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歴史書を読み返してみても、どうしても荘官と地頭の違いがわかりませんでした。

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A 回答 (3件)

>どうしても荘官と地頭の違いがわかりませんでした。



荘官は、貴族が支配していた土地を(貴族に代わって)現地で管理する役人です。
地頭は、武家(幕府)から任命された地方行政長官です。

簡単に言えば、荘官は「税務官」であり地頭は「県知事」です。

武家社会の到来とともに、貴族は衰えていきます。
貴族が衰えると、荘園を廃止(領地放棄)したり縮小します。
反対に、新勢力である幕府は地頭(県知事)を任命・任地に派遣します。
地頭は、荘官を追放・廃止し自ら荘官業務を兼務したり、新たに荘官を任命したりしました。
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平安時代になると、本来全土が国家のモノであったはずが、私領が認められるようになります。

これが荘園。現地の管理人が必要なので、いろいろな名称で呼ばれましたが、まとめて荘園の役人ということで、荘官と呼ばれました。
京都の貴族や大寺院などと、現地の荘官は荘園からの取り分を巡って、対立関係にもありました。まぁこの辺は会社の経営者(=貴族・大寺院)と従業員(=荘官)の関係に似ています。大会社の庇護がないと農園の営業はうまくいかないし、庇護に入った方が便利な部分もある。これが、寄進というやつ。ベンチャー企業が第三者割り当てて銀行や大企業から資本提供を受けるみたいなモノです。
荘園にならなかった場所も、国司(この時代になると、受領とよばれるようになっています、最低限の税金を納めれば、あとの税金は、もらって良いという、納税請負という意味で受領となります)による国衙領となりまして、現地を掌握するといういみでは、荘園・国衙領ともに、似たようなモノになっておりました。

鎌倉幕府はこれらの荘官の一部で「労働組合」を作って、組合運動をして最低賃金制を獲得したようなもの。「取り分最低○割」というやつ。その時の役職名を「地頭」と名付けました。

似たようなモノ、あるいは、同一人物が 荘官であり地頭であり、また武家奉公としては、御家人であるという状況であります。
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荘官は実質はともかくとして形式的には本家や領家などから任命される荘園の役人であり、地頭は国家権力(幕府等)から任命されるものです。


もちろん、両方を兼ねる場合もありますが。
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Aベストアンサー

上川村は地頭支配地で年貢は地頭に
となりの下山荘は、荘園なので国司さんに

そういう感じ

Q建武の新政で置かれた「国司」と「守護」の違いは?

はじめまして。

日本史を学習しているものです。
建武の新政で後醍醐天皇が諸国に設置された「国司」と「守護」とはどのような役割の違いがあったのでしょうか?
端的に教えていただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

 『国司』は、大宝律令(8世紀初頭に制定)において、地方の貴族が、
 地方の国単位の行政(今で言うと県知事)と
 司法(警察)・軍事(今で言うと県警の本部長)を
 統括する役職として就きました。


 平安時代では、『国司』は、律令制で目的とされていた地方の人民統治から
 租税納入が主要任務になります。
 そして、武士が荘園や国領の警備につきます。

 
 鎌倉幕府の設立により、武士が台頭してきました。
 これにより荘園や国領を管理する武士の役職に『地頭』が定められ、
 今まで、『国司(貴族)』がしていた国単位の行政と司法・軍事を
 『守護(武士)』がするようになりました。
  
 しかし、御成敗式目(1232年)の制定で、
 『守護』の職掌を司法(警察)と軍事に限定され、
 『国司』の職掌(行政)への関与を禁じられました。

 その後、北条氏の執権政治により『国司』の支配力が衰え、
 御成敗式目は有名無実になり、形骸化してしまいました。  
 

 さて、ご質問の【建武の新政】です。
  
 今まで、形骸化していた『国司』の支配力と権限を強化し、
 昔の職掌(律令制の時の役職)へと戻ります。 
 『守護』は、職掌を軍事指揮権のみとしました。
 (今で言うと地方の警察署長くらい)
 
 律令制の官である『国司』と武家の統治機構である『守護』の並立は、
 【建武の新政】における大いなる矛盾といえます。
 
 その後、室町幕府の設立とともに
 『国司』は名前だけの名誉職となり、
 かつての『国司』の役職は『守護』が継承していくこととなります。
  
  

 こんな感じで判りますか?
 
 
 詳しくは『国司』や『守護』などでググって見てください。

 『国司』は、大宝律令(8世紀初頭に制定)において、地方の貴族が、
 地方の国単位の行政(今で言うと県知事)と
 司法(警察)・軍事(今で言うと県警の本部長)を
 統括する役職として就きました。


 平安時代では、『国司』は、律令制で目的とされていた地方の人民統治から
 租税納入が主要任務になります。
 そして、武士が荘園や国領の警備につきます。

 
 鎌倉幕府の設立により、武士が台頭してきました。
 これにより荘園や国領を管理する武士の役職に『地頭』が定められ、
 今まで、『国司...続きを読む

Q国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて

 東京書籍の「新編 新しい社会 歴史」(中学校の教科書)、山川出版社の「改訂版 新詳説 日本史」、「日本史B用語集」等で、日本史を勉強している社会人です。
国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて、混乱しています。

・国司…奈良時代から。朝廷が、地方の国に貴族を派遣。
・荘園領主…奈良時代の墾田永年私財法から。
・守護…頼朝の時代から。幕府が、国ごとに警察として派遣。御家人に、領地とともに与えられる地位でもある。
・地頭…頼朝の時代から。幕府が、荘園・公領ごとに年貢の取り立て役として派遣。御家人に、領地とともに与えられる地位でもある。

という原則は、理解できました。(間違っていたら、指摘してくだされば幸いです。)

 室町時代になると、守護大名が国司の権力を吸収するようなので、話は少し簡単になると思うのですが、鎌倉時代における、これら4者の役割・権限分担がよくわかりません。(「領主に年貢を納める」、「地頭が兵役を課す」という記載が中学校の教科書にはあり、ますます混乱しています。)
これら4者が農民に要求するモノ、朝廷や幕府への年貢の流れ等、ご教示くだされば幸いです。

 東京書籍の「新編 新しい社会 歴史」(中学校の教科書)、山川出版社の「改訂版 新詳説 日本史」、「日本史B用語集」等で、日本史を勉強している社会人です。
国司、荘園領主、守護、地頭が農民に要求するモノについて、混乱しています。

・国司…奈良時代から。朝廷が、地方の国に貴族を派遣。
・荘園領主…奈良時代の墾田永年私財法から。
・守護…頼朝の時代から。幕府が、国ごとに警察として派遣。御家人に、領地とともに与えられる地位でもある。
・地頭…頼朝の時代から。幕府が、荘園・公領ごとに年...続きを読む

Aベストアンサー

NO3補足の回答です。
「荘園」とは、御存知と思いますが、墾田永年私財法の適用により、公地公民の原則をはなれて、私有を認められることにより始まり(初期荘園)、これはその後衰退しますが、11C中頃に急増する、国司の収奪を免れるために、寄進されて中央の有力者(有力貴族・寺社・皇族)名義の私領となったもの(寄進地系荘園)ですから、事実上の「私領」と考えて差し支えないと思います。言葉の上でも、○○荘と呼ばれ、○○郡・○○郷などの公領と区別されるようになります。 最も、「公領」の方も、院政期以降、引退した元天皇(=上皇・院)という私人により政治の私物化が進み、知行国制などのため、有力者が収益を得るための「私領」に等しくなります。NO1で国司を公領のオーナー(のようなもの)と表現したのはこのためです。
 鎌倉時代の守護の職務なわばりは、主に軍事警察など今で言う刑事に限られており、一般行政を司る国司との棲み分けが建前でしたが、時代が下ると、在地武士クラスである国衙の在庁官人にも命令権を行使するケースが出てきます。元寇期にそれがさらに強まり、南北朝期になると刈田狼藉取締権や使節遵行権など当時は民事と見なされていた分野にも権限が及ぶようになり、半済令に及んで荘園公領の年貢半分の徴発抑留権を持つに至って、土地・ヒトに対する支配権も強め、ほぼ一国全体を掌握する守護(守護大名)も現れます。
これにより、既に形骸化していた国司の権限は、有名無実化して名誉職のようになっていきます。ただ、守護大名クラスの有力武士が国司に任命されるケースもあったりします。
 内容が本来の質問より、領域が広がりすぎてしまったので、この上は新たに質問をたてられた方がよろしいかと存じます。

NO3補足の回答です。
「荘園」とは、御存知と思いますが、墾田永年私財法の適用により、公地公民の原則をはなれて、私有を認められることにより始まり(初期荘園)、これはその後衰退しますが、11C中頃に急増する、国司の収奪を免れるために、寄進されて中央の有力者(有力貴族・寺社・皇族)名義の私領となったもの(寄進地系荘園)ですから、事実上の「私領」と考えて差し支えないと思います。言葉の上でも、○○荘と呼ばれ、○○郡・○○郷などの公領と区別されるようになります。 最も、「公領」の方も、院政期以降、引...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
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と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

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(3) 「承久の乱」によって、朝廷と幕府による二元政治が終焉した、とあるのですが、このとき「国司」はどうなったのですか?

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB

この辺をざっくり理解しておかないと、現代的な支配の色メガで見ちゃうのでなんだかわからない。


1)一つのところにイロイロな職(徴税権)が存在ていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%8F%B8

時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。

下司として公家の家来であっても、地頭として鎌倉幕府の家来であるほうが自分にとって有利なら、地頭に(も)なっていた。

副業・兼業なんでもありの時代ですので。

2)適当
朝廷と幕府とを対立的に見ようというのは、後の世というか現代的な視点であって、補完しあっていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%AB%96
東国独立国家論 まで進めば、二元政治になるだろうけど

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E9%96%80%E4%BD%93%E5%88%B6
こっちに 振れれば そうでもない。

3)国司というか国衙領は太閤検地まである
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E9%A0%98

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E3%81%AE%E4%BD%93%E7%B3%BB

この辺をざっくり理解しておかないと、現代的な支配の色メガで見ちゃうのでなんだかわからない。


1)一つのところにイロイロな職(徴税権)が存在ていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%8F%B8

時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。

下司として公家の家来であっても、地頭として鎌倉幕府の家来であるほうが自分にとって有利なら、地頭に(も)なっていた。...続きを読む


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