ネットが遅くてイライラしてない!?

啄木の、
 うすみどり/飲めば身体が水のごと透きとほるてふ/薬はなきか
という歌を調べています。「石川啄木記念館」や、「啄木勉強ノート」といったサイトを見ましたがこの歌についての解説はありませんでした。
どうかこの歌について教えてください。

A 回答 (2件)

石川啄木の上田博著 石川啄木全歌鑑賞によると


H.G.ウェルズの「透明人間」をモチーフに歌ったものとされておりました。
しかし、1897年(明治30年)に英国で発表されたものが明治43年までに紹介され、日本語訳されていたのか?では「うすみどり」とはどういう意味か?疑問です。
透明人間を読んだことがないので関連は不明です。

ただ確実なのは、啄木25歳の明治43年7月15日~10月13日までの歌稿にあり、同年11月にスバルに「秋のなかばに歌へる」の中で発表されたということだそうです。

いずれにせよ、人から注目される、または非難されたくない、消えてしまいたい心境かと推察いたします。10月には子供も生まれていますし、育てる責任から逃げたかった?かも。
関連があるかどうか不明ですが、同じ一握の砂に
何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ
というのもあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しく書いていただきありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2007/02/12 19:47

石川啄木事典というものがありますが…


何かお役に立つといいのですが

参考URL:http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30884856
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。その本を探してみようと思います。

お礼日時:2007/02/12 19:50

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q中2女子です。急いでます。石川啄木の詩についてで、よく分からず困ってます。

石川啄木の詩の
 (ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく)
の表現技法を教えてください。インターネットで私なりに調べて見たのですが、よく分かりませんでした。回答お願いします。

Aベストアンサー

 「急いでます」とのことですが、今頃はもう授業の最中で間に合わなかったかな。

 まず啄木のこの作品は「短歌」です。
 広い意味では、短歌も詩の中の1つの特殊な種類ですが、一般的には(入試などにおいても)普通の「詩」とは区別します。
 普通は「詩・短歌・俳句」というように異なる3つの種類として扱うのです。

 したがって、普通の場合に短歌を「詩」と呼ぶと、犬も動物に含まれるということで、「かわいい犬ですね」というところを「かわいい動物ですね」と言っているような感じがします。

 啄木の場合は(狭い意味での)詩も書いているので、中学生で「石川啄木の詩」をお読みになっているということで、いったいどんな「詩」かとても興味があったのですが、そうか短歌たったのか、という感じです。「ふるさとの」の短歌なら、非常によく取り上げられる教材ですね。

 短歌は「五・七・五・七・七」の5つのまとまりからなる31音でできた「詩」です。 ちなみに「俳句」は「五・七・五」の17音からなります。
 啄木のこの作品は決して「俳句」ではありませんので気を付けてください。

 「ひとごみのなかに」は本来7音の部分が8音ですから、「字余り」です。
 「破調」ではありますが、音数が少ない「字足らず」と区別する意味で「字余り」というのがよいと思います。

 短歌・俳句では、音数が制限されるので短くするために、わかりきったことは省略します。この歌でもたとえば主語は省略されていますが、短歌ではごく当たり前のことなので、特に注目すべき場合以外は「この短歌には省略法が用いられている」とはわざわざ言いません。この短歌でもわざわざ「表現技法」として取り上げるほどではないと思います。

 一首を言葉を補って現代語にすると、

 (わたしは)ふるさとの訛(が)なつかしい。(だから、わたしは)停車場の人ごみの中に、それを聞きに行く。

といったところでしょうか。

 したがって倒置になっている箇所はないと思います。

 「なつかし」は「文語(古語)」のシク活用(←高校で習います)の形容詞の終止形です。
 〔主語を表す〕格助詞の「が」は文語では省略されるというか、元々用いないことが多いのですが、ここも「訛」のあとに(対象を示す)「が」があると考えるとよいでしょう。
 「そを」の「そ」は「それ」に当たる文語(古語)です。「こ」(=これ)、「か」(=あれ)といった語も文語では使われます。

 上の現代語で「なつかしい。」としたように、「なつかし」のところで意味が切れて文の終わりになります。したがって「句切れ」は「二句切れ」です。

 「急いでます」とのことですが、今頃はもう授業の最中で間に合わなかったかな。

 まず啄木のこの作品は「短歌」です。
 広い意味では、短歌も詩の中の1つの特殊な種類ですが、一般的には(入試などにおいても)普通の「詩」とは区別します。
 普通は「詩・短歌・俳句」というように異なる3つの種類として扱うのです。

 したがって、普通の場合に短歌を「詩」と呼ぶと、犬も動物に含まれるということで、「かわいい犬ですね」というところを「かわいい動物ですね」と言っているような感じがします。
...続きを読む

Q石川啄木の短歌について

ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく

という短歌があるのですが、この短歌の『大意』(作者の思い)
と、『技法』を教えてください。

Aベストアンサー

石川啄木は家庭の事情で故郷を「石もて追わ」れた人です。
それゆえに望郷の念がたいそう強かったようです。
故郷をしのぶ歌を多く作っています。

故郷の訛りが無性に懐かしくなって、
上野駅の人ごみの中にそれを聴きに行きました。

ありのままを読んだだけだと思います。
聞くではなくて聴くを使っていますので、
かなり熱心に自分の故郷の言葉を探したのでしょう。
東北弁も地方によって様々ですから。
「三行分かち書き」という形式で書かれている以外は特に技法はないと思われるのですが……。

Q短歌の意味を教えて!

大学受験中の友人から、下の2つの短歌の意味を教えてほしいというメールが来ました。

自分では分からなかったので、検索してみましたが出てこなかったので、
皆様の力を貸してください。m(__)m

坪野哲久
「春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず」

河野裕子
「一碗には幾つぶの飯があるのだろう つぶりつぶりと噛みながら泣く」

Aベストアンサー

「春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず」

私は長らく「強さ」というものを感じ取ることができなかった。しかし、この前蝶々が音もなく羽ばたきながら丘を越えて行ったのを見た時、羽音は聞えなかったがそれでも蝶々の羽根は強いんだなあと感じたものだった。そして今日、今聞いている春の海の荒れる波音には、蝶々の羽音にも増して強いものを感じている。


「一碗には幾つぶの飯があるのだろう つぶりつぶりと噛みながら泣く」

沈んでいてはいけない。ちゃんと食事をしなければ元気になれない。でも、悲しい。泣いてしまう。忘れたい。でも思い出してしまう。ダメ、思い出しちゃダメ。何かほかのコト。ごはん食べなきゃ。1粒1粒噛んで。 1,2,3,4,…… 良く噛んで、5,6,7,8 …… お茶碗1杯、全部で何粒? 1口30粒として、あ、涙、こぼれる。ふかなきゃ。どうして泣けて──あ、ダメ、思い出しちゃ。だから30掛ける、15倍くらいかしら── 馬鹿げた計算ね。でも……

自己の弱さ・深い悲しみを体験した人が立ち直った後で、どん底から抜け出た時の心象を思い返して歌ったものでしょう。敗れ傷つくことによって、弱々しさ・未熟さを克服し、強く・優しく生きようとする「希望」が感じ取れます。「貧しさ」は見当違いでしょう。

「春潮のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず」

私は長らく「強さ」というものを感じ取ることができなかった。しかし、この前蝶々が音もなく羽ばたきながら丘を越えて行ったのを見た時、羽音は聞えなかったがそれでも蝶々の羽根は強いんだなあと感じたものだった。そして今日、今聞いている春の海の荒れる波音には、蝶々の羽音にも増して強いものを感じている。


「一碗には幾つぶの飯があるのだろう つぶりつぶりと噛みながら泣く」

沈んでいてはいけない。ちゃんと食事をしなければ元気...続きを読む

Q梶井基次郎の「檸檬」では、なぜ丸善を爆破しようとしたのか。

檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった。まだ見ぬ未来である丸善を前に、不吉な塊を感じた梶井は、手に負える西洋(檸檬)で手に負えない西洋(丸善)を爆破しようとしたのではないだろうか。

という風に自分は考えたのですが、言葉足らずでしょうか?
どなたか教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった

上記のように解釈される所以は何でしょうか?
あまりよくわかりません。多くの文学者が
西欧を向いていた頃に梶井がその雰囲気の中で活動していたことはありますが。
福永武彦は
檸檬の冒頭「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた』は梶井の「一種世紀末的なデカダンス」を表している。それは梶井の全作品を流れる主調低音である。」と言っています。
その闇の中で唯一彼が見出した光が檸檬。
その檸檬を持って少し幸福になった私は「平常あんなに避けてゐた丸善がその時の私には易やすと入れるやうに思へた」のだが丸善に入るとその「幸福な感情は
段々逃げて行つた」画本がつまらなく見える。
それで画本を積み重ねた上に檸檬を置く。「そして
それは上出来だった」彼はそれをそのままにして丸善をあとにする。
これは「闇(不安)からのロマンティックな脱出で
ある」と評している人もいますし私もそう思います。
梶井がボードレールやセザンヌに傾倒していたのは確かですが、(檸檬は非常に絵画的)
「西欧」の観点でこの作品を捉えた評論は読んだ記憶がありません。参考までに。

>檸檬は梶井にとって、自分の手に入るほどの西洋の象徴であった。しかし、梶井にとって丸善の存在は手に負えない西洋であった

上記のように解釈される所以は何でしょうか?
あまりよくわかりません。多くの文学者が
西欧を向いていた頃に梶井がその雰囲気の中で活動していたことはありますが。
福永武彦は
檸檬の冒頭「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた』は梶井の「一種世紀末的なデカダンス」を表している。それは梶井の全作品を流れる主調低音である。」と言っています。
その闇...続きを読む


人気Q&Aランキング