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毛皮の生産のために数多くの動物が惨殺されている事をしりました。
毛皮は多く、ファッション等の人間がいきる上で必要のないところで使われているように思います。それで多くの罪のない動物が惨殺されることは、悲しいです。毎年何千万の命が無駄に死んでいます。
私が見たビラには動物の毛皮を取る際、毛皮を傷つけないために、動物が苦しんで、生きたまま、野菜をさばくように毛皮の生産処理をしていく経過が載っていました。たとえ生活でどうしても必要なことであるのなら、死に行く命に対して敬意を持って、苦しまない手段や方法あるのではないかとおもいました。このことがショックで、自分が何か役に立てないかと思いましたが、日本には、あまりその情報がないのではないかと思います。図書館でも本屋でもそれに関する書籍は有りませんでした。人間は自分から関係性の低いことに関して無関心になってしまいます。無関心になるのは、そのよな情報が少ないからであり、教育に人間以外の倫理教育や自分に関係のある倫理しか発達していないからなのかもしれないと思います。なぜ生き物は生きるのか。なぜ動物と人間では人間が優先されるのか。重要な考えなければならない概念があるのだろうがそれはなぜ発達しないのか、と思います。生命よりもお金やリスクコントロール、自分の人生、自分たちの人生、人間たちの人生、強いもの、美しいものの追求、を考える思考の中では、論理的でありながらきわめて混沌とした暗い何かが渦巻いていることを多くの過去の芸術家は表現し手いるように。何かよくわからないものに支配されていってるようにおもえてなりません。人間中心のこのような思考を改善するためにはどうすればいいのか考えつかないのです。どうも解らないのです。なにかご意見をいただければと思います。

A 回答 (8件)

他の回答者様のように多くの語るべきものを持ち合わせてはいませんが・・・



1)参考図書など
質問者様の考えていることは、倫理学の分野では「動物の権利」に関する問題と言われています(権利という言葉を使っているところにすでに西洋倫理学の悲しさがあるのですが・・・)。そして、確かにこの問題に関する議論は日本では少ないです。ただ、英米では80年代以降非常に論争の盛んなテーマです。日本でも有名な、この分野の基本文献としては、ピーター・シンガー『動物の解放』があります。もっとも、この本が質問者様を納得させうるかは疑問です。ANo.2様が問題とされている、「苦痛」という感覚をキーにして動物の権利を論じているからです。
また、動物の権利に関する英語版Wikipediaの記事↓は情報量が多く、参考になるでしょう。
http://en.wikipedia.org/wiki/Animal_rights

2)人間中心主義について
動物愛護が語られる際に、常に問題とされる点ですが、これはかなりくせ者かなと考えています。人間中心主義というと確かに独善的な、排除されるべき思想のように聞こえます。ある程度はそうかもしれません。しかし、問題は境界線をどこに引くかです。ANo.2様の指摘されたことですが、動物愛護だけを語ると、これは果たして動物中心主義ではないかとの疑念が生じます。では植物も対象とすればどうかというと、これでも生物中心主義という批判は可能です。翻って、人間同士について考えてみるとき、私たちが身近な人を優先することは悪なのでしょうか。もちろん人間が人間を殺すことはあまりありません。しかし例えば、バレンタインデーにチョコをあげるその行為は、愛する人中心主義です(T_T)。すべてのヒト、動物、生物などを全て平等に見なすとき、果たして我々は生きる意味を見いだすことができるのか、少し恐ろしい気もします。

3)ただ・・・
動物虐待のエピソードを聞くとき。また、宇宙人が攻めてきてヒトが食料として飼われる世界なんかを想像すると、今のままではいけないということはひしひしと感じられます。私は、そんなときは、あくまで人間中心的に、自分の心が痛まないように、動物に配慮するしかないんじゃないかなぁと思っています。

4)ところで・・・
この問題は、論理的に考えるとき、我々の将来世代に対する配慮義務と類似するものとなります。ここでは自己世代中心主義が問題となるわけです。こちらの問題なら日本にも論者がいたように思います。
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自分の回答は主に「自分の周りの日本人に対して考えていること」になりますが、


現在の状況では、心の内に「社会や他人に対する不信感や非難」や「概念による自分主義」を持っていて、
それを持って人を見るものだから、人間関係がギクシャクする。
また、周りにそういう人が多いという理由で「世の中ってこういうものだ」とか思っている。

けれども実際に起こっている内容は、一般に考えられているものとは少し違うと思うんです。
Aさん自身は心の内に正当性を感じてBさんに正当性を主張しても、
Bさんにとっては社会一般の概念で言う「付き合いづらい人」にしか見えないかもしれない。
それを人間関係で起こっている内容としてみると、
「AさんはBさんを(ある意味で)拒絶し、Bさんはそれを感じ取った」
ということを、両者の間で合意できると思います。
いや、Aさんは合意しないかもしれませんが、そこが問題だとも言えると思います。
今の例は状況によって異なる点があると思いますが、
ここで言いたいことは、人は概念を当てはめているだけで、
実際にはその一つ奥にあるものが人間を動かしているということです。
さらには社会的に良い方向にお互いが協力し合えるためにも、
概念にあまり頼らない、素朴だけれども賢明な人間関係を、
個人個人が作っていかなければならないと思います。

また、「世の中ってこういうものだ」という考えと、「実際に起こっている、誰もが認めざるをえない事柄」は違うものだと思います。
例えば「人を変えることはできない」ことは認めざるをえないと思います。
ですが、自分の行動いかんによっては、人が精神的に自立できるようになるために、それをできやすいものにさせることは可能だと思います。
また、自分が「世の中ってこういうものだ」という概念を持たないで、自分の信じた道を進むことで、
人の影響を受けやすい日本人は(自分も含めてですが)、
少しずつでも変わって行くかもしれません。
ここで大切なことは、「自分の言動や行動がエゴを含んでいないこと」だと言えると思います。
なぜなら、こういったものに相手が影響を受けてしまうと、
自分では「良い影響」だと思ってやったことも「悪い影響」として
作用してしまうかもしれないからです。

もう一つ大切な点は、「どのような概念と対峙しても自分の結論が揺るがないこと」と言えると思います。
これは、例えば「それによって、地球での持続的生存が可能になること」というものと結びつけば可能になると思います。
これはもちろん、動物が地球環境になくてはならないという点でも
絶滅させてはいけないという意味でもあります。

以上が自分の意見、というか理想です。
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ANo.6です。


読み返したら、途中からまったく「科学的」ではないですね(汗

人間が人間中心的というのは当然だよ、というのを書いていたのですが、途中から博愛への自己解釈も書きたくなってつなげてしまいました。
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倫理や哲学には疎いものですが科学的な面からの回答を。



生き物はなぜ生きるのかというと、逆に「生き残って子孫を残そうとする者だけがこの世に残っている」と考えることも出来ます。もちろん頑張ったあげく絶滅していったものの方が(何百倍、何千倍も)多いのですが、現存の全ての生命は少なくとも種としては「生き残ろうとするもの」であるといえます。

種として生き残る手段としてまずは自己防衛が必要です。自分自身を愛し、同種でも他者を蹴散らして生きていきます。次に自分の家族を愛します。自分の遺伝子の一部をもつ子孫、その子孫を作るのに協力してくれる配偶者、その他血族を守り育てることは生存に有利です。生き物によってはこの段階を飛ばして、さらに群を作ります。お互いに協力することで、強い猛獣を撃退したり、逆に動物を狩り食物を得ます。

こういった過程を経るのに重要だったのが共感性だと考えます。自分でない誰かを自分の一部として共感する。子孫、配偶者、親類、仲間、同種の生物と段々自分とかけ離れた者を共感し、愛し、守っていくことで自分や種の生存に貢献するのです。
人間ほどになると、この共感は周囲の動物や環境にまで及びます。動物を可愛がったり、生まれ育った故郷が様変わりしていると悲しくなったり。

こう考えてくると、もともと人間が人間中心の考え方をするというのは当然といえます。しかし、人によって異なりますが、動物や植物を愛する心もおなじ根を持って人間の心にあると思います。こういった観点からも、人間の搾取活動を全て悪と決めつけるのでは無く、生物圏とのバランスのとれた関わり方を考える・提案していくというのもいいかもしれないですね。
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・その感受性が失われないようにすること


 時間とともにそれが失われていく様に気づくこと

・知識に振り回されないようにすること
 知識は道具であり、それ以上でもそれ以下でもないことを理解すること

・思考するという行為を理解すること
 それによって思考には何ができて何ができないかを理解すること

・自分自身を理解すること
 自由がなければ理解は生まれません。自分自身を理解して自由となってください。
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この回答へのお礼

動物と触れ合うことが多かったので、どうしても動物の立場になって考えてしまいます。私のとらえ方は少し強すぎるのかもしれません。このことに関して思考を的確にしするには、幅広く深い知識必要なのだろうと思いました。少しずつ自分に出来ることをしていこうと思います。とても参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/15 22:14

動物愛護は難しい問題ですね。


以下に、この問題について常々私が考えている事を纏めてみたいと思います。

人が他の動物を『搾取』するのは、二つのタイプがあると思います。
第一は、『食物連鎖』による『搾取』
第二が、『経済活動』による『搾取』です。

第一の『搾取』は、人が動物である以上逃れられない運命でしょう。
サプリメントや栄養補助食品など、人口的な食品も市場に溢れている昨今ですが、あれとて植物由来や動物由来の成分が原料となってるはずです。
『食物連鎖』による『搾取』は、人が生きる上でどうしても必要なことです。
しかし、だからといって他の動物が絶滅するまで『搾取』するのは正当化されるのか?
此は『否』でしょうね。
自然の『食物連鎖』は上手くできていて、特定の地域においてどれか特定の動物だけが数を増やしすぎると、こんどはその動物自身が数を減らし数を調整します。つまり、バランスを保つのです。
人間は『知恵』という『武器』を身につけたお陰で、『食物連鎖』の頂点には立ちました。
しかし、同時に失ったのがこのバランス感覚でしょうね。
そしてその原因が、第二の『経済活動』による『搾取』です。

『経済活動』は、ほぼ人間のみが行う独特の活動です。(すくなくとも、私は他の動物が「経済活動」をするというのを聞いたことも見たこともありません)
私は『経済活動』の有無が、文明の有無だと思っています。
貨幣経済のみでなく物々交換レベルから『経済活動』であると思います。
さて、この『経済活動』によって我々は生活圏を拡大してきました。
そして、それと共に『経済活動』による『搾取』も拡大しました。
この『経済活動』による『搾取』にも3種類あって、『食物連鎖』、『嗜好品』『生活上の必要性』です。
『食物連鎖』は食べるために捕るのですが、これも経済ベースに乗ると過剰に捕る事になる。なぜなら、売るために捕る事に変るから。
昨今メディアを賑わせているマグロ問題なんかは、良い例でしょうね。
あれとても、中国やヨーロッパでの日本食ブームによって普段はマグロを口にしない人々も食べるようになった(=売れるようになった)から捕るようになった。

『嗜好品』としての『搾取』は、象牙とか毛皮など、食べると言うよりも美術的価値から経済ベースに乗る場合ですね。
これとても、人間に不必要なモノではない。
何故なら、人は『美術・芸能・文化』活動を行う動物だから。
どんなに否定しようとしても、この活動から逃れることは出来ない。
そして、これらの活動を通して社会活動を円滑に行っている。
決して無駄な活動ではなく、必要な活動です。
しかし、その反面、やはり経済ベースに乗ることで過剰『搾取』がおこなわれてしまう。

『生活上の必要』は、宅地開発やダム開発など人国建造物を造ることによる自然環境の破壊、それに伴う他の動物の住処の減少ですね。
これも、『経済活動』とは無縁ではない。
そして、生活する上で住居の問題や安心して暮らせるインフラの問題は、切実な問題です。
人は自然の脅威から逃れるために、都市を生み出しました。
そしてなるべく自然をコントロールして、被害を最小限にしようと努力を重ねてきました。
しかし、その結果として自然を破壊する事にもなってしまった。
自分たちを守るはずが、他の動物を巻き込んでの自然破壊によって自分たちの首を絞める結果になっている。
なんとなく、皮肉な状況が生まれていますね。

『経済活動』は、どれも人が生きる上で必要な活動です。

社会学にこんな説があります。
「50年代以降の米国による『大量生産・大量消費社会』の創出は、戦争を回避するために生まれた。」
『経済』は『好況』と『不況』を繰り返すのが運命です。
第二次世界大戦までは『不況』が起こると、その解決を「戦争」に頼っていた。
それを裏付けるように、戦争と「好不景気」サイクルとが一致する。
しかし、戦争は国を疲弊させる事になる。
景気が良くなっても、国力低下は否めない。
そこで戦争に頼らないシステムとして『大量生産・大量消費』によって経済サイクルを回そうとした。
その結果、第二次世界大戦以降は大規模な戦争は起こっていない。
朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争と小規模な戦争は起こっても、米国にとって国家を挙げての総力戦になるような戦争は起こってない。
何故なら、『大量生産・大量消費』システムによって経済サイクルを回すことが出来るから。
そして、平和という人にとっても自然にとっても貴重な財産を長く保有する事が出来るから。

以上、少し脱線してしまいましたが、『経済活動』という人間の基本的活動と『動物の搾取』は密接に関係していると思います。
そして、これこそが質問者様のいう人間中心の思考なのかもしれません。
しかし、『経済活動』と『動物の搾取』を考える動きは、国際的に成されていると思います。
それは、なんとかピースのような一部の動物愛護団体のような、ある種宗教的活動ではなく、『経済活動』と『自然』との間のバランスを取るような動きです。
例えば、マグロの漁獲量の国際的な制限などですね。
もっとも、政治的な思惑が絡むために多くの問題を含んではいますが。
少なくとも宗教的な信念から盲目的になるよりは、建設的な動きだと思います。
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この回答へのお礼

社会学のお話大変参考になりました。自分なりに出来ることを少しずつしていきたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/15 22:03

動物愛護は難しい問題だと思います。



ANo.1さんがクジラの問題を挙げていますが、示唆に富んだ例だと思います。
繰り返しになりますが
●なぜクジラがダメで、家畜はイイのか?
クジラは絶滅に瀕しているからだ、という意見があります。
ならば、希少動物でなければ惨殺していいのでしょうか?
(絶滅に瀕しているというデータには嘘があるという話もあります。)
クジラは頭がイイ動物だからだ、という意見があります。
ならば、頭が悪い動物なら惨殺していいのでしょうか?
●なぜ動物がダメで植物はイイのか?
動物は人間同様、痛みを感じるから、という意見があります。
ならば、痛みを感じなければ惨殺してイイのでしょうか?
そもそもなぜ植物は痛みを感じないと断言できるのでしょうか?
●頭のよい生物、痛みを感じる生物の命の方が尊いのか?
つまり、命の価値は上下があるのか?等価値ではないのか?
●そもそも動物を食べるのは良くて、動物を着るのはいけないのか?
人間以外の生物は、自己保存以外の目的で他の生命を奪わない
という意見があります(本当にそうなんでしょうかねぇ?)。
クジラを食べるのは野蛮だと非難する人たちの中にも多い意見です。
何も絶滅に瀕しているクジラを食べなくなって、牛や豚でいいじゃないか
といった意見です。
これに対し、調理法からその他の資材的活用において
日本ほどクジラの利用に長けた文化を持つ国はない、という意見もあります。
人間の叡智のひとつではないかという意見です。
(これについては反対が多そうですね。)

> 人間中心のこのような思考を改善する
冷静に見れば、このような考え方も物凄く傲慢だと思いませんか?
クジラを食べる文化のない国の人たちは、クジラを食べる人は「野蛮だ」として
一段、低く見ます。
そこにあるのは「差別」です。
自分と違う人間を「差別」し、「低く」見るのです。
○○愛護の人たちが、陥りやすい罠です。
(hatokamomeさんを非難している訳ではありませんので誤解なきよう。)

漫画「美味しんぼ」の受け売りですが
●全ての生命は他の生命の犠牲の上に成り立ちます。
仏教でいうところの「業」です。
その認識なしに愛護の精神を振りかざしても説得できない、というのが
美味しんぼの主張でしたが、私も概ね賛成です。
> 人間中心
中心と周縁、上と下、といった見方には「基準」が隠れています。
恐らくは無意識的に、自分に近い側が「中心」であったり「上」であったりする筈です。
つまり「人間中心のこのような思考を改善したいが故に
結局、自己中心的な思考に陥りやすい」といった問題があり
結局、両者(毛皮派・動物愛護派)の意見は平行線を辿るように思います。

私はレザーは着ません。
動物愛護の精神ゆえに着ないのではなく、メンテが大変だからです。
ウールよりはコットン、コットンよりはハイテク化繊が好きですが
全てはメンテを含めた機能面を評価してのことです。
たまに「何でレザーを着ないの?」と聞かれると「動物愛護だからさ」と冗談で流しますが
化繊が生物、ひいては地球に対してダメージを与えないか?というと疑問です。

回答になっていなくてスイマセン。何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

CUE009さんのお話でとても難しいと思いました。この問題は、ずっと課題になると思います。さまざまな問題が関係しているので一概に言えることが少ないと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/15 22:31

儀式・風習に源について考察した人がいまいました。



http://www.amazon.co.jp/%E5%88%9D%E7%89%88-%E9%8 …

<生命体は他者の命を奪うことで生きる>

これは全生命体に課せられた運命です。
生きる以上 一人もこの運命を逃れることはできない。

しかし、他者を滅して生きるというこの悲劇をなんとか納得させようと考え出したのが、魂は永遠に生きる という考え。
肉体は滅びても、魂までは滅びないので、肉体部分を食べてもそんなに罪悪感は持つな としたくて儀式を編み、滅する行為を正当化しようとした。


<日本人は知的動物であるクジラを食べる野蛮な民族>として、世界から非難されています。
その非難する国は、なんのこだわりもなく牛を殺して食べている。
その数は日本人がクジラを食べる量とは比べ物にならない。

人を野蛮人と非難するその人が野蛮な行為を自らしていることに気づけない。
自分もその一人であり、他者を滅してきたから「日本人は野蛮」だといえているのに、気づけないで日本人を非難している。

「私は菜食主義者だから」と言ったところで、野菜だって生命です。
ありを気づかずに踏みつけて殺しているかもしれない。


他者を食うものが、ほかの他者に食われる。
循環です。
企業買収だってそうです。
強い企業がほかの企業を食って生き延びる。


この悲惨な他者の死を美しいものとしたいとき、地獄の黙示録が生まれたと思えます。


金枝篇は言い伝えがどうしてできたのかを探りました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9E%9D% …

【イタリアのネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキアの木立とよばれる聖なる木立があり、木立には聖なる樹(ヤドリギ)が生えていた。この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた。

ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭祀がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である】

生き延びるために他者を滅することに正当性を見出そうとしたとき、こういう物語になる。

儀式でそうだから などやって、動物を殺すという儀式がある。
正当な死 正当な殺し と儀式でするわけです。

キリスト教でも神殺しをやります。
自分たちが生き延びるためには神を殺す。 これは正当な殺しだ として、儀式をやります。
儀式により神を食べて肉体に神を取り入れるとしていますが、結局 殺しを正当化するための儀式です。

儀式では正当な理由による殺しとなるので、殺しは正当なことなのか。
どこにも正当性は無い。
他者を滅する行為にどこにも正当性などない。
ですが、生きるためにはやるしかない。

そのために儀式で供養するわけです。
正当性の無い殺しをやったことに対して、どうすることもできなかったとし、詫びたいとしたとき、それが儀式となる。


日本人は食べ物を食べるときに、合掌します。
右の手に左の手の行為を知らせ、その行為によって生かされていることを自覚させるためにやるのではないかと思います。
だから食べる前にその儀式をやる。

儀式をやったところで滅する 滅したということは覆りません。
だけど、何か滅せられたものに償いたい。
ありがとうと感謝したい。
そして自分も滅せられる立場にいつたつかわからないということを自覚する。

このように人間は他者を滅する行為をなんとか美しいものにしたがってきたんですね。
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この回答へのお礼

いろいろな人にこの話を聞いてもらったのですが、動物の命をいただくときの目的がさまざまだと思いました。おおく目的のたとえは、私の思っているたとえと少し食い違っていてどう言えば言いかわかりません。私はとても田舎で生まれ人間よりも植物や動物と多く触れ合ってきたので、どうしても動物の立場からモノを言ってしまう癖があると思います。猫や鳩、リスやカラスは、人間と同じ”感情”をもっています。純粋でまじめで、とても性格がいいです。虫はよくわかりませんが、多分持っているのではないでしょうか。その中からの立場から見て動物に対して無関心に傷つけているのを見ると胸が張り裂けそうになり夜も眠れなくあることがあります。どうか近くにいる動物を見たらやさしくしてあげてください。お願いします。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/15 22:55

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