牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

こんにちは。
今は廃止になってしまった横川~軽井沢を含む信越線南部区間ですが、
普通列車の運行形態はどのようなものだったのでしょうか?

まだ廃線から10年と経たない同区間ですが、ネットで調べてみても
碓氷峠自体の記事や特急・急行列車についてはよく見かけるものの
普通列車に関する記事はあまり無いようです。
(あるいは調べ方が足りないだけなのか?)

車両:
115系?急行形?客車?まさか107系?
所属は高崎側か長野側か?
EF63重連+2~3両?もっと長い編成?

ダイヤ:
高崎~長野などの長距離列車が走っていたのか?
現在の上越国境を越える普通列車と同じく、1日に5往復程度?


一部でもかまいませんので、ご存知の方おられましたらご教示おねがいします。

A 回答 (8件)

私は学生時代、昭和54年から57年まで、上野-高崎-横川-軽井沢-長野と乗っていました。



この区間は、昭和38年頃まではレール間に設置された歯車のような歯と、車輪に設置された歯車をかみ合わせて走る、アプト式という区間でした。

しかし、集電方式が第三軌条であり、速度も低速であったため、増発やスピードアップができませんでした。この区間の運転を、他の路線と同じにするため、集電方式を架空線式に変更、専用の電気機機関車による粘着運転に変更しました。

本務機、全区間を通しで運転する機関車がEF62型で、1台車に動輪3機付きの特殊台車を2台はいたF級電気機関車、横軽区間のみ下りでの後押し運転専用のEF63型となりました。

EF62は軸重16トンの一般的なものですが、同区間で下りで客車を挟んだ状態で補機のEF63と重連総括運転ができる特殊機関車でした。EF63は同区間線用で、軸重19トン、普通のボギー台車3台のF級ですが、各台車には電磁石を設け、強力なブレーキ力を得るときはこの電磁石をレールにくっつける、電磁吸着ブレーキがついていました。運転台は上り方のみ。下り方運転台はEF63同士の連結時などのための、簡易運転台です。

営業運転開始後、電車については8両編成までに限定し、同区間については空気バネの空気を抜いて余計な振動をなくす「横軽対策」をした専用の車両、対策済みの115系(各停用)と165系(急行用)などが当てられましたが、これでは編成が短いため、EF63と強調運転可能な車両として169系、189系、489系が製造されました。これらと連結するため、EF63の下り方は、自動式と密着式の双頭連結器、制御線用のジャンパ連結器をたくさん備えるという特殊車両です。

急行列車以上は強調運転機能付きに置き換えられて、最長12両運転が可能となりましたが、普通列車は115系対策車なので、8両に限定されて運転されていました。晩年は、専用の塗装(現在のしなの鉄道の普通列車の空色塗装だったと思います)でした。

なお、50年代まで、上野朝6:50発高崎行き客車各停がありました。この列車は、8時台に高崎に着きますが、1時間停車して9時台後半に長野行きとなって運転を再開します。長野到着は12:56頃でした。私はこの列車が好きで、よく乗りました。折り返しは15時台で、夕方高崎着、夜8時台に上野に戻ってきました。牽引はEF62単機。横軽区間は上野方にEF63重連を連結。客車は閑散期7両、繁忙期9両でした。

スピードアップのネックになっていて、昭和60年代に入る頃、廃止されました。使用客車はブルー塗装されていたと記憶していますが、旧型客車でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、協調運転機能がなくても8両までならOKだったんですね。
昭和60年頃まで旧客が走っていたとはオドロキです。

お礼日時:2007/02/24 01:43

では、皆さんよりもっと古い話を。



軽井沢から先が電化される前、横軽がラック式のED42牽引だったころは
普通列車はすべて客車列車でした。電車が走るようになったのは、
軽井沢から先が電化され、機関車がEF63になってからです。その頃の
電車は80系ですが、横川-軽井沢を抜ける列車は客車のほうが多かった
んです。その頃は上野発長野行きだけでなく、直江津行きや、更には
信越本線だけを延々新潟まで行く列車もありました。

115系の時代になってからも、ずいぶん後まで上野発600ごろの長野行き
客車列車(321列車)は残っていましたね。また、169系のローカル運用
も朝晩にあったはずです。115系は虎の子でしたから、あまり横軽の
ような特殊な運用をするところに入れたくなかったんだと思います。

晩年はともかく、まだ横軽が元気だった頃は、各駅停車は高崎-長野が
多かったと記憶しています。歴史を遡れば上野発が多かったでしょうが
籠原や新前橋までがどんどん電車化されたために、高崎で切られたん
ですね。あと、横川で折り返す電車も少なくなかったですし、軽井沢で
戻ってしまう電車も結構ありました。

ちなみに、横軽の客車はなるべく軽くするために、軽量客車のナハ10
の運用が多かったです。まあ、晩年は輸送力を問われることもなく
なったので、スハ43なども結構やってきましたが。
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この回答へのお礼

昔のお話をありがとうございます。
客車から電車へ、長距離輸送から短距離への変遷が良く分かりました。
(この頃に生まれていればなぁ…と時々思います)

お礼日時:2007/02/24 02:11

回答します。


碓氷峠を越える普通電車は、弘済出版社発行の時刻表1997年5月号よると、下り7本上り7本でした。詳細は…、
下り
(1)高崎7:13発長野行329M長野9:27着。
(2)高崎11:18発長野行343M長野13:44着。
(3)高崎14:06発長野行359M長野16:39着。
(4)高崎16:18着長野行365M長野18:41着。
(5)高崎18:41発長野行371M長野21:20着。
(6)高崎20:49発軽井沢行153M軽井沢21:42着。
(7)高崎21:54発軽井沢行155M軽井沢22:50着。
上り
(1)軽井沢6:33発高崎行126M高崎7:32着。
(2)長野6:33発普通高崎行322M高崎8:57着。
(3)長野9:21発高崎行332M高崎11:50着。
(4)長野12:55発高崎行340M高崎15:20着。
(5)長野15:35発高崎行348M高崎17:57着。
(6)長野17:50発高崎行356M高崎20:25着。
(7)直江津17:45発高崎行362M高崎22:40着。

以上です。
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この回答へのお礼

時刻表まで付けていただきありがとうございます。
殆どが長野まで直通だったんですね。
直江津始発の列車は末期まで残っておりましたか。所要5時間とは…

お礼日時:2007/02/24 02:07

基本的には皆さんの挙げられているとおり115系でしたが,


晩年の朝一番の上り普通に乗ったところ185系で驚いた記憶があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
東海道線の185系もたまに普通列車として運転しているのを見かけます。
あちらはいわゆる間合い運用ですが、この列車もそうだったのでしょうか。

お礼日時:2007/02/24 02:02

古くて参考にならないかも知れませんが(^-^;


手元に1980年8月号の時刻表があるので調べてみました。

車両の形式や編成は疎いので他の方々の回答にお任せするとして・・・。

まず下りを・・・。
横軽を越えるのは全7本です。
その内5本が高崎発長野行です。
夜の時間帯の2本が軽井沢止りです。
ちなみに高崎発横川止りは8本あります。

上りは・・・。
こちらも全部で7本です。
その内初発が中軽井沢発高崎行き、2本目が軽井沢発高崎行き、
3本目が直江津発高崎行き。
残り4本が長野発高崎行き。
ちなみに横川発の上りは9本あり、
2本が上野行き、残りが高崎行きです。

古いデータですが参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

>古くて参考にならないかも知れませんが(^-^;
いえいえ、回答ありがとうございます。

高崎発で見るとおよそ半分が横川止まり、残り半分が横軽越えだったんですね。
はるばる直江津まで直通というあたりに時代を感じます。

お礼日時:2007/02/24 01:55

廃止時は長野側からの115系が主力だったはずです。

もしかしたら、一部に169系があったかもしれませんが・・・ 3連ないしは6連だったはず。運転本数は少なかったです。

115系以前は80系が主力でした。

107系は横軽対策が未施行だったはずなので、入線付加だったはず。客車列車は昭和50年代末頃まで一部に残ってましたが、小荷物輸送と共に無くなりました。

大きい図書館に行くと古い時刻表をい所蔵している事が多いですよ。私は手持の時刻表にない時代の事は図書館の時刻表で調べます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
車両は長野側からのものですか。しなの鉄道に譲渡されて今でも軽井沢まで走っている車両もあるのでしょうね。
図書館の古い時刻表で調べる…なるほど、その手がありましたか。近くで見られるところがないか探してみます。

お礼日時:2007/02/24 01:51

ほぼ10年前(1997年7月)に乗ってきた時には115系の6両編成でした。

8両までなら総括協調無しで走れますので。今しなの鉄道で走っている奴が当時の車両の今の姿ではなかったかと思います。

 ちょうど横軽廃止直前の夏休みでしたので非常に混んでいたという記憶があります。確か高崎から長野まで乗り換えずに行った記憶がありますので、トータルで見れば1時間に1本弱程度の本数が横軽を走っていたと思われます(もっと頻繁に走っていれば横軽区間だけ2往復位しておいたと思うのですが)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
末期まで毎時1本程度の運転があったとは、意外と多いですね。
かつて上越線で旅行したとき水上から先が1日5本しかなかったので、同じようなものかなと思っていました。

お礼日時:2007/02/24 01:46

横軽なので、形式番号の末尾が9だと思います。


189系、489系、169系などからすると、急行型の169系が
有力でしょうか?撮影に行ったときに185系も見た記憶があります。
形式番号の横に・が付いた物も協調運転対応型だったと思います。
普通ではありませんが、客車(レインボーなど)が碓氷越えをするときは、EF62の牽引が限定されていて、上り列車は63+63+62の
三十連でした。
下り列車の本数が多かったのでしょうか?四重連で峠を下る63を
何度か見ました。
うろ覚え&少ない情報ですいませんが、ご参考になったら幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり急行形が普通列車として営業していたのでしょうか。
(私の地元でも165系が普通運用に就いていました)

お礼日時:2007/02/24 01:38

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