【コナン30周年】嘘でしょ!?と思った○○周年を教えて【ハルヒ20周年】

私は、自分の人生に起きるどんな問題が片付いても、またすぐに他の問題をわざわざ自分で見つけだしてしまい、永遠に悩み続けてしまう日々を送っています。
何事に対してでもそうです。悩む必要がないものに対してもです。

今まで私は、悩みに立ち向かっていき、なんでも悩みをなんでも片付ける努力をしてきました。いろいろな悩みが片付いてきました。ですが、そのせいか、残った小さな悩みがとても大きく感じられるのです。

この前までは、小さな悩みは「小さな悩み」としてとらえることができたのに、大きな悩みが片付いた今、その小さな悩みは「大きな悩み」に変わってしまいました。

なので、私はこれ以上幸せにはなれないのかな?と思います。

常にもっと!もっと!と上を見てしまいます。

両親の教育が「満たされてはいけない。自分よりも下の人間を見て安心してもいけない。常に向上心を持て!もっと!もっと!と思うことが大事だ」という教育方針だったことも、影響しているのかもしれません。

常に自分の人生の問題点を自分で見つけ出して、イライラ憂鬱に過ごしていて、とっても損だな、他の人が私だったら充分幸せなのにな。私は一体どうしてしまったんだろう?鬱病か?ノイローゼか?と悩んでいます。

わかりやすく例えると、お金がないときの100万円はすごい大金で、「100万もあるんだすごい!」って思ってしまうけど、すぐにそこで「100万なんかで喜んでいる自分でいいのか?」と思ってしまうのです。それで1000万を手にするように努力し、手に入れたところで、「1000万なんかで喜んでいていいのか?」と思う。これの繰り返しになると思うんです。
最終的には、世界一のお金持ちだと思えるまで上り詰めない限り、悩みは続く。ところが!きっと私のことですから、世界一のお金持ちになったときに思うことは「お金持ちなんかにならなければよかった。」と悩み始めると思います。

こんな悩み癖のある私は、どうすれば立ち直れるのでしょうか?どうすれば幸せになれるのでしょうか?教えてください!!

A 回答 (10件)

こんにちは。


すばらしいご回答が並んでいるので私が書き足すことはあまりないのですが。

No6.様に賛成です。
「悩み」「愚痴」「不満」などを「言い訳」にして「するべきこと」をしない人がいます。
私にも、おおいにその傾向があります(苦笑)。
物理的に両親と離れて何年もたちますが、私の行動は、No5.様のおっしゃるところの
刷り込み・不合理な思い込み(イラショナルビリーフ?)に、かなり支配されています。
(私が握り締めている・依存している、ともいえます)。

つい先日、よそのカテでも同じようなことを書いたのですが、
「見捨てられる不安」が強い人・「賞賛・承認されたい欲求」が強い人は、
「手ぶら」「宙ぶらりん」「手持ち無沙汰」「所在ない感じ」になることをとても怖がり、
常に「解決するべき問題」「片付けるべき作業」を手元に置きたがります。
これはどういうことかというと、「悩み」に「依存」している、ということです。

それから、ものごとの見方・感じ方についてです。
これもつい先日、よそのカテで似たようなことを書いたのですが、
幸福と不幸は、2つの別々のものではなく、ひとつのつながりの中に同居しています。
こんな感じ↓です。


 幸福
   /\
/     \____
             \    /
             \/
           不幸

「悩み」をなくそうとする、ということは、この線を平坦にしたい、谷間を埋めたい・
谷間に入りたくないという気持ちがあるのではないかと思うのですが、
この谷間を埋めるにもエネルギー・時間などが必要で、それを捻出するのに必死になる
ほど、「山」の部分に使われるべきエネルギー・時間も削られることになり、
本当に平坦になってしまいます。
不幸ではないかもしれませんが、幸福でもなくなると思います。

それとも、そもそも、この線に触れるのを恐れているのでしょうか。
「喜び」を感じないのは「悲しみ」を感じるのを避けるため、ということもあります。

対処法としては、「悩み」をもったままで「するべきことをする」のが良いかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>見捨てられる不安」が強い人・「賞賛・承認されたい欲求」が強い人は、
「手ぶら」「宙ぶらりん」「手持ち無沙汰」「所在ない感じ」になることをとても怖がり、
常に「解決するべき問題」「片付けるべき作業」を手元に置きたがります。
これはどういうことかというと、「悩み」に「依存」している、ということです。

「見捨てられる不安」が強い人・「賞賛・承認されたい欲求」というのは、正直あまりないです。私はむしろ他人はどうでもよくて、自分で自分を賞賛したいっていうのはあります。
ですが、確かに悩みがない状態が怖いというか、「手ぶら」「宙ぶらりん」「手持ち無沙汰」な状態になるのを恐れていますね。
「悩み」に依存してたんですね、私は。自分では「悩みがあってヤダな」と思ってたのに、一方で悩めることを見つけようと努力?している自分がいました。わざわざ自分で自分の人生にケチをつけようと一生懸命になっていました。そうです、手持ち無沙汰で悩みがない状態になるのが、怖かったんです。

>この谷間を埋めるにもエネルギー・時間などが必要で、それを捻出するのに必死になる
ほど、「山」の部分に使われるべきエネルギー・時間も削られることになり、
本当に平坦になってしまいます。
不幸ではないかもしれませんが、幸福でもなくなると思います。

なるほど・・・よく覚えておこうと思います。

お礼日時:2007/04/06 17:20

己の中に回答がある.


年齢と可能性とを天秤にかけて
自己の可能性を最大限に開花させようとする.
世俗的な評価とは別に.
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問題を解消しようと努力するのではなく、


課題を達成しようと努力します。

悩みをなくそうとするだけでなく、
願いごとを叶えようという取り組み方をします。

マイナスをマイナスしてプラスにするのではなく
単純にプラスを積み上げていきます。

満足にさらにまた満足を
幸せに幸せを積み上げていきます。

幸せの断片をいっぱいいっぱいつみあげていけば
問題をいくつも抱えていても、幸せでいられます。
完璧な人間はいないので、完璧でなければ幸せになれないなら
幸せな人はいません。
世の中を見てください。
幸せな人はいっぱいいます。

問題解決思考は問題を解決することしかできません。
故障を修理することしか。

新製品の開発を考えてみてください。
問題だけ解決しても新たな魅力を生み出せるでしょうか。

新たな価値を付け加えたり、
既存の枠組みを捉えなおして
より現在のニーズにフィットしたあり方を追求していきます。

問題を扱うのは理性ですが、
理想やヴィジョンを扱うのはハートであり、イマジネーションです。

心に聞いてください。
リラックスしてのびやかに、自由な精神で人や世界を眺め、
こころをときめかせてくれるかけらをいっぱい見つけて、
追求していけば、喜びや希望がわいてくると思います。
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欲は「これで満足だ!」といえることはなく、常に不満足なのだろうなと察しがついているようですね。



幸せを感じるのは心です。物ではありません。
心を正せば問題は解決するのでしょう。

ではどうやったら心が正せるのか。

「行動・言葉・想い」
各々、善いことをやって悪い事をやめる努力(怒りや欲から離れる)

生きる為にちゃんと社会的役割を果たす

正しく今に気づき、集中力をつける。

これらを徐々にやっていくより無いと思います。

これらは仏教の「八正道」です。
是非実践してみてください。

参考URL:http://ameblo.jp/ariya-attangika-magga
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自分の人生に具体的目標を設定せずに、物事を相対化するからだと思います。

つまらぬことに悩むのは、自分の目標を明確にし、それに向かって努力することの「しんどさ」から目をそらすためだと思います。相対的な幸せを求めるより、自分が本当にやりたいことに猛進した方がいいのではないでしょうか。
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お金の例は、あくまで比喩として述べているのでしょうね。


悩みを次々作り出すには、それなりの理由が必ずあります。
人は本当に無駄なことは決してしないようにできているからです。

基本的には、無意識による要請が存在すると考えるのが妥当だろうと思われます。
その内容としては、ご質問文でも触れておられますが
「常に何かの問題を解決しているという行為自体が尊いものだ」という不合理な思い込みでしょう。
これが不合理であるのは、解決した結果自体は全く無視される、という点です。
おっしゃるように、ご両親による「刷り込み」の【賜物】と言えるのではないでしょうか。
(ただ、このことに気付かれたのはある意味で前進と言えます)

上記のような不合理な思い込みが形成される根本原因は、ご両親からの押し付け(躾)を、これは愛情なのだから甘受しなければならないのだ、と感じてしまうことです。
他の側面から見ると、常に何かを解決しようとする姿勢を維持していないと両親の愛が得られない、と無意識的に思っているわけです。
これは年齢には関係ありません。
気付いて、乗り越えなければいつまでも解決しない問題です。

乗り越えるためには、ご両親を、自分を庇護してくれるべき人間としてではなく、一個の人格を持った人間として見做すことです。
彼らは彼らの方法で一生懸命愛を注いでくれたが、無能な部分もあって、それが自分に良くない刷り込みを与える結果になった、と解釈するわけです。
解釈と言いましたが、それが事実ですし、何事もそうであるように事実を明確にすることによって対応が可能になります。
ご両親を対等な一個の人間として見れるようになった時、つまり、waruiko123さんが本当に精神的自立を果たせた時、問題は自ずと解決に向かうと私は思います。
『「かけがえのない一個の人間としての自分というもの」をもっと大事にしていいのだ、という自己に対する許し』
が初めて正当化できるようになるはずだからです。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「両親が言っていたから」なんでも合っていると考えるのは間違っているということを、うすうす気がついてはいたのですが、もっともっと意識しようと思いました。

>「常に何かの問題を解決しているという行為自体が尊いものだ」という不合理な思い込みでしょう。
これが不合理であるのは、解決した結果自体は全く無視される、という点です。

そうかもしれませんね。この言葉をよく覚えておきます。

お礼日時:2007/04/06 17:12

>いろいろな悩みが片付いてきました。



そんな次々と片付けることができるようなものは
悩みとはいいません。ただの欲です。
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普通、悩みが解決していけば心が軽くなって生きるのが楽しくなっていくと思うんです。

しかし、waruiko123さんの場合そうではない。

waruiko123さんが片付けてきたのは本当に悩みなのでしょうか?

質問の例え話ですが、よく言えば向上心ですが、悪く言えば底知れない欲望にも思えますよ。お金がいくらあっても満足しない、なぜ私はお金にとらわれるのか。お金にとらわれる自分から自由になりたい、と考えるのが悩みを解決していくという事のように思うんですがどうでしょうか。
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人は、自分が今、置かれている状況を判断、分析し、自分がこの先どのようになればいいのかを過去の体験、他人の行動を参考にしながら予想して行動に移します。


その行動結果が自分の予測していたとおりになった場合には「幸せ」・「満足」を感じ、予想外になった場合は「不幸」・「不満」を感じるような、脳のしくみになっています。
そして、「不幸」・「不満」を感じるとそれを解消するような行動予定を考えるようになります。一度「幸せ」・「満足」を感じてもその感覚はすぐに消えてなくなり、また、次の「幸せ」・「満足」を追い求めます。
人を始め、地球上に生息している生命体は多くの場合、生き延びて、生殖活動を営むことを遺伝子にプログラミングされています。人の複雑な行動も、突き詰めていくと、生き延びて、生殖活動が継続できるかを基本原理としています。この機能がうまく作動している生命体が、次の代へと引き継がれます。
「幸せ」・「満足」、「不幸」・「不満」という感覚は自分自身で意識的には感じることができません。脳内のある部分にある物質が伝達されないと感じることができず、その機能には個人差があります。伝わりやすい人もいれば伝わりにくい人もいます。伝わりにくい人は、どんな大金を手に入れようが、「幸せ」・「満足」を感じることはありません。胃の消化機能が活発でない人が、胃薬を常用するのと同じで「幸せ」・「満足」を強制的に感じるには、医師の処方する薬が必要になります。
特に支障が出るようでしたら専門家の方に相談されたほうがいいかと思います。
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人生には王道も答えもないのだから、悩むのは当然のことだと思います。

悩みは人間だけに許されたことでは無いでしょうか?
ひとところに安定せずに、満足がすぐに不満足になるのも、人間の特性です。
不満足がなければ人間は進歩しません。人間の欲の一つです。
対策があるとするならば、具体的な問題とその対策の経過と結果を書き留めて、自分に行き過ぎがないか確かめる材料にしてみてはいかがでしょうか?
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