仏の顔も三度まで、と申します、これでこのテーマは終了します。
自然の中に矛盾はあるだろうか、どうもなさそうな気がする。
そうすると、矛盾はわれわれが勝手に作って勝手に困っている、厄介なもの。
今回はカントのアンチノミーを拝借して矛盾について考えてみます。
と思ったのですが、カントの定式は、文字数の関係でとても制限内に収められません。
一気に予定していた、最終兵器の投入です。
「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」
この言葉が「クレタ人」から発せられたときだけ矛盾・逆説を生むのは何故でしょう。
自己言及があるからというご回答ではなく、
自己言及によって、どうして矛盾が起きてしまうのかを、
うまく説明できるのでしょうか。
お礼が遅れ気味になりますが、宜しくお願いします。
No.21
- 回答日時:
これまでのお話、そしてANo.17へのコメント
> 矛盾、逆説、偽りの混同を問題としています。
を拝見して、「矛盾」と「葛藤」の混同ということも視野に入れてはどうか、と思いました。
たとえば「議論禁止、批判禁止という規則の下で哲学を語れ」と要求したとします。すると、規則と「哲学を語れ」が矛盾して見える。充足不能な要求のように見えます。しかしです。この「矛盾に見えること」を、現実になんとかやり抜けているという「逆説的」な状況にある。これは一体どういうことか。
答は簡単で、「議論禁止、批判禁止」および「哲学を語れ」の判定基準が厳密には定まっておらず、あくまでも人の主観によって判定される恣意性を持っている。このために規則が自動的・機械的に適用できるものではないからです。その恣意性を「運用」することによって、一見「矛盾に見えること」も乗り越えることができます。
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質問を的確に記述する事こそが最大の難問、と言われるのが哲学です。このため、質問者の持つ、まだうまく言葉にできない問題意識を、質問者と回答者が協力して探り当てることが、回答の一環として、どうしても必要なのです。すなわち、回答は単なるコタエではなく、「回答するという活動」に成らざるを得ない。それが哲学なのです。
問題意識がさっぱり掴めていない方には「意見表明や議論」に見えてしまうかも知れません。しかし、Q「新宿界隈のおしゃれなラブホテル教えて」というような質問ですら、回答と補足をやりとりをするうちに知識が増えた結果として、A「新宿なんかつまらないですよ」Q「じゃあ、新宿じゃないとすると、どこがいいんでしょうか?」A「おしゃれ、ってどういうのがおしゃれなんですか」Q「そりゃ人によるかもしれませんけれど…」と質問が変化するのは、当然のことではないでしょうか。まして、哲学カテゴリーでは、「本当のところ何を知りたいのか」を質問者自身が掴みきれないでいるからこそ、質問が行われるのです。従って、回答者との間で行われる対話は、「お前は間違っている」「いーや俺は正しい」という類いのギロンではなく、遥かに発見的で創造的な対話なのです。
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これはある質問がまるごと削除されたこと(で、その後どうなったかはキン鉢先生もご存知の筈でした)に抗議して先日stomachmanが管理部に送った文章の一部ですが、一例として引用しました。ここに見るように、現実の「規則」と「要求」の間にあるのは「本物の矛盾」ではなくて実は「葛藤」であり、従って判定の基準の恣意性ということがまさに焦点になる。(ところで、ふくろうくんとへびくんは、嘗て起こった同じような「事件」を切っ掛けに、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa78352.html と共に生まれたと言っても良いでしょう。そして結局、数多くの興味深い質問・回答を残したまま、もう4年も前に新しい ちへい? を求めて飛び立ってしまったようです。)
上記の「矛盾にみえること(葛藤)」も論理上の本物の矛盾ではなく、「逆説的」状況も本物の逆説ではありません。日常で用いられる「論証」の多くはこの程度のものしか扱っておらず、従って穴もあり、「逆説的」状況は容易に生じます。大抵の人にとって、ホンモノの「論証」・「証明」を見聞きしたり扱ったりする機会は(数学などを学ぶ時を除いて)滅多にないのでしょう。
「~かもしれない」「~なくない?」のように断定を避けた表現は、主張の責任からの逃避手段であるとしばしば批判れますけれども、それは同時に、主観の危うさを自覚するがために「論証」には(ホンモノであれニセモノであれ)安易に近づかない知恵、ということなのかもしれません。(<って、断定を避けてなくなくない?)
大変お待たせしました。ご回答有難うございます。
さてさて、何処まで行ってしまうのか判りませんが、一先ず進みます。
>「矛盾」と「葛藤」の混同ということも視野に入れてはどうか、
どうなんでしょう、無いものねだり、かも知れませんし。
ナンタラ王国のお話は、面白いのですが、全部読むのは・・・
このご質問者様には大変お世話になっていますし、帰ってきて欲しいキャラですね。
それでも、noname#1317はすでに「私の中の他人」かな、知らない人は知らないし。
この辺の、記憶の重心の恣意性、時間の流れの濃淡でしょうか。
okWaveの存在論・認識論・倫理論といった感じでしょうか。
ただ、この時点で、このナンタラ王国で、どんな圧政が行われたのか、
その事件が、どんな物かを知らずに、尻馬に乗って、彼是言えませんね。
今回のご回答の内容、ご意見は同感ですが、
問題は、過去に一時期あった形式(葛藤)ではなく、現在の内容。
この質問を通じて、問題点を掘り下げることが可能か、
ちょっと、私には荷が重いですが、もう少しお付き合い下さい。
断定しないのは、此処での生活の智慧、だったりして。
そもそも、専門家も判らない、問題の場合もありますし。
今回stomachmanの葛藤を私に憑依させようとしたな、断定。
No.20
- 回答日時:
A.クレタ人は常に嘘つきである。
B.クレタ人は常に本当つきである。
C.クレタ人はたまに嘘つきで、たまに本当つきである。
クレタ人はこのABCの3種類の可能性があります。
(邪悪な獣や食べ物に無関心は無視することにします。)
クレタ人が「クレタ人は常に嘘つきである」と発言した場合、
Aのタイプのクレタ人であった場合、常に発言は嘘を言っているので、その発言の否定命題「クレタ人は常に嘘つきであるというわけではない」が真であることになります。これはBかCのタイプであることになります。しかし、Aのタイプのクレタ人が発言したので、この可能性はないことになります。
Bのタイプのクレタ人であった場合、常に発言は本当を言っているので、その発言の肯定命題「クレタ人は常に嘘つきである」が真であることになります。これはAのタイプであることになります。しかし、Bのタイプのクレタ人が発言したので、この可能性はないことになります。
Cのタイプのクレタ人であった場合、たまに嘘を言ったり、たまに本当を言ったりしているので、まず嘘を言った場合を考えます。「クレタ人は常に嘘つきであるというわけではない」が真であることになるので、BかCが該当します。ところで、発言したクレタ人はCなので、この可能性はあります。次に本当を言った場合を考えます。「クレタ人は常に嘘つきである」が真であることになるので、Aが該当します。しかし、発言したクレタ人はCなので、この可能性はないことになります。
結局、クレタ人がまともであるならば、Cのタイプのクレタ人、つまり、たまに嘘を言ったり、たまに本当を言ったりするクレタ人で、なおかつ、今回の発言の場合に限っては、嘘を言っているクレタ人であることになりました。
クレタ人のこの発言の目的は、私はCのタイプの人間であり、今は嘘をついている、ということを知らせているのかもしれません。このことを直接、「私はCのタイプの人間であり、今は嘘をついている、そして、"この発言は本当である"」と発言すると、またやっかいなことになるので、「私は常に嘘をついている」という言葉で省略しているのかもしれません。
ですから、なんとか矛盾は乗り切ったわけですが、もし、このクレタ島には「クレタ人は常に嘘をつく」という言語しかない場合には、Cのタイプのクレタ人もこの発言に関しては常に嘘をつかざるをえないので、Cのタイプではなく、常に嘘をつくAのタイプのクレタ人になり、ここに矛盾が生じてきます。
御礼が遅くなり、大変申し訳ありません。
今回は、前回以上に、複雑な組み立てて、クレタ人の弁護。
複雑すぎて、私の脳みそが、パンクして、理解に手間取りました(笑。
今回は、矛盾を乗り切れたか、ご不安のご様子ですが。
他力本願も程々で、私も、ご回答者様を見習って、考えてみました。
Dクレタ人は「嘘と本当」だけを逆に使う。
この場合
「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」
Dのクレタ人が発話した時
「クレタ人は常に本当つき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」
Dのクレタ人が常に嘘(一般的表現)をつく事と矛盾しないし、
さらに、Dのクレタ人は私だとします。
私も偶に、嘘をつくし、美しい、グルメです・・・大嘘(笑。
ふぅ~頭が汗をかきそう、穴だらけですかね。
今回も、大変勉強になりました、有難うございます。
No.19
- 回答日時:
こんばんは、fishbowl66さん。
腰据えてお話するにはと、お茶菓子手土産に持ってきました。しっとりもち日本舞踊「市山流」宗家の筆『りゅうとう』と書された菓子ひとつ召し上がれ。
ささ、三 ( ^^)旦~~~お茶もどうぞ。ひと息いれてからはじめましょうか?
ほ~い、ぼちぼち本題に入りましょうか?
ラングやらパロールといるかいないかよくわからないクレタ人という人に服纏わせ透明人間をひとまずその大まかな姿を浮かび上がらせたところでしょうか。ほいほい、よく見えますよー。えっ?何が見えたかって?うん、『憲法』っていうとてつもなくでっかい雲がね。憲法とは、国家における統治の基本となる法であり国家のすべての法の基礎となる法である。このことから、憲法には統治機構と人権保障に関する内容が定められ、他の法令に対する関係では最高法規たる性質が与えられる。しかし、世界各国の憲法の内容及び性質がすべて一様であるわけではなくその国の歴史的な変遷や民族的な意識等に違いによりそれぞれの国家の憲法は、その形式や内容が様々に異なっている。
憲法の種類には成文憲法と不文憲法がありますね。ラングとパロールを上記に当てはめますと、ラングは成文憲法:制定手続きを基づき、文字で書き表された文章の形式を備えている。また、パロールは不文憲法:成文憲法の形式をとらない憲法のこと。
ほい、一見似ても似つかぬそれぞれの憲法なんですが『憲法』という大枠の中にこれがすっぽりおさまってごわす。
書いてない書いてあると見るものによって見えたり見えなかったり…
でもって、
硬性憲法:一般の法律より高い形式的効力が認められその改正には、通常の法律改正手続きより厳重な手続きが要求されている憲法。
軟性憲法:通常の法律改正と同じ手続きで改正できる憲法。
と、いうことで、黄金比とフィボナッチ数、美しさの裏に潜む2つの数学的要素は、実はつながって…むふふふふ
しかし、気になるなー
質問文のくだりが…
「仏の顔も三度まで、と申します、これでこのテーマは終了します。」
仏の顔って…
(`へ´) (〒_〒) (*^o^)乂(^-^*)
まぁ、謎は謎のままに…(*^-^)b
参考URL:http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/roppou/roppo …
だが、ラートブルッフは、 第二次世界大戦後、(英文 書名省略)
などの著作におい て、自然法論を礎に、個人主義 的要請にもとづいた
基本的人権の尊重を絶対的に主張している。これはまさしく自己の価値判断の
表明であり、評価的態度であるということができる。
そうであるとすると、ジンメル、リッケルト、ウェーバーなど価値相対主義の原理を
明確に規定した諸説においては、はたして「寛容」を「科学の神髄」として育成しうる
契機が残されているのだろうか。これが「価値相対主義における寛容」の問題(注13)である。
(注13)カウフマンはその論文(1960)において「真理存在の客観性を堅持することを前提とするのでな ければ、真の寛容はありえない」として、「価値相対主義の見解によって生じた寛容は、実は外見上の寛容に すぎない。わたくしは、わたくしの確信を他人を考慮することなく、わたくしにとって絶対的なものとして 措定できる。つまりそれは、相互に敵対し、排斥しあう絶対的なものの共存という偽りの寛容であるにす ぎない」と。
しかし、こうした批判に対してラートブルッフは、つぎのように答えるであろう。すでに1914 年に出版された(英文書名省略)においてこう説いているのである。「われわれは、愛しかつ憎 む権限はあるが、賞賛したり非難する点で、われわれを他人の上に高める権限はない。従って 自分自身に対しては厳しく、他人に対しては寛容であることが自由法論の帰結である」と。 (法哲学の基礎 鈴木敬夫)
わぁい、雲だ雲だ、って、上手く雲が二つに見えるかな?
「りゅうとう」は竜にさらわれてしまった、残念。
謎の数列には、文字制限は無いのですね、何処まで行ってしまうのか。
ちょっと、成文法とラングの比喩は、雲の上でひっくり返ってしまいそう。
この質問も、完全に制空権を失い、大和の突撃まであと何日。
質問の意図から、大きくずれてしまったが、面白くてやめられない。
ご回答有難うございました。仏の顔は・・・
No.18
- 回答日時:
#12について、補足を。
>「私」「私」「私」の連続で、何やら複雑ですが。
そうですね、実は自分で書きながらこんがらがってきて何度も読み直してました(笑
哲学カテなんで、どうせなら哲学書らしく書いてみようかと、、、。
哲学書なんてよんでると、言葉に絡まって身動きが取れなくなってしまうんですよ。(笑
さて、くだんの文章について。
「私の中の私」や「私でない私」を「(私の中の)他人」に置き換えて見てください。
まぁ、つまるところ事物について語る場合には「観察」が必要になる。
「観察」とは対象をよく観ることなのだから、「私」について語る場合には「私」を「観察」して語ることになる。
「観察」とは観る事であり、観る事は「二人称的」である。
故に、「私」を「観察」しているのは「他人」である。
なので、「他人」が「私(の事を)常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」だと言ったとしても、そこに「自己言及」は無いので矛盾は存在しない。
ただ、「私」と「他人」は外見上は一人なのだから、「第三者」から見ると「私は本当の事も言う」という逆説(※これは矛盾ですかね?・汗)が生まれたように思える。
しかし、上記の論証には一つの「落とし穴」があって、それが「(私の中の)他人」の存在です。
これが証明出来ないと、上記の論証自体が成り立たなくなる。
「私」と「(私の中の)他人」は、実際的には明確に分けることが出来ないので論証するのはかなり困難ですね。
精神分析学なんかでは、多重人格者(医学的に正しい用語ではないですが)の治療に当たっては、誰が「私」なのかを見極めた上で「他人」を消すらしいですね。
そこから、借りてきて「私の中の私」をでっち上げた次第です。(笑
なので、この論証は「ナンセンス」かな?
※実は、逆説の意味は「急がば回れ」の類しか分からなかったりします。
なので、回答する資格が無いのかもしれませんが、、、。
明確な回答にならず申し訳ありません。
この回答への補足
いや~参りました。
テストの成績が悪く、宿題一杯の小学生。
お礼が遅れますが、もう少しお待ち下さい。
腹が空けば何でも美味しい・・・じゃないことを祈りつつ
多重人格は病気の名前のようですが、自分の人格の統一は理想でしょうね。
他人を持ち出さなくとも、時間の中で、過去の私と今の私を比較できるのでは、
10年前、20年前、30年前の私と、今の私は、随分違う。
例えば、30年前の私と今の私は、別人だとすれば、10年前の私も別人でしょう。
此処まで来れば、後一息、さっきの私と、今の私が別人ではないと否定できません。
私は、多様性であって、一杯いるんだ、と開き直って、逃げ切りましょう。
あの時、僕は、若かった~♪ これだね。
所で、お礼が遅くなったのは、
>という逆説(※これは矛盾ですかね?・汗)が生まれたように思える。
矛盾したものと、矛盾していないのは、よく解るのですが、
矛盾と逆説、特に逆説の(2)外見上、同時に真でありかつ偽りである命題。
これ、矛盾の故事も逆説と区別が付かなくなって、困っているんです、とほほ。
ご回答有難うございました。
No.17
- 回答日時:
ANo.16へのコメントについてです。
> おっ、今回はお怒りのご様子で、此処は一つ穏便に(笑。
と「分節化」されてみて、なるほどstomachmanは怒ってるんだぞ、と自覚しましたぞ。(<アフォ)
> 言語(ラング)を言葉(パロール)から切り離すにあたって、人間は同時に、(1)社会的なものを個人的なものから、(2)本質的なものを付随的で、多かれ少なかれ偶発的なものから切り離す。」
>ソシュールが何処まで考えていたのかは、解りませんが、この二つの切り離されたものが、論理の対象ですが、私たちは、実際のところ、切り離せないでいるのかもしれませんね。
社会的で、本質的なものだけが論理の対象だと仰るんで?そりゃ、言い損ないでないとすれば、誤解でしょう。
おそらく、「ある言明Aを、例えば『Aは命題である』と分節化できるということが既にラングに含まれているのでなくては、論理がAを扱うことすら始まらない」という事情と、一方で、「ラングは社会的・本質的という性格を持つ」ということを、表現の上で繋げて仰っているのでしょう。
しかし、これは二重に誤っているようです。
第一に、「『A』というパロール自体についての言明(例えば『Aは命題である』)」と「A」とが混同されている。
第二に、ラングがどういう性格を持つかは、「『A』というパロール自体についての言明、というものが、社会的、本質的であるかどうか」ということとは何の関係もない。そして、ラングがどういう性格を持つかは、「A(あるいはその意味するところ、それが対象として語る事物)が社会的、本質的であるかどうか」ということとは何の関係ない。
ですから、「社会的で、本質的なものだけが論理の対象」ということにはなりません。
そればかりか、あらゆる用語から意味や価値観を捨象すること(だから語句をA,B,…という記号で置き換えて構わなくて)、そして、文の形式だけに注目すること、これらこそが論理の特徴です。「社会的」かどうか、「本質的」かどうか、という区別は(そのために新しい様相論理体系を拵えない限り)論理では扱わない。「偽」を「悪に属するもの」と看做すような価値観とも無縁である。
論理はラングの一部分であり、論理の対象はラングの対象の一部分です。ラングの対象は論理の対象よりも遥かに広い。そしてパロールはもっと広い。パロールの一部はラングの対象であり、また、パロールのより小さな一部は論理の対象になる。(ANo.9の「答1」、「答 2(のうち、「読み取った意味」として書き換えられた発話)」がその扱いの例です。)そして、パロールからラングを切り離した残りは、従って論理の対象にはならないことになります。(ANo.9の「答3」はそういうものを扱った例です。)
ですが、あるパロールが論理の対象になるからといって、そのパロールが担うもの全てを論理が扱う訳ではない。論理に於いて用語の意味は顧みられないからです。
> 言葉は変わって行きますから、難しいですね。絶対→無い、も変化しましたし、
> 比喩が世の中で通用して、多くの人が受け入れれば定着します。
比喩は比喩と知って使い、比喩と知って受け取るのであれば問題はないし、それが定着した「言い回し」になっても不都合はない。ところが、それを比喩とは気付かない者が文字通りに読み取ると、病的な事態が生じるでしょう。だから、比喩を(説明なしに)使えるかどうかは相手のレベル(a: 相手が発話者の使うラングについて知っているレベル、b: 相手が話題について知っているレベル、および、c: 発話者が話題について知っているレベルを、相手がどの程度と推定しているかというレベル)に依ります。まして、誰が聞くか分からない場で使うのなら、余程注意しなくてはならない。(このようにくどくどしく発話する代わりに、littlekissさんのように「文字通りに解釈すると意味不明」になるようにパロールするという手もありますが。)
論理はそのラングの中に在る、「誤らない論証を行う際に現れる特定の形式」だけを幾分か抽出したものです。それはラングの中で、いわば「最も確かな部分」と言えるエッセンスです。(個別のラングどころか、ランガージュの中に包含されている根源的な知の一部かも知れません。)そして、抽出された論理というものを社会の多くの人が学び、用いることによって、ラングの中にその形式が確かに在ることが繰り返し再確認され、それによってその形式がラングの中に存在し続ける。かくて「ラングは論理を含んでいる」という言明が自己実現します。
逆に言えば、「偽」を「矛盾」や「悪」と区別できないままそれらの用語を使って「論証」のマネゴトをしたり、その内容を肯定したりする行為は、ラングを(しかも、その「最も確かなエッセンス」の部分を)壊して行くでしょう。
ラングの病気(<比喩&駄洒落ですってば)が進んで、もし論理の基本的な概念すらもラングの中で変質してしまったら、論証は全て記号論理学という(ラングではない)人工言語に頼らなくてはならないことになるでしょう。でもそうやってみたところで、変質したラングを認め共有する社会では使い物にならない。なぜなら、記号論理学の式をラングによって解釈できない(式の意味を普通の言葉で言えない、例も作れない)ために記号論理学を学ぶのは至難であり、従ってこの人工言語による論証を受け入れられる人は滅多に居ない。一部の「特殊な階級」に属する者にしか扱えない秘儀である。そういうことになるでしょう。つまり、その社会ではすでに弁論は混乱してしまっていて、論証ということ自体が意味を失いつつあるに違いありません。論理学が発祥する以前の時代へと逆戻りしている。数学が扱える者、機器装置を作れる者は珍しいというばかりではない。議論は決まってつかみ合いの喧嘩になり、契約は成り立たず、不条理な訴訟が多発する暗黒馬鹿社会…うあああ。
この回答への補足
相撲の立会いはお好きですか。
今回、間合いが合わず、「待った」です。
>> 言語(ラング)を言葉(パロール)から切り離すにあたって、人間は同時に、(1)社会的なものを個人的なものから、(2)本質的なものを付随的で、多かれ少なかれ偶発的なものから切り離す。」
>>ソシュールが何処まで考えていたのかは、解りませんが、この二つの切り離されたものが、論理の対象ですが、私たちは、実際のところ、切り離せないでいるのかもしれませんね。
>社会的で、本質的なものだけが論理の対象だと仰るんで?そりゃ、言い損ないでないとすれば、誤解でしょう。おそらく、「ある言明Aを、例えば『Aは命題である』と分節化できるということが既にラングに含まれているのでなくては、論理がAを扱うことすら始まらない」という事情と、一方で、「ラングは社会的・本質的という性格を持つ」ということを、表現の上で繋げて仰っているのでしょう。
これは、矛盾・偽り・逆説と言った単語の意味において、パロールとラング、記号と内容の間の差異を申し上げようとしているわけで、今回のように、矛盾と逆説を混同しては、論理的な議論にもならない。つまり、記号内容において、誤解もありうる。そのような意味合いで、表現したのですが。どちらが引かれた物かは、表現上明確ではなく、客観・主観の区別で言えば、語のもつ、客観的意味と語に対する、恣意的価値観の混入、(引用の文章が適切だったかどうか不安ですが)つまり、混入物を引くことが、論理的考察には重要であるとともに、それがなかなか成し難い、と
>しかし、これは二重に誤っているようです。
>ですから、「社会的で、本質的なものだけが論理の対象」ということにはなりません。
裏の裏は、表。じゃなくって、論理の対象と言うより、条件として、語の意味の正確な共有か必要だ、と。
>そればかりか、あらゆる用語から意味や価値観を捨象すること(だから語句をA,B,…という記号で置き換えて構わなくて)、そして、文の形式だけに注目すること、これらこそが論理の特徴です。「社会的」かどうか、「本質的」かどうか、という区別は(そのために新しい様相論理体系を拵えない限り)論理では扱わない。「偽」を「悪に属するもの」と看做すような価値観とも無縁である。
一般的な言語(パロール)に関しては、全く仰る通りです。
>論理はラングの一部分であり、論理の対象はラングの対象の一部分です。ラングの対象は論理の対象よりも遥かに広い。そしてパロールはもっと広い。パロールの一部はラングの対象であり、また、パロールのより小さな一部は論理の対象になる。(ANo.9の「答1」、「答 2(のうち、「読み取った意味」として書き換えられた発話)」がその扱いの例です。)そして、パロールからラングを切り離した残りは、従って論理の対象にはならないことになります。(ANo.9の「答3」はそういうものを扱った例です。)
ですが、あるパロールが論理の対象になるからといって、そのパロールが担うもの全てを論理が扱う訳ではない。論理に於いて用語の意味は顧みられないからです。
この辺から、複雑になります。私の理解(ソシュールの解釈とは無縁)では、ラングには既に価値観が、分け難く浸透しているのではないのか、そこで、上記のように、論理的に切り離したくても、簡単にはできない。
或いは、ご回答者様は、論理をチョムスキーの生成文法(比喩的に)のように、考えておられるか?
私では、判断のつきかねる問題です。
質問とは、大きくずれてしまいますが。
flowerとgrass、花と草。
花という名前を付ける前は、草だけなのかもしれない、ただその中に、少し違ったものがあり、それを区別する、花に花という名を付けることは、何の因果関係も無い、比喩ではないのでしょうか。花に花という名を付ける理由は有りません、花でもflowerでも構いませんし、へびでも良い。ただ、ラングにおいて、日本人の花、アメリカ人のflower、○○人のへびは、似通った記号内容を持つ。
しかし、これだけでは正確ではない。先の引用文にあるよう、社会における実践、付け加えるなら「差異と反復」が、共通のラングを形成して社会に定着する。この様な反復は、遺伝子のコピーのように、少なからずミスを産む、誤解と訂正の繰り返しの中から、また新たに比喩として飛び立ち、うまく着地できれば、新しいパロールが生まれ、ラングとして定着する。
自分のミスを、棚上げして、ここまで開き直れると良いですね。
いつぞやは、不完全を楽しんでいたstomachman
>契約は成り立たず、不条理な訴訟が多発する暗黒馬鹿社会…うあああ。
やはり、怒っていますね。
今回のお礼は、話の流れとして、
矛盾、逆説、偽りの混同を問題としています。
その流れに沿って、ご解釈下さい。
以上です。
No.16
- 回答日時:
ANo.9へのコメントで、
> 私も途中で、矛盾と偽りと欺瞞、或いは逆説と言った物が
> 混乱しているような気がしました
と言われて、そういえば「偽」と「嘘(欺瞞、悪意)」、もしくは「偽」と「ナンセンス(デタラメ)」を区別できない人はしばしば見かける。どうも「嘘をつく奴の言う事なんかテンデ信用できない」という理屈らしいんで、これは(ルイス・キャロルもそうであるように)論理学の啓蒙の際に、「偽」を「嘘」に置き換えたパズル仕立てのお話を例示して説明する書物が多いための弊害かも知れません。
あ、それに、「矛盾」を「間違い(ミステイク、エラー)」としか読めないために背理法(帰謬法)がどうしても理解できなかった自称「哲学者」さんもいたなあ、と思い出しました。(こういうの「自称詐称」って呼んだら、漫才コンビみたいでヨイかと思うのですよ。)
で、改めて<辺り>を見渡してみると、「偽」と「矛盾」(もしくは「偽」と「ナンセンス」)を混同している方は案外多いのだと気がつきました。(5 death。数えました)
となると、「矛盾」と「逆説」を混同するヤツはまさかいないという自信もなくなった。本物の逆説など一つも知らずにただ「逆説的」という言葉の用例だけは知っているとすれば、そういうことがあっても不思議はない。
例えばご質問にあるように、
> 自然の中に矛盾はあるだろうか
と問うことさえできれば、「矛盾」に無手勝流で斬り込んで行くことも十分できると思うのですが、いやなにしろ自己言及云々という話よりはるか以前のレベルの「形而左右学的混迷」がヨノナカにはびこっているために、つい「分かっている気になってる」のでしょう。高校で微積分なんか教えてる暇があったら、論理学と統計学をやれ、って言いたくなります。
おっ、今回はお怒りのご様子で、此処は一つ穏便に(笑。
今回の質問は、完全解決には至っておりませんが(そもそも、目的が二つあったりして)
消し炭が、再び発火するかもしれません、暫く此の侭にしておきます。
言葉は変わって行きますから、難しいですね。絶対→無い、も変化しましたし、
比喩が世の中で通用して、多くの人が受け入れれば定着します。
「語る主体たちのなかに刻印が形成され、それが全員のなかで感知できるほどに同じものとなるにいたるのは、受容能力と配列能力の働きによる。言語(ラング)が他のものから完全に個別のものとして取り出されるには、この社会的産物をどのように表象したらよいのだろうか。もし全ての個人のうちに蓄積された語詞像の総和を視野に収めることができたとしたら、われわれは、言語(ラング)を構成する社会的絆にふれることになるだろう。それは、言葉(パロール)の実践によって同じ共同体に属する主体たちのなかに貯蔵された財宝であり、各人の脳のなかに、より正確に言えば、個人の集合の脳のなかに潜在的に存在する文法システムである。なぜなら、言語(ラング)はどの個人においても完全ではなく、大衆において初めて完全に存在するからである。
言語(ラング)を言葉(パロール)から切り離すにあたって、人間は同時に、(1)社会的なものを個人的なものから、(2)本質的なものを付随的で、多かれ少なかれ偶発的なものから切り離す。」
「ソシュール言語学入門」フランソワーズ・ガデ
ソシュールが何処まで考えていたのかは、解りませんが、この二つの切り離されたものが、論理の対象ですが、私たちは、実際のところ、切り離せないでいるのかもしれませんね。
ところが、私の関心は、この切り離されてしまった、又は、切り離せなかった、物達にあるんです。
このお礼を書いている間でさえ、私の意識は変化しているようです(笑。
ご回答有難うございました。
No.15
- 回答日時:
暮れなずんで来たときに申し訳ないです。
ふざけるつもりはないので、少々お付き合いください。
>自己言及があるからというご回答ではなく、
>自己言及によって、どうして矛盾が起きてしまうのかを、
>うまく説明できるのでしょうか。
当のクレタ人と会話で発せられた“クレタ人”が文字になって
A=A(等価値)に化けたから矛盾するのか。
自己言及というのは生活世界では通常あまり考えないことにも
起因してそうですね。
「オレの命令を聞くな」って言われたら「シカトすれば良いのね」って
思うのと同様、クレタ人に「クレタ人嘘つきね」って言われたら
「へー、嘘つきか。気をつけよう」って思う(頭良くないので)。
これは生活により必要な情報を勝手に脳が判断して取得していると
いうより、誰それが誰かということより、誰それの発した言葉の
方が優先度が高いからか。
誰それが誰かという問題は静的な問題で、誰それが発した言葉は
自分に矛先の向いた動的な問題と捕らえるからか。
>この言葉が「クレタ人」から発せられたときだけ矛盾・逆説を
>生むのは何故でしょう。
少し頭の良い人が、「なんか言ってることおかしくね?」って
思って、文字に書いて(あるいはその状況の再現を想像して)、
過去の状態を再現した時には「圧倒的に矛盾している」ことに
気づく。
「あの時はそんなに矛盾していると思わなかった」のに。
文字やそれに類する記号単体では状況や文脈に関わらず、一定の表現
(某哲学者に言わせるところの「一般言語表象」)でしか
意味合いを持たせられないのでA=Aの公式が成り立つような
錯覚が起き、自己言及しているという証明行為を自動的に行う。
左辺のA=1の状態
右辺のA=2の状態
1≠2なのでA=Aは矛盾
つまるところ、自己言及とは「文字(その他類する記号)上でのみ
しっかりとしたループを描きます」ということで、問題はこの
>「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」
>この言葉が「クレタ人」から発せられたときだけ矛盾・逆説を
>生むのは何故でしょう。
という「教えてGooの質問投稿欄に書かれたこの文字」を見て頭を
回転させてしまった自分にあると言えます。
回答ならず、申し訳ない次第。
改めて、哲学カテは、怖いですね(笑。
質問の文章の中に、私の不安を見つけられてしまう。
矛盾・逆説と並べた時、一瞬不安はよぎったのですが、
予定が狂っていて、そのまま投稿していますね。
その後、慌てて辞書で確認している、ずさんな対応、お菓子メーカー並み。
A≠Aのご指摘は、
私の「貨幣の哲学」(さりげなく宣伝)が、示唆している問題点と共通しますね。
>という「教えてGooの質問投稿欄に書かれたこの文字」を見て頭を
回転させてしまった自分にあると言えます。
ご尤もでございます。しかし、私個人の矛盾でなく、ここは
人の祖先の脊椎動物は、進化の過程で、頭部を180度回転させた事にして下さい。
ご回答、有難うございました。
No.14
- 回答日時:
ANo.13へのコメントについてです。
> ただ、ゲーデルが、証明できないことを証明してしまった以上、この先どうなることでしょう。
> 今回の質問は、矛盾を使って、矛盾を起さない自然と矛盾を引き起こす人間の接続点を模索してみた
なるほど。じゃ、こちらの議論はいかがでしょうか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa48810.html
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa47197.html
キン鉢先生のお口に合いそうな気がするのは勘違いかなあ。あと、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2682869.html
のANo.10,11にも関連したことを書いており、ついでにソシュールの解説へのリンクがあります。
大変、楽しくお勉強させていただきました。
完成されてないから、楽しい、本来の意図を捻じ曲げていないでしょうか。
これこそが、逆説で矛盾ではないと言うことでしょうか。
良く似た、逆説をあのカントも人間の寿命の短さと、知識の膨大さの関連で述べています。
「これについては奇妙な事がある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のために土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまで幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、自らの素質を完全に発達させる域まで到達させる事ができるのである。」
(『世界市民という視点からみた普遍史の理念』カント 中山元訳)
目的(自然の意図)があると仮定した、こんな昔のお話は、参考にもならないかもしれませんが。
それにしても、昔は、良いキャラが揃っていますし、平気で他の回答を吟味していますけど、最近だと削除されそうな感じですね。
それにしても懐かしいですね、あの年に、私は恐る恐る、質問を、始めたんです。
今回も大変参考になりました、出来ましたら、ふくろうさんや へびくんにも よろしく。
No.13
- 回答日時:
ANo.9への補足についてです。
カントは「自由」を「自然法則に束縛されないこと」と定義し、つまり「自然法則からの自由」を論じているんですね。ならばジレンマを持ち出すまでもなく、「全ては自然の法則に従うということと、人間には自由があるということは両立しない」は自明である。そして、(カントが幾ら宗教を批判してみても)「自然法則」とは造物主の現れであるというキリスト教的科学観が背後にあるから「自由」の旗色は大変悪い。が、はたしてそれが「自由」ってことなんでしょうかね。(案外、「全ては自然の法則に従うと信じることと、人間には自由があると信じること」ならば両立する、というところがミソじゃないかなあ。)
エマニュエル・カントって、日本じゃチョンマゲ結ってた時代の人でしょう?その死後百年近く経って、形式主義が整備され「証明」とは何かという問題がようやく一応の解決を見た。ソシュールが言語と認識の基礎が如何に危なげであるかを指摘した。( qa2682869でもその話、したばかりです。)「無意識」が発見され、「みずから」というものをみずからが知って律しているのかどうか、「経験の統一さえも」整合的に行えているのかどうか、大変疑わしくなった。量子力学が発見され、たとえすべては自然の法則によって決定されていると仮定しても、ある出来事には必ず原因があると素朴に信じる訳には行かなくなった。特殊相対性理論が発見され、「因果関係」というものがようやく主観から離れた意味を獲得した。さらに、数学において、「言語における避け難い自己言及」という構造を本質的に利用して、決定不能問題が発見され、また不完全性定理が証明されて、およそ「辻褄の合った言語」というものの限界が知られるようになった。
言語の不条理性について考察するなら、これらを無視したんじゃ駄目じゃないかなあ。ですから「引用なさったジレンマの双方の枝に書かれた詩を「証明」と認めるような荒っぽい考察を認めるならば、それは証明である」といったところでしょうか。
早々、明快なご回答を頂き有難うございます。
私は、カントは実践理性批判の方が中心で、ロールズ辺りもカントから始めているので、今だ抜けられない所も有るのですが、ベルクソンのカント批判も承知しております。確かに300年前の人ですがいまだにカント関連の本は出ていますし「物自体」と「先験性」の問題で、少々引っかかっております。今回は特に不得意な論理的な部分を勉強させていただき、大変感謝しております。それにしても、ゲーデルの最初の定理は、学会で発表されたらしいのですが、フォン・ノイマン以外はその重要性に気がつかなかったとか。ゲーデルとチョムスキーは不読の大典、学者でも解らないと聞いたことが有ります。私に判らないのも無理はありません。
ただ、ゲーデルが、証明できないことを証明してしまった以上、この先どうなることでしょう。
今回、矛盾の原因の根っこを探しに、言語を問題にしました、勿論、言語学にも関心があるのですが、私の中心は「貨幣の哲学」(さりげなく宣伝)で、その周りをあれこれ補足している次第です。
今回の質問は、矛盾を使って、矛盾を起さない自然と矛盾を引き起こす人間の接続点を模索してみたのですが、若干、質問でミスリードを犯したかもしれませんね。
あらためてご回答、有難うございました。
No.12
- 回答日時:
時間が出来たので、再チャレンジしてみます。
●「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」という命題に対しての、新たな回答
「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」という命題は、「クレタ人」という集団に対しての証明である。
「○○人は○○である」という証明は、厳密に言えば「○○人という集団は、○○という傾向を示す」となる。
○○人Aという「個」が、例外を示してもなんら問題は無い。
つまり、「クレタ人のAさん」という「個人」が、「クレタ人は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」という一般命題を言ったとき、それは「クレタ人という集団の傾向」を言ったに過ぎず、真実を述べたとしても、嘘を述べたとしても矛盾は存在しないことになる。
(真実の場合なら、「クレタ人のAさん」は例外となるが、「○○人はという集団は、○○という傾向を示す」は例外を除外しない。
嘘の場合は、命題自体が無意味。)
●クレタ人を「わたし」にした場合
新たな謎に挑戦してみます(笑
「私」とは、個人なので「クレタ人」のような上記の証明は当てはまらなくなる。
では、「私」が「私」について語るとはいったいどういう事なのか?
「私」が「私」について語るとき、「私」は「私」を観察しているはずである。
つまり、「私の中の私」が「私」を語ることになる。
「私を語る私」は、「私」であって「私」ではない。
故に「私でない私」が、「私」について語っていることになる。
なので、「私は常に嘘をつき、邪悪な獣で、食べ物に無関心」と言っている「私」は「私でない私」が語っているので矛盾ではない。
しかし、外見上は「私」は一人なのだから「私は本当の事もいう」という逆説(>(2)外見上、同時に真でありかつ偽りである命題)が生まれることになる。
さて、ここで一つの新たな「謎」が生まれることになる。
はたして「私」の中に「私でない私」が存在するなんてことは、あるのだろうか?
「私」というのが「魂」なら、「私の肉体」には「私」と「私でない私」という二つの「魂」が宿っているのだろうか?
しかし、「私」と「私でない私」は必ずしも明確に分かれてはいない。
ということは、「私でない私」は存在しないのではないか?
「私でない私」が存在しないのであれば、上記の証明は無意味となる。
しかし、「私」が「私」について語ることが出来るのは、「私」が「私」を「観察」したからである。
「観察」とは「対象」を観ることだから、やはり「私を観察する私」は「私でない私」が行っているはずだ。
さてはて、「私」とはいったい何だろうか??
どうも、私には証明できそうにないですね。
中途半端な回答になって申し訳ないです。(汗
質問者の我侭にお付き合い頂き、感謝いたします。
「私」「私」「私」の連続で、何やら複雑ですが。
ご回答を読みながら、結局、私と言う者も、移ろいやすく、
心理的にも、同じ対象に対して、愛憎が入り乱れている多質性でしょうか。
外見上は、一人の人格ですし、言葉にすれば、一方を排除する。
この辺りが結論なんだろうか、などと、一人納得していますが、
ちょっと、そこの貴方、どう思う。
あっとtyr134様へのお礼で失礼しました、有難うございました。
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