者さんに質問なんですが、もしボクサーなり空手家なりにパンチやキックを食らった場合、合気道はどのように対処するのでしょうか?

補足日時:2007/01/09 00:44
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>話を塩田先生に戻しますと、その時代の武道家の中では塩田剛三は一流であり、強かったけれども、それは過去の話であって、現代の格闘家とは比較の対象になりえない、と。

さらに、合気道などの各種武道は実際のストリートファイトでは、有効な護身術とはなりえない。ということですね。

どこをどう見たらこんな解釈に・・・Gさんの仰っておられる事を曲解しすぎじゃないかと思いますが・・・正しいのですか?Gさん。

>私は古武道をあまり知りませんが、そこで言う武道の達人の「強さ」とはいったい何なのでしょうか?格闘技では見えてこない強さとは?そして武道の眼とはどういうことなのでしょうか?
再度のご回答お待ちしております。

戦場用と試合用の技は違います。更に、戦場での強さを求めた技と試合での強さを競い合う為の技では、根本的に違います。手裏剣とダーツ、居合術と居合道・試斬道、投げ矢とドッジボール、狙撃と射的、これらのように、武術と格闘技には少し似た部分があるだけであって、別のジャンルなのです。将棋と囲碁、プティングと茶碗蒸しなのです。 (注意:お気付きとは思いますが、私が述べた「武道」は武術のことであり、合気道のことではありません。分類上武術ではないのです。) 強さとは力量です。武道の眼とは、洞察力、特に強さに関する洞察力のことと申し上げればよろしいのでしょうか。身体運用法が根本的に異なる格闘技の経験者の、格闘技の眼は、武術の強さを見ることが出来ない事が多いです。
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こんばんは。


どうも質問者さんのご回答を読んでると、塩田剛三は現代の格闘技界では強くない。という意見を多くの人から求めていたように見えます。

合気道が怖いですか?

疑問があるなら、直接養神館に出向いて師範なり指導者なりに立会いを求めればいいのに・・・
実際に合気道と立ち会った人の経験談も出てきていないのに、理論と想像で議論しているなかで、「塩田剛三は弱い」という意見にだけ、「そうですよね!」的な発言をしている質問者さんは、言論で塩田剛三に勝とうとしているようにしか見えませんよ。

別に、塩田剛三は「合気道は世界最強」なんてうたったことは一度もないですし、演武は、「呼吸力が身につけばこんなこともできますよ」というパフォーマンスにすぎないのに、それを自分のフィールドである格闘技の場に立たせたらという議論を持ち出して、実際自分で合気道と立ち会おうとしないのは、合気道が怖いですか?

この回答への補足

うーん、確かにこれらの長い論議を大まかに振り返ると、私の意見は前にも書いたように、率直に言えば、合気道は総合格闘技という分野では使えないものである、という意見に見えてしまうのかもしれません。

合気道は怖いか?というご質問(回答?)に関して、私は怖いです。ただ私はあらゆる武道・格闘技が怖いです。ボクサーや空手家なんかとノールールで闘いたくありません。でも闘わなくては質問できませんか?回答者さんはどうでしょう?
ただ私のような臆病者にも合気道に関して疑問が芽生えたので質問をさせていただきました。

合気道自体は学生時代に授業で1年ほど習ってはみましたが、そこで教える先生の方針なのか、乱取り形式の試合もやらせていただいて、それが面白いな。程度の感想ではありました。もっと奥深く修練すればその凄さがわかってくるのかもしれませんが・・・養神館?

私は合気道を見下す為、けなす為に質問しているのではありません。ただ疑問を持ったから質問しています。
ではなぜこんなにたくさんの方のご回答をいただけるのでしょうか?多くの方が私のように疑問を感じていらっしゃるからですね。

では型の練習ばかりするのもパフォーマンスの練習ですか?回答者さんは合気道の経験者の方ですか?
文面からはそのように見受けられますが。であるならもっと論理的なご回答をお待ちしております。

補足日時:2007/01/06 11:41
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Gです。

 あけましておめでとうございます。

60歳の武道家を「名乗れる」人と60歳では決してプロのリングには上がれないので元プロと言う表現をしなくてはなりませんが、その二人が戦ったらどうなるか、と言う例のほうが(ばかばかしいことですが)今回のご質問に合っているのではないでしょうか?

死ぬまで戦える自分を作ると言う武道の考え方を持っている人と30ではもうだめとされるプロ格闘技をする人とは根本的に違うのです。

しかも、自分が属する格闘技のルールを専門にトレーニングした人が何でもありの路上でどうやって戦うと言うのでしょうか。 

何でもあり、と言う事はいわゆる卑怯なことも汚いことも起こる、と言う事なのです。 これを「生死をかけた戦い」と呼ぶわけで戦場での戦いなのです。 砂漠での戦いもあるでしょう、ベトナム戦争みたいにジャングルの中でのこともあるでしょう。 飛び道具も落とし穴もあるわけです。 なぜ、最新のスナイパー銃には目には見えない赤外線スコープがついているのでしょう。

はっきり言いますね。 なぜアメリカがベトナム戦争で勝てなかったのかと言うと武道と言う何でもありの戦い方を基本とした訓練がなされていなかったのです。 言い過ぎました。 されていました。 ただ、それが軍隊全部で使われたわけではなかった、と言う事なのです。

そして、何か大きな誤審をしているのが、先日も書いた「武道は向上するもの」という事を全く無視した「条件」を持ってきて塩田先生は勝てない、と言っている事です。 

塩田先生が60歳の時は1970年代なのです。 この時の格闘技の選手と言った誰ですか? 

植芝先生は? 嘉納先生は? 空手の流祖の数々は? それも1920年代ですよ。 「何でもあり」がちのそのころでの格闘技はお相撲しかなかったのです。 私が言おうとすることに気がつきましたか? だから彼らの実力は認められたのです。

更に書くことがありますね。 

そうです。 格闘技は向上を続けてきたのです。 でも、武道はどうでしょうか。 逆戻りを感じさせる、と感じる人が多いのは理解できないことではないと思います。 向上させなくてはいけない、指導できる指導員が必要と私が感じているのがお分かりですね。 武道の強さを知っていると自信を持っていえるからです。 

武道と言うものをないがしろにしたのは誰だ、と言う事はすでに問題ではないのです。 しかし、武道を強いものだと言うことを分からせる必要はあるのです。 体力的に強いことは確かですが、それと同時に「人を強くさせる」力も強いのです。 強くさせることが武道だからともいえます。

しかし、今の日本の自称武道家にどれだけこれを心から言えるでしょうか。 誰でも強くなれるように指導できる指導員がどれだけいると言うのでしょう。

伝説の武道家はその時代で自分を生かしたまれな武道家の事を言います。 それらの人たちに少しでも近づこうとしなくなって50年もたっているのです。

格闘技の元を作ったのが武道なのに、なんでもありと言うルールのない場でルールの元で訓練した人に負けると言うことはおかしいのですね。 負けないための武道、と何回も書いてきました。 勝つ為のでなくても負けはしない、と言う事を前提としたものでありながらちょっとしたチンピラに負けてしまうなんておかしいわけです。 「和」というものは戦いを避けとおすと言うものではありません。 避けて通せない場合もあるのです。 奇麗事では「和」は作れません。 一万分の一の確率でも有無を言わせぬ実力を使わなくてはならない時だってあるのです。 それが護身術という武道の一部なのです。

そして「和」を作ると言うことについて、27万5千のひとつです、「和」を作っているという人ないし指導員はどうやって「和」を作り上げていくのか教えていると心から言えるのでしょうか。 「戦い」から逃げているのは「和」ではありません。 「和」を作る戦いに挑む力が必要なのです。 

柔術にしろ合気道にしろ演武では受けは関節技から「怪我を避けるために」自分から投げられるのです。 これについては私は全く異存はありません。 しかし、「自分を投げられない」チンピラはどうするのでしょう。 そうです、関節が外れてしまったり関節が壊れたり、腱が切れたり筋肉が切れるのです。

殴るのはだめで関節を破壊するのはOKとでも言うのでしょうか。 何か根本的なことからずれている、と私は言うのです。

この回答への補足

再度の長文のご回答ありがとうございます。

”「和」を作る戦いに挑む力が必要”というコンセプトはとても理にかなったものだと思います。私はここまで深く武道に関して考えてこなかったので、Gさんのご意見には、深く考えさせられます。

最初の質問に関する回答者さんたちの回答がかなり奥深くなってまいりましたが・・・

話を塩田先生に戻しますと、その時代の武道家の中では塩田剛三は一流であり、強かったけれども、それは過去の話であって、現代の格闘家とは比較の対象になりえない、と。

さらに、合気道などの各種武道は実際のストリートファイトでは、有効な護身術とはなりえない。ということですね。

Gさんのおっしゃる真の武道とは、生死をかけた闘いに勝つ、ような一種の殺人術のような意味合いになるのでしょうか?
もしそうでないなら、50kgの女性が100kgの男性に勝つ方法は無いような気がします。
まぁ何をもって「勝つ」という意味合いにするかは、難しいですが・・・KOする、生き残る、暴行されない、他いろいろな定義によっても「勝つ」の意味はありますが・・・

もしヒョードル選手のような格闘家が相手であっても、路上の闘いならGさんは勝つ自信がおありでしょうか?

補足日時:2007/01/06 01:08
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新年明けましておめでとうございます。


今年もよろしくお願い致します。

>「武道を格闘技の見方で見ない」という事に関して、私はなにかすっきりしません。じゃあこの相手がこんな動きをしてきた場合果たして私が習ってきたこの技は使えるのか、否か?と子供心にも思いませんか?合気道をやっている方がボクサーにパンチされる時どのように防ぐのか、私は「ぜひ見たい」と思います。そしてそれが実際に有効かどうか、ただ「見てみたい」のです。plutoさんはどうでしょうか?

私も見てみたいと思う方ですが、武道を格闘技の見方で見るか見ないかとは全く関係のないことです。

>狭い武道の一流派の中だけで、流れるよう型の技を見て満足ですか?お偉い先生方が型にはまった技をするのを見て純粋に凄い!と思いますか?私は不満です。

格闘技系の方がよく仰る話ですね。偉い先生かどうかは関係ありません。型 (いがた) にはまった動きは『技』ではないので、恐らく凄いとは感じません。大雑把にいうと、形は一定の形 (姿勢) であり、いがたではないのです。

>柔道の吉田選手がPRIDEに出て、払い腰でぶん投げる、極真のクラウベ選手が上段回し蹴りでKOする・・・という攻防を見たくはありませんか?

別に観たくはありません。稀に良い動きがみられますが、「稀」なので・・・。

>狭い世界での武道を究めるのであれば、武道と格闘技は別。で良いでしょうが、今これだけ”総合”なり”K1”という分野がもてはやされて、多くの武道家が挑戦する事は、意味があり、皆が私と同じ意識を持っているということです。

総合、K1などの格闘技自体が、本来の意味で「狭い世界での武道」の極まったものであることを、お忘れではありませんか?
ご理解頂けないと思われますが、武道の達人の「強さ」は格闘技の目で見えるものではありません。他の武道を格闘技の見かたで見てしまっているご自身にお気付きになり、武道の眼を理解しなければ、俗に言う古武道の「強さ」は分からないでしょう。

18番のご回答に
>全く持って油断しやすい外見的条件が揃ってるんですよね…。

とありますが、達人は独特の風格・気迫があり、写真や動画で見るのと、実際に対面した時とを同じように考えてはいけません。空気を読む感覚が鋭敏な方は、その風格にすぐに気付くと思われます。

この回答への補足

あけましておめでとうございます。新年からの早速のご回答ありがとうございます。年末は格闘技をTVやネットで見ておりました。やはり面白いですね。

plutosさんよりいただいた回答の中で、

>ご理解頂けないと思われますが、武道の達人の「強さ」は格闘技の目で見えるものではありません・・・

の部分、私は古武道をあまり知りませんが、そこで言う武道の達人の「強さ」とはいったい何なのでしょうか?格闘技では見えてこない強さとは?そして武道の眼とはどういうことなのでしょうか?
再度のご回答お待ちしております。

補足日時:2007/01/05 23:48
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帰省して暇が出来たので、こちらの質問にも回答させて戴くことにします。


難しい武道論は不勉強で解りませんので、単に「達人と呼ばれる方々は強いのか」という点についての、個人的な意見ですが。

結論としては、強いですよ。
もちろん、一流のプロ格闘家と試合の場で戦えば100%負けるでしょう。
でもいわゆる「巷場の喧嘩」なら、勝つかどうかはともかく、負けずに切り抜ける可能性は非常に高いと思います。

というより、60歳をとうに過ぎた老人を相手にして、体重でも身長でもはるかに上回る現役バリバリのプロ格闘家が、自分の職場であるリングの上で戦って勝つも負けるもないのです。勝てない方がどうかしてます。
実際の格闘技を知らない人達はともかく、実戦的なトレーニング・稽古を積んで来た人達の間でそういう結果の判りきった事が議論になる事自体が、私には不思議です。

でも、達人が強いのも事実です。

自分に置き換えてみましょう。
定年をとっくにすぎた年齢になったとして、しかも160センチ程度の身長と50キロあるかどうかの体格だったとして、自分だったらどの程度の戦闘力を発揮できると思いますか?

達人と言われる人達は、見た目やその年齢からすると非常に高い戦闘力を持っています。
実際にそれら達人に師事する人達は、その点に驚き、敬意を払うわけです。
稽古をつけて戴いて、別にトップクラスのプロ格闘家より強いから驚くわけではないのです。
長年の武道歴で身につけた「このくらいの年齢、体格ならば、このくらいかな?」という読みを遥かに越えている事に「(俺の経験上では)信じられない!常識外の達人だ!」驚いているわけです。

試合ではともかく喧嘩などの実戦の場に限れば、一流プロ格闘家と戦っても勝ち目は充分というのも、同じ理由です。

その人が名手だと知らなければ、ただの爺さんですからね。相当油断しちゃうんですよ。少なくともいきなり問答無用でフルパワーのラッシュを掛けるなんて、正常な人間なら出来ないですよね。
ところがその爺さんが、外見で普通の格闘家・武道家が自分の経験から想定するよりも、実は数段上のレベルで速く、強く、巧く動けるとしたらどうでしょう?
達人と呼ばれる人達は、相手に油断があれば相当な体格差のある相手でも封じられるだけの動作の鋭さや技術は持っています。そして、全く持って油断しやすい外見的条件が揃ってるんですよね…。
(貧相な老人を「爺さんは引っ込んでろって」と余裕たっぷりで押しのけようと手を伸ばしたら、一瞬で指を折られて捻られた場面を想像して見て下さい)

絶対値としての強さで達人が現役トッププロより強いというのは、少なくともルールのある試合では極めて考えにくいです。
しかしノールールの路上では、達人が世界チャンピオンに一泡吹かせることも有り得るだろうな、というのが私の実感です。

この回答への補足

うーん、なるほど。確かに塩田剛三のようなお爺さんをパッと見たら、本当にただのお爺さんに見えますよね。もし若い格闘家がそのお爺さんと喧嘩する(ありえませんが・・・)とか格闘技をした場合、当然ナメてかかるし、合気道の達人でもないから、簡単にやられちゃうと思います。

そういう状況では「一泡吹かす」のは十分ありえる・・・ただやはり、リングの上での絶対値としては強くは無い。

私もその意見に賛成です。

補足日時:2007/01/02 16:08
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誤解されてる感じのお返事を頂きましたので、一応申し上げておきますが、私はある武道の修練者であって、合気道の経験者ではありません。



>私のような一般人は武道に限らずすべてにおいて「なんとなく生き、なんとなく仕事をし、なんとなく格闘技を続けて、なんとなく死ぬ」のだと今まで無意識ながら漠然と考えてはいました。私に限らず多分ほとんどの方は同じ考えだと思います。平和ボケなんでしょうか?

今までの文面から、kojimwptさんは格闘技をなさっておられるんですよね?
Ganbatteruyoさんは武道といっても、いわゆる武術・古武道分野の方で、おそらく格闘技やスポーツ武道とは趣を異にします。
ですから、
>何か、今までの私の武道というのは、本当の意味での武道ではなかった・・・という感があります。
と仰っておられますが、スポーツとは分野が違うので、お気になさらずともよいと考えます。Ganbatteruyoさんのお考えに感銘を受けたのなら、これを期に他の武道を格闘技の見かたで見るのはやめにしませんか。
誤解されてる感じのお返事を頂きましたので、一応申し上げておきますが、私はある武道の修練者であって、合気道の経験者ではありません。

>「素直な疑問も投げつけられるし実際に道場破りも来る」
は、日本でもない訳ではないようです。

この回答への補足

確かに、plutoさんのおっしゃるように、私のやっているスポーツ武道とGさんのやっておられる武道はかなり「違うもの」ではあると思います。ただ、私自身もなぜ武道をはじめたのか?と問われると、ただ純粋に「強くなりたい」というまぁ一種子供の夢というかそのような単純なことを考えて、武道をはじめた。つまりその夢を突き詰めていくならばGさんのような意識で武道をやらなくてはいけないのかもしれません。ということです。そういう意味で軽く武道を考え、軽い意識で教えていた、と言えるのかもしれません。まぁ武道、武道といっぱしに言っても、「結局スポーツじゃないか」と言われるとそれまでのような気もしますが・・・ただ道場破りというのは私は経験したこと無いですし、聞いたこともありません。それくらいの危機感を持って武道をやってらっしゃるのはすごい事ですよね。
「武道を格闘技の見方で見ない」という事に関して、私はなにかすっきりしません。じゃあこの相手がこんな動きをしてきた場合果たして私が習ってきたこの技は使えるのか、否か?と子供心にも思いませんか?合気道をやっている方がボクサーにパンチされる時どのように防ぐのか、私は「ぜひ見たい」と思います。そしてそれが実際に有効かどうか、ただ「見てみたい」のです。plutoさんはどうでしょうか?狭い武道の一流派の中だけで、流れるよう型の技を見て満足ですか?お偉い先生方が型にはまった技をするのを見て純粋に凄い!と思いますか?私は不満です。柔道の吉田選手がPRIDEに出て、払い腰でぶん投げる、極真のクラウベ選手が上段回し蹴りでKOする・・・という攻防を見たくはありませんか?
狭い世界での武道を究めるのであれば、武道と格闘技は別。で良いでしょうが、今これだけ”総合”なり”K1”という分野がもてはやされて、多くの武道家が挑戦する事は、意味があり、皆が私と同じ意識を持っているということです。

補足日時:2006/12/30 17:40
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Gです。

 

>何か、今までの私の武道というのは、本当の意味での武道ではなかった・・・という感があります。

私のプロフィールを見てください。 「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった人が、あれほど生きたいと願った明日」が武道を毎日使う「覚書」なのですね。 これに感じるものがあるのでしたら、「部ではなかった感がある」と気がついたことが明日のための今日自分に植え付けた種なわけです。 今日から新しい自分のための武道の「道」を歩むわけです。 知らなかったことへの悔いではなく、知らなかったことを知ったことへの喜びなのです。

>私はGさんがすらすらとこの大問題に対して答えが出せることに、非常に尊敬いたします。

そういってくれて、ありがとうございます。

>Gさんは様々な経験・体験を経て、この答えが出たのではないでしょうか?

すべて私の両親のおかげです。 武道とは無縁の両親ですが、私を生かすために己の死との戦いと「種をまくこと」を教えてくれた二人です。

>平和ボケなんでしょうか?

いいえ、ただ、武道の教えを武道の教えとして見せてくれなかっただけだと思います。

>40-50ほどの「技」から275000ほどの武道要因について、要はすべての物事について、論理的に深く思考する、そしてその結果を我が身の血と肉になるまで鍛錬する。と言うことになるのでしょうか?

武道とはそれだけ体系付けられたものなのです。 つまり、漠然と物事を教えるのではなく、土台作り(種まき)から始まり、順序良く向上に基づいて更なる土台作りを繰り返すわけです。 この「土台作り」と言うものがいつまでもたっても土台作りしているように見るような弟子を作るから「焦る」のです。 そして形だけで良い、と言う結果を自分に作ってしまうのです。 使える土台を作っていくわけですから土台作りは永遠に終わりがありません。 そして、その土台作りが弟子に受け継がれていき、更なる土台作りが始まるから武道自体が有無を言わせぬ実力に基づいたものになるわけです。

川は逆流しないのです。 しかし日本の自称武道家や自称師範はそれをしてしまったわけです。 

実力無しにでは教えられない(教わりたい人はいない)アメリカでは「素直な疑問も投げつけられるし実際に道場破りも来る」わけです。 それに答えられる・応えられる自分がなくては教えることは出来ません。
  
>あまりに深く、あまりに広く、かつ激烈な教えのような印象を持ちましたが・・・

そう「見える」かもしれませんね。 しかし、私よりもっともっとすばらしい人たちがいるわけですから、彼らからしてみれば私がやっていることなんてほんの小学生がしていることと同じでしょう。 しかし、その小学生でも幼稚園生からしてみればすごいことをする、と感じるのです。 しかし、それは単なる「虚像」なのです。 幼稚園生は小学校に上がるのです。 そして、小学生になって、思い出すときがあれば「何だこんなことだったのか」と思えるわけです。 そして、また、上を見るわけですね。 

私はつきに必ず一度「落ち込み」ます。 無力感も感じます。 そして「その落ち込みを喜べる」様になりました。 落ち込み・スランプは単なる「休憩」「昼ね」「ガソリン補給」の為の「前進のない状態」に過ぎないのですね。 前進が止まる、と言う事はすなわちそれまで前進してきた、と言う事なのです。 前進してきたということは、自分の向上があった、と言う事なのです。 そんな時、「から」の空を見あげて自分の手を見てそしてひとかけらの雲を見つけることで無限の世界の中のこのちっぽけな手を握る事がどんなにこれからの自分の存在を高めることへの自信がわくことでしょう。 もちろん空手と言う名前のこじつけです。 無限を無の延長と考える武道の考えがこのこじつけからも自分のモチベーションを高めることが出来るわけですね。 

死と言う「生の限り」を作り出せる自分を作り上げてきた武道が「生と言う死の限り」を作り出す瞬間でもあるわけです。 (今は頭の隅にでも置いておいてください) それを喜ばずにいられませんね。

英語ではPushing your limits.と言う表現をします。 今日の「限度」を押し上げる、と言う表現です。 

>Gさんのやっておられる格闘技の流派とは何というものなのですか?いままでの回答を読ませていただく限り、かなり実戦向きの空手か、なにか総合格闘技ですか?

日本のいわゆる4大伝統空手のひとつだと言うことだけしかこの場ではいえません。 しかし、かなり実戦的なのは空手である以上当然なのです。 なんでもありの武道のすべてを尽くす事を前提にした昔からの「自分を生かすための空手」です。 

>教えていくにあたって、けが人や事故などのアクシデントはどのように対処されているのでしょうか?

4級以上すべての弟子は赤十字公認の緊急・応急手当士、3級以上はこれに心臓および呼吸停止からの蘇生技術士の免許を持たせています。 Defibrillator(AED除細動器)の使用管理も出来なくてはなりません。 もちろん、それらの為の医学的・そして心理・精神的知識は黒帯の必須科目ともなっています。 よって、道場だけでなく、交通事故なの度犠牲者の応急手当なども必要に応じて行います。

SWATの方ではとかく事故が起こりやすい状況を作り出してしまうので昔は(8年位前までは)よく「一般人なら気絶するような事故」が良くありました。 もちろん、それが理由でSWATの訓練指導が必要だったわけですが。

>またGさん自身空手をやっておられて、どのような経緯で今の教え・生き方に至ったのか、ぜひ教えていただきたいと思います。

武道の道に転がっている拾う必要のある27万5千個の宝物を拾わされたおかげと今は言わせてください。 また長くなってします。

わたしが言いたいのは私だから出来ている、と言う事では決してないのです。 土台作りを今日から始めれば必ずこの宝物を一つ一つ自分のものにしていくことに成るのです。 言ってみれば、「副産物」なのです。

明日が早いのでこれで終わらせてください。

この回答への補足

再度の詳細な回答ありがとうございます。Gさんの今までの回答を読ませていただくと、やはり今の日本の武道の指導者と一線を画しているなと思います。様々なバックグラウンドがあり、様々な意見があって、アメリカはアメリカの、日本は日本の「武道」があると思います。ただ言える事は、アメリカの武道は強いなということです。別にアメリカ人が体格がよくて、運動神経も良いというのではなく。先ほども言ったように、「論理的にかつ実践的に」武道をとらえている、と私は思うからです。いまだに日本の古い指導者は頭ごなしに「あれはイイ、これはダメ」と教える指導者が多く、そこでなぜ?どうして?と聞く雰囲気すら許さない。「一人親方」「技は教わらずに盗め」のような指導者がおり、多分このような教えはいいか悪いかは別として、武道をやる上で致命的な”上達の遅れ”を生み出していると思います。
道場を運営していくとき、当たり前ですが練習生がいないと経営できません。どう練習生を集めるか?どう練習生に教えていくのか?まずここを大切に考えなくてはいけないのに、上部組織にばかりいい顔をして、実際の指導には踏ん反り返って「暇つぶし」程度の指導。こういういい加減な指導がまかり通っているのが日本の武道場の現状でしょう。練習生たちが非常にかわいそうに見えます。私はこういう状況が実は大嫌いでして、もうそういう踏ん反り返っている諸先輩方は無視して自分の指導をしようと考えておるのですが、なかなか理想と現実の狭間で悩んでいるところではあります。
この根源はなにか?と考えてみるとやはり日本特有の体育会系のアホな上下関係、建前重視、和を尊ぶ、争わない、極端な平和重視の文化が根底にあるのだな・・・と最近感じております。
そういう意味ではアメリカでやってらっしゃる武道はこれらの「甘え」が許されませんから、道場破りもおるし、懇切丁寧に教え、かつ応急手当の指導もしなければ道場がつぶれてしまうのはよくわかります。ある意味毎日が「真剣勝負」の状況でしょうか。
私も海外で修行をしようと思いました。
長い回答を何度も送っていただきありがとうございました。

補足日時:2006/12/30 18:58
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Gです。

 また、補足質問を読ませてもらいました。

>結局何を基準にし、何のために武道を教えていくのか?

基準は「明日の自分」です。 今日の自分より上の自分です。 そのために、今日を大切にする、と言う事なのです。 生まれてきた以上、生きなければなりませんね。 生きなくてはならないということは「自分を生かす」ということですね。 「殺さずに生かす」「殺さないように生かす」そして「自分を生かす」なのです。 自分というものをどうやって「生かす」のか。 のほほんと生きるのは自分を生かしているのではなりませんね。 どうせ生かすのであれば他の人も生かせ、と言う事になるのです。

これは、他に人にも「自分を生かす」事を教え、そして、自分を殺しに来る人も生かす、のです。 そのための実力をつけるのが今日なのです。 終わりのない武道とは、言い換えれば、自分に終わりのない向上を導く、と言う事でもあるのです。

だからこそ、私が属する流派では、まず、初段になる為には「人を殺せる実力」を持たせるのです。 その実力を持つことがすなわち、段を上るはじめなのです。 一段ではないですね。 あくまでも初段なのです。 そして、死ぬまで同じ色の帯を締めます。 帯の色で実力を測るものではないのです。 そしてその前に同じ茶帯を3,2,1級と締めるのです。 3級も1級も同じ茶帯なのです。 3級続けて同じ帯を締めるということは、初段になる前の、一生同じ帯を締める予行演習みたいなものです。 そして私の流派では、初段補といって白帯を締め、白帯としてしごかれるのです。 先輩面は排除と言う事です。 初心忘れるべからず、の復習ですね。

人を殺せる、と言う事はそれだけ、相手を「赤子に出来る」と言う事なのです。 相手が反撃できないようにして攻撃を食わせるわけですね。 卑怯千万、と言う事なのです。 この事実を実力といっている間は、自分を生かし相手を生かし、そして人の命というものを大事に出来る本心を作り上げることは出来ません。 この本当の意味での実力を死ぬまで同じ帯を締め続けながらつけるわけです。 口先だけの奇麗事を言って、人の命や傷つけることの非妥当性を説いても、自分では黒帯に「どうやって一撃必殺を成し遂げることが出来るか」を教えているようでは、他の人たちに「自称だけの師範」と呼ばれても仕方ないのです。

だからこそ植芝柔術、嘉納柔術として恐れられた実力者が「あえて」スポーツ化、和を重要視した姿勢を選ぶしかなかったわけです。

武道とは自分を生かすもの、と書きましたね。 生かすために自分の命を守ることは当然なことですね。 殺されては自分を生かすということにはなりません。 <g> しかし、それは、生物的なことでしかありませんね。

なぜ武道には精神面というものを大切にするのでしょうか。 いいえ、ただ礼儀正しいとか礼に尽くすだけでは「自分を生かす精神面」にはなりません。 礼だけではただの形だけです。

自分を信じ、自分の向上を信じ、自分のモチベーションを高め、自分の一部を自分の外に分け与えることの出来る有無を言わせぬ実力をつけるための精神力なのです。 苦難に負けず、苦境に生きることが出来る自分を創る事が結局自分に負けない自分を創ることに成るわけです。 そしてそれは誰にでもできることであることを証明することでもあるわけです。 

運動神経が良いだけの、若いからできるだけの自称武道ではどうやって死ぬまで自分を伸ばしていくことが出来るというのでしょう。 死ぬまで自分を伸ばしていける土台作りがすなわち「自分を生かす」と言う事でもあるわけです。 その土台作りが初段までの道のりなのです。

何色にも染まらない黒を自分のほんの一部として身につけ、「なくてもちゃんとズボンが落ちない、意味のないように見える帯」を締める意味がここに出てくるわけです。 それを認識することで、黒帯を締めなくても黒帯たる実力を持つことになるわけですね。

死ぬまで自分を生かす、その明日のために今日を自分のすべてを出して生きる、これが武道の基準なのです。

>最後に「40-50ほどの「技」から275000ほどの武道要因」というのは、具体的にはどのような考えなのでしょうか?

これは一言ではまとめることは出来ませんが、実際に使えないけど名前のついた技から上に書いた自分を生かすすべてのことを教えるわけです。 白帯であれば、まずその動きが出来るように「洗脳」していくわけです。 つまり、普通でない動き、なれていない動きに「慣れさす自分」を作ってもらいわけです。 時は「子供にうそをついちゃいけないよと教えるレベル」でこれは相手の攻撃をブロックする為のもの(受け技)として教えるわけですね。 でも、人間社会に生きていく為には「必要な嘘もある」「社交辞令的表現もある」という風に子供への教えを変えて行きますね。 これが同じ「受け技」にしても、今度は「攻撃としても使える」「次なる攻撃への準備作り」などに変化していくわけです。 

右と左では100%に近い確率で違う運動神経を持っていますね。 つまり、この右左への生体的違いを知ることだけでも自分の体というものの「自然な動きから作り上げた動き」を反射神経だけで「非平衡度」を認識し自分の体を必要に応じて動かせるようにすることも、ひとつの技(名前のついた)の左右の反復運動から多くのことを教えることになるわけです。

そして、級が上がるということは新しいことを知る、と言う事ではなく、土台を寄りしっかりしたものにする、と言う事なのです。

いくつかの「動き」だけだ出来て進級し、全く新しいことを習ってその動きを昇級テストで出来ればまた進級する、それの繰り返しでは、土台を作っていくのではなく、表面だけの、うわべだけの、奥行きのない、砂で出来た土台を「広げるだけ」のことになってしまうわけです。 観念を深め実力を高めるからこそ幅のある実力となり人間が生きる為に必要なもろもろのことを自分のものにできるわけです。

これを繰り返る機会を与えられなかった自称師範が教えることへの説明が出来ないわけです。 なぜある「技」をわざと使えなくしているのか、説明できるわけはないのです。 教えてもらっていないのですから。

武道でよく言われる「事柄」、奇麗事に使われる表現、など教えてもらったことだけを一語一語丸暗記しただけの説明しか出来ないのはそれだけ体で、頭で、自分で熟考出来る土台を作ってもらえなかったからなのです。 

たとえば、「和を尊ぶ」という言葉だけ自分のものにしていては、じゃどうしたら和を尊べる自分を作ることが出来るのか、和を尊ぶ為に何をしたら良いのか、何を知らなくてはならないのか、本当に「武」無しで和を作ることが出来るか、和を作る為に最初から最後まで使える武道を自分は持っているのか、悪との和には武道しかないのはなぜか、自分を殺しに来た者を自分の和に連れ込むことが出来るか、そのための実力とは何なのか、和は壁なのかそれとも原動力なのか、和は結果なのかそれとも過程なのか、和が達成しない時の自分の中の和はどうしたら良いのか、自分を捨ててまで和は必要なのか、それとも自分を生かすために和を捨てる勇気(和に洗脳された頭脳を逆流させる実力)はあるのか、など、「和」という単語について、相手の攻撃を受けカウンターするコンビネーション技のなかから教えることが出来るわけです。

一瞬の間違い(実力のなさ)が「自分を生かす」という武道が崩れ去ることへの正当化をどのように自分をさらに生かすことへの原動力として「生きていく」事が出来るのか、武道そのものが教えるわけです。

自分を壁に当て、さらに壁を作り、壁を壊し、また壁を作り、壁を壊すことが、チャレンジを「受け」自分に攻撃をする、という使えない名前のついた技が教えてくれるわけです。

型にしても、わざわざ遠回りに回転して、いったん相手の見失う状況に自分を持っていく、という「技」が盛り込まれていますね。 自分に壁を作る、その壁を崩すだけの実力とは、目から外れても相手の動きを無意識に感じる実力をつけるということは、闇の中でも、複数の相手に対しても対応できる自分を作り上げる為のひとつの訓練でもあるわけです。 ただ単に体を回らせて型をやるだけの「空手踊り」では自分を生かすことは出来ないわけです。

これを書くと100ページも200ページにもなるのはもうお分かりですね。

五輪の書を書き記した宮本武蔵はこれらの教えを「使えない技」を示して教える方向をとらずに、あいまいすぎるとも言える表現で「分かる人には100%使える」しかし「土台がない人には言葉としか見えない」という方法を用いて武道の真髄を書き残したのです。

つまり、百科事典の形で書いてもすべてを書くことは出来ないということを十分知っていたからこそこの形をとったわけです。 現代武道は、「同じこと」を、使えない技に名前をつけて40-50ほどにして、百科事典以上の量を一生かけて教えようとしているわけです。

一生、ひとつの人生ですね。 その一つの人生をどう生かすか、それが武道というものであり、武道があるからこそ自分の一生を生かすことが出来るわけです。 だからこそ、武道に終わりなし、という言葉が丸暗記の言葉ではなく、心のそこから言える自分が死ぬまで作り上げていくわけです。

いつか、この回答を読んでくださった人たちがいくらかでも「自分を生かすための武道」の精神が分かってくれることを心から祈りながら、たぶん今年の一番長い回答のひとつの知りながら書かせてもらいました。

ではまたの機会にお会いしましょう。

この回答への補足

再三の詳細なご回答、ありがとうございます。
明日の自分を昨日よりすばらしい者にしていくために武道を修練する。非常に素晴らしい教えだと思います。何か、今までの私の武道というのは、本当の意味での武道ではなかった・・・という感があります。「死ぬまで自分を生かす」非常に重い言葉だと思います。「生きる・死ぬ」という人間の根源的な生理現象について、大いに響いてくる言葉であって、シンプルながら、非常に奥が深い問題。オギャーと生まれて、バッタリ死ぬまで、人間はどのように生きていくのか?
特に「死」ということに対して、多くの人は希薄な感情、「なんとなく生きてなんとなく死ぬ」ことを「漠然と考える」もしくは「考えない」この平和な日本で、果たして何人の人がこのような教えを実践しているのか?私はGさんがすらすらとこの大問題に対して答えが出せることに、非常に尊敬いたします。Gさんは様々な経験・体験を経て、この答えが出たのではないでしょうか?私のような一般人は武道に限らずすべてにおいて「なんとなく生き、なんとなく仕事をし、なんとなく格闘技を続けて、なんとなく死ぬ」のだと今まで無意識ながら漠然と考えてはいました。私に限らず多分ほとんどの方は同じ考えだと思います。平和ボケなんでしょうか?
40-50ほどの「技」から275000ほどの武道要因について、要はすべての物事について、論理的に深く思考する、そしてその結果を我が身の血と肉になるまで鍛錬する。と言うことになるのでしょうか?あまりに深く、あまりに広く、かつ激烈な教えのような印象を持ちましたが・・・
Gさんのやっておられる格闘技の流派とは何というものなのですか?いままでの回答を読ませていただく限り、かなり実戦向きの空手か、なにか総合格闘技ですか?教えていくにあたって、けが人や事故などのアクシデントはどのように対処されているのでしょうか?またGさん自身空手をやっておられて、どのような経緯で今の教え・生き方に至ったのか、ぜひ教えていただきたいと思います。あつかましい質問ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

補足日時:2006/12/27 23:13
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